十一月二十日 水曜日③ 決心
玄関のドアを閉めた瞬間、ようやく現実に引き戻された気がした。
鍵を回す音が、やけに大きく響く。
靴を脱ぎ、照明のスイッチを入れると、見慣れたワンルームが白々しく浮かび上がった。
生活感はあるが、誰かを迎えることを想定していない部屋。
(……帰ってきた、か)
身体は確かに疲れている。
朝から仕事をして、食事の間、緊張し続けて、最後は事件まで起きた。
それなのに、頭だけが妙に冴えていて、休まる気配がない。
部屋着に着替えながら、今日のことが、何度も脳裏に再生される。
照宮さんの笑顔。
俺の銀髪を見て、迷いなく素敵と言ってくれた声。
アニメや映画の話で、自然に距離が縮んでいった感覚。
思い出すたび、口元が勝手に緩む。
(……だめだな)
こんな浮かれ方をする歳でもないだろうに。
自分で自分を戒めるが、胸の奥に残った温かさは消えてくれなかった。
シャワーを浴び、身体を温める。
湯気の向こうで、頭の中が少しだけ整理されていく。
ベッドに腰を下ろした瞬間、ほとんど反射的にスマホを手に取っていた。
今日一日の報告を、待っている場所。
ここだけは、嘘をつかなくていい。
指先が、ほんの少しだけ震える。
書き込む前に、一度深呼吸をする。
最後に書き込んでから、今までの流れを遡って確認する。
そこにはテロに巻き込まれていないかと、俺を心配するレスがいくつもあった。
(……あ)
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
胸の奥が、じん、と熱を持ち、喉の奥が、わずかに詰まる。
ただの文字だ。
顔も知らない、年齢も職業も分からない連中。
それなのに、俺を心配してると伝わってくるだけで、こんなにも胸にくる。
(……ありがとう)
声には出さず、心の中で呟く。
俺は一度、目を閉じ、余計な感情を落ち着かせてから、改めて書き込む。
話が弾んだこと。
途中で事件が起きて、解散になったこと。
そして、土曜日にまた会う約束をしたこと。
言葉は慎重に選ぶ。浮かれすぎないように。でも、嘘にならないように。
送信した瞬間、画面が慌ただしく動き出す。
レスを追いながら、少し照れくさくなる。
その中に、土曜日のデート先はどうするのかというレスがあった。
(……そうだよな)
約束はできたが、ゴール地点はまだ先だ。
スマホを握りしめたまま、天井を見上げる。
(土曜日……どうする?)
映画か、食事か、ショッピングか。
考えれば考えるほど、正解が分からなくなる。
(……また、安価か)
脳裏をよぎる、いつもの逃げ道。
頼りすぎだと分かっている。
本当は、自分で決めるべきだ。
それでも――ここまで来れたのは、何度も背中を押してもらったからだ。
(……安価に頼るのも、これが最後だ)
自分に言い聞かせて、俺はスレに安価を書き込んだ。
更新。
更新。
更新。
そして、表示されたレス。
◇ ◆ ◇
575:名無しの使い魔
ホテル。
◇ ◆ ◇
(――は?)
一瞬、脳が理解を拒否した。
(……ホテル?)
何度も読み返す。誤字じゃない。
(……ホテル!?)
反射的に、声が漏れた。
「……人の人生、なんだと思ってんだ……」
スマホを握ったまま、頭を抱える。
(……なんで安価なんかしたんだ、俺)
後悔が、一気に押し寄せる。
だが、スレは続く。
ホテルランチ。スイーツバイキング。ホテル=泊まり、という短絡的な考えを、強引に修正するレス。
(……なるほど)
考えてみれば、ホテルのレストランは落ち着いている。
静かで、騒がしくない。
大人同士なら、むしろ無難――なのかもしれない。
(……納得はできないけど……安価に頼った俺が悪い)
深く息を吐く。そう割り切るしかない。
覚悟を決めて、照宮さんとのトーク画面を開く。
指先が、少しだけ震える。
伊原 啓人
【土曜日の件ですが、午前中に軽くぶらぶらしてから、ホテルでランチとかどうですか?】
送信。
既読がつくまでの時間が、やけに長く感じる。
(……警戒されたか? ……やっぱり、早すぎたか?)
不安が膨らみかけた、その時。
照宮 灯
【それなら話題のアニメ映画観てから、ホテルでディナーはどうですか?】
一瞬、理解が追いつかなかった。
(……ディナー?)
胸の奥が、どくん、と鳴る。
(……向こうから?)
慌てて、返信する。
伊原 啓人
【わかりました。また詳しい時間とかは連絡します】
送信するとすぐに、返ってくる。
照宮 灯
【嬉しいです。楽しみにしていますね。】
スマホを持ったまま、完全に固まった。
(……楽しみ、って)
画面を見つめながら、しばらく動けなかった。
スレに戻り、やり取りを報告する。
相手も32だし、求めてるというレスが目に入る。
(32歳)
その数字が、頭の中で何度も反響する。
大人同士だ。何もおかしくはない。自然な流れだ。
だが、それでも。
(……ホテル)
その文字が、何度も浮かぶ。
(……ディナーで終わるとは限らない、よな)
心臓が、また早鐘を打ち始める。
少し考えて、俺は決めた。
(……取るだけ、取っておこう)
何も起こらず、無駄になるかもしれない。
全部、勘違いだったかもしれない。
今までのことがすべてなかったことになるかもしれない。
それでも、この想いだけは、もう止められなかった。
一応部屋を取ると書き込むと、反応は、いまいちだった。
画面を見て、少し笑う。
(……結局ここまで来たら、決めるのは俺自身だ。安価でも、スレでもない。逃げないと決めたのは、俺だ)
スマホを置き、ベッドに横になる。天井を見つめながら、ゆっくりと呼吸する。
(土曜日……か)
不安もある。
怖さもある。
それでも――ここまで来たらなるようにしかならない。
瞼が、ゆっくりと重くなる。部屋は静けさに包まれ、意識が遠のいていく。
次の約束を胸に抱いたまま、俺は、そのまま眠りに落ちた。




