十一月二十一日 木曜日① 喪失
朝、目が覚めた瞬間、まず最初に思い出したのは――昨夜の食事会だった。
布団の中で天井を見上げながら、思わず小さく息を吐く。
(夢じゃないよな)
そう確認するみたいに、昨夜の出来事が、まだ体の奥に残っている気がした。
照宮さんと二人で食事をして、笑って、話して。
そして――土曜日の約束。
思い出すだけで、自然と口元がゆるむ。
ベッドからゆっくり起き上がり、カーテンを開けた。
冬の朝の光が、薄く白い色をして部屋に差し込んでくる。
冷えた空気が、ガラス越しに感じられた。
「……寒」
ぼそっと呟きながら伸びをする。
気分は不思議と軽かった。
同じ部屋で、同じ朝を迎えているはずなのに、どこか違う気がした。
朝食をすませ、顔を洗いながら、洗面台の鏡を覗き込む。
そこに映っているのは、いつも通りの俺だ。寝癖が少し残っていて、眠そうな目をしている。
別にイケメンでもないし、特別かっこいいわけでもない、工場勤めの、どこにでもいる男。
でも、昨日の俺と、今日の俺。
何かが変わった気がする。
たぶんまた人生が一歩進んだ。そんな気がしているからだ。
歯を磨きながら、昨夜のやり取りを思い出す。
照宮さんは、あっさり言ったが、俺の中では、世界がひっくり返るくらい嬉しかった。
(映画デート……って言っていいのかな)
いや、まだそこまでじゃないかもしれない。ただ二人で映画を観に行くだけ。
でも、二人で出かけるのは確かだ。それだけで十分すぎるくらい嬉しい。
(信先輩にも早く報告したいな)
自然とそんなことを思う。
会社で一番相談に乗ってくれていたのが、信先輩だった。
人生相談なんて大げさなものじゃないけど、いつも笑いながら背中を押してくれた。
だから、報告したい。
うまくいきましたって。
ありがとうございますって。
そう思いながら、俺は作業着に着替え、家を出た。
工場へ向かう道を自転車で走りながら、自然とペダルを強く踏んでいた。
いつもより早く会社に着きそうだ。
(今日は来ているだろうか。早く信先輩に伝えたいな)
たったそれだけのことなのに、胸の奥がそわそわしていた。
◇ ◆ ◇
工場に到着すると、何となく空気が重いことに気付いた。
朝の工場は基本的に静かだ。
機械がまだ本格的に動き出す前だから、みんな準備をしている時間でもある。
でも、今日は雰囲気が違った。
妙にざわついている。小さな声が、あちこちから聞こえる。
(なんだ?)
俺が首を傾げながらタイムカードを押しに事務所へ向かおうとしたときだった。
「けいちゃん」
後ろから声がした。
振り向くと、経理のおばちゃんが立っていた。
社内でも古株の人で、いつもは明るい。
でも――その顔を見た瞬間、胸がざわついた。
表情が暗い……いや、暗いというより、悲しそうだった。
「どうしました?」
俺が近づくと、おばちゃんは一度、視線を落とした。
それから小さく息を吐く。
「……けいちゃんは、もう聞いた?」
「え?」
(何のことだろう)
俺が首を傾げると、おばちゃんはゆっくりと口を開いた。
「しんちゃんのご家族なんだけど……」
一瞬、嫌な予感がした。胸の奥が、ざわっとする。
「……昨日、病院で亡くなられたって」
言葉が、理解できなかった。
頭の中で、音が止まる。
世界が一瞬だけ遠くなった気がした。
「……え?」
自分の声が、やけに遠く聞こえる。
「……うそ、ですよね」
気付けば、そう言っていた。
おばちゃんは、ゆっくり首を横に振る。
「今朝、会社に連絡があったの。通夜は……今日の夜だって……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
昨日まで、普通に生きていた人たちが。信先輩の奥さんが。娘さんが。
たまたまそこにいただけで、死ぬ?
(そんなの……あり得るのか……現実なのか……)
俺はしばらく、その場で立ち尽くしていた。
頭の中が、真っ白だった。
◇ ◆ ◇
その日、工場の空気はずっと重かった。
みんな仕事はしているが、会話がほとんどない。
誰かがため息をつく音だけが、時々聞こえる。
信先輩は、社内でも人望のある人だった。
優しくて、面倒見が良くて、 新人の頃、俺も何度助けてもらったか分からない。
家庭の話も、よくしていた。
『嫁さんが作ってくれる弁当が一番旨いんだ』
『娘がさ、この前初めて自転車乗れたんだよ』
そんなふうに、嬉しそうに話していた。
その奥さんが、娘さんが、もう、いない?
信じられなかった。
仕事をしていても、頭の中はずっとそのことばかりだった。
そして――定時のチャイムが鳴った。
俺たちは無言のまま片付けをし、工場を出る。
家に帰り、喪服に着替えた。
ネクタイを締めながら、鏡の中の自分を見る。
表情が固い。
当たり前だ。
こんな状況で、平常心でいられるわけがない。
◇ ◆ ◇
通夜の会場は、静かだった。
白い花の匂い。線香の煙。低く流れる読経。
重たい空気が、会場を包んでいる。
受付を済ませ、焼香をする。
そして目に入るのは――遺影。
奥さんと、娘さん。
二つの写真が並んでいた。写真の中の二人は、笑っていた。
楽しそうに。
(どうして、こんなことになったんだ……)
胸の奥が痛くなる。
そのときだった。
「……伊原」
振り向くと、信先輩が立っていた。
顔は疲れていた。目の下に影ができている。
それでも――泣いてはいなかった。
「信先輩……」
何て言えばいいのか分からなかった。
言葉が出ない。
そんな俺を見て、信先輩は小さく笑った。
「来てくれたのか」
「……はい」
「ありがとうな」
その一言だけで、胸が締め付けられる。
(こんな状況なのに、俺に礼を言うのか)
「……あの日な」
信先輩が、ぽつりと言った。
「足りないものがあるから、買い物行ってくるって言ってたんだ」
静かな声だった。
「すぐ帰るって」
言葉がそこで止まる。
俺は何も言えなかった。
ただ黙って立っている。
すると、信先輩がふっと俺を見た。
「……そういえば」
少しだけ、表情が変わる。
「どうだった?」
「え?」
「昨日の食事会」
心臓が止まりそうになった。
(今、このタイミングで、その話?)
言うべきじゃない。そう思った。
でも――信先輩はまっすぐ俺を見ている。
俺は少し迷ってから、口を開いた。
「……土曜日、映画に行くことになりました」
一瞬、沈黙。
そして――信先輩は、ゆっくり笑った。
「そうか」
それは、いつもの信先輩の笑顔だった。
「よかったな」
その言葉を聞いた瞬間、胸が詰まった。
信先輩は俺の肩に手を置いた。
そして――ぐっと、強く握る。
「絶対に幸せにしてやれ」
力強い声だった。
「……はい」
俺は、うなずくことしかできなかった。




