十一月二十日 水曜日① 鼓動
目が覚めた瞬間、心臓が少し早く脈を打った。
目覚ましが鳴る前。まだ薄暗い部屋の中で、天井を見つめながら、頭の中に今日という日を浮かべる。
(水曜日……いよいよ、今日だ!)
布団の中で一度、深呼吸をする。
胸の奥がざわついていて、落ち着かない。
期待と不安が、同じ重さで胸の中に詰め込まれている感じだ。
枕元のスマホを手に取り、無意識のまま掲示板を開く。
今日は仕事終わったらすぐに行くからレスできないことを書き込む。
書き込んで、少しだけ間を置くと、すぐに反応が返ってくる。
画面を眺めながら、口元が自然と緩む。
(……ほんと、ありがたいな)
顔も名前も知らない連中だ。住んでいる場所も、どんな人生を歩んできたのかも分からない。
それなのに、こうして背中を押してくれる。
一人で抱え込んでいたら、きっと今日を迎える前に潰れていた。
いや――そもそも、今日という日を迎える決断すらできなかったかもしれない。
スマホを置き、布団から起き上がる。
身体は正直、少し重いが足取りだけは、不思議と軽かった。
◇ ◆ ◇
工場に着き、朝礼の列に並びながら、無意識に信先輩の姿を探してしまう。
だが、やはり見当たらない。
(……今日も、休みか)
胸の奥が、少しだけ痛む。
家族が事件に巻き込まれたと聞いたときの、おばちゃんの顔が脳裏に浮かぶ。
(心配だけど……)
今は、他人を気遣う余裕がない。
今日は、自分のことで手一杯だ。
意識を切り替えるように、溶接機を手に取る。
スイッチを入れると、耳慣れた音が周囲を満たした。
こういうときだけは、余計なことを考えずに済む。
(……終わったら、すぐだ)
それだけを目標に、手を動かし続けた。
◇ ◆ ◇
定時のチャイムが鳴った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
さっさと片付けを済ませ、工場を出る。
自転車を漕ぐ脚にも、自然と力が入る。
家に着くと、すぐにシャワーを浴びた。
熱い湯が肩を打ち、今日一日溜め込んだ緊張を少しずつ洗い流していく。
(……落ち着け)
何度も、自分に言い聞かせる。
髪を乾かし、鏡の前で服を確認する。
家にあったものから、何度も迷って決めたシャツと、無難なパンツ。
(変じゃない……よな)
自分では判断がつかないが、今の自分にできる精一杯だと信じるしかなかった。
時計を見ると、まだ余裕はあるが、早いに越したことはない。
家を出て、電車に乗り、予約した居酒屋の最寄りの駅へ向かう。
約束の時間より、三十分早く着いた。
改札を出て、駅前の待ち合わせの像へ目を向けた瞬間――
(いた!)
すぐに分かった。人混みの中でも、視線が自然と吸い寄せられる。
照宮さんは、スーツ姿だった。仕事終わりなのだろう。落ち着いた色合いのジャケットに、タイトなスカート。
その姿を見た瞬間、喉が無意識に鳴る。
(……すげぇ)
派手じゃないのに、目を引く。
背筋が自然と伸びていて、立ち姿がきれいだ。
過度な装飾はないのに、どこか目が離せない。
特に――スーツ越しでも隠し切れない胸元のラインに、どうしても視線が行ってしまう。
(……駄目だ、見るな)
そう思えば思うほど、意識してしまう自分が情けない。
三十歳にもなって、何やってるんだ。
気を取り直し、歩み寄る。
「す、すいません。お待たせしました」
少し早口になってしまった。
照宮さんは、こちらを見て、柔らかく微笑む。
「いえ。私の仕事場が、この近くだっただけですから」
その一言で、胸の緊張が少しだけほどける。
「それなら……よかったです」
予約している居酒屋まで、二人で並んで歩き出す。
距離は、腕一本分ほど。
近いのに、触れない。
(……手、繋ぐとか……いや、無理だろ)
頭の中で考えて、すぐに否定する。
出会ってまだ二回目だ。そんなこと、できるわけがない。
歩きながら、俺は口を開いた。
「あの……こんな事件が起きてる時に誘ってしまって、すいません」
正直な気持ちだった。
ニュースのことが、頭から離れない。
照宮さんは、少しだけ目を細める。
「いえいえ。私、楽しみにしていましたから」
その言葉に、胸がきゅっと締まる。
(……ほんとに?)
疑う理由なんてないのに、それでも、信じきれない自分がいる。
だけど――その一言が、今日ここに来てよかったと、確かに思わせてくれた。
会話は途切れ途切れでも、不思議と気まずくはない。
沈黙が、重くならない。
居酒屋に着くと、店員に案内され、個室へ通された。
「……いい雰囲気のお店ですね」
照宮さんが、周囲を見回しながら言う。
「そ、そうですか? よかったです」
思わず、胸を撫で下ろす。
「とりあえず、飲み物でも……」
タブレットを差し出すと、照宮さんは少し悩んでからカクテルを選んだ。
俺はビールと、ついでに、軽くつまめそうなものも注文する。
ほどなくして、飲み物が運ばれてきた。
「じゃあ……乾杯、ですかね」
「はい」
グラスを軽く合わせる。
「改めて……今日はありがとうございます」
そう言うと、照宮さんは少し照れたように笑った。
「私も、すっごく楽しみにしていたんですよ。この前は、全然お話しできませんでしたし」
その言葉が、胸にじんわりと染みる。
「……あの、改めて自己紹介、してもいいですか」
「はい」
「伊原啓人です。三十歳で……仕事は、溶接工をしています」
少しだけ、気恥ずかしい。
それでも、ちゃんと伝えたかった。
「照宮灯です。三十二歳で、秘書をしています」
「秘書……大変そうですね」
率直な感想だった。
「そんなことないですよ。慣れれば、意外と」
穏やかな声。話し方一つで、人ってこんなに安心できるんだなと思う。
そのとき、ふと気づいた。
(……あれ?)
照宮さんは、俺の銀髪のことに、一切触れてこない。
この前の街コンでは、だいたい最初に聞かれた部分だ。
(……気にしてない、のか?)
それとも、あえて触れないだけなのか。
理由は分からないが、不思議と嫌な気はしなかった。
ビールを一口飲みながら、俺は思う。
(……まだ、始まったばかりだ)
今日という夜は、ようやくスタートラインに立っただけだ。
胸の鼓動は、まだ落ち着かないまま。
それでも――逃げずに、ここにいる自分を、少しだけ誇らしく思えた。




