十一月二十三日 土曜日① 選択
朝、目が覚めた瞬間、胸の奥が落ち着かなかった。
まだカーテンの隙間から差し込む光は弱く、部屋は薄暗い。
時計を見ると、まだ六時前だった。
普段の休日なら、もう少し寝ている時間だが、今日は違う。
(……今日だ)
胸の奥で、ゆっくりと心臓が強く鳴る。
照宮さんとのデートの日。
昨日、何度も頭の中でシミュレーションした。
服装も決めたし、映画のチケットも、ホテルディナーも部屋の予約も済ませてある。
それなのに――なぜか落ち着かない。
ベッドから起き上がり、大きく息を吐いた。
「……よし」
小さく声に出してみる。
それだけで、少しだけ覚悟が決まる気がした。
軽く朝食を済ませ、顔を洗い、シャワーを浴び、髪を整える。
鏡の前でネクタイを締めるわけではないが、それでも何度も服を確認した。
(……変じゃないよな)
鏡の中の自分を見つめる。
どこにでもいそうな男だ。特別かっこいいわけでもない。
(今日は、これで行くしかない)
自分に言い聞かせるように頷く。
準備を終え、バッグを手に取った。
そのとき、ふと思い出す。
(……あ)
昨日、信先輩にもらったもの。
財布から取り出し、改めてそれを見る。
小さな包み。コンドーム。
「……」
思わず、苦笑してしまう。
葬儀のあとに渡されたものとしては、あまりにも場違いだった。
でも信先輩は真面目な顔で言っていた。
『お守り代わりだ』
その言葉が頭に浮かぶ。
「……お守り、か」
小さく呟く。
まだ、照宮さんとはそういう関係じゃない。
むしろ、今日だってどうなるか分からない。
でも――
(信先輩がくれたものだ)
そう思うと、無下にする気にはなれなかった。
俺はその包みを、バッグの内ポケットにそっと入れた。
「……よし」
スマホを取り出し、いつもの掲示板を開く。
俺の人生を、なぜか他人が見守っている不思議な場所。
おはようと、行ってくるとだけ書き込んだ。
すぐにレスがつくと、画面を見ながら、少しだけ笑ってしまう。
顔も知らない人たち。
でも妙に温かい。
「……変な感じだな」
小さく笑って、スマホをポケットにしまった。
映画の上映時間は十五時。
でも照宮さんからのメッセージで、予定は少し変わっていた。
照宮 灯
【せっかくなので、お昼を一緒に食べませんか?】
その一文を見たとき、胸が少し跳ねたのを覚えている。
断る理由はもちろんない。
待ち合わせは映画館の近くの喫茶店。
(……よし)
俺は家を出た。
◇ ◆ ◇
待ち合わせの喫茶店は、映画館から少し歩いた場所にあった。
ガラス張りの外観で、落ち着いた雰囲気の店だ。
ドアを開けると、小さなベルが鳴る。
店内はコーヒーの香りが漂っていた。
休日の昼前。席はそれなりに埋まっている。
俺は店内を見渡す。
(……いた)
窓際の席に、照宮さんが座っていた。
俺は一瞬、足が止まる。
今日の彼女は、今までと違って見えた。
柔らかい色のワンピース。髪もいつもより少し整えているように見える。
それだけでも、十分きれいだった。
そして何より――胸元。
今までよりも、明らかに強調されている。
布のラインが体の形をはっきりと浮かび上がらせていて、ほんの少しだけ、谷間も見えていた。
(……)
心臓が一気に跳ねる。
(これは……)
頭の中で、妙な期待が芽生えかける。
(いやいやいや)
慌てて振り払う。
(落ち着け俺)
深呼吸を一つしてから、席へ向かった。
「す、すいません。お待たせしました」
声が少し裏返る。
照宮さんは顔を上げて、柔らかく微笑む。
「そんなことないですよ」
優しい声だった。
「私も、今来たところです」
「そ、そうですか」
向かいの席に座る。
(目のやり場が……)
視線の置き場に困る。
照宮さんは気にする様子もなく、メニューを差し出してくれた。
「お昼、何にします?」
「え、あ……」
俺は慌ててメニューを見る。
オムライス、ナポリタン、サンドイッチ。
喫茶店らしいラインナップだ。
「じゃ、じゃあ……オムライスで」
「私もそれにします」
店員を呼び、注文をする。
そこから少し会話をした。
仕事の話。最近見たアニメの話。そんな、取り留めのない話。
……だったと思う。
(何話したっけ)
あとで思い返しても、ほとんど覚えていない。
理由は単純だ。
目の前にいる照宮さんに、意識の大半を持っていかれていたから。
やがてオムライスが運ばれてきた。ふわふわの卵。ケチャップの香り。
「美味しそうですね」
「ですね」
スプーンを入れる。
味は――たぶん、美味しかった。
◇ ◆ ◇
食事を終える頃、スマホを見る。映画の上映時間が近い。
「そろそろですね。行きましょうか」
「はい」
席を立ち、レジへ向かい、財布を取り出した。
「ここは――」
払おうとした瞬間、照宮さんが先にお金を出した。
「あ」
「この前は、おごってもらいましたから」
彼女は微笑む。
「今日は私の番です」
「いや、でも……」
「いいんです」
優しく、でもはっきりした声だった。
「こういうのは、順番です」
そう言ってから、照宮さんは少しだけ照れたように笑った。
「それに……私、奢られるのが当たり前の女性だなんて思われたくないんです」
「え?」
「もちろん、好意でごちそうしてもらえるのは嬉しいですけど」
少しだけ視線を落としながら続ける。
「でも、その分ちゃんとお返ししたいんです。そういう関係のほうが、私は好きなので」
その言葉は、軽い調子なのに妙に真っ直ぐだった。
俺は一瞬、言葉を失う。
「……ありがとうございます」
そう言うしかなかった。
照宮さんは、少し楽しそうに笑った。
「どういたしまして」
◇ ◆ ◇
映画館に入り、席に座ると、館内が暗くなり、上映が始まる。
タイトルは『ネクロマンサー建国記』
物語は、ネクロマンシーのスキルを授かった主人公ネクロ。
だが、その力は禁忌で、彼は国から追放される。
旅の末、やっとたどり着いた村。しかし、そこはすでに滅んでいた。
人はいない。あるのは死体だけ。
ネクロは死体に手をかざし、蘇らせる。
アンデッドとして。
そこから物語は一気に進む。
アンデッドを増やし、軍勢を作る。
そこにはネクロ以外の生者はいない。
そして最後には――自分を追い出した国へ攻め込む。
国を滅ぼし、アンデッドの国に変える。
(……なんだこれ)
正直、最初はそう思った。
作画はすごい。戦闘シーンも迫力がある。
でも内容はめちゃくちゃだ。
(なんでこんなのが流行ってるんだ……?)
そう思っていた。
でも――あるシーンで、ネクロが言った。
『俺はこのスキルに選ばれた』
静かな声だった。
『選ばれたからには――』
ネクロが前を向く。
『この力を使いこなすだけだ』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、ざわついた。
(……あ)
頭に浮かぶ、掲示板。安価。変わっていく自分の人生。
(……俺も)
選ばれているのかもしれない。
そう考えた瞬間、ネクロの言葉が、他人事じゃなくなった。
気づけば、映画に引き込まれていた。
ネクロの決意。ネクロの孤独。ネクロの狂気。
それに、自分の気持ちを重ねていた。
エンドロールが流れ、照明がつく。
俺はまだ興奮していた。
「……すごかったですね」
思わず言う。
「この映画、誘ってくれてありがとうございます」
照宮さんは微笑んだ。
「伊原さんにぴったりだと思ったんです」
「え?」
「なんとなく、ですけど」
意味深な笑み。
俺は少し照れた。
「……そうですか」
映画館を出ると、外はもう暗くなりかけていた。街のネオンが少しずつ灯り始めている。
「このあとは、予約しているホテルのディナーなんですけど」
言いながら、少し緊張するが、照宮さんは、すぐに微笑んでくれた。
「はい、楽しみにしていました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、心臓が大きく鳴った。
(ここからが本番だ……)
俺たちは並んで、夜の街を歩き出した。




