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【完結】安価で俺の人生変わった件について。  作者: ドラドラ
安価で俺の人生変えたかっただけだった

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十一月十六日 土曜日② 邂逅

 差し出されたハンカチを、俺はしばらく見つめることしかできなかった。


 白くて、清潔そうな布。指先に触れるほど近い位置にあるのに、どうしても受け取る動きができない。


 さっきまで胸の奥を満たしていたのは、自己嫌悪と、居場所のなさと、どうしようもない諦めだった。

 この場から逃げ出したい一心で、ただ帰ろうと思っただけだった。


 なのに。


「……あの?」


 穏やかで、落ち着いた声。

 その一言だけで、思考が止まった。

 責めるでもなく、急かすでもなく、ただ俺を気遣う響き。


 そこに立っていたのは、黒髪のロングヘアの女性だった。

 過度な装飾はない。派手さもない。

 それなのに、不思議と目が離せない。


 整いすぎていないのに、どこにも破綻がない――そんな顔立ち。

 表情は柔らかく、微笑みは控えめだ。

 だが、その奥に、相手をよく見ている目をしている。


 背筋が自然と伸びていて、立ち姿がきれいだ。

 姿勢だけで、積み重ねてきた時間や生き方が伝わってくる気がした。


 年齢は……俺と同じくらいか、少し上だろうか。

 時間を重ねた分だけ、余計なものが削ぎ落とされたような、静かな美しさ。


 落ち着いた雰囲気の奥に、大人の余裕が滲んでいる。

 無理に主張しなくても、そこにいるだけで空気が整う――そんな存在感だった。


 そして何より――服の上からでもはっきりわかるほど、すらりとしたスタイルの良さ。


(……俺に?)


 一瞬、理解が追いつかなかった。

 視線を何度か往復させて、ようやく現実を受け止める。


「お洋服……汚れてますよ」


 そう言われて、ようやく胸元を見る。

 さっきぶつかった拍子にこぼれた水が、シャツに薄い染みを作っていた。


(こんなもの、どうでもいい)


 急に恥ずかしさがこみ上げる。


「あ、いえ……大丈夫ですので」


 反射的にそう答えていた。

 気を遣わせてはいけない。それに、俺なんかに声をかける必要はないはずだ。


 だが――


「大丈夫ですよ」


 彼女はにこりと微笑むと、俺の返事を待たずに、そっと服を拭いてくれた。


 距離が、近い。


 近すぎて、思わず肩が強張る。

 息をするのを忘れたみたいに、胸が詰まる。


 ほんの数秒。それだけの時間なのに、会場のざわめきが、急に遠のいた。


 周囲の視線も、音も、意識から消えていく。

 あるのは、彼女の手の動きと、ほのかに香る石鹸の匂いだけ。


「はい。これで大丈夫です」


 拭き終えた彼女は、何事もなかったかのように一歩下がった。


「あ……ありがとうございます……」


 情けないほど、小さな声しか出なかった。

 それでも、彼女は気にした様子もなく、軽く首を振る。


 その直後だった。


「お姉さん、ちょっとお話いいですか?」


 横から、軽い調子の声が割り込んできた。


 見ると、明らかに年下だろう男性参加者が、馴れ馴れしく彼女に話しかけている。

 笑顔だが、どこか下心が透けて見える。


 彼女は一瞬だけ困ったように眉を下げ――しかし、すぐに落ち着いた声で言った。


「すみません。私は今、この人とお話をしているんです」


 その言葉に、心臓が跳ねた。


(この人、って……俺?)


「えー、そんなおっさんなんかほっといてさ」


 空気を読まない言葉。


 正直、胸に刺さった。


 だが、彼女は一歩も引かなかった。


「聞こえませんでしたか?」


 声は静かで、落ち着いているが、その奥には、はっきりとした意思があった。


「私は、この人とお話をしているんです」


 その一言で、男は気まずそうに肩をすくめ、視線を逸らし、何事もなかったかのように人混みに紛れていった。


 俺は、しばらく言葉を失っていた。


「……すみません」


 ようやく絞り出した声。

 彼女は、すぐに首を横に振った。


「いいえ。こちらこそ」


 少しだけ間を置いてから、彼女は視線を巡らせる。


「……よかったら、あちらでお話しませんか?」


 指さした先には、会場の隅に置かれた椅子があった。立食の喧騒から、少しだけ距離のある場所。


 断る理由は、なかった。


 並んで歩き、椅子に腰を下ろす。近すぎず、遠すぎない距離。


 沈黙が、ゆっくりと流れる。

 先に口を開いたのは、彼女だった。


「私は照宮《てるみや》 灯《あかり》といいます」


「……伊原《いはら》です。伊原《いはら》 啓人《けいと》」


「伊原さん」


 名前を呼ばれただけで、胸がわずかに跳ねる。

 それだけで、自分が意識しているのが分かってしまう。


「年齢は……三十二です」


 俺より、二つ上。


 なぜか、その事実に少しだけ安心している自分がいた。


 会話は、ゆっくりと進んだ。


 照宮さんは秘書をしているらしい。

 上司から「そろそろ身を固めたらどうだ」と言われ、思い切って参加したらしい。


「周り、若い方ばかりで……正直、少し困ってました」


 苦笑するその表情は、とても落ち着いていて、大人だった。


「……実は、俺もです」


 思わず、本音が漏れる。


「そんなとき、伊原さんが……すごく落ち込んでる顔をしていたので」


「……俺が、ですか」


「はい。放っておけなくて」


 顔が、熱くなる。

 そんなふうに見られていたなんて、思ってもみなかった。

 勢いで、口を滑らせてしまう。


「……照宮さんなら、選び放題でしょう」


 言った瞬間、後悔が押し寄せる。


(何言ってるんだ、俺は……)


 だが、照宮さんは、ゆっくりと首を横に振った。


「そんなこと、ないですよ」


 控えめで、穏やかな否定。

 作り物じゃない、その言い方に、胸が少しだけ軽くなる。


(照宮さんと、もっと話したい)


 そう思った矢先、終了のアナウンスが会場に流れた。


(このまま、終わらせていいのか)


 掲示板の言葉が、頭をよぎる。背中を押してくれた、あの短いレスたち。


(……ここで動かなきゃ、また何も変わらない)


 俺は、深呼吸を一つして、言った。


「……あの」


 声が、わずかに震える。


「もしよければ……連絡先、交換してもらえませんか」


 一瞬の沈黙。


 時間が、引き延ばされたように感じた。


 それから、照宮さんは、はっきりと答えた。


「はい」


 差し出されたスマホの画面。

 メッセージアプリの交換。


 それが終わった瞬間、胸の奥が、じんわりと温かくなる。


(……勇気を出して、よかった)


 本当に、そう思えた。


 今日までやってきたことが、無駄じゃなかったと――初めて、はっきり思えた瞬間だった。

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