第四話「八月八日」
「悟さん。八月八日って、何の日か知ってます?」
七月も半ばに差しかかった、ある日の午後。
仕事を終えて帰ろうとしていた悟さんを、俺は事務所の入り口で呼び止めた。
「八月八日? 花火大会の日かな」
「それも正解っすけど、もう一つ!」
「……何だろう?」
「母さんの誕生日っす!」
「へえ、そうなんだ」
悟さんが少し驚いた顔をした。
ふむ。
知らなかったらしい。
実に良い情報を提供できたようだ。
「で、悟さん」
「うん?」
「母さんを花火大会に誘ってみたらどうっすか?」
「…………え?」
「誕生日に花火ですよ!? 絶好のチャンスじゃないっすか!」
悟さんが目を瞬かせる。
そして、少し困ったように笑った。
「チャンスって……啓介くん。僕は中原社長には仕事でお世話になっている立場だし……」
「悟さん」
「……うん?」
「もうそういうのいいですって! バレバレですから!」
「…………え?」
おお。
固まった。
あの真面目な営業マンが、見事に固まった。
これはなかなか貴重な光景である。
「悟さん、母さんのこと好きなんでしょ?」
「……っ!」
分かりやすい。
実に分かりやすい。
そんなに露骨に反応されたら、もはや答え合わせも同然ではないか。
「い、いや、啓介くん。それは……」
「大丈夫ですって! 俺、前から気づいてましたから!」
「……そんなに分かりやすかったかな」
「そりゃもう!」
悟さんは片手で額を押さえた。
……いやあ。
いいねえ。
普段は落ち着いている大人が、こういうことで動揺する姿というのは。
実に人間味がある。
「……参ったな」
「別に隠す必要ないじゃないっすか」
「いや、そういうわけにも……」
「それに!」
俺は人差し指を立てた。
「母さんも絶対悟さんのこと好きなんだと思いますよ!」
「……中原社長が?」
悟さんが顔を上げる。
「そうっす!」
「……どうして、そう思うんだい?」
「いやあ、それは色々ありまして」
「色々?」
「まあ、息子にしか分からないことってあるじゃないっすか」
……と、偉そうに言ってみたものの。
実際に俺が知っているのは、悟さんが来る前に母さんが机や髪を整えていたことと、声の調子がちょっと違うこと、それから悟さんの人柄を妙に詳しく褒めていたことくらいである。
しかし、十分だろう。
母さんのことなら、俺は十七年間見てきたのだ。
少なくとも、あの人がどうでもいい男に対して、あんな顔をするとは思えない。
「……そうなんだ」
悟さんは、少し考えるように視線を落とした。
おや。
これはひょっとして、喜んでいるのでは?
「だったら、誘ってみてくださいよ!」
「……でも、迷惑じゃないかな」
「誘ってみなきゃ分かんないじゃないっすか!」
「それは、そうだけど……」
「断られたら、そのとき考えましょう!」
「……はは。啓介くんは前向きだね」
「そりゃもう!」
俺は胸を張った。
失敗を恐れていては、何も始まらない。
……何?
お前は恋愛で失敗したことすらないんだろうって?
それは今、関係ないだろ!
「……啓介くん」
「はい?」
悟さんが、いつになく真面目な顔になった。
「この話、中原社長には内緒にしておいてくれるかい?」
「もちろんです!」
俺は即答した。
「男と男の約束っす!」
右手を差し出す。
悟さんは少し驚いたあと、笑いながらその手を握った。
「……ありがとう」
「任せてください!」
よし。
これで俺と悟さんの間に、固い協定が結ばれた。
本人には内緒で、母さんの恋を応援する。
実に立派な協定である。
……いや、冷静に考えると、本人に無断で何やってんだという話でもあるのだが。
まあ、細かいことはいい。
母さんだって、幸せになって困ることはないだろう。
◇
「ところで悟さん」
「うん?」
「誕生日ってことは、やっぱプレゼントも必要じゃないっすか?」
「プレゼント、か……」
悟さんは、少し考え込んだ。
「何を贈れば喜んでもらえるだろうね」
「それなら、ちょうどいいものがありますよ!」
「本当?」
「はい!」
俺は得意げに頷いた。
「母さん、最近万年筆の調子が悪いって言ってたんすよ」
「万年筆?」
「そうっす。結構古いやつなんですけど」
「へえ。中原社長、万年筆を使われるんだね」
「仕事の書類とかで、たまに使ってるんですよ」
俺は、あのときの光景を思い出した。
インクが出なくなった万年筆。
母さんが苦笑いしながら、買い替えようかと口にしていたこと。
「あれ、父さんが昔、誕生日にあげたやつなんですけどね」
「……亡くなった旦那さんが?」
「はい」
悟さんの表情が、少し変わった。
「……そうなんだ」
「何でも、花火大会に行ったときにプレゼントされたらしいっすよ」
「花火大会で?」
「そうそう。母さんの誕生日と同じ日じゃないっすか。昔、父さんと行ったときにもらったんですって」
父さん――中原浩大。
俺が五歳のときに亡くなった、中原興業の先代社長だ。
その万年筆は、父さんがまだ生きていた頃に母さんへ贈ったものらしい。
名前まで刻んである。
なかなか洒落たことをする男だったようだ。
……いや、俺の父親なんだけどさ。
俺自身は、その日のことを詳しく覚えているわけじゃない。
ずっと前に母さんが話してくれたのを覚えているだけだ。
「……それなら、大切なものなんじゃないかな」
悟さんが言った。
「まあ、大切にはしてますね」
「だったら、同じようなものを僕が贈るのは……」
「いやいや、大丈夫ですって!」
俺は慌てて首を振った。
「母さん、自分でも新しいのに替えようかなって言ってたんすよ」
「……そうなの?」
「はい! 最近インクも出にくいらしくて」
「なるほど……」
「だから、悟さんから新しい万年筆を贈ったらどうっすか? どうせなら名前入りのやつ!」
悟さんは、すぐには頷かなかった。
そりゃそうか。
亡くなった夫からのプレゼントと同じ種類のものを贈るとなれば、少し気を遣うのも当然だろう。
……しかし。
俺には勝算がある。
なにしろ、母さん本人が新しいのに替えようかと言っていたのだから。
「悟さん、俺が保証しますよ!」
「保証?」
「母さん、喜ぶと思います!」
「……そうかな」
「そうっす! 新しい万年筆なら、これからも仕事で使えるじゃないっすか!」
俺は自信満々に言い切った。
すると悟さんは、しばらく考え込んだあと、ゆっくり頷いた。
「……そうだね。少し探してみようかな」
「おっ!」
「ただ、贈るなら僕自身でもちゃんと選びたいから」
「もちろんっすよ!」
よし。
これで準備は整った。
あとは悟さんが母さんを誘い、誕生日にプレゼントを渡すだけ。
実に簡単ではないか。
……ふっ。
我ながら、なかなかの仕事ぶりである。
まあ、最終的にどうするかは悟さん次第だけどな。
◇
「そういえば、啓介」
それから十日ほど経った、ある日の夕食。
母さんが味噌汁を啜りながら声をかけてきた。
「ん?」
「八月八日なんだけどさ、夕飯、自分で何とかできるかい?」
「別にいいけど。何で?」
「ちょっと出かけることになってね」
「どこ?」
「花火大会」
「誰と?」
「ああ、高校時代の友達とだよ」
「……ふーん」
はい。
絶対嘘。
何年アンタの息子やってると思ってんだよ。
母さんは、高校時代の友達と会うとき、大抵は相手の名前まで話してくる。
誰々が結婚したとか、誰々の子どもがどうしたとか、聞いてもいない近況報告までついてくることもある。
それなのに、今回は『友達』でおしまい。
……分かりやすいにもほどがあるだろ。
「……何だい?」
「いや? 楽しんできなよ」
「言われなくても楽しんでくるよ!」
おっ。
楽しみなのは否定しないんですね?
「……ふーん」
「何だい、その顔」
「何でもないって」
「変な子だねえ」
母さんはそう言って、また夕飯を食べ始めた。
……ふっふっふ。
やるじゃないか、悟さん。
どうやら、無事に誘えたらしいな。
俺は心の中で、そっと拍手を送った。
それにしても。
母さんが男と花火大会に行くなんて、いつ以来だろう。
少なくとも、俺の知っている限りでは初めてだ。
父さんが亡くなってから、あの人は仕事と俺のことばかり考えて生きてきた。
たまに友達と食事へ出かけることはあっても、男と二人で遊びに行くなんて話は聞いたことがない。
……いやあ。
何だか、不思議な感じだ。
あの母さんが、ねえ。
まあ、いい。
今回は知らないふりをしておいてやろう。
せっかく本人が隠しているんだからな。
こういうところで余計なことを言わないのも、息子としての優しさというものだ。
……うん。
我ながら、実に気が利く男である。
◇
八月八日。
母さんの三十六歳の誕生日がやってきた。
朝から中原興業は相変わらず忙しかった。
母さんもいつもどおり作業着姿で、現場と事務所を行ったり来たりしている。
誕生日だからといって、仕事が休みになるわけではない。
……まあ、社長ってのも大変だな。
そんなことを考えながら過ごしていた夕方。
俺は、思わず二度見することになった。
「……母さん?」
「ん?」
リビングに立っていたのは、見慣れた金髪の女性。
ただし、いつもの作業着ではない。
落ち着いた色合いのワンピースに、華奢なサンダル。
首元には小さなアクセサリー。
髪も普段より丁寧に整えられていて、肩にかかる毛先が柔らかく揺れていた。
…………。
誰だ、この美人。
いや、母さんなんだけど。
分かってる。
分かってるんだが。
……あんた、そんな服持ってたの!?
「……何だい、じろじろ見て」
「いや、別に」
「変かい?」
「へ?」
母さんは、自分の服を見下ろした。
「この服、ちょっと派手すぎないかい?」
「……いや」
「何だか落ち着かなくてね。久しぶりに引っ張り出したんだけど」
……ほう。
なるほど。
高校時代のお友達と花火大会に行くために、そんなに気合いを入れているわけですか。
いやあ、友情って素晴らしいですねえ。
「……啓介?」
「ああ、うん」
「どうなんだい?」
俺は、もう一度母さんを見た。
……うん。
似合っている。
普通に、かなり。
普段は現場で職人たちを怒鳴りつけている人とは思えないくらい、綺麗だった。
……まあ。
本人にそこまで言うのは、さすがに恥ずかしい。
「……別に。似合ってんじゃね?」
「……そうかい?」
「うん」
「……そっか」
母さんは、少しだけほっとしたように笑った。
……何だよ、その顔。
そんなに息子の評価が気になるのかよ。
いつもは俺が何を言っても、自分の考えを曲げないくせに。
「ほら、そろそろ行かないと遅れるんじゃない?」
「あっ、そうだね!」
母さんは時計を見て、慌てて鞄を手に取った。
「夕飯、ちゃんと食べるんだよ!」
「分かってるって」
「冷蔵庫に作り置きがあるからね!」
「はいはい」
「あと、戸締まりも――」
「母さん!」
「何だい!」
「俺、十七歳だから!」
「……ああ、そうだったね」
母さんは、少し照れくさそうに笑った。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん。楽しんできな」
「……ありがと」
玄関の扉が閉まる。
俺は、しばらくその場に立っていた。
……いやあ。
あの母さんがねえ。
まさか、あんなにおしゃれして出かける日が来るとは。
しかも、相手は悟さん。
うむ。
悪くない。
実に悪くないぞ。
今日という日が、二人にとって良い一日になるといい。
……まあ、俺がここまでお膳立てしたんだから、そうならないと困るんだけどな!
◇
花火大会の会場は、駅から少し歩いた河川敷だった。
毎年八月八日に開かれる、この地域では一番大きな夏の催しだ。
浴衣姿の人々。
並んだ屋台。
川沿いに広がる提灯の明かり。
あちこちから聞こえてくる笑い声。
その人混みの中を、母さんと悟さんは並んで歩いていた。
「……すごい人ですね」
「そうだねえ。毎年こんなに多かったかね」
「久しぶりなんですか?」
「ああ。最近は仕事が忙しくて、なかなか来られなくてさ」
「そうだったんですね」
悟さんが、少し笑った。
「今日は来られてよかったです」
「……そうだね」
母さんも笑う。
最初は、二人とも少しぎこちなかったらしい。
そりゃそうだ。
普段は仕事の話ばかりしている二人が、今日は私服で花火大会。
しかも、二人きりである。
……まあ、意識するなという方が無理な話だろう。
とはいえ。
そこは長年の付き合いがある二人。
少しずつ、いつもの調子を取り戻していった。
「悟さん、何か食べるかい?」
「そうですね。中原社長は?」
「アタシは……あっ、焼きそばがある!」
「はは。じゃあ、買いましょうか」
「いいよ、自分で買うから!」
「いえ、今日は僕が誘ったので」
「そんなの気にしなくていいって!」
「……では、せめて飲み物だけでも」
「……もう。真面目だねえ、悟さんは」
母さんが笑う。
悟さんも笑う。
……まったく。
こういうところは、仕事中とあまり変わらないらしい。
ただ、今日は図面も発注書もない。
あるのは、夏の夜風と、屋台の明かりと、これから上がる花火だけだ。
そして、やがて。
夜空に大きな光が咲いた。
ドンッ、と腹の底に響く音。
遅れて降ってくる歓声。
川面に映る色とりどりの光。
「……わあ」
母さんが、思わず声を漏らした。
「綺麗だねえ……」
「ええ。本当に」
悟さんは、花火を見上げる母さんの横顔を見た。
その表情があまりにも楽しそうだったからだろう。
つられて、笑みがこぼれた。
「……誘ってよかったです」
「ん?」
「いえ。中原社長、楽しそうだなと思って」
「……そりゃあ、楽しいよ」
母さんは、少し照れくさそうに笑った。
「こういうの、久しぶりだからさ」
「そうですか」
「……うん」
再び、花火が上がる。
今度は金色の光が、夜空いっぱいに広がった。
母さんは、それを見上げていた。
悟さんも、隣で同じ空を見上げていた。
きっと。
このときの母さんは、本当に幸せだったんだと思う。
◇
最後の花火が、夜空に大きく開いた。
それまでで一番大きな音が響き、河川敷に歓声と拍手が広がる。
「……終わっちゃったねえ」
母さんが、名残惜しそうに言った。
「そうですね」
「いやあ、綺麗だった!」
「ええ。本当に」
二人は、人の流れに合わせてゆっくり歩き始めた。
会場を離れるにつれ、賑やかな音が少しずつ遠ざかっていく。
「今日はありがとうね、悟さん」
母さんが言った。
「こんなところに誘ってくれて」
「いえ。僕の方こそ、来ていただけて嬉しかったです」
「……そうかい」
母さんは、少し笑った。
そのまま、二人で歩く。
そして。
「……あの、中原社長」
「ん?」
悟さんが足を止めた。
「少し、よろしいですか?」
「どうしたんだい?」
悟さんは鞄を開き、小さな包みを取り出した。
「……お誕生日、おめでとうございます」
「…………え?」
「ほんの気持ちなんですが、よかったら受け取ってください」
母さんは、驚いたように目を丸くした。
「……アタシに?」
「はい」
「……いいのかい?」
「もちろんです」
母さんは、しばらく包みを見つめていた。
そして、少し照れくさそうに笑った。
「……ありがとう、悟さん」
包みを受け取る。
丁寧に包装紙を外す。
中には、細長い箱が入っていた。
「……何だろう」
蓋を開ける。
そこに収められていたのは、一本の万年筆だった。
深みのある色合いの軸。
上品な金属の装飾。
そして、そこに刻まれた名前。
――MIYUKI NAKAHARA。
「…………」
母さんの指が止まった。
「……これ」
「はい。万年筆です」
悟さんが、少し緊張した様子で笑った。
「啓介くんから、以前使っていた万年筆のことを聞いて……」
「……啓介から?」
「はい。最近、調子が悪いそうなので」
「…………」
「もちろん、今までのものと同じではないんですが……仕事でも使っていただけたらと思って」
悟さんは、そう言って母さんの顔を見た。
しかし。
母さんは、笑っていなかった。
「……悟さん」
「……はい?」
「啓介から、何を聞いたんだい?」
「……え?」
「万年筆のこと。……何を聞いたの?」
悟さんは、少し戸惑った。
「……以前、旦那さんから誕生日に贈られたものだと」
「…………」
「それも、この花火大会で……」
母さんは、万年筆へ視線を落とした。
そのまま、何も言わない。
「……中原社長?」
悟さんが、心配そうに声をかけた。
「……すみません。もしかして、何か……」
母さんは、ゆっくりと箱の蓋を閉じた。
そして、両手でそれを差し出した。
「……いらないよ」
「…………え?」
「……ごめんね」
母さんは、俯いたままだった。
「これは……受け取れない」
「……中原社長」
「……ごめん」
小さな声だった。
いつもの母さんなら、きっともっとはっきり言っただろう。
嫌なものは嫌だ。
駄目なものは駄目だ。
そう言って、相手が誰であろうと遠慮なく自分の考えを伝える人だ。
だけど、このときは違った。
母さんは、ただ静かに首を振った。
「……今日は、ありがとう」
「……あの」
「……楽しかったよ」
その声は、少し震えていた。
「……本当に」
悟さんは、何も言えなかった。
母さんは、もう一度小さく頭を下げた。
そして、その場を離れた。
悟さんは、渡せなかった万年筆を手にしたまま、しばらく動けなかったという。
◇
さて。
その頃の俺はというと。
自宅のリビングで、のんきにテレビを見ていた。
いやあ、実に平和な夜である。
母さんは花火大会。
相手は悟さん。
しかも今日は誕生日。
ここまで条件が揃っているのだから、きっと良い感じになっているに違いない。
……いや、別に俺が何かしたわけじゃないぞ?
ちょっと情報を提供して、背中を押しただけだ。
あとは二人次第。
うむ。
実に健全である。
それにしても。
母さん、どんな顔して帰ってくるんだろうな。
案外、いつもどおりかもしれない。
それとも、少しくらいは照れくさそうな顔をするのだろうか。
……ふっふっふ。
帰ってきたら、ちょっとからかってやるとしよう。
そう考えていた、そのとき。
カチャリ。
玄関の鍵が開く音がした。
おっ。
帰ってきたな。
俺はソファから立ち上がり、玄関へ向かった。
「おっ、母さん! おかえり! どうだった、花火――」
そこで。
言葉が止まった。
「…………」
母さんは、玄関に立っていた。
朝、いや、夕方に見送ったときと同じ服。
同じ鞄。
同じ髪型。
……なのに。
まるで、別人みたいだった。
「……母さん?」
返事がない。
俯いたまま、靴を脱ごうともしない。
俺は、少し戸惑った。
……何だ?
どうしたんだよ。
いつもなら、帰ってきた瞬間から、
『ただいま! いやあ、すごい人だったよ!』
なんて、大きな声で話し始めるはずなのに。
今日は、何も言わない。
「……母さん?」
もう一度呼ぶ。
すると、母さんがゆっくり顔を上げた。
…………。
目が、赤かった。
泣いたあとみたいに。
「…………」
俺は、何も言えなくなった。
母さんが泣いているところなら、何度か見たことがある。
俺の卒業式とか、そういうときだ。
『アンタも大きくなったねえ!』
なんて、本人の俺より大げさに泣く。
だけど。
こんな母さんは、知らない。
自分のことで何かに傷ついて、泣いたような顔をしている母さんなんて。
……何だよ。
どうしたんだよ。
花火大会、楽しかったんじゃないのか?
悟さんと、いい感じになったんじゃないのか?
頭の中に、いくつもの疑問が浮かんだ。
けれど、どれも言葉にならない。
母さんは、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……啓介」
「……何?」
母さんが、小さく息を吸った。
「アンタ、悟さんに……何を話した?」




