十一月十六日 土曜日① 街コン
目覚ましが鳴るよりも早く、意識が浮上した。
天井を見上げたまま、しばらく動けない。
胸の奥が、じわじわと熱を持っている。
(……今日、か)
スマホを手に取り、時刻を確認する。
いつもより一時間も早い。
まだ時間はある。
そう分かっているのに、二度寝できるほどの心の余裕はなかった。
布団から体を起こし、深く息を吸って、吐く。それだけで、胸の内側がざわつく。
心臓の音が、やけにうるさい。耳の奥で、どくどくと主張している。
洗面所へ向かい、顔を洗うと冷たい水が、冷たい水が頬を叩き、少しだけ現実を引き戻してくれた。
顔を上げると、目の前の鏡に映るのは、銀色の髪をした三十歳の男だ。
昨日まで、何度も見たはずなのに、今日はやけに落ち着かない。
髪を整え、眉を整え、無精ひげが残っていないか確認する。
シャツに袖を通し、ジャケットを羽織る。
昨日、選んでもらった一式。
鏡の中の自分は――少なくとも、問題ないはずだ。
(大丈夫だ)
声に出さず、心の中で繰り返す。
(大丈夫だ、大丈夫だ)
何度も、自分に言い聞かせるように。
家を出る前、スマホを手に取り、いつものスレを開く。
指が、少し震えているのが分かった。
それでも、書き込んだ。
◇ ◆ ◇
325:名前:30歳の魔法使い
今から行ってくる
◇ ◆ ◇
たった、それだけの一言。
送信した瞬間、胸がきゅっと縮む。
逃げ道を、自分で塞いだ気がした。
だが、すぐにレスが流れてくる。
◇ ◆ ◇
326:名前:名無しの使い魔
心配すんな
327:名前:名無しの使い魔
逝ってこい
328:名前:名無しの使い魔
当たって砕けろ
329:名前:名無しの使い魔
清潔感は武器だぞ
330:名前:名無しの使い魔
無理せずな
331:名前:名無しの使い魔
その選択は、間違っていません。
332:名前:名無しの使い魔
骨は拾ってやる
◇ ◆ ◇
短い言葉。顔も名前も知らない相手からの言葉。
それでも、不思議と胸の奥が、少しだけ軽くなる。
(……ありがとう)
誰にともなく、心の中で呟いて、 スマホをポケットにしまい、アパートを出た。
◇ ◆ ◇
電車に揺られ、街へ向かう。
窓に映る自分の姿を、何度も確認してしまう。
視線が合うたび、胸がざわつく。
最寄り駅で降りると、男女で並んで歩く姿がちらほらと見えた。楽しげな笑顔。
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……俺も、ああなれるのか?)
会場の建物に入り受付へと向かう。
名を告げ、参加費を払い、プロフィールカードを受け取る。
「こちら、ご記入ください」
丁寧な声。それだけで、少し救われた気がした。
受付の傍のテーブルの端に腰を下ろし、カードにペンを走らせる。
名前――伊原 啓人
年齢――三十
職業――溶接工
趣味――映画、読書
掲示板に書いていることを、少しだけぼかした。
正直に書く勇気は、なかった。
(……これでいい)
いや、よくはないかもしれない。
それでも、これが俺だ。
カードを手に、会場へ足を踏み入れる。
――そこは、別世界だった。
おしゃれな服に身を包んだ若い男女。弾む声。自然に交わされる自己紹介。
立食形式で自由に、話したい人と話してくださいと説明された。
そう説明されたとき、頭が一瞬、真っ白になった。
(自由……?)
誰に声をかければいい。
どうやって、この輪に入ればいい。
周囲では、もう普通に会話が始まっている。
「はじめまして」
「どこから来たんですか?」
そんな声が、あちこちから聞こえる。
俺は、コップを持ったまま、立ち尽くしていた。
誰にも、話しかけられない。
自分から、話しかけられない。
(……まずいな)
時間だけが、過ぎていく。
孤立している、という感覚が、じわじわと広がっていく。
「すいません」
不意に、声をかけられた。
顔を上げると、若い女性が立っていた。
二十代前半だろうか。明るい色のワンピース。
「その髪、すごいですね」
――ああ、やっぱりそこか。
「……あ、はい」
「何されてる方なんですか?」
一瞬、言葉に詰まったが、正直に答えた。
「溶接工です」
その瞬間、空気が、変わった。
「あ、そうなんですね……」
声のトーンが、明らかに下がる。
無理に笑っているのが、すぐに分かった。
少しだけ、当たり障りのない会話をして、彼女は「ちょっと飲み物取ってきますね」と言って、離れていった。
戻ってこなかった。
(……まあ、そうだよな)
その後も、何人かと話した。
切り口は、決まっている。
「その髪、どうしたんですか?」
「お仕事は?」
年齢。職業。
そこまで話すと、多くは自然に離れていく。
よく見れば、周りは俺よりも明らかに若い人ばかりだ。
二十代前半、下手をすると、学生に見える人もいる。
年齢制限は、二十から三十五歳とあった。
確かに、俺は範囲内だ。
だが――場違い感は、否定できなかった。
少し話してくれる人もいた。それでも、話題が合わない。
最近の音楽や流行。俺の知らない言葉が、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
気づけば、時間だけが過ぎていた。
(……何を、期待してたんだ)
その時、誰かとぶつかった。
手に持っていたコップの中身が、胸元にかかる。
「っ……」
「ぼーっと突っ立てるんじゃねぇよ、おっさん」
若い男。苛立った顔。
俺は……何も言い返せなかった。
言葉が、出てこなかった。
俺は……何を、勘違いしていたんだ。
少し髪の色を変えて、少し金をかけて服を揃えただけで、何かが変わると期待していたのか。
変わったのは見た目だけで、中身は何も変わっていない
自分で何も決めることができなくて、臆病で、流されて、場の空気も読めないままなのに。
若い連中の中に立って、同じ土俵に上がれるつもりでいたなんて……笑える。
(……帰ろう)
そう思った、そのとき。
「大丈夫ですか?」
ハンカチが、差し出された。
顔を上げるとそこには、穏やかな表情の女性が立っていた。
――そこで、時間が止まったように感じた。




