第二話「母さんの知らない顔」
そんなこんなで、季節は夏になった。
ついこの間まで桜が咲いていたと思ったら、今じゃ外に出るだけで汗が噴き出す。
いやあ、時間が経つのは早いもんである。
ちなみに、我が中原家は今日も平和だ。
朝は母さんの怒号で目を覚まし、学校へ行けば授業と部活に追われ、帰宅すれば再び母さんの怒号が待っている。
実に規則正しい生活である。
……誰か、この生活から怒号だけ取り除く方法を教えてくれないだろうか。
さて。
うちの母さん、中原美由紀。三十六歳。
こちらは相変わらず元気いっぱいだ。
仕事に家事に、俺への説教。
どれもこれも絶好調。
そしてもう一人。
篠塚悟、三十三歳。
いかにも真面目な営業マンです、というツラをしたあの男。
こちらも相変わらず、うちの母さんに惚れている。
……と、まあ。
俺はそう思っていたわけなのだが。
どうやら、ひとつ。
とんでもない見落としをしていたらしい。
◇
「ただいまー」
その日は部活が休みだった。
珍しく早い時間に帰宅した俺は、いつものように一階の事務所へ顔を出した。
外はうだるような暑さだというのに、事務所の中は冷房が効いていて実に快適である。
ああ、生き返る。
「おかえり、啓介」
奥の机から母さんの声がした。
「今日、早いじゃないか」
「部活休み。暑すぎて溶けるかと思ったわ」
「大げさだねえ。あたしなんか朝から現場に出てたんだよ」
「母さんと一緒にすんなよ。あんた、夏になると逆に元気になるタイプだろ」
「何だい、それ」
母さんは笑いながら、机の上の書類を揃えていた。
……ん?
何か、妙だな。
いや。
別に母さんが書類を整理するのは珍しいことじゃない。
仕事に関しては、ああ見えて几帳面な人なのだ。
発注書や工程表の管理もしっかりしているし、必要な資料がどこにあるかも大抵把握している。
ただ。
今日は少し、様子がおかしい。
揃えた書類の角を、もう一度揃え直す。
ペン立てを少し右へずらす。
……と思ったら、今度は左へ戻す。
机の端に小さな汚れを見つけたらしく、布巾でさっと拭く。
さらに、積んでいたファイルの向きを直す。
……。
何だろう。
模様替えでも始めるつもりか?
「……母さん」
「ん?」
「今日、何かあるの?」
「何かって?」
「いや、やけに机片づけてんなと思って」
「お客さんが来るんだから、当たり前だろ」
「ふーん?」
俺は改めて机を見た。
別にいつも汚いわけじゃない。
むしろ、今日は普段より明らかに整っている。
「……今日、お偉いさんでも来んの?」
「お偉いさん?」
「社長とか部長とか、何かそういう偉そうな人」
「あたしも社長なんだけどねえ」
「……あ」
「何だい、その『今気づきました』みたいな顔は」
「いや、母さんを社長として見る機会って意外と少ないなと思って」
「毎日見てるだろうが!」
ごもっともである。
しかし残念ながら、俺の中での母さんは、会社の社長である以前に、脱ぎっぱなしの靴下で息子を裁判にかける人なのだ。
これは仕方ない。
長年の実績というやつである。
「で、誰が来るの?」
「悟さんだよ。今日は打ち合わせがあるからね」
「……ほう」
「何だい?」
「いや、別に」
なるほど。
悟さんか。
……いや、待て。
まだ何も決まったわけじゃないぞ。
取引先の営業マンが来るから机を片づける。
極めて普通のことだ。
社長として当然の心がけである。
そう。
何もおかしくない。
……はずなのだが。
「……っと」
母さんは机の脇に置いてあった小さな鏡に目をやり、ポニーテールの結び目を軽く直した。
さらに作業着の襟元を整える。
そして、また書類を揃え始めた。
…………。
おい。
ちょっと待て。
鏡?
母さんが?
いや、もちろん母さんだって身だしなみくらい気にする。
女性なんだから当然だ。
ただ、俺が普段見ている母さんは、現場に出るときなんか、
『どうせ汗かくんだから、髪なんて邪魔にならなきゃいいんだよ!』
なんて豪快なことを言っている人である。
そんな人が、来客前に髪の結び目を気にしている。
……ふむ。
これは少々、興味深い。
「母さん」
「今度は何だい」
「今日、何かいいことでもあった?」
「はあ?」
「いや、何となく」
「別に何もないよ。ほら、邪魔するなら上に行ってな」
「へいへい」
俺は近くの椅子に腰を下ろした。
もちろん、帰るつもりなどない。
こういうときこそ、冷静な観察が必要なのである。
……何の観察かって?
それはまあ。
まだ秘密にしておこうじゃないか。
◇
それから十分ほど経った頃。
「こんにちは。中原社長、少し早く着いてしまいましたが……」
事務所の入り口から、聞き慣れた声がした。
篠塚悟、登場である。
「あっ、悟さん! いらっしゃい!」
母さんが顔を上げた。
そして、いつもの調子で笑った。
……ん?
今、何か違わなかったか?
「いえ、こちらこそ。お時間を取っていただいてありがとうございます」
「いいんだよ。ちょうど片づけも終わったところだからさ」
「そうでしたか」
「ほら、座って座って!」
……。
うーむ。
何だろう。
別におかしなところはない。
母さんは昔から、悟さんにはこんな感じで接している。
気さくで、明るくて、遠慮がない。
むしろ、気心の知れた仕事相手という表現がぴったりだ。
……ただ。
今、ほんの少しだけ違和感があったんだよな。
「啓介!」
「……へ?」
「アンタ、そこに突っ立ってないでお茶でも出しておくれ!」
「いや、座ってたけど」
「どっちでもいいよ! 早く!」
「へいへい」
まったく、人使いが荒い。
俺は渋々立ち上がり、給湯スペースへ向かった。
その途中。
ふと、気づいた。
…………。
あ。
そういうことか。
俺は思わず振り返った。
母さんは悟さんと向かい合い、書類を広げている。
「それで、悟さん。先日お願いした件なんだけどね」
「はい。今日はそちらの資料をお持ちしました」
「ああ、助かるよ!」
…………。
おいおい。
おいおいおい。
よく聞けば、声のトーンも違うじゃねぇか!!
悟さんには、ほんのワントーン高め。
俺には、いつもの低音大音量。
何だ、この差は。
何という露骨な待遇格差。
息子に対するサービスが雑すぎやしませんかね!?
……いや、待て。
それより重要なのは、こっちだ。
母さん。
あんた、悟さんと話してるとき、ちょっと声が明るくなってないか?
そういえば、前からあんな感じだったような気もする。
俺が今まで気にしていなかっただけで。
……なるほどねえ。
中原美由紀、三十六歳。
アンタ、そんな可愛らしい機能まで搭載してたのかよ。
「啓介ー!」
「はいはい!」
「お茶、まだかい!」
「今やってるって!」
……そして、息子には相変わらず通常営業である。
まったく。
少しはこっちにも優しくしてくれないだろうか。
◇
お茶を運んだあとは、二人の打ち合わせが始まった。
悟さんが持参した資料を広げ、母さんが内容を確認する。
今回の話は、現場で使う工具の納品と、追加発注についてらしい。
「この型番なら、来週の前半には納品できる予定です」
「そうかい。じゃあ、こっちの現場には間に合いそうだね」
「はい。ただ、こちらの数量については少し確認させてください」
「ん?」
「前回の発注分と合わせると、予定より多くなりそうなので」
「ああ、それは別の現場にも回すつもりなんだよ」
「なるほど。それでしたら問題ありません」
ふむふむ。
さすが、仕事中は二人とも真面目である。
母さんは必要なところで質問し、悟さんも一つひとつ丁寧に答える。
曖昧な返事で済ませたり、適当に話を合わせたりはしない。
母さんも、仕事のこととなれば遠慮はない。
「こっちは現場で使いにくいって声が出てるんだよ。もう少し軽いものはないかい?」
「あります。実は今日、別の候補も資料に入れてきました」
「おっ、気が利くねえ!」
「以前、使い勝手を重視したいとおっしゃっていたので」
「そうそう! 現場の連中が毎日使うものだからね」
二人は自然に笑い合った。
……うん。
仕事はきっちりしている。
母さんが悟さんに見とれて、資料の内容が頭に入っていない、なんてことはない。
悟さんも同じだ。
ちゃんと営業マンとして仕事をしている。
むしろ、息が合っている。
……。
息が合っている、か。
俺は事務所の隅で、こっそり二人を眺めた。
母さんが笑う。
悟さんが笑う。
母さんが資料を指さす。
悟さんが身を乗り出して確認する。
どこからどう見ても、普通の仕事風景。
……なのに。
何だろうな。
さっき声の違いに気づいてしまったせいか、妙に気になる。
母さん、あんなに楽しそうに仕事の話してたっけ?
いや、してたな。
うん。
普通にしてたわ。
……駄目だ。
一度気になり始めると、何でも怪しく見えてくる。
これは危険である。
冷静になれ、俺。
お前は今、重要な調査の最中なのだ。
「……啓介」
「ん?」
母さんがこちらを見ていた。
「アンタ、何してんの?」
「……え?」
「さっきからこっち見てるけど」
「いや、別に?」
「暇なら上に行って宿題でもやりな!」
「へーい!」
しまった。
観察対象に気づかれてしまった。
俺としたことが、痛恨のミスである。
これ以上は不自然なので、俺は大人しく二階へ上がることにした。
……まあ、いい。
今のところ、決定的な証拠はない。
だが、なかなか興味深いものを見せてもらった。
◇
それからしばらくして。
事務所での打ち合わせが終わったらしく、悟さんが帰っていった。
俺はちょうど飲み物を取りに一階へ降りていたので、再び母さんと顔を合わせることになった。
「おっ、終わった?」
「ああ。今帰ったところだよ」
「ふーん」
「何だい?」
「いや、別に」
母さんは書類を片づけながら、いつものように椅子へ腰を下ろした。
……さて。
ここでひとつ、試してみるとしよう。
「なあ、母さん」
「何だい?」
「悟さんってさ、仕事できるよな」
「ああ、そうだね」
即答だった。
「結構頼りにしてんの?」
「そりゃそうだよ。仕事も丁寧だし、こっちの事情もよく分かってくれてるからね」
「へえ」
「それに、あの人はちゃんと自分の考えを持ってるんだよ」
「……ん?」
母さんは、手元の書類を揃えながら続けた。
「ただ言われたことをやるだけじゃない。おかしいと思ったら、相手が誰だろうとちゃんと言える」
「ふーん」
「そういうところは、立派だと思うよ」
……ほう。
何だか、随分と具体的ですねえ。
母さんが仕事相手を褒めること自体は珍しくない。
タケさんのことだって、しょっちゅう頼りにしていると言っている。
ただ。
今のは、少し違う気がした。
仕事ができる。
納品が早い。
対応が丁寧。
そういう話だけじゃない。
悟さんという人間そのものを、褒めている。
しかも、どこか嬉しそうに。
「……母さん」
「ん?」
「悟さんのこと、結構よく見てんだな」
「そりゃ、何年も仕事してるんだからね」
「まあ、そうだけど」
「あの人、最初から今みたいに上手に付き合えてたわけじゃないんだよ」
「へえ?」
母さんは、ふっと笑った。
「前にさ、元請けとちょっと揉めたことがあってね」
「元請け?」
「工事の工程のことで、無茶なことを言われたのさ。あたしは危ないから駄目だって断ったんだけど、悟さんも一緒になって意見してくれてね」
「へえ。いい人じゃん」
「まあね。ただ、あのときはあたしも頭にきてたからさ。余計な口出しするんじゃないって、悟さんにも怒っちまったんだよ」
「……悟さんに?」
「そうだよ」
……マジか。
あの温厚そうな悟さんに、母さんの雷が落ちたことがあるらしい。
想像しただけで気の毒である。
「でもさ、あの人、あとでちゃんと謝りに来たんだよ。口を出しすぎたことは悪かったって」
「ふーん」
「そのうえで、自分が言ったことは間違ってないと思うってさ」
「……へえ」
「なかなか言えるもんじゃないよ。取引先の社長に、そんなこと」
母さんは、少し懐かしそうに笑った。
「それからも色々動いてくれてね。おかげで、今もあそこと仕事ができてるんだ」
「そうだったんだ」
「ああ。あの人は、ちゃんと筋を通す人なんだよ」
……。
なるほど。
悟さん。
あんた、なかなかやるじゃないか。
母さんに怒られても、自分が正しいと思ったことは曲げなかったわけだ。
しかも、そのあともきちんと仕事をした。
うむ。
好感度、さらに上昇である。
……って。
いや、待てよ。
今、重要なのはそこじゃない。
母さんだ。
何だ、この語りっぷりは。
俺がちょっと話を振っただけなのに、ずいぶん色々教えてくれるじゃねえか。
しかも。
……何だか、楽しそうなんだよな。
「……ふーん」
「何だい?」
「いやあ、悟さんっていい人なんだなと思って」
「そうだね。あたしもそう思うよ」
母さんはあっさり頷いた。
そして、口元に小さな笑みを浮かべた。
…………。
おいおいおい。
これは。
これは、ひょっとして。
「……啓介?」
「ん?」
「アンタ、何でまたニヤニヤしてんだい」
「してないけど?」
「してるよ。気持ち悪いねえ」
「母さん、人の顔に厳しすぎない?」
「変なこと考えてないで、そろそろ宿題やりな!」
「へいへい!」
まったく。
息子に対する扱いは最後まで雑である。
だが。
そんなことは、もうどうでもいい。
俺は今、とんでもない事実に気づいてしまったかもしれないのだから。
◇
その日の夜。
夕飯を終え、部屋に戻った俺は、ベッドに寝転がって天井を見上げていた。
頭の中では、昼間の光景が何度も繰り返されている。
母さんが、いつも以上に机を片づけていた。
髪型を気にしていた。
作業着の襟元まで整えていた。
そして。
悟さんがやってきた瞬間、声がワントーン上がった。
……いやあ。
何度思い返しても、あれは面白かった。
悟さんには、
『あっ、悟さん! いらっしゃい!』
俺には、
『啓介! お茶出しておくれ!』
である。
何だ、この違いは。
同じ人間が発している声とは思えない。
……まあ、母さんが元気なのはいつものことなんだけど。
問題は、その理由だ。
あの人、別に来客相手なら誰にでもあんな声を出すわけじゃない。
タケさんが戻ってきたって、いつもどおりだ。
他の取引先の人が来ても、あそこまで明るくなることは珍しい。
悟さんだから、なのか?
……。
俺は起き上がった。
ちょっと待て。
そもそも、悟さんが母さんに惚れているのは分かっている。
あの人の視線。
妙な気遣い。
タケさんとの関係を気にしていた、あの分かりやすい態度。
間違いない。
しかし。
今日の母さんの様子はどうだ?
悟さんが来る前から、妙に身だしなみを気にしていた。
訪問した瞬間、嬉しそうに迎えた。
声のトーンまで上がった。
そして帰ったあと。
あの男のことを、やたらと具体的に褒めていた。
仕事ができるだけじゃない。
自分の考えを持っている。
筋を通す。
相手が誰でも、間違っていることは間違っていると言える。
……。
……おい。
待て待て。
これって。
もしかしなくても。
両想いじゃねえか!!
俺は思わずベッドの上で膝を打った。
いやあ、盲点だった。
完全に盲点だった!
悟さんが母さんに惚れていることばかり気にしていて、肝心の母さんの方を見落としていたとは!
何たる不覚!
しかし、思い返してみれば納得である。
そういや、前に悟さんが来たときも、母さんは普通に楽しそうに話していた。
俺はあれを、長年付き合いのある仕事相手だからだと思っていた。
……いや、それも間違いじゃないんだろうけど。
そこに別の気持ちが混ざっていたとしても、おかしくないわけだ。
なるほどねえ。
いやあ、なるほどなるほど。
俺は腕を組み、ひとり頷いた。
中原美由紀、三十六歳。
仕事一筋。
息子一筋。
朝から晩まで怒鳴ってばかりの、我が家の絶対的支配者。
そんな母さんが。
まさか、恋をしているとは。
……ふっ。
何だか、妙に面白い。
いや、別に笑いものにしたいわけじゃないぞ?
むしろ、嬉しい。
あの母さんにも、そんな一面があったんだなと思うと。
それにしても。
悟さんが母さんに惚れている。
母さんも、どうやら悟さんに惚れている。
なのに。
あの二人、相変わらず仕事相手のままである。
…………。
何だこれ。
両想いなのに?
何年も付き合いがあるのに?
仕事ではあんなに息が合っているのに?
……どうして付き合ってないんだ?
俺はしばらく考えた。
そして、ひとつの結論に至る。
……ああ。
なるほど。
そういうことか。
この二人。
恋愛に関しては、揃いも揃って不器用なんじゃねえか?
悟さんは、いかにも真面目な営業マン。
母さんは、仕事と俺のことばかり考えて生きてきた人。
うむ。
あり得る。
大いにあり得るぞ。
だとすると。
これは、ひょっとして。
あと一押し。
ほんのちょっと、背中を押してやるだけで、どうにかなるんじゃなかろうか。
…………。
ふむ。
俺は再び腕を組んだ。
いや、待てよ。
別に俺が何かする必要なんてない。
二人ともいい大人なんだ。
放っておけば、そのうち勝手にどうにかなるかもしれない。
……。
でもなあ。
あの二人だぞ?
悟さんは真面目すぎるし、母さんはあの調子だし。
何年も何も起きてないんだから、この先だって怪しいもんだ。
…………。
ふむ。
これは。
ひょっとすると。
この俺の出番なのでは?




