第一話「母さんを孕ませたい」
母さんを孕ませたい。
あんなに綺麗で、スタイル抜群のイイ女を遊ばせておくなんて、もったいないにもほどがある。
…………。
え?
いやいやいや! 待ってくれ!
誤解だ! 今のは完全に説明不足だった!
俺は別に、母さんとどうにかなりたいとか、そういう話をしているんじゃない!
断じて違う!!
そもそも、あんな口うるさ……いや、しっかりした女性、俺には荷が重すぎる!
朝は起こされ、夜は風呂に入れと急かされ、脱いだ靴下ひとつで雷が落ちる。
そんな相手と恋愛?
冗談じゃない。俺の平穏な生活が危ない。
じゃあ何が言いたいのかって?
簡単な話だ。
母さんにだって、もう一度恋をしてほしい。
ただ、それだけなのである。
……いや、だから何でまだ疑わしそうな顔してんだよ!
ちゃんと説明するから、最後まで聞いてくれって!
まずは自己紹介からだな。
俺の名前は中原啓介。十七歳。高校三年生。
サッカー部所属。成績は中の中。運動神経も、まあ人並み。
顔については自分で評価するのも何なので、そこは皆さんの想像にお任せしよう。
ちなみに彼女はいない。
……今、その情報いらなかっただろ。
そして、問題の母さん。
中原美由紀、三十六歳。
十九歳で俺を産み、二十四歳のときに父さんを亡くした。
以来、十二年間。
女手一つで俺を育てながら、小さな建設会社まで切り盛りしている。
しかも、これがまた美人なのだ。
金髪を後ろで束ねたポニーテール。日に焼けた健康的な肌。すらりとした手足に、女性らしいメリハリのある体つき。
黙っていれば、そこらの若い姉ちゃんにも負けないと思う。
黙っていれば、だが。
何しろ、口を開けば――
「啓介ぇ!! アンタ、いつまで寝ぼけてんだい!!」
……この調子である。
どうだ。
俺の言いたいことが、少しは分かっていただけただろうか。
◇
「啓介! 聞こえてんのかい!」
「聞こえてるって!」
「聞こえてんなら返事しな!」
「今しただろ!」
春の朝。
我が中原家には、今日も実に清々しい怒号が響き渡っていた。
中原家は、父さんが建てた二階建ての建物の二階にある。
一階は建設会社『中原興業』の事務所。二階が俺たちの住まいだ。
つまり、自宅から職場まで徒歩ゼロ分。
母さんにとっては最高の立地だろう。
俺にとっては、逃げ場がないという重大な欠点を抱えた物件である。
「アンタ、昨日脱いだ靴下、また洗濯籠に入れてなかっただろ!」
「それは昨日の俺がやったことだから」
「何だい、昨日の俺って!」
「今日の俺はまだ何もしてない。無罪だ」
「昨日のアンタも今日のアンタも、同じ啓介だろうが!」
「異議あり!」
「却下!!」
はい。
今日も俺の全面敗訴である。
テーブルには、焼き鮭と卵焼き、味噌汁、それから山盛りの白米。
朝からしっかり食え、という母さんの方針だ。
サッカー部に入ってからは、さらに飯の量が増えた。
ありがたい。
ありがたいのだが。
「母さん、米多くね?」
「アンタ、昨日も腹減ったって騒いでたじゃないか」
「いや、そうだけど」
「だったら食べな!」
「俺は相撲部屋に入門した覚えはないんだけど」
「口動かす暇があったら箸動かしな!」
まったく。
この人と口喧嘩して勝てる日が、いつか俺に訪れるのだろうか。
ちなみに、母さんは朝から仕事着である。
黒を基調に黄色のラインが入った作業服。
腰には道具を提げるためのベルト。首にはタオル。
いかにも現場の人間です、という格好だ。
これで職人たちに混じって足場を確認したり、資材を運んだり、時には重機の手配までやっている。
母さんは会社の社長だ。
だが、社長室で偉そうにふんぞり返っている姿なんて、俺はほとんど見たことがない。
現場が忙しければ自分も出る。
人手が足りなければ真っ先に動く。
だから社員たちにも慕われている。
……まあ、怒らせると怖いから従っている可能性も否定できないが。
そんなことを考えていると、テーブルの端に置かれていた母さんのスマホが鳴った。
「はい、中原です!」
母さんは箸を置いて電話に出る。
「……ああ、タケさん。おはよう。どうしたんだい?」
相手はタケさんらしい。
武さん。
父さんがいた頃から会社で働いている、ベテランの社員だ。
俺も小さい頃から世話になっているので、名前よりタケさんという呼び方の方がしっくりくる。
「……何? 昨日の現場?」
母さんの表情が変わった。
「ちょっと待って。そこ、まだ足場の確認が済んでないだろ?」
声の調子は変わらず大きい。
けれど、さっきまで靴下のことで俺を叱っていたときとは、明らかに違っていた。
「駄目だよ。予定が押してるからって先に上がらせるんじゃない。確認が済むまで作業は止めときな」
相手が何か説明しているらしい。
母さんは黙って聞いていたが、やがてきっぱりと言った。
「納期のことなら、あたしから先方に話すよ。タケさんは現場を見てて。何かあったらすぐ連絡ちょうだい」
電話が切れる。
「……ったく。何でも急がせりゃいいってもんじゃないんだから」
「何かあったの?」
「ちょっとね。昨日の現場で確認が必要なところがあるのさ」
「ふーん」
「ふーん、じゃないよ。アンタも部活で怪我しないように気をつけな」
「何で俺の話になるんだよ」
「危ないことには変わりないだろ」
「サッカーと建設現場を一緒にすんなって」
「怪我してからじゃ遅いってことだよ」
そう言って、母さんは俺の茶碗に残っていた鮭を指さした。
「ほら。食べな」
「へいへい」
……こういうところは、昔から変わらない。
父さんが亡くなってから、母さんはずっと会社を守ってきた。
それと同時に、俺のことも。
仕事がどれだけ忙しくても、朝飯を抜かせたことはほとんどない。
学校行事にも、できる限り顔を出してくれた。
もちろん、そのたびに妙に張り切るので、俺としては少々迷惑だったりもしたが。
中学校の卒業式なんて、本人の俺より泣いてたからな。
俺、あのとき普通に引いたぞ。
……まあ、嬉しくなかったとは言わないけど。
「啓介!」
「今度は何!?」
「時計!」
壁を見る。
「……げっ!」
「だからさっきから言ってんだろ!」
しまった。
母さんを紹介している場合ではなかった。
このままでは遅刻する。
俺は残っていた飯をかき込み、鞄をひっつかんだ。
「行ってきます!」
「車に気をつけなよ!」
「分かってるって!」
「あっ、啓介!」
「まだ何!?」
「今日、帰り遅いのかい?」
「部活あるから、いつもくらい!」
「分かった。夕飯までには帰っておいで!」
「へーい!」
玄関を飛び出す。
階段を駆け下りる途中、ふと思った。
……あの人、ああ見えてまだ三十六なんだよな。
俺を産んだのが十九歳だったから、当然といえば当然なのだが。
同級生の母親たちと比べても、かなり若い。
しかも美人。
仕事もできる。
料理もできる。
ちょっと口は悪いが、性格だって決して悪くない。
なのに、俺の知る限り、父さんが亡くなってから一度も恋人を作っていない。
実にもったいない話である。
……もっとも。
そんな母さんを、最近やたらと気にしている男が一人いるのだが。
◇
「ただいまー」
放課後。
部活を終えて帰宅した俺は、一階の事務所に顔を出した。
中原興業の事務所は、それほど広くない。
社員用の机がいくつか並び、壁には工程表と現場の写真。
棚には書類のファイルがぎっしり詰まっている。
奥にある少し大きな机が、母さんの席だ。
社長席というより、単に書類が一番たくさん載っている席、と言った方が正しい気もする。
「ああ、おかえり啓介」
奥から母さんの声がした。
「部活、どうだった?」
「普通」
「普通って何だい」
「普通は普通だろ」
「アンタねえ、もうちょっと――」
「ああ、啓介くん。おかえり」
そこへ、別の声が割って入った。
振り向く。
きっちりとしたスーツ。
整えられた髪。
穏やかな表情。
そして、いかにも『私は真面目な営業マンです』ってツラをした男。
篠塚悟、三十三歳。
うちの会社と取引のある工具メーカーの営業マンである。
そして。
これがまあ、なんとも分かりやすい男で。
どうやら、うちの母さんに惚れている。
……いやいや。
別に俺の勝手な妄想じゃねえぞ?
ちゃんと根拠があるんだからな。
「悟さん、どうもっす」
「今日も部活だったんだね」
「そうっす。もう足がパンパンで」
「はは。お疲れさま」
悟さんは、俺に対してもいつもこんな調子だ。
取引先の社長の息子だからといって、妙にへりくだったりしない。
かといって、子ども扱いして適当にあしらうこともない。
これが実に好ましい。
大人の中には、高校生というだけで偉そうに人生を語りたがる人種がいる。
あれは何なんだろうな。
こっちはサッカーの試合の話をしているのに、気づけば「社会に出たらな」から始まる説教を聞かされていたりする。
大変迷惑である。
その点、悟さんは違う。
普通に話してくれる。
しかも、サッカーの話が通じる。
これは大きい。
男としての評価が三割増しになる重要項目だ。
……まあ、そんな話はさておき。
この悟さんが母さんに惚れていると俺が確信したのは、数日前のことだった。
◇
その日も、俺は事務所で悟さんと話していた。
仕事を終えた悟さんが、帰り際に少し雑談していったのだ。
話題はいつものサッカーから、いつの間にか中原興業の社員のことへ移っていた。
「そういえば、啓介くん」
「はい?」
「さっき中原社長と話していた、年配の方って……」
「ああ、タケさんっすか?」
「そうそう。ずいぶん長く勤めていらっしゃるんだね」
「父さんがいた頃からっすよ。もう大ベテランです」
「そうなんだ」
「母さんもめっちゃ頼りにしてますよ。昔っからの付き合いなんで」
「……へえ」
そのときだった。
悟さんが、ちらりと事務所の奥を見た。
そこには母さんとタケさんがいた。
二人して図面を覗き込みながら、何やら話し込んでいる。
母さんが笑うと、タケさんも豪快に笑った。
まあ、いつもの光景だ。
タケさんは俺が小さい頃から知っている、親戚のおじさんみたいな人である。
それを見ていた悟さんが、ぽつりと言った。
「……中原社長も、あの方にはずいぶん気を許しているみたいだね」
「そりゃそうっすよ」
「……そうだよね」
「はい」
「…………」
「…………」
ん?
何だ、この間。
「悟さん?」
「え? ああ、ごめん。何でもないよ」
悟さんはいつもの笑顔に戻った。
……ほう。
なるほどなるほど。
そういうことですか。
俺は内心で、そっと腕を組んだ。
いや、実際に組んだら何か企んでいるのがバレそうだったので、気持ちだけである。
タケさんは母さんにとって、長年一緒に働いてきた頼れる社員。
仕事のことで相談するのも、一緒に笑うのも当たり前だ。
しかし、それを見て妙に気にする男がいる。
ふむ。
これは実に興味深い。
もちろん、それだけで決めつけるほど俺も単純ではない。
悟さんが母さんを見るときの表情や、忙しい母さんにさりげなく気を遣う様子は、前から何度も見ている。
そうした観察結果を総合すると、だ。
結論は一つ。
篠塚悟、母さんに惚れている説。極めて濃厚。
……ふっ。
隠しているつもりだろうが、残念だったな。
この俺の目はごまかせんぞ。
◇
「啓介くん、最近の試合はどう?」
悟さんに尋ねられ、俺の意識は現在へ戻ってきた。
「ああ、相変わらずっすよ」
「相変わらず?」
「レギュラーと補欠の境目を行ったり来たりです」
「そっか。ポジションは変わってない?」
「右サイドです。まあ、最近は左もやらされますけど」
「両方できると起用の幅は広がるよね」
「いやあ、それが。左だと縦に行くのがどうもやりにくくて」
「利き足の関係?」
「そうっす。中に切り込むのはいいんですけど、外へ抜けるときに一瞬迷うんですよね」
「ああ、なるほど」
悟さんは、うんうんと頷いた。
「でも、右と左じゃ見える景色も違うだろうしね」
「そうなんですよ!」
おっ。
分かってくれるじゃないか。
「右なら何となく身体が勝手に動くんすけど、左だと一回考えちゃうんですよね」
「それは慣れもあるんだろうね。試合で使えるようになったら強みになりそうだけど」
「そうなればいいんすけどねえ」
「三年生だし、最後の大会も近いんじゃない?」
「そうなんすよ。だから今、結構必死で」
「そっか」
悟さんは、少しだけ表情を緩めた。
「後悔しないように頑張ってね」
「……うっす!」
いい男である。
実にいい男である。
まず、人の話をちゃんと聞く。
自分の知識をひけらかさない。
そして、サッカーに対する理解がある。
素晴らしい。
ちなみに俺は、悟さんが最初から母さんに惚れていると分かっていたからといって、むやみに応援するつもりはない。
そこはそれ。
母親の恋愛相手となれば、慎重に見極める必要がある。
息子として当然の責務だ。
……何?
お前にそんな権限はないだろうって?
うるさい。
気持ちの問題だ、気持ちの。
「悟さん、そろそろ次の予定じゃなかったかい?」
奥の机から母さんが声をかけた。
「ああ、そうでした。すみません、中原社長。つい話し込んでしまって」
「いいんだよ。啓介の相手なんかさせちゃって、こっちこそ悪かったね」
「いえ、僕も楽しかったので」
「そうかい?」
母さんが笑う。
「まったく、サッカーのことになると、この子は話が長いんだから」
「母さんにだけは言われたくねえ!」
「何だって?」
「何でもありません!」
危ない。
危うく事務所でも全面敗訴するところだった。
悟さんが小さく笑った。
「じゃあ、僕はこれで。中原社長、先ほどの資料は明日までにお送りします」
「ああ、ありがとう。よろしく頼むよ、悟さん」
「はい。啓介くんも、部活頑張ってね」
「ありがとうございます!」
悟さんは俺たちに会釈し、事務所を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺はひとり頷いた。
うむ。
顔は悪くない。
仕事もできる。
礼儀正しい。
話も合う。
何より、俺をガキ扱いしない。
これはなかなかの優良物件ではなかろうか。
少なくとも、母さんの相手として最低限の条件は満たしている。
……いや、待て。
最低限どころか、結構いい線いってる気がするぞ。
まあ、この男になら、母さんを好きになる権利くらい与えてやってもいいだろう。
ありがたく思え、篠塚悟。
……本人が聞いたら、何とも言えない顔をしそうだが。
◇
「……アンタ、何ニヤニヤしてんだい」
「へ?」
声の方を見ると、母さんがこちらを怪訝そうに見ていた。
「気持ち悪いねえ。何かいいことでもあったのかい?」
「いや、別に?」
「ふーん?」
母さんは、あまり興味もなさそうに机へ戻った。
俺は近くの椅子に腰掛ける。
「なあ、母さん」
「何だい?」
「悟さんって、結構いい人だよな」
「ああ、そうだね」
母さんは書類に目を落としたまま答えた。
「仕事も丁寧だし、こっちが頼んだこともきちんとやってくれる。ありがたいよ」
「ふーん」
「何だい?」
「いや、別に」
「変な子だねえ」
それだけ言って、母さんは再び仕事に戻った。
……うん。
いつもの母さんだ。
悟さんの話をしたところで、特別な反応はない。
褒めてはいるが、それだって取引先の営業マンとしての話だ。
うーむ。
難しい。
俺は椅子の背にもたれかかった。
母さんは父さんが亡くなってから、ずっと仕事と俺のことで忙しかった。
恋人ができたなんて話は聞いたことがない。
そもそも、恋愛の話自体をほとんどしない。
いや、考えてみれば当たり前か。
息子に向かって「最近ちょっと気になる人がいてさ」なんて相談してくる母親も、そうそういないだろう。
少なくとも、うちの母さんは絶対にしない。
「啓介」
「ん?」
「暇なら、そこの段ボール畳んでおいてくれるかい?」
「えー」
「えー、じゃないよ。座ってるだけなら手伝いな」
「俺、今部活から帰ってきたばっかなんだけど」
「だったら早く上に行ってシャワー浴びな!」
「どっちだよ!」
まったく。
色気もへったくれもない。
これで本当に恋愛なんてできるのだろうか、うちの母さんは。
……いや。
別に母さんが恋愛に向いていないと言いたいわけじゃない。
ただ、想像がつかないのだ。
誰かと手を繋いだり。
デートに出かけたり。
好きな男の前で、ちょっと緊張したり。
そういう母さんの姿が。
「啓介! 聞いてんのかい!」
「あーもう! 今やるって!」
俺は立ち上がり、段ボールをひとつ手に取った。
そして、改めて考える。
篠塚悟。
あの男が母さんに惚れているのは、まあ、ほぼ間違いない。
人柄だって悪くない。
むしろ、俺としては結構気に入っている。
となれば。
問題は、ひとつだけだ。
母さんは、あの男をどう思っているんだろう?
……。
いや、俺に聞かれても困るぞ?
なにしろ、あの人は俺の母さんであって、恋愛相談をしてくる女子高生じゃねえんだから。
まあ、いい。
ひとまず、しばらく様子を見るとしよう。
どうせ母さんのことだ。
仕事でも恋愛でも、何かあればすぐ顔に出るに違いない。
……たぶん。
それにしても。
母さんに惚れる男が現れるなんてなあ。
いや、あれだけのイイ女なんだから、当然といえば当然か。
俺は段ボールを畳みながら、こっそり笑った。
まったく。
うちの母さんも、なかなか罪な女である。




