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【完結】安価で俺の人生変わった件について。  作者: ドラドラ
安価で俺の人生変えたかっただけだった

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十一月二十二日 金曜日 前夜

 朝、工場の門をくぐった瞬間、空気の重さを感じた。


 冬の朝特有の冷たい空気とは、また違う。

 どこか張りつめたような、言葉にしにくい重さが、敷地全体に漂っている。


 自転車を駐輪場に止めながら、俺は小さく息を吐いた。


(……やっぱり、そうだよな)


 昨日の通夜。会社の人間の家族が巻き込まれたとなれば、当然こうなる。


 いつもならこの時間、工場はそれなりに賑やかだ。

 作業服姿の男たちが現場に向かいながら雑談をして、誰かがくだらない冗談を言って、それに誰かが突っ込む。


 そんな、ありふれた朝。


 でも今日は違う。


 みんな、声が小さい。笑い声なんて、ひとつも聞こえない。

 誰もが、どこか気まずそうな顔をしている。

 何を話していいのか分からない、そんな空気だ。


 俺はタイムカードを押しながら、小さく呟いた。


「……おはようございます」


「おはよう、けいちゃん」


 返事をくれる経理のおばちゃんにも、いつもの調子はない。

 それ以上、会話は続かなかった。


 しばらくして、朝礼の合図のチャイムが鳴る。


 普段なら工場長が連絡事項を伝えて、ラジオ体操をして終わるだけの簡単な朝礼だ。


 だが今日は違った。月初でもないのに、社長が前に出てきた。


 社長の顔は、明らかにいつもと違い、表情が硬い。


 しばらくの沈黙のあと、社長はゆっくり口を開いた。


「……みんな、もう知っているとは思うが、信の奥さんと娘さんの葬儀が昼からある」


 空気が、さらに重くなる。


 誰も何も言わず、ただ、全員が黙って社長の言葉を聞いていた。


 社長は一度、息を吐く。

 少しだけ、言葉を選ぶように間が空く。


「仕事の都合もあるから、全員とは言わん」


 それから、ゆっくりと俺たちを見回した。


「だが、仕事に余裕がある者は、葬儀に参列してやってほしい」


 ざわ、と小さく空気が揺れる。


 社長は続けた。


「もちろん、無理にとは言わん」


 少しだけ声が強くなる。


「だが、行ける人間は、できるだけ行ってやってくれ」


 社長の視線が一瞬だけ下がった。


「……信は、うちの大事な社員だ」


 短い言葉だったが、それで十分だった。


「以上だ」


 朝礼が終わり、みんな、黙ったまま持ち場へ散っていく。


 俺も作業場へ向かう。


(俺の仕事は……)


 工程を頭の中で整理する。昨日の時点で、かなり余裕があったはずだ。


 俺は工場長のところへ向かった。


「工場長」


「おう」


「今日の俺の分、昼までで大丈夫そうですか?」


 工場長は腕を組んで少し考え、それから頷いた。


「ああ、大丈夫だな」


 そして、小さく息を吐く。


「……行ってやれ」


「はい」


 俺は深く頭を下げた。


 作業はいつもより静かだった。


 機械の音だけが響き、誰も雑談をせず、ただ黙々と手を動かしていた。


 昼前になるころには、予定していた作業はほとんど終わっていた。


「伊原」


 工場長が声をかけてくる。


「はい」


「もういいぞ。着替えて行ってこい」


「……ありがとうございます」


 俺は深く頭を下げた。


 家に帰ると、すぐにシャワーを浴びた。

 湯気の中で、ぼんやりと昨日のことを思い出す。


 信先輩の顔。泣いていた親族。


(……現実なんだよな)


 タオルで髪を拭きながら、ため息をついた。


 喪服に着替え、ネクタイを締めながら、鏡の中の自分を見る。


 昨日も着た服だ。


 同じ服なのに――今日は、なぜか重く感じる。


 ◇   ◆   ◇


 葬儀場に近づくと、すぐに異様な光景が目に入った。入口の前に、数台のバンが停まっている。


 カメラ。マイク。スーツ姿の男たち。


(……マスコミか)


 すぐに理解できた。


 自爆テロ事件、その被害者の葬儀。


 ニュースになるのは、分かる。


 分かるけど――


(……少しは考えてほしいよな)


 俺は小さく顔をしかめた。


 家族を失った人の葬儀だ。ニュースの材料じゃない。親族の気持ちを、少しは考えてほしい。


 俺が入口に向かうと、案の定マイクを持った男が近づいてきた。


「すみません、参列者の方ですか?」


 俺は立ち止まらなかった。視線も合わせず、そのまま無言で通り過ぎる。


 背中に「少しだけでいいので!」という声が飛んできたが、振り返ることはなかった。


 ◇   ◆   ◇


 葬儀場の中は、静かだった。


 奥に飾られた遺影。奥さんと娘さん。

 二人とも笑っていた。

 その笑顔が、やけに胸に刺さる。


(……なんでだよ……こんな終わり方、あってたまるか)


 葬儀は静かに進んだ。


 読経の声。焼香。時々すすり泣く声が聞こえる。


 すべてが終わり、会場を出ようとしたときだった。


「……伊原」


 声をかけられ、振り向くと、信先輩が立っていた。


「信先輩……」


 昨日より、さらに疲れて見える。


 でも――


「今日も来てくれたのか」


 小さく笑っていた。


「はい」


 俺は頭を下げる。


「……ありがとうな」


「いえ」


 言葉が、続かない。


 信先輩はポケットを探りながら言った。


「本当はな、火曜に渡そうと思ってたんだ」


 小さな包みを取り出し、苦笑する。


「でも、こんなことになって……こんな時に渡すもんでもないんだけどな」


 信先輩は、それを俺に差し出した。


「ほら」


 差し出された包みを受け取り、中身を見る。


「……え?」


 思わず声が出た。


 それは――コンドームだった。


「信先輩……!」


 思わず小声で言う。


「まだ、彼女とはそういう関係じゃないです」


 信先輩は少しだけ笑った。


「いいんだよ」


「え?」


「お守り代わりだ」


 俺の肩を軽く叩く。


「持っとけ」


 それから、少しだけ真面目な顔になる。


「……男にはな、必要な時がある」


「……はい」


 俺は少し迷ったが、コンドームを財布に入れる。


 信先輩は満足そうに頷いた。


「よし」


 そして、いつもの調子で言う。


「明日のデート、頑張れよ」


「……はい」


 俺は深く頭を下げた。


 ◇   ◆   ◇


 葬儀場を出ると、空気がやけに冷たく感じた。


 帰り道、俺はスーパーに立ち寄った。


 店内を歩きながら、ふと惣菜コーナーで足が止まる。


 ゲン担ぎ、という言葉が頭に浮かんだ。


 視線の先にあったのは、かつ丼だった。


「……勝つ、か」


 小さく呟き、少しだけ笑ってしまう。


 子供みたいなゲン担ぎだ。


 でも――


「……よし」


 俺はそれを手に取った。


 家に帰り、かつ丼を食べる。


 そしてスマホを取り出し、いつもの掲示板を開き、スレッドに明日に備えておくとだけ書き込む。


 それだけ。


 信先輩の家族のことなんて書く必要などない。


 スレをさかのぼっているとその中に、気になるレスがあった。


 例の宗教団体が動画を出していたらしい。


「……え?」


 俺はテレビをつけると、ちょうどニュースでその話題をやっていた。


 宗教団体の声明動画。内容は、「卵が孵化するまで温める時」という意味不明な内容だが、それが動画の中で語られた言葉らしい。


 スタジオの専門家が解説している。


「この表現から考えると、しばらくは活動を控える可能性が高いですね」


 俺はテレビを見つめたまま、しばらく動けなかった。


 すぐに次のテロが起きる可能性は低い、ということか。


(……まあ、考えすぎても仕方ないか)


 小さく息を吐き、スマホを置く。


 明日は、土曜日。

 照宮さんとのデート。


 俺はベッドに入り、目を閉じた。


(……明日だ)


 胸の奥で、心臓がゆっくり高鳴っていた。

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