↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/6

第三話「恋愛マスター、始動」

 俺は恋愛マスターである。


 ちなみに、彼女いない歴は十七年。


 つまり、生まれてこの方、一度たりとも恋愛で失敗したことがない。


 無敗である。


 ……何だ、その目は。


 勝ったこともないだろうって?


 うるさい! 細かいことを気にするな!


 世の中には、実際に経験しなくても分かることというものがある。


 例えばサッカー。


 自分でプロ選手になったことがなくたって、試合を見てああだこうだと語ることはできるだろう。


 それと同じだ。


 ……いや、我ながら少々無理がある気もするが。


 とにかく。


 そんな恋愛マスターである俺には、現在ひとつの重要な使命がある。


 母さんと悟さんの恋を、ほんのちょっと後押ししてやることだ。


 ……まあ、本人たちには頼まれてないんだけどな。


 しかし、何事も最初の一歩が肝心なのである。


 この俺がひと肌脱いでやろうではないか!


     ◇


「……あれ?」


 七月に入って間もない、ある日の午後。


 中原興業の事務所で、母さんが小さく首を傾げた。


 俺はちょうど部活帰りで、冷房の効いた事務所に避難していたところである。


 いやあ、文明の利器というものは素晴らしい。


 外では蝉が元気よく鳴いているが、俺にはもう少しここで涼むという重大な使命があるのだ。


「どうしたの、母さん」


「いや、またインクが出なくなってね」


 母さんは手元のペンを持ち上げた。


 万年筆だ。


 少し古びた、落ち着いた色合いの一本。


 軸には、母さんの名前が刻まれている。


 これは、亡くなった父さんが母さんに贈ったものだ。


 昔、誕生日のプレゼントにもらったんだと聞いたことがある。


 母さんはそれを、今でも仕事で使っている。


「ああ、それ? まだ使ってたんだ」


「まだって何だい。使えるんだから、いいだろ」


「いや、今まさに使えてないじゃん」


「……それもそうだねえ」


 母さんは苦笑いしながら、ペン先を確かめた。


「いい加減、新しいのに替えてやろうかしら」


「買えばいいじゃん。父さんからもらったやつだからって、ずっと使わなきゃいけないわけじゃないだろ?」


「……まあね」


 母さんは小さく笑った。


「ほら、そこのボールペン貸しておくれ」


「はいよ」


 俺が差し出したボールペンを受け取ると、母さんは万年筆のキャップを閉めた。


 そして、机の引き出しを開ける。


 いつもの場所へ、そっとしまった。


 俺はそれを見て、特に不思議には思わなかった。


 父さんの贈り物だから、母さんが大切にしていることくらいは分かっている。


 でも、万年筆は道具でもある。


 古くなって使いにくくなったなら、新しいものに替えたっていいだろう。


 何より、母さん自身がそう言っていたんだから。


 俺はそれ以上気にせず、椅子の背にもたれかかった。


 そのとき。


「ああ、そうだ。啓介」


「ん?」


「アンタ、今日はしばらくここにいるのかい?」


「涼む予定だけど」


「だったら、そこの箱を倉庫に運んでくれない?」


「……母さん」


「何だい?」


「今の俺、休憩中なんだけど」


「若いんだから、箱の一つや二つ運べるだろ」


「休憩中の高校生を労働力として数えるの、どうかと思う」


「だったら、二階で休んでな!」


「……はい」


 しまった。


 下手なことを言ってしまった。


 冷房の効いた事務所に居座る権利を守るため、俺は泣く泣く立ち上がった。


 ……いや、泣いてはいないが。


 それくらいの気持ちだったということである。


     ◇


 それから数日後。


 俺は、ついに恋愛マスターとしての第一歩を踏み出すことになった。


 その日、中原興業には悟さんが打ち合わせに来る予定だった。


 母さんは朝から現場へ出ていたが、午後には事務所へ戻ってくるという。


 そして俺は、部活が休みだったため、いつもより早く帰宅していた。


 ふっ。


 これはもう、運命と言っても過言ではあるまい。


 ……いや、ただの偶然なんだけど。


 まあ、細かいことはいい。


 俺は事務所の奥にある花瓶へ目を向けた。


 オレンジ色のガーベラが、数本。


 母さんが気に入って飾っている花である。


 うちの母さんは、意外と花が好きだ。


 特に、あのオレンジ色のガーベラ。


 買い物のついでに見かけると、ちょくちょく買ってくる。


 作業着姿で花束を抱えて帰ってくる母さんは、何とも不思議な光景ではあるのだが。


 ……まあ、本人が楽しそうだからいいんだけどさ。


 さて。


 俺は花瓶を眺めながら考えた。


 恋愛というものは、まず相手を知ることから始まる。


 これは間違いない。


 好きな食べ物。


 好きな音楽。


 好きな花。


 そうした情報を手に入れることで、会話の幅は広がっていく。


 ……ほう。


 我ながら、実に的確な分析である。


 さすが恋愛マスター。


 というわけで。


 今日は悟さんに、ちょっとした有益情報を授けてやるとしよう。


     ◇


「こんにちは。中原社長はいらっしゃいますか?」


 午後三時を少し回った頃。


 事務所の入り口から、悟さんが顔を出した。


「あっ、悟さん!」


「おや、啓介くん。こんにちは」


「どうもっす!」


 相変わらず、きっちりしたスーツ姿。


 この暑さの中でも涼しい顔をしている。


 ……いや、さすがに少し汗はかいているけど。


「中原社長は?」


「奥にいますよ。今ちょうど戻ってきたところです」


「そうなんだ。ありがとう」


 悟さんが奥へ向かおうとした、そのとき。


「……あ、悟さん」


「ん?」


 俺は、さりげなく花瓶を指さした。


「あの花、知ってます?」


「花?」


「そうそう。あれ」


 悟さんが視線を向ける。


「ああ、ガーベラだよね」


「正解っす!」


「はは。そんなに難しい問題じゃないよ」


「いやいや、花の名前を知ってる男はなかなか貴重ですよ」


「そうかな?」


 俺は真面目な顔で頷いた。


 ……まあ、実際に貴重なのかどうかは知らない。


 俺だって母さんが好きじゃなければ、ガーベラの名前なんて覚えていなかっただろうし。


「母さん、あの花めちゃくちゃ気に入ってるんすよ」


「へえ、そうなんだ」


「特にオレンジのやつ。見かけるとすぐ買ってきて、事務所に飾るんです」


「そうなんだね」


 悟さんは、もう一度ガーベラに目を向けた。


「綺麗な色だね」


「でしょ?」


「うん。覚えておくよ」


 ……よし。


 情報提供、完了。


 俺は内心で小さく頷いた。


 あとは悟さん次第だ。


 この情報をどう使うか。


 その腕前、とくと拝見させてもらおうではないか。


「悟さん!」


 奥から母さんの声がした。


「ああ、いらっしゃい! 待ってたよ!」


「こんにちは、中原社長。本日もよろしくお願いします」


「こちらこそ!」


 二人はいつもの調子で挨拶を交わした。


 ……うん。


 やっぱり、母さんの声は悟さん相手だと少し明るい。


 今となっては、俺にもよく分かる。


 まったく。


 一度気づいてしまうと、何で今まで分からなかったのか不思議なくらいである。


 ……しかし、今日はそこに突っ込んでいる暇はない。


 俺には重要な使命があるのだ。


     ◇


「おう、啓介」


 事務所の入り口から、聞き慣れた声がした。


 振り返ると、タケさんが立っていた。


 中原興業のベテラン社員、武さん。


 父さんがいた頃から会社を支えてきた、頼れるおっちゃんである。


「お疲れ、タケさん」


「おう。社長いるか?」


「いるよ。悟さんと打ち合わせ中」


「そうか。じゃあ、ちょっと確認したいことが――」


「待った!!」


「……何だよ」


 俺はすかさず、タケさんの前に立ちはだかった。


「今はダメ! 後にして!」


「何で?」


「……重要な商談中だから!」


「いつものことだろ」


「今日は特に重要なの!」


 タケさんは、俺の顔をじっと見つめた。


「……お前、何か企んでんな?」


 失礼な。


 企んでいるんじゃない。


 未来の中原家のために、環境を整えているのだ。


「別に何も企んでないって!」


「じゃあ、通せよ」


「いや、それはちょっと」


「ほら見ろ」


 ……くっ。


 さすが、長年うちの母さんと一緒に働いてきた男。


 なかなか鋭い。


「急ぎの用事?」


「いや、急ぎってほどじゃねえけど」


「じゃあ後でいいじゃん!」


「……まあ、そうだけどよ」


 タケさんは呆れたように頭をかいた。


「ったく。社長に怒られても知らねえぞ」


「大丈夫大丈夫!」


「本当かよ」


「任せて!」


「何を任せるんだよ」


 ……それは秘密である。


 タケさんは首を傾げながら、廊下の奥へ歩いていった。


 ふっ。


 障害排除、成功。


 これで二人の打ち合わせを邪魔するものはいない。


 ……いや、別にタケさんが邪魔者だと言いたいわけではないぞ?


 あくまで今日は、ちょっとだけ後回しにしてもらっただけだ。


 仕事に支障はない。


 問題なし。


 恋愛マスターたるもの、職場環境への配慮も忘れないのである。


 ……我ながら、何を言っているのかよく分からなくなってきたが。


     ◇


 打ち合わせは、いつものように進んでいた。


 悟さんが資料を広げ、母さんが内容を確認する。


 発注した工具の納期について話し、現場での使用予定をすり合わせる。


 相変わらず、仕事の話になると二人とも真面目だ。


 母さんは社長として的確に判断し、悟さんも営業マンとして丁寧に対応している。


 うむ。


 実に良い仕事ぶりである。


 ……さて。


 問題はここからだ。


 俺は事務所の隅で、さりげなく二人の様子を見守っていた。


 すると、ひととおり仕事の話が終わったところで。


「……そういえば、中原社長」


 悟さんが口を開いた。


「ん? 何だい?」


「あのガーベラ、綺麗ですね」


 ……おっ。


 来た。


 来ましたよ、皆さん。


 ついに来ました!


「あっ、分かる!?」


 母さんの顔が、ぱっと明るくなった。


「はい。オレンジ色も、この事務所によく似合っていますね」


「そうなんだよ! あたし、あの色が好きでさ!」


「中原社長が選ばれたんですか?」


「そうそう! この前、買い物に行ったときに見つけてね」


 母さんは、嬉しそうに花瓶を見た。


「ほら、うちの事務所って、どうしても殺風景になりがちだろ? だから、こういうのがちょっとあるだけで違うんだよ」


「確かに、雰囲気が明るくなりますね」


「だろう!? あたしもそう思ってさ!」


 ……ふむ。


 良い。


 非常に良いぞ。


 悟さんも自然に話を広げている。


 母さんも実に楽しそうだ。


 何より、二人とも笑っている。


 ……ほほう。


 なるほどなるほど。


 なかなかやるじゃないか、篠塚悟。


 この俺が授けた情報を、見事に活用している。


 うむ。


 これはもう、作戦成功と言って差し支えあるまい。


 俺は心の中で、そっとガッツポーズを決めた。


 ……まあ、実際には花の話をしただけなんだけどな。


 しかし、何事も最初の一歩が肝心なのである。


 小さな成功を積み重ねることこそ、大きな成果への近道。


 ふっ。


 恋愛マスターたるもの、その程度のことは当然心得ている。


     ◇


 それからしばらくして。


 打ち合わせを終えた悟さんが、帰り支度を始めた。


「それでは、中原社長。本日はありがとうございました」


「ああ、こちらこそ。悟さん、いつも助かるよ」


「いえ。また何かありましたら、いつでもご連絡ください」


「ありがとう!」


 二人は笑顔で挨拶を交わした。


 ……うん。


 実に良い雰囲気である。


 我ながら、素晴らしい仕事をしたものだ。


 ……って、俺が仕事したわけじゃないけど。


 すると、悟さんが俺の方へ歩いてきた。


「啓介くん」


「はい?」


「今日はありがとう」


「……へ?」


 一瞬、何のことか分からなかった。


 しかし、悟さんは事務所の奥にある花瓶へちらりと目を向けた。


「ガーベラのこと。教えてくれて」


「ああ、あれっすか」


「うん。中原社長、すごく楽しそうだったね」


 悟さんは、少し照れくさそうに笑った。


 ……ほう。


 これはこれは。


 なかなか良い反応ではないか。


「でしょ?」


「うん。本当にありがとう」


「いやいや、全然っすよ!」


 俺は余裕たっぷりに答えた。


 もちろん、内心では大騒ぎである。


 見たか。


 見たか、諸君。


 これが恋愛マスターの実力というものだ!


 たったひとつの情報で、母さんをあんなに楽しそうにさせてしまった。


 しかも、悟さんまで喜んでいる。


 一石二鳥。


 いや、俺の評価まで上がったのだから、一石三鳥と言ってもいいだろう。


「啓介くん」


「はい?」


「また、何か中原社長の好きなものがあったら、教えてくれる?」


 …………。


 おお。


 おおおお。


 これは、つまり。


 悟さんの方から、俺に情報提供を求めてきたということではないか!


 ふむ。


 なるほど。


 ようやく、この男も俺の有用性に気づいたらしい。


 遅いぞ、篠塚悟。


 ……いや、まあ。


 気づいてくれたなら、それでいいんだけどな。


「もちろんっすよ!」


 俺は胸を張った。


「母さんのことなら、俺に任せてください!」


「はは。頼もしいね」


「そりゃもう!」


 ……ふっ。


 任せておけ。


 俺はあの人の息子だ。


 好きなものも、嫌いなものも、大抵のことは知っている。


 何しろ、十七年間も一緒に暮らしてきたのだから。


 この俺以上に母さんを理解している人間など、そうそういるまい。


「じゃあ、またね。啓介くん」


「うっす! お疲れさまっす!」


 悟さんは笑顔で手を振り、事務所を出ていった。


 俺はその背中を、実に満足した気分で見送った。


 ……いやあ。


 まさか、こんなにも簡単に成果が出るとは。


 恋愛というものは、案外ちょろいのかもしれない。


 …………。


 おっと。


 失礼。


 ちょろいなどという言葉は、少々品がなかったな。


 訂正しよう。


 恋愛とは、適切な情報と優秀な指導者さえいれば、案外どうにかなるものである!


 ……うむ。


 我ながら、実に素晴らしい結論だ。


     ◇


「啓介!」


「ん?」


 奥から母さんの声がした。


「アンタ、タケさんを追い返したんだって?」


 …………。


 あ。


 バレた。


「いや、追い返したっていうか……」


「さっきタケさんが言ってたよ。重要な商談中だから入るなって、アンタに止められたって」


「……あはは」


「笑ってごまかすんじゃないよ!」


 母さんは呆れたように腰に手を当てた。


「急ぎの用事じゃなかったからよかったけどね。仕事の邪魔になるようなことはするんじゃないよ」


「……はい」


「まったく。何を考えてんだか」


 ……くっ。


 恋愛マスターたるもの、時にはこうした苦難も乗り越えねばならない。


 世の中、成功だけで進めるほど甘くはないということだ。


 しかし。


 俺の心は少しも折れていなかった。


 なぜなら、今日の作戦は成功したからである。


 母さんは楽しそうだった。


 悟さんも嬉しそうだった。


 そして、あの男は俺のことを頼りにしてくれた。


 これ以上、何を望むというのか。


 ……いや、もちろん、最終的には二人に付き合ってもらいたいわけだけど。


 まあ、それはこれからだ。


「……啓介?」


「ん?」


「また変な顔してるよ」


「母さん、俺の顔に厳しすぎない?」


「アンタが変な顔するからだろ」


「生まれつきだったらどうすんだよ!」


「そんな顔に産んだ覚えはないよ!」


 ……なるほど。


 これは褒め言葉として受け取っておくべきなのだろうか。


 いや、たぶん違うな。


     ◇


 その日の夜。


 俺はベッドに寝転がり、昼間の出来事を思い返していた。


 ガーベラの話で盛り上がる二人。


 楽しそうに笑う母さん。


 照れくさそうに礼を言ってきた悟さん。


 ……うむ。


 完璧である。


 初陣にして、見事な勝利。


 これこそ恋愛マスターの名にふさわしい戦果ではないだろうか。


 しかも、悟さんは俺のことを頼りにしてくれるようになった。


 これは大きい。


 俺が母さんの好きなものを教える。


 悟さんがそれを話題にする。


 母さんが喜ぶ。


 悟さんも喜ぶ。


 そして二人の距離が縮まる。


 ……何だ。


 実に簡単な仕組みじゃないか。


 これなら、次もきっとうまくいく。


 何しろ、俺は母さんの息子だ。


 母さんの好みなんて、いくらでも知っている。


 そういえば。


 あの古い万年筆も、最近は随分と調子が悪そうだったな。


 父さんからの誕生日プレゼントだってことは知っている。


 母さんが長く大切に使ってきたことも。


 でも、そろそろ新しいものに替えようかって、本人も言っていた。


 ……まあ、それはそれとして。


 まずは、次に悟さんと会ったときのことを考えるとしよう。


 何を教えてやれば、母さんがもっと喜ぶだろうか。


 好きなもの。


 嬉しいこと。


 行きたい場所。


 考えてみれば、俺にはまだまだ使える情報がある。


 ふっ。


 待ってろよ、篠塚悟。


 この恋愛マスターが、必ずあんたの恋を成就させてやる!


 ……ちなみに。


 俺自身の恋愛については、現在も目処が立っていない。


 …………。


 うるさい!


 それは今、関係ないだろ!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。