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【完結】安価で俺の人生変わった件について。  作者: ドラドラ
安価で俺の人生変えたかっただけだった

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十一月十六日 土曜日③ 前進

 会場を出たあとのことを、正直に言えば――よく覚えていない。


 照宮さんと別れの挨拶をして、軽く会釈を交わして、それから……どうしたのか。

 頭では理解しているはずなのに、記憶としては途切れ途切れだ。


 気づけば、俺は街を歩いていた。


 夜の空気は冷えていて、隙間から入り込む風が、現実に引き戻すはずなのに、足取りはどこか地に着いていなかった。


 ネオンの光も、行き交う人の声も、すべてが遠い。


 駅まで、どうやって辿り着いたのかも曖昧だ。

 改札を抜けた記憶はある。電車に乗った覚えも、かすかに残っている。


 吊り革を握っていたはずなのに、車内の風景も、人の顔も、まるで霧がかかったみたいにぼんやりしていた。

 誰かに肩が触れた感触すら、後になって思い出したくらいだ。


 頭の中に浮かんでくるのは、断片的な光景ばかりだった。


 差し出されたハンカチ。白くて、清潔で、少しだけ柔らかかった感触。

 穏やかな声。 「大丈夫ですか?」と、気遣うようにかけられた一言。

 そして、はっきりとした「はい」という返事。


 たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥が、じわりと熱を帯びる。


(……本当に、現実だったんだよな)


 何度も、そう思う。

 確認するみたいに、何度も。


 改札を抜け、いつもの道を歩く。

 見慣れたコンビニ、街灯、アパートの並び。

 気づけば、俺は自分のアパートの前に立っていた。


 鍵を取り出し、扉を開ける。部屋に入り、靴を脱いだところで、ようやく全身の力が抜けた。


 そのまま、ベッドに腰を下ろす。


 服も着替えず、ただ天井を見上げていた。

 白い天井の染みをぼんやりと眺めながら、呼吸だけを繰り返す。


 時間の感覚が、なくなる。


 どれくらい、そうしていただろうか。


 スマホが震えて、はっと我に返る。

 画面を見れば、表示された名前。


 照宮さん。


 一瞬、指が止まる。

 見間違いじゃないかと、画面を見直す。


 照宮 灯

【今日はありがとうございました。これからよろしくお願いします。】


 短いメッセージ。

 それだけなのに、胸がきゅっと締めつけられる。

 俺は、すぐに返事を返した。


 伊原 啓人

【こちらこそありがとうございました】

【よろしくお願いします】


 なんてことない、普通のメッセージだ。

 気の利いた言葉も、余計なことも書いていない。


 それでも――


(……夢じゃない)


 そう思った瞬間、今日一日の出来事が、ようやく現実味を帯びて押し寄せてくる。


 会場の空気。

 水をかけられて、何も言い返せなかった自分。

 帰ろうと思った、あの瞬間、差し伸べられた手。


 俺は、ゆっくりと体を起こし、スマホを握り直した。


 自然と、指が掲示板に書き込んでいた。


 ◇   ◆   ◇


 349:名前:30歳の魔法使い

 今帰った


 ◇   ◆   ◇


 送信した直後、胸がきゅっと縮む。

 勝手に期待して、勝手に報告して。

 少し前までの俺なら、こんな書き込み、しなかったかもしれない。


 それでも、不思議と後悔はなかった。


 ほどなくして、レスが流れ始める。


 ◇   ◆   ◇


 350:名前:名無しの使い魔

 おかえり


 351:名前:名無しの使い魔

 ドンマイ


 352:名前:名無しの使い魔

 次があるさ


 353:名前:名無しの使い魔

 切り替えていけ


 354:名前:名無しの使い魔

 今日は寝ろ


 ◇   ◆   ◇


 いきなり俺を励ますレス。


(俺が失敗したと思ってやがる)


 そう思って、少しだけ苦笑する。

 まあ、俺のこれまでの流れを知っていれば、そう判断するのも無理はない。


 それでも、俺は、今日のことを、少しずつ書いていった。


 序盤は何もできなかったこと。

 水をかけられたこと。

 帰ろうと思ったこと。

 ハンカチを差し出してくれた女性のこと。

 その人と連絡先を交換できたこと。


 ◇   ◆   ◇


 378:名前:名無しの使い魔

 映画かよ


 379:名前:名無しの使い魔

 運命だな


 380:名前:名無しの使い魔

 勇気出して行ってよかったな


 ◇   ◆   ◇


 画面を見て、思わず胸が高鳴る。

 否定されると思っていた。

 嘘だと言われるかもしれないと、どこかで構えていた。


 それなのに。


 俺は、短くお礼を書き込んだ。


 ◇   ◆   ◇


 385:名前:名無しの使い魔

 これからが本番だぞ


 386:名前:名無しの使い魔

 焦るなよ


 387:名前:名無しの使い魔

 大事にしろ


 388:名前:名無しの使い魔

 これからが楽しみです。


 389:名前:名無しの使い魔

 今日はゆっくり休め


 390:名前:名無しの使い魔

 続き待ってる


 391:名前:名無しの使い魔

 何かあったら俺たちに相談しろ

 安価で答える


 ◇   ◆   ◇


 その言葉の一つ一つに、本当に励まされる。


 相手のことを教えてほしいと言われたので、書ける範囲で答えていく。

 もちろん写真なんて撮ってないし、貼るつもりもない。


 それでも――


 ◇   ◆   ◇


 403:名前:名無しの使い魔

 構わんよ


 404:名前:名無しの使い魔

 いまさら疑ってもしょうがない


 405:名前:名無しの使い魔

 俺たちの中だろ


 406:名前:名無しの使い魔

 信じるわ


 ◇   ◆   ◇


 思わず、苦笑する。


 相手の顔写真も、何一つ確かな証拠も出していない。

 それなのに、誰一人として疑わない。


(……不思議だな)


 顔も知らない。

 声も聞いたことがない。

 それでも、この人たちは、俺の言葉を、そのまま受け取ってくれている。


 ちなみに、照宮さんの容姿を伝えたときには、あからさまな嫉妬レスが飛び交っていて、思わず笑ってしまった。


 スマホを置き、深く息を吐く。


 体が、どっと重くなった。


 時計を見ると、もう遅い時間だった。

 風呂に入るべきだと、頭では分かっている。


 だが、今日は――


「……いいか」


 そう呟いて、電気を消し、ベッドに倒れ込む。


 買ったばかりの服を着たまま。

 何も考えず。


 まぶたを閉じた瞬間、今日の出来事が、また一つ一つ浮かんできて――


 長くて、色々あった一日だった。


 それでも。


 ――確かに、前に進んだ日だった。

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