第三話「恋愛マスター、始動」
俺は恋愛マスターである。
ちなみに、彼女いない歴は十七年。
つまり、生まれてこの方、一度たりとも恋愛で失敗したことがない。
無敗である。
……何だ、その目は。
勝ったこともないだろうって?
うるさい! 細かいことを気にするな!
世の中には、実際に経験しなくても分かることというものがある。
例えばサッカー。
自分でプロ選手になったことがなくたって、試合を見てああだこうだと語ることはできるだろう。
それと同じだ。
……いや、我ながら少々無理がある気もするが。
とにかく。
そんな恋愛マスターである俺には、現在ひとつの重要な使命がある。
母さんと悟さんの恋を、ほんのちょっと後押ししてやることだ。
……まあ、本人たちには頼まれてないんだけどな。
しかし、何事も最初の一歩が肝心なのである。
この俺がひと肌脱いでやろうではないか!
◇
「……あれ?」
七月に入って間もない、ある日の午後。
中原興業の事務所で、母さんが小さく首を傾げた。
俺はちょうど部活帰りで、冷房の効いた事務所に避難していたところである。
いやあ、文明の利器というものは素晴らしい。
外では蝉が元気よく鳴いているが、俺にはもう少しここで涼むという重大な使命があるのだ。
「どうしたの、母さん」
「いや、またインクが出なくなってね」
母さんは手元のペンを持ち上げた。
万年筆だ。
少し古びた、落ち着いた色合いの一本。
軸には、母さんの名前が刻まれている。
これは、亡くなった父さんが母さんに贈ったものだ。
昔、誕生日のプレゼントにもらったんだと聞いたことがある。
母さんはそれを、今でも仕事で使っている。
「ああ、それ? まだ使ってたんだ」
「まだって何だい。使えるんだから、いいだろ」
「いや、今まさに使えてないじゃん」
「……それもそうだねえ」
母さんは苦笑いしながら、ペン先を確かめた。
「いい加減、新しいのに替えてやろうかしら」
「買えばいいじゃん。父さんからもらったやつだからって、ずっと使わなきゃいけないわけじゃないだろ?」
「……まあね」
母さんは小さく笑った。
「ほら、そこのボールペン貸しておくれ」
「はいよ」
俺が差し出したボールペンを受け取ると、母さんは万年筆のキャップを閉めた。
そして、机の引き出しを開ける。
いつもの場所へ、そっとしまった。
俺はそれを見て、特に不思議には思わなかった。
父さんの贈り物だから、母さんが大切にしていることくらいは分かっている。
でも、万年筆は道具でもある。
古くなって使いにくくなったなら、新しいものに替えたっていいだろう。
何より、母さん自身がそう言っていたんだから。
俺はそれ以上気にせず、椅子の背にもたれかかった。
そのとき。
「ああ、そうだ。啓介」
「ん?」
「アンタ、今日はしばらくここにいるのかい?」
「涼む予定だけど」
「だったら、そこの箱を倉庫に運んでくれない?」
「……母さん」
「何だい?」
「今の俺、休憩中なんだけど」
「若いんだから、箱の一つや二つ運べるだろ」
「休憩中の高校生を労働力として数えるの、どうかと思う」
「だったら、二階で休んでな!」
「……はい」
しまった。
下手なことを言ってしまった。
冷房の効いた事務所に居座る権利を守るため、俺は泣く泣く立ち上がった。
……いや、泣いてはいないが。
それくらいの気持ちだったということである。
◇
それから数日後。
俺は、ついに恋愛マスターとしての第一歩を踏み出すことになった。
その日、中原興業には悟さんが打ち合わせに来る予定だった。
母さんは朝から現場へ出ていたが、午後には事務所へ戻ってくるという。
そして俺は、部活が休みだったため、いつもより早く帰宅していた。
ふっ。
これはもう、運命と言っても過言ではあるまい。
……いや、ただの偶然なんだけど。
まあ、細かいことはいい。
俺は事務所の奥にある花瓶へ目を向けた。
オレンジ色のガーベラが、数本。
母さんが気に入って飾っている花である。
うちの母さんは、意外と花が好きだ。
特に、あのオレンジ色のガーベラ。
買い物のついでに見かけると、ちょくちょく買ってくる。
作業着姿で花束を抱えて帰ってくる母さんは、何とも不思議な光景ではあるのだが。
……まあ、本人が楽しそうだからいいんだけどさ。
さて。
俺は花瓶を眺めながら考えた。
恋愛というものは、まず相手を知ることから始まる。
これは間違いない。
好きな食べ物。
好きな音楽。
好きな花。
そうした情報を手に入れることで、会話の幅は広がっていく。
……ほう。
我ながら、実に的確な分析である。
さすが恋愛マスター。
というわけで。
今日は悟さんに、ちょっとした有益情報を授けてやるとしよう。
◇
「こんにちは。中原社長はいらっしゃいますか?」
午後三時を少し回った頃。
事務所の入り口から、悟さんが顔を出した。
「あっ、悟さん!」
「おや、啓介くん。こんにちは」
「どうもっす!」
相変わらず、きっちりしたスーツ姿。
この暑さの中でも涼しい顔をしている。
……いや、さすがに少し汗はかいているけど。
「中原社長は?」
「奥にいますよ。今ちょうど戻ってきたところです」
「そうなんだ。ありがとう」
悟さんが奥へ向かおうとした、そのとき。
「……あ、悟さん」
「ん?」
俺は、さりげなく花瓶を指さした。
「あの花、知ってます?」
「花?」
「そうそう。あれ」
悟さんが視線を向ける。
「ああ、ガーベラだよね」
「正解っす!」
「はは。そんなに難しい問題じゃないよ」
「いやいや、花の名前を知ってる男はなかなか貴重ですよ」
「そうかな?」
俺は真面目な顔で頷いた。
……まあ、実際に貴重なのかどうかは知らない。
俺だって母さんが好きじゃなければ、ガーベラの名前なんて覚えていなかっただろうし。
「母さん、あの花めちゃくちゃ気に入ってるんすよ」
「へえ、そうなんだ」
「特にオレンジのやつ。見かけるとすぐ買ってきて、事務所に飾るんです」
「そうなんだね」
悟さんは、もう一度ガーベラに目を向けた。
「綺麗な色だね」
「でしょ?」
「うん。覚えておくよ」
……よし。
情報提供、完了。
俺は内心で小さく頷いた。
あとは悟さん次第だ。
この情報をどう使うか。
その腕前、とくと拝見させてもらおうではないか。
「悟さん!」
奥から母さんの声がした。
「ああ、いらっしゃい! 待ってたよ!」
「こんにちは、中原社長。本日もよろしくお願いします」
「こちらこそ!」
二人はいつもの調子で挨拶を交わした。
……うん。
やっぱり、母さんの声は悟さん相手だと少し明るい。
今となっては、俺にもよく分かる。
まったく。
一度気づいてしまうと、何で今まで分からなかったのか不思議なくらいである。
……しかし、今日はそこに突っ込んでいる暇はない。
俺には重要な使命があるのだ。
◇
「おう、啓介」
事務所の入り口から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、タケさんが立っていた。
中原興業のベテラン社員、武さん。
父さんがいた頃から会社を支えてきた、頼れるおっちゃんである。
「お疲れ、タケさん」
「おう。社長いるか?」
「いるよ。悟さんと打ち合わせ中」
「そうか。じゃあ、ちょっと確認したいことが――」
「待った!!」
「……何だよ」
俺はすかさず、タケさんの前に立ちはだかった。
「今はダメ! 後にして!」
「何で?」
「……重要な商談中だから!」
「いつものことだろ」
「今日は特に重要なの!」
タケさんは、俺の顔をじっと見つめた。
「……お前、何か企んでんな?」
失礼な。
企んでいるんじゃない。
未来の中原家のために、環境を整えているのだ。
「別に何も企んでないって!」
「じゃあ、通せよ」
「いや、それはちょっと」
「ほら見ろ」
……くっ。
さすが、長年うちの母さんと一緒に働いてきた男。
なかなか鋭い。
「急ぎの用事?」
「いや、急ぎってほどじゃねえけど」
「じゃあ後でいいじゃん!」
「……まあ、そうだけどよ」
タケさんは呆れたように頭をかいた。
「ったく。社長に怒られても知らねえぞ」
「大丈夫大丈夫!」
「本当かよ」
「任せて!」
「何を任せるんだよ」
……それは秘密である。
タケさんは首を傾げながら、廊下の奥へ歩いていった。
ふっ。
障害排除、成功。
これで二人の打ち合わせを邪魔するものはいない。
……いや、別にタケさんが邪魔者だと言いたいわけではないぞ?
あくまで今日は、ちょっとだけ後回しにしてもらっただけだ。
仕事に支障はない。
問題なし。
恋愛マスターたるもの、職場環境への配慮も忘れないのである。
……我ながら、何を言っているのかよく分からなくなってきたが。
◇
打ち合わせは、いつものように進んでいた。
悟さんが資料を広げ、母さんが内容を確認する。
発注した工具の納期について話し、現場での使用予定をすり合わせる。
相変わらず、仕事の話になると二人とも真面目だ。
母さんは社長として的確に判断し、悟さんも営業マンとして丁寧に対応している。
うむ。
実に良い仕事ぶりである。
……さて。
問題はここからだ。
俺は事務所の隅で、さりげなく二人の様子を見守っていた。
すると、ひととおり仕事の話が終わったところで。
「……そういえば、中原社長」
悟さんが口を開いた。
「ん? 何だい?」
「あのガーベラ、綺麗ですね」
……おっ。
来た。
来ましたよ、皆さん。
ついに来ました!
「あっ、分かる!?」
母さんの顔が、ぱっと明るくなった。
「はい。オレンジ色も、この事務所によく似合っていますね」
「そうなんだよ! あたし、あの色が好きでさ!」
「中原社長が選ばれたんですか?」
「そうそう! この前、買い物に行ったときに見つけてね」
母さんは、嬉しそうに花瓶を見た。
「ほら、うちの事務所って、どうしても殺風景になりがちだろ? だから、こういうのがちょっとあるだけで違うんだよ」
「確かに、雰囲気が明るくなりますね」
「だろう!? あたしもそう思ってさ!」
……ふむ。
良い。
非常に良いぞ。
悟さんも自然に話を広げている。
母さんも実に楽しそうだ。
何より、二人とも笑っている。
……ほほう。
なるほどなるほど。
なかなかやるじゃないか、篠塚悟。
この俺が授けた情報を、見事に活用している。
うむ。
これはもう、作戦成功と言って差し支えあるまい。
俺は心の中で、そっとガッツポーズを決めた。
……まあ、実際には花の話をしただけなんだけどな。
しかし、何事も最初の一歩が肝心なのである。
小さな成功を積み重ねることこそ、大きな成果への近道。
ふっ。
恋愛マスターたるもの、その程度のことは当然心得ている。
◇
それからしばらくして。
打ち合わせを終えた悟さんが、帰り支度を始めた。
「それでは、中原社長。本日はありがとうございました」
「ああ、こちらこそ。悟さん、いつも助かるよ」
「いえ。また何かありましたら、いつでもご連絡ください」
「ありがとう!」
二人は笑顔で挨拶を交わした。
……うん。
実に良い雰囲気である。
我ながら、素晴らしい仕事をしたものだ。
……って、俺が仕事したわけじゃないけど。
すると、悟さんが俺の方へ歩いてきた。
「啓介くん」
「はい?」
「今日はありがとう」
「……へ?」
一瞬、何のことか分からなかった。
しかし、悟さんは事務所の奥にある花瓶へちらりと目を向けた。
「ガーベラのこと。教えてくれて」
「ああ、あれっすか」
「うん。中原社長、すごく楽しそうだったね」
悟さんは、少し照れくさそうに笑った。
……ほう。
これはこれは。
なかなか良い反応ではないか。
「でしょ?」
「うん。本当にありがとう」
「いやいや、全然っすよ!」
俺は余裕たっぷりに答えた。
もちろん、内心では大騒ぎである。
見たか。
見たか、諸君。
これが恋愛マスターの実力というものだ!
たったひとつの情報で、母さんをあんなに楽しそうにさせてしまった。
しかも、悟さんまで喜んでいる。
一石二鳥。
いや、俺の評価まで上がったのだから、一石三鳥と言ってもいいだろう。
「啓介くん」
「はい?」
「また、何か中原社長の好きなものがあったら、教えてくれる?」
…………。
おお。
おおおお。
これは、つまり。
悟さんの方から、俺に情報提供を求めてきたということではないか!
ふむ。
なるほど。
ようやく、この男も俺の有用性に気づいたらしい。
遅いぞ、篠塚悟。
……いや、まあ。
気づいてくれたなら、それでいいんだけどな。
「もちろんっすよ!」
俺は胸を張った。
「母さんのことなら、俺に任せてください!」
「はは。頼もしいね」
「そりゃもう!」
……ふっ。
任せておけ。
俺はあの人の息子だ。
好きなものも、嫌いなものも、大抵のことは知っている。
何しろ、十七年間も一緒に暮らしてきたのだから。
この俺以上に母さんを理解している人間など、そうそういるまい。
「じゃあ、またね。啓介くん」
「うっす! お疲れさまっす!」
悟さんは笑顔で手を振り、事務所を出ていった。
俺はその背中を、実に満足した気分で見送った。
……いやあ。
まさか、こんなにも簡単に成果が出るとは。
恋愛というものは、案外ちょろいのかもしれない。
…………。
おっと。
失礼。
ちょろいなどという言葉は、少々品がなかったな。
訂正しよう。
恋愛とは、適切な情報と優秀な指導者さえいれば、案外どうにかなるものである!
……うむ。
我ながら、実に素晴らしい結論だ。
◇
「啓介!」
「ん?」
奥から母さんの声がした。
「アンタ、タケさんを追い返したんだって?」
…………。
あ。
バレた。
「いや、追い返したっていうか……」
「さっきタケさんが言ってたよ。重要な商談中だから入るなって、アンタに止められたって」
「……あはは」
「笑ってごまかすんじゃないよ!」
母さんは呆れたように腰に手を当てた。
「急ぎの用事じゃなかったからよかったけどね。仕事の邪魔になるようなことはするんじゃないよ」
「……はい」
「まったく。何を考えてんだか」
……くっ。
恋愛マスターたるもの、時にはこうした苦難も乗り越えねばならない。
世の中、成功だけで進めるほど甘くはないということだ。
しかし。
俺の心は少しも折れていなかった。
なぜなら、今日の作戦は成功したからである。
母さんは楽しそうだった。
悟さんも嬉しそうだった。
そして、あの男は俺のことを頼りにしてくれた。
これ以上、何を望むというのか。
……いや、もちろん、最終的には二人に付き合ってもらいたいわけだけど。
まあ、それはこれからだ。
「……啓介?」
「ん?」
「また変な顔してるよ」
「母さん、俺の顔に厳しすぎない?」
「アンタが変な顔するからだろ」
「生まれつきだったらどうすんだよ!」
「そんな顔に産んだ覚えはないよ!」
……なるほど。
これは褒め言葉として受け取っておくべきなのだろうか。
いや、たぶん違うな。
◇
その日の夜。
俺はベッドに寝転がり、昼間の出来事を思い返していた。
ガーベラの話で盛り上がる二人。
楽しそうに笑う母さん。
照れくさそうに礼を言ってきた悟さん。
……うむ。
完璧である。
初陣にして、見事な勝利。
これこそ恋愛マスターの名にふさわしい戦果ではないだろうか。
しかも、悟さんは俺のことを頼りにしてくれるようになった。
これは大きい。
俺が母さんの好きなものを教える。
悟さんがそれを話題にする。
母さんが喜ぶ。
悟さんも喜ぶ。
そして二人の距離が縮まる。
……何だ。
実に簡単な仕組みじゃないか。
これなら、次もきっとうまくいく。
何しろ、俺は母さんの息子だ。
母さんの好みなんて、いくらでも知っている。
そういえば。
あの古い万年筆も、最近は随分と調子が悪そうだったな。
父さんからの誕生日プレゼントだってことは知っている。
母さんが長く大切に使ってきたことも。
でも、そろそろ新しいものに替えようかって、本人も言っていた。
……まあ、それはそれとして。
まずは、次に悟さんと会ったときのことを考えるとしよう。
何を教えてやれば、母さんがもっと喜ぶだろうか。
好きなもの。
嬉しいこと。
行きたい場所。
考えてみれば、俺にはまだまだ使える情報がある。
ふっ。
待ってろよ、篠塚悟。
この恋愛マスターが、必ずあんたの恋を成就させてやる!
……ちなみに。
俺自身の恋愛については、現在も目処が立っていない。
…………。
うるさい!
それは今、関係ないだろ!!




