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第五話「母さんの幸せ」

「アンタ、悟さんに……何を話した?」


 母さんの声は、ひどく小さかった。


 玄関には、外の蒸し暑い空気がまだ残っている。


 俺は、目の前に立つ母さんを見つめた。


「……何って?」


「万年筆のことだよ」


「……ああ」


 ようやく、話がつながった。


「話したけど……それがどうかした?」


 その瞬間。


 母さんが、ぎゅっと唇を結んだ。


「……父さんからもらったものだって、知ってるよね?」


「知ってるよ。だから、悟さんにもそう言った」


「……花火大会で贈ってもらったことも?」


「うん」


「…………」


 母さんは俯いた。


 しばらく、何も言わなかった。


 ……何だ?


 どうしたんだよ。


 俺は、胸の奥が妙にざわつくのを感じていた。


「……啓介」


「……何?」


「どうして、そんなことまで悟さんに話したんだい?」


「どうしてって……」


 俺は、少し戸惑った。


「今日、母さんの誕生日だったじゃん。だから、何かプレゼントしたらどうかって」


「……プレゼント?」


「うん。万年筆、最近調子悪いって言ってただろ? だったら、新しいのをもらったら嬉しいかなって」


「…………」


「だから、悟さんに勧めたんだよ。名前入りのやつ」


 そこまで説明して。


 ようやく、俺は気づいた。


 母さんの手には、何もない。


 悟さんから贈られたはずの万年筆も。


 小さな紙袋も。


「……母さん?」


 母さんが、ゆっくり顔を上げた。


「……何で」


 声が震えていた。


「何で、アタシの思い出を……アンタが勝手に決めるんだい?」


「……え?」


「父さんとの思い出だよ。アタシが大事にしてきたものなんだよ」


「……それは分かってるけど」


「分かってないよ」


 母さんは、静かに言った。


「……分かってないから、そんなことができるんだろ」


 その言葉が、胸に刺さった。


 俺は、思わず言い返した。


「でもさ! 母さん、自分で新しいのに替えようかなって言ってたじゃん!」


「……言ったよ」


「だったら、何が悪いんだよ!」


「それとこれとは違うんだよ!」


 母さんの声が、少し大きくなった。


 いつもの怒鳴り声とは違った。


 職人たちに注意するときの、腹の底から響く声でもない。


 何かを必死にこらえているような声だった。


「……あの万年筆はね」


 母さんは、ゆっくりと言葉を続けた。


「父さんが、アタシにくれたものなんだよ」


「……知ってるって」


「名前を入れてくれてさ。あの人、そういうことするの、あんまり得意じゃなかったくせに」


 母さんは、少しだけ笑った。


 でも、その笑顔はすぐに消えた。


「……あの日、花火を見ながら渡してくれたんだ」


「…………」


「アタシ、嬉しかったよ。すごく」


 俺は、何も言えなかった。


「古くなったからって、使えなくなったからって……あの日のことまで、なくなるわけじゃないんだよ」


「……そんなの、分かってるよ」


「だったら……」


 母さんが顔を上げた。


 目が、また潤んでいた。


「だったら、どうしてアタシに何も聞かずに、悟さんに話したんだい?」


「……それは」


 答えが出てこなかった。


 だって。


 俺は、本当に喜んでほしかっただけなんだ。


 母さんに。


 悟さんに。


 二人に、笑ってほしかっただけなのに。


     ◇


「……アタシはね」


 母さんが、ぽつりと言った。


「今日、楽しかったんだよ」


「…………」


「悟さんと花火を見て、焼きそば食べて、くだらない話をしてさ」


 母さんは、少しだけ視線を落とした。


「……本当に、楽しかった」


 その声を聞いて、俺は少しだけ安心しかけた。


 ……ほら。


 やっぱり。


 悟さんとの花火大会は、うまくいったんじゃないか。


 だったら――


「でもね」


 母さんの言葉が、俺の考えを遮った。


「アタシは、悟さんと新しい思い出を作りたかったんだよ」


「……新しい?」


「父さんとの思い出を、忘れたいわけじゃない。そんなこと、できるはずないだろ」


「…………」


「でも、悟さんと過ごす今日は……今日だけのものにしたかったんだ」


 母さんは、両手をぎゅっと握った。


「それなのに、あの日と同じ花火を見て、同じように名前入りの万年筆をもらって……」


「……母さん」


「悟さんが悪い人じゃないのは分かってる。喜ばせようとしてくれたんだってことも」


 母さんは、小さく首を振った。


「……でも、受け取れなかった」


 俺は、ようやく理解し始めていた。


 母さんが怒っている理由。


 泣いて帰ってきた理由。


 それは、万年筆が気に入らなかったからじゃない。


 悟さんが嫌いになったからでもない。


 俺が、母さんの大切な思い出を、母さんの知らないところで勝手に使ってしまったからだ。


 ……でも。


「……俺だってさ」


 気づけば、口が動いていた。


「俺だって、母さんに喜んでほしかったんだよ」


「……啓介」


「父さんが死んでから、ずっと仕事ばっかでさ。俺のことばっか考えてさ」


 声が、少し大きくなる。


「母さん、自分のこと全然考えてないじゃん!」


「そんなことは……」


「あるだろ!」


 俺は、思わず叫んでいた。


「朝から晩まで働いて、休みの日だって会社のこと気にして! 俺が何か欲しいって言えば、自分のこと後回しにして!」


「……啓介」


「俺、ずっと思ってたんだよ!」


 母さんは、何も言わなかった。


 ただ、俺を見ていた。


「母さんだって、もっと遊んだり、好きなことしたりしていいじゃん! 誰かと付き合ったっていいじゃん!」


「…………」


「俺は、母さんが幸せそうにしてるところを見たいんだよ!」


 気づけば、喉の奥が熱くなっていた。


 情けない。


 母さんを泣かせておいて、今度は自分まで泣きそうになるなんて。


 ……でも。


 止まらなかった。


「母さんが俺の幸せを願ってるのは知ってるよ! 俺は母さんの幸せ願っちゃダメなのかよ!!」


 言い終えた瞬間。


 玄関が、静かになった。


 外からは、遠くを走る車の音が聞こえる。


 母さんは、しばらく俺を見つめていた。


 そして、ゆっくり口を開いた。


「……願ってくれるのは、嬉しいよ」


「…………」


「アンタがそんなふうに思ってくれてたなんて……アタシ、知らなかった」


 母さんは、少しだけ笑おうとした。


 でも、うまく笑えなかった。


「……ありがとうね、啓介」


「……だったら」


「でもね」


 母さんは、まっすぐ俺を見た。


「アタシの幸せは、アタシに決めさせておくれ」


「…………」


 何も、言えなかった。


 ……そうだよな。


 母さんだって、一人の人間だ。


 俺が喜ばせたいからって、俺の考えたとおりに喜ぶとは限らない。


 そんな当たり前のことを。


 俺は、今まで分かっていなかったのかもしれない。


「……分かった」


 俺は、それだけ答えた。


 母さんは小さく頷いた。


 それから俺は、何も言わずに二階へ上がった。


 自分の部屋の扉を閉める。


 ベッドに腰を下ろす。


 ……最悪だ。


 今日、母さんは誕生日だったのに。


 俺は、あの人を泣かせてしまった。


     ◇


 ガーベラのときは、うまくいった。


 母さんの好きな花を悟さんに教えたら、二人は楽しそうに話していた。


 だから、今回も大丈夫だと思った。


 好きなものを教えればいい。


 喜ぶものを贈ってもらえばいい。


 それだけで、母さんは笑ってくれると思っていた。


 ……でも。


 花と、父さんの万年筆は、同じじゃなかったんだ。


 父さんからの贈り物だってことは知っていた。


 母さんが大切にしていることも。


 だけど、それがどんな気持ちで大切にされてきたのかなんて、俺には分からなかった。


 ……いや。


 分かろうともしていなかったのかもしれない。


 母さんのことなら、何でも知っているつもりだった。


 十七年間、一緒に暮らしてきたんだから。


 好きな食べ物も。


 嫌いなものも。


 怒るときの顔も。


 笑うときの声も。


 ……でも。


 母さんが父さんと花火を見た日の気持ちなんて、俺は知らない。


 知らないのに、知っているつもりになっていた。


 俺は、ベッドに仰向けになった。


 天井を見つめる。


 ……どうすりゃいいんだよ。


 謝りたい。


 ちゃんと謝らなきゃいけない。


 でも、今さら何て言えばいい?


 俺は、しばらくそのまま動けなかった。


     ◇


 時計を見ると、もう日付が変わろうとしていた。


 喉が渇いた。


 それを理由に、俺は部屋を出た。


 階段を下りると、台所の明かりがついている。


 ……母さん、まだ起きてるのか。


 そっと覗く。


 母さんは、テーブルに座っていた。


 目の前には、缶ビールが一本。


 半分ほど残っている。


 ……珍しい。


 母さんは酒が飲めないわけじゃないけど、家で一人飲むことはあまりない。


 特に、こんな夜中に。


「……母さん」


 声をかけると、母さんが顔を上げた。


「……啓介」


「……まだ起きてたんだ」


「まあね」


 気まずい。


 非常に気まずい。


 俺は、とりあえず冷蔵庫へ向かった。


 麦茶でも飲んで、さっさと部屋へ戻ろう。


 そう思った、そのとき。


「啓介、少し話そうか」


 母さんの声がした。


 俺は、冷蔵庫の扉にかけた手を止めた。


「……うん」


 コップに麦茶を注ぎ、母さんの向かいに座る。


 しばらく、何も言えなかった。


 母さんも、黙っていた。


 テーブルの上の缶ビールから、小さな水滴が落ちる。


 俺は、その水滴を眺めていた。


「……母さん」


「ん?」


「……ごめん」


 ようやく、声が出た。


「父さんの万年筆のこと、勝手に悟さんに話して」


「…………」


「母さんが喜ぶと思ったんだけど……俺、ちゃんと考えてなかった」


 母さんは、黙って聞いていた。


「……母さんの大事な思い出なのにさ」


「……うん」


「ごめん」


 もう一度、謝った。


 それ以外に、何を言えばいいのか分からなかった。


 しばらくして。


 母さんが、ふうっと息を吐いた。


「……アタシも、怒りすぎたね」


「……いや」


「アンタが悪気でやったんじゃないことくらい、分かってるよ」


「…………」


「……ただ、びっくりしちまってさ」


 母さんは、缶ビールを見つめた。


「悟さんが万年筆を出したとき、頭の中が真っ白になっちまったんだよ」


「……うん」


「せっかく、楽しい夜だったのにねえ」


 その声には、少しだけ悔しさが混じっていた。


「……ごめん」


「もういいよ」


 母さんは顔を上げた。


「ちゃんと謝ってくれたんだから」


「……うん」


「それにね」


 母さんが、少し笑った。


「アタシの幸せを考えてくれてたんだろ?」


「……まあ」


「ありがとうね、啓介」


 ……ああ。


 反則だろ、それ。


 あんなに怒ってたくせに。


 あんなに泣いてたくせに。


 最後には、ありがとうなんて言うんだから。


 俺は、何だか余計に申し訳なくなってしまった。


     ◇


「……悟さんはね」


 母さんが、ぽつりと言った。


「良い人だよ」


「……うん」


「真面目で、仕事にも一生懸命でさ。ちょっと不器用なところもあるけど」


 母さんは、小さく笑った。


「……アタシには、もったいないくらい」


 …………。


 ほう。


 ……いや。


 今は、茶化すところじゃないな。


 俺は、黙って続きを待った。


「……こんなこと、アンタに話すのは小っ恥ずかしいんだけどね」


 母さんは、缶ビールを両手で包んだ。


「今日ね、花火を見ながら思ったんだよ」


「……何を?」


「……また、こういう時間があってもいいのかなって」


「…………」


「仕事のことも、会社のことも、何も考えずにさ。ただ、誰かと一緒に綺麗なもの見て、笑って……」


 母さんは、少しだけ俯いた。


「……そんな時間、あってもいいのかなって」


「……いいじゃん」


 俺は、思わず答えていた。


「別に、いいに決まってるだろ」


「……そうかい?」


「うん」


 母さんが、少し笑った。


 でも、その笑顔はどこか寂しそうだった。


「……啓介」


「ん?」


 母さんは、しばらく迷うように黙っていた。


 そして。


「父さんは、こんなアタシの気持ち……許してくれるかな」


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


 ……ああ。


 そうか。


 母さんは、ずっと考えていたんだ。


 自分が誰かを好きになること。


 父さん以外の男と、一緒に笑うこと。


 そんなことをしていいのか、って。


 俺には、父さんが今どう思っているかなんて分からない。


 亡くなった人の気持ちを、勝手に決めつけることはできない。


 ……でも。


「……許すよ。きっと」


 俺は、そう答えた。


 母さんが顔を上げる。


「……そう思うかい?」


「うん」


 俺は、少しだけ考えてから続けた。


「だって父さん、母さんのこと大好きだったんだろ?」


「……うん」


「だったらさ。母さんがずっと一人でいる方が嬉しいなんて、思わないんじゃないかな」


「…………」


「母さんが笑ってたら、父さんだって嬉しいと思うよ」


 母さんは、しばらく俺を見つめていた。


 そして。


「……そっか」


 小さく、そう言った。


「……そうだねえ」


 目元が、少し潤んでいた。


 でも、今度は悲しそうじゃなかった。


「……ありがとうね、啓介」


「……うん」


 俺たちは、しばらく黙っていた。


 それでも、不思議と気まずくはなかった。


 やがて母さんが、缶ビールを持ち上げた。


「……いやあ、まさかアンタにこんな話する日が来るとはねえ」


「俺だってびっくりだよ」


「まだまだ子どもだと思ってたんだけどね」


「いや、もう十七歳なんですけど?」


「十七なんて、まだまだ子どもだよ」


「……さっきちょっと大人扱いしてくれたじゃん!」


「それとこれとは別!」


「都合よすぎだろ!」


 母さんが、声を上げて笑った。


 俺も、つられて笑った。


 ……ああ。


 よかった。


 ようやく、いつもの母さんに戻った。


 それが、何より嬉しかった。


     ◇


「啓介! いつまで寝てんだい!」


 翌朝。


 母さんの大声で、俺は叩き起こされた。


 ……いや。


 ちょっと待ってくれ。


 昨日、あんなに感動的な話をしたばっかりだろ?


 もう少し、こう、優しい朝があってもいいんじゃないのか?


「……母さん!」


「何だい!」


「昨日あんな話した翌朝くらい、優しく起こしてくれてもよくない!?」


「昨日は昨日! 今日は今日だよ!」


「切り替え早すぎるだろ!!」


「ほら、さっさと起きな!」


 ……まったく。


 この人には、情緒というものがないのだろうか。


 いや、ある。


 昨日、嫌というほど見せてもらった。


 でも、朝になるとこうである。


 ……うん。


 やっぱり、これがうちの母さんだ。


 俺は布団から起き上がり、大きく伸びをした。


 階下からは、朝食のいい匂いが漂ってくる。


 いつもと変わらない朝。


 ……だけど。


 昨日までとは、少しだけ違って見えた。


     ◇


 それから数日後。


 悟さんから、母さんへ連絡があった。


 仕事の話ではない。


 八月八日のことを、きちんと謝りたい。


 そういう用件だったらしい。


 母さんは、少し迷ったあと、会うことにした。


 場所は、中原興業の事務所。


 仕事が終わり、社員たちも帰ったあとの時間だった。


 ……ちなみに、その場に俺はいない。


 そりゃそうだ。


 俺がいたら、また余計な口を挟みかねないからな。


 ……いや。


 今回は、そういうことじゃない。


 母さんと悟さんの話だ。


 二人にしか決められないことだってある。


 俺は、それをようやく理解した。


     ◇


「……先日は、本当に申し訳ありませんでした」


 悟さんは、深く頭を下げた。


 母さんは、机の向こうに立っていた。


「……悟さん」


「啓介くんから万年筆のことを聞いて……僕は、中原社長に喜んでいただけると思ったんです」


「…………」


「でも、旦那さんとの大切な思い出だったのに。それを僕が、勝手に……」


 悟さんは、顔を上げた。


「本当に、すみませんでした」


 母さんは、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくり息を吐いた。


「……もう怒ってないよ」


「……本当ですか?」


「ああ」


 母さんは、少し困ったように笑った。


「アタシも、あの日はびっくりしちまってさ」


「……はい」


「悟さんが悪気でやったわけじゃないことくらい、分かってるよ」


「…………」


「むしろ、喜ばせようとしてくれたんだろ?」


 悟さんは、小さく頷いた。


「……はい」


「……ありがとうね」


 その言葉に、悟さんが顔を上げた。


「……中原社長」


「でもね」


 母さんは、少しだけ視線を落とした。


「あの万年筆は、アタシにとって特別なものだったんだよ」


「……はい」


「父さん……いや、浩大がね。昔、誕生日に贈ってくれたんだ」


 母さんは、懐かしむように笑った。


「名前なんか入れちゃってさ。あの人、そういうことするの、あんまり得意じゃなかったくせに」


「…………」


「……嬉しかったんだよ」


 悟さんは、黙って聞いていた。


「それから、いろんなことがあってさ」


 母さんは、ゆっくりと言葉を続けた。


「啓介が生まれて、会社が忙しくなって……あの人がいなくなって」


「…………」


「気づけば、十二年だよ」


 母さんは、少し笑った。


「……あっという間だったねえ」


 その笑顔には、いろんなものが混じっていた。


 寂しさも。


 懐かしさも。


 それでも、自分の足でここまで歩いてきたという強さも。


「……アタシはね」


 母さんが言った。


「もう、恋愛なんて関係ないと思ってたんだよ」


 悟さんは、何も言わなかった。


「仕事して、会社を守って、啓介を育てて……それで十分だって」


「…………」


「実際、楽しかったんだよ。大変なこともあったけどね」


 母さんは、少しだけ笑った。


「啓介も大きくなってさ。口ばっかり達者になっちまって」


 悟さんも、小さく笑った。


「……そうですね」


「だからさ」


 母さんは、視線を落とした。


「アタシは、恋愛なんて向いてないんだよ」


「……中原社長」


「今さら誰かを好きになったって、どうしていいのか分かんないしね」


 笑ってみせる。


 いつものように。


 大したことじゃないんだと、自分に言い聞かせるみたいに。


「現場で怒鳴って、仕事して。啓介が元気に育ってくれりゃ、それで十分なんだよ」


 その言葉を聞いたとき。


 悟さんは、何かを決めたように顔を上げた。


「……僕は」


「……ん?」


 母さんが顔を上げる。


 悟さんは、まっすぐに母さんを見つめた。


「僕は、美由紀さんが好きです」


「…………え?」


 母さんが、目を見開いた。


 それもそうだろう。


 悟さんが、初めて母さんを名前で呼んだのだから。


「……悟さん?」


「ずっと、お伝えできずにいました」


「…………」


「仕事でお会いするたびに、中原社長のことをもっと知りたいと思っていました」


 悟さんは、ゆっくりと言葉を続けた。


「仕事に厳しくて、誰よりも社員のことを考えていて。無茶な要求には絶対に折れなくて」


「……そんな、褒めるようなことじゃ……」


「いいえ」


 悟さんは、首を振った。


「僕は、そういう美由紀さんが好きなんです」


 母さんは、何も言えなかった。


「それに……啓介くんのことを話すときの顔も」


「……啓介?」


「はい。いつも、本当に楽しそうに話されますよね」


「……あの子の話なんて、愚痴ばっかりだろ」


「はは。そうですね」


 悟さんは、少し笑った。


「でも、とても大切に思っていることが伝わってきます」


「…………」


「旦那さんとの思い出も、啓介くんとの時間も……何も手放す必要はありません」


 母さんが、ゆっくり顔を上げた。


「僕は、旦那さんの代わりになりたいわけじゃないんです」


「……悟さん」


「ただ、これからの美由紀さんの隣に、僕もいられたらと思っています」


 静かな事務所に、悟さんの声が響いた。


「……僕と、お付き合いしていただけませんか」


「…………」


 母さんは、答えなかった。


 窓の外では、夕暮れの空が少しずつ暗くなっていく。


 机の上には、仕事の書類。


 壁には、翌週の予定表。


 いつもと変わらない、中原興業の事務所。


 だけど。


 母さんにとって、この場所でこんな言葉を聞く日が来るなんて、きっと想像もしていなかっただろう。


 しばらくして。


 母さんが、小さく息を吐いた。


「……参ったねえ」


 その声は、少し震えていた。


「アタシ、そういうの……本当に久しぶりなんだよ」


「……はい」


「何から始めればいいのかも、分かんない」


 母さんは、少しだけ笑った。


「若い頃みたいに、簡単にはいかないかもしれないよ?」


「……それでも構いません」


 悟さんは、迷わず答えた。


 母さんは、その顔をしばらく見つめていた。


 それから、少しだけ頬を赤くした。


「……今さら恋なんて、どうやってすればいいのか分かんないからさ」


 小さく笑う。


「……教えてくれる?」


 悟さんは、目を見開いた。


 そして。


 ゆっくりと、笑った。


「……僕も、あまり得意ではありませんけど」


「……知ってるよ」


 母さんも笑った。


 いつもの、豪快な笑顔ではない。


 少し照れくさそうで。


 それでも、心から嬉しそうな笑顔だった。


 こうして。


 中原美由紀、三十六歳。


 十二年ぶりの恋が、始まった。

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