ベインバルク編 第六話 副次的研究課題(後編)
足湯を出た後、私たちは外套を軽く羽織り、庭園の長椅子へ並んで腰を下ろした。
夜風は先ほどより少し冷たくなっていたが、足湯で温まった身体には心地よい。
庭園の向こうでは、紅葉した楓が風に揺れ、その枝の隙間から幾つもの星が覗いている。谷底へ広がる街の灯りは一層鮮やかになり、白い湯煙の向こうで柔らかく滲んでいた。
私は夫の様子を確かめながら、そっと身体を寄せた。
「……私も、少し、酔ってしまったかもしれません。」
もちろん、私はほとんど酔っていない。
しかし、体温を含め、もう少し間近で状態を確認したかった。
ヴィルヘルムは私の言葉を聞くと、すぐに腕を回してきた。
「……大丈夫ですか?」
「ええ。あなたがいるので。」
私はにっこり笑った。
すると、彼の青い瞳がふっと柔らかくなる。
「……そうですか。」
そして、ぎゅうっと抱きしめられた。
なんだか少し強い。
いや、普段もよく抱擁はしてくれるのだが、今夜は何だか力加減が違う。
いつもならこちらの姿勢や反応を確かめながら優しく腕を回してくるのに、やけに強い。しかも、少し離れようとすると、すぐに抱き寄せられてしまう。離れようにも離れられない。
「……ヴィルヘルム?」
「……はい?」
「少し、近過ぎませんか?」
「……嫌ですか?」
「い、いえ、嫌ではありませんけれど。」
すると、彼は安心したように微笑んだ。
しかし腕の力は緩まない。
私は少し不思議に思いながら、夫の顔を見上げた。
青い瞳が、いつもより少し潤んでいる。
白い頬には仄かな赤みが差し、目元も微かに赤い。長い睫毛が伏せられるたび、普段とは違う甘い表情が浮かんでいた。
おお、これは。
多少身体は窮屈だったが、視覚情報は大変素晴らしい。
私は内心で大いに感動した。
しかし、次に彼が口にした言葉が、予想していたものとは、少し違っていた。
「……レベッカ。」
「はい?」
「……本当は、ずっとこうしていたいんです。」
私は目を瞬かせた。
「……こうして、とは?」
「あなたを抱きしめていたい。……離れたくないんです。」
あまりにも素直な言葉だった。
ヴィルヘルムは少し目を伏せ、私の肩へ頬を寄せた。
「……執務の時間も、本当は嫌なんです。」
「……執務が、ですか?」
「あなたがいないので。」
私は閉口した。
この男。
そんな理由で執務を嫌がっているのか。
国王としては、少々問題のある発言ではないだろうか。
しかし、本人は至って真剣だった。
「……あなたと一緒に仕事ができる日は良いんです。でも、別々の場所にいると……落ち着かなくて。」
「……ヴィルヘルム?」
「あなたの姿が見えないと、時々……また、いなくなってしまうのではないかと思うことがあります。」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥がきゅっと締めつけられるような気がした。
ヴィルヘルムは私の肩へ額を寄せたまま、暫く黙っていた。
私はそっと、彼の背へ腕を回した。
その不安がどこから来るのか、分からないわけではない。
私と彼の関係は、本当に、決して平坦な道のりではなかったから。
今では確かに夫婦となり、リアムもいて、共に幸せな日々を送っている。
それでも、染みついた恐怖が、完全になくなったわけではないのだろう。
「……この間の予算編成の時も。」
ヴィルヘルムがぽつりと続けた。
「一か月以上、夫婦の時間がなくて。」
「え?ええ……。」
「……寝室へ来てもあまり話もせずに眠ってしまわれて。」
「それは、その、朝も早かったので……。」
「……また嫌われてしまったのではないかと、本当に不安になりました。」
私は固まった。
あの時ヴィルヘルムは何の文句も小言も言わなかった。不満があるという様子も、特に見せなかった。
しかし、どうやら本人は、寂しかったらしい。
しかも、かなり。
「あなたがやりたいことを、やると決めたことを邪魔するつもりは本当にありません。しかし……せめて眠る時くらい、抱きしめたままでいさせてほしかったです。」
ヴィルヘルムは少しだけ腕へ力を込めた。
「……眠っている時くらい、私だけのあなたでいてください。」
私は何も言えなくなった。
何ということだろう。
自分の夫が、こんなにも寂しがっていたとは。
もちろん、仕事が忙しかったこと自体を後悔しているわけではない。
今後の為にも必要なことだと思っていたし、あの時は私も本当に精一杯だった。
しかし、だからといって、夫の気持ちへ全く目を向けなくて良かったわけではない。
思い返せば、ヴィルヘルムは何度か私の仕事が一段落するのを待っていたような気がする。
夜遅くまで執務室へ残っていた日も、寝室へ戻れば彼はまだ起きていた。自分もいつもの国政に加えて予算関連の追加業務で疲れているはずなのに、私が来るまで本を読んでわざわざ待っていてくれたこともあった。
私はそれを深く考えず、私を慮って一緒に起きているのかな、くらいにしか思わなかった。
……何ということだ。
私は胸の奥へ広がる罪悪感を覚えながら、そっと夫の頬へ手を添えた。
「ごめんなさい。そんなに寂しい思いをさせていたなんて。」
彼は少し驚いたように顔を上げた。
「……謝らないでください。あなたが頑張っていたのは、知っていますから。」
「それでも、今度からは絶対に気をつけます。忙しい時も、夜は時間を空けるようにこまめに調整しますから。」
ヴィルヘルムの青い瞳が、僅かに揺れた。
「……本当ですか?」
「もちろん。」
「……抱きしめて眠っても?」
「ええ。好きなだけ。」
すると、彼はひどく嬉しそうに微笑んだ。
そして、またぎゅうっと抱きしめてくる。
私は思わず息を詰めた。
重い。愛情が。
ただし今は、物理的にもかなり重い。
何しろこの人は、私より随分背が高く、身体もしっかり鍛えられているのである。普段なら何気なく身体を支えてくれる広い胸や逞しい腕が、今夜ばかりは容赦なく私を包み込んでいた。
私は少し笑いながら、彼の背を優しく撫でた。
……仕方がない。
これは完全に、自業自得である。
夫を酔わせて可愛い姿を見ようとしていただけなのに、思いがけず本音を聞いてしまった。しかも、その内容が予想以上に重い。
いや、愛情が重いこと自体は以前から知っていた。
なにせ十四歳の頃から私を連れて逃げたいと思っていた男である。
もはや今さら驚くことではない。
……ないのだが。
「……ヴィルヘルム。」
「……はい?」
「そんなに、私が好きなのですか?」
思わず尋ねてしまった。
すると彼は顔を上げ、少し不思議そうにこちらを見た。
「……はい。来世でもずっと一緒がいいです。」
あまりにも当然のような返答だった。しかも先ほどの重い話題をしれっと乗せてきた。
私はもちろん言葉を失った。
「……そうですか。」
「……来世は最初から婚約者がいいです。或いは、幼馴染で幼少期から恋人同士など。」
さらに付け加えられた。
何だろう。
この男。
酔うと、遠慮という概念が消えるのだろうか。
私は少々呆れながらも、いつの間にか笑っていた。
この人は、本当に私が好きなのだ。
そして、私も同じくらい彼のことを愛している。こうやって副次的研究をしてしまうくらいには、夫に執着している。
つまるところ、似た者夫婦ということなのだろう。
◇
それから暫く、ヴィルヘルムは私を抱きしめたまま静かにしていた。
私はその背を撫でながら、夜風に揺れる庭園の木々を眺めていたのだが、ふと彼が顔を上げた時、また少し様子が変わっていることに気づいた。
青い瞳が、蕩けるように甘い。
頬にはまだ赤みが残り、目元も少し潤んでいる。
しかし先ほどまでの不安そうな表情は、いつの間にか消えていた。
「……レベッカ。」
「はい?」
「あなたは、とても綺麗ですね。」
私は目を瞬かせた。
「……はい?」
「本当に、綺麗です。」
突然褒められた。
しかも、何の前触れもなく。
「……ヴィルヘルム。急にどうしたのです?」
「好きなので。」
「そ、そうですか。」
「愛しています。」
「……はい。」
「とても、愛しています。」
「……はい、重々承知しています。」
「世界で一番。あなただけです。」
なんだなんだ。どうやらまた状態が変化したらしい。
先ほどまで寂しいと訴えていた夫が、今度はひたすら愛情を表現する生き物になっている。
しかも顔が良い。
とんでもなく顔が良い。
青い瞳を細め、微笑みながら、低い声で好きだの愛しているだのと繰り返してくる。
微かに赤い目元と、抱擁で少し乱れた衣服も含めて、これはもう壮絶に色っぽい。
彼がもし前世でいうホストであれば、すぐに破産者の山ができるに違いない。
これはまずい。
普通に心臓に悪い。
「……私の薔薇。」
ヴィルヘルムが耳元でそっと囁いた。
私は思わず目を見開いた。赤い顔を隠そうと慌てて身を引こうとするも、手も身体も押さえられ、逃げ場がない。
「な、なんです?」
「……私の、太陽。」
握った手はそのままに、美しい顔がじっとこちらを見つめている。
「……ずっと、綺麗だと思っていました。」
ヴィルヘルムは私の顎をそっと掴んで上向かせる。
「初めて会った時から。」
潤んだ青い目は宝石のように美しい。
「今も、ずっと。」
そして、そっと口付けてきた。
最初は頬へ。
次に額へ。
それからこめかみへ。
私は思わず目を瞬かせた。
「……ヴィルヘルム?」
「……はい。」
「ちょっと近過ぎませんか?」
彼は少しだけ首を傾げた。
「……嫌ですか?」
つい先ほども、同じやり取りをした気がする。
「い、いえ。嫌ではありませんけれど。」
すると、花が綻ぶように笑った。
「……では、もう一度。」
私は慌てた。
待ってほしい。
これは。これはまずい。
確かに夫の酔った姿を見たかった。
可愛い姿を見たいとも思っていた。
しかし、こんなにも甘く迫られるとは聞いていない。
しかも、ただ甘えてくるだけではない。普段は私の反応を慎重に確かめ、少しでも照れれば一歩引いてくれる男が、今夜は驚くほど積極的なのである。
ヴィルヘルムは私の頬をそっと撫で、また少しだけ顔を近づけた。
「レベッカ。」
「……はい。」
「愛しています。」
「……はい。」
「可愛い、私の薔薇。」
私は息を詰めた。もう顔が熱くて熱くて仕方ない。顔を覆いたいのに、身体を押さえられていてそれも叶わない。
この男、一体どうしてしまったのだろう。キャラが違う。明らかに普段とキャラが違う。
青い瞳がすぐ近くで細められ、長い睫毛がふわりと伏せられる。次の瞬間、今度は唇が重なった。
短い口付けだった。
けれど、離れた後も彼は私をじっと見つめている。
「……もう一度、良いですか?」
低く熱のこもった声で言われ、背筋が痺れる。いや、規格外の美青年の本気の迫りとは、ここまで心臓に悪いものだったとは。
「……ヴィルヘルム。」
「はい?」
「……今日は、随分積極的ですね。」
「そうですか?」
「そうですよ。」
彼は少し考えた。
そして、何とも幸せそうに微笑んだ。
「……あなたが、大好きなので。」
駄目だ。
全く会話にならない。
私は思わず額を押さえたくなった。
ヴィルヘルムは、どうやら酔うと愛情表現の語彙が極端に偏るらしい。
いや、普段から相当甘いことは言うのだが、今夜はそれが完全に制御不能になっている。
「……レベッカ。」
また呼ばれた。
「はい?」
「……愛しています。あなただけを。永遠に。」
そして、また口付けられた。
今度は先ほどよりずっと長い。
私は思わず彼の肩へ手を置いた。
近い。
非常に近い。
広い胸が身体へ触れ、腕が背へ回る。温かな体温が伝わる。
深くなる口付けの中でそっと目を開くと、伏せられた白い瞼が微かに震え、その下から目の覚めるような青い瞳が覗いた。
金糸のような金髪が、庭園を吹き抜ける夜風に時折さらりと揺れる。
ヴィルヘルムは一度唇を離すと、少しだけ息を整え、また嬉しそうに微笑んだ。
「……綺麗です。」
何度言うのだろう。
いや、嬉しい。
嬉しいのだが。
これはあまりにも心臓に悪い。
私は何とか平静を保とうとしたものの、残念ながら全く上手くいかなかった。
何しろ相手はヴィルヘルムである。
普段から顔が良すぎる男が、少し頬を赤くし、潤んだ青い瞳で、何度も好きだの愛しているだのと囁いてくるのだ。
勝てるわけがない。
私はとうとう真っ赤になって固まった。
するとヴィルヘルムは、そんな私を見て満面の笑みを浮かべた。
「……レベッカ、可愛い。」
「……もう!」
思わず声が出た。
この男。
自分がどれほど反則的なことをしているのか、全く分かっていない。
私は夫の胸へ手を当て、そっと距離を取った。
「ヴィルヘルム、今日はこのくらいにしましょうね。」
彼は少し残念そうに目を伏せた。
「……もう?」
「ええ。あなた、少し酔っていますから。」
「……そうですか?」
「そんな顔しても駄目です。続きはまた今度にしましょう。」
ヴィルヘルムが顔を上げた。
「……今度?」
「ええ。明日でも、明後日でも。」
「……約束ですか?」
「もちろん。」
すると彼は暫く考えた後、ようやく頷いた。
「……分かりました。」
しかし、手だけは離さない。
私はその様子を見ながら、ひそかに思った。
これはもう、酔っているというより、何かの封印が解けているのではないだろうか。
言葉は少しずつ減ってくるのに、身体の距離だけがどんどん近くなっていく。
私へ腕を回し、少し離れようとすれば追いかけるように顔を寄せ、肩へ額を押し当てる。
普段の気品ある振る舞いは僅かに残っているものの、行動だけが妙に素直で、何を考えているのかが手に取るように分かった。
「……ヴィルヘルム。」
「……はい。」
「近いですよ。」
「……レベッカ。」
「はい?」
「……好きです。」
「それは何度も聞きました。」
「……来世でもずっと一緒にいましょうね。」
また抱きしめられた。
今度はさらに強い。
私は夫の背へ腕を回しながら、内心で思った。
何だろう。
これはもう、決して猫ではない。
もっと大きい。
もっと懐いてくる。
もっと抱きついてくる。
そう。
大型犬だ。
しかも、大変美しい大型犬だ。
尻尾が見える。
いや、実際にはないのだが、私には見える。
恐らく今この瞬間、本人に尻尾が生えていたら、凄まじい勢いで振っているに違いない。
私は少し身動きした。
するとヴィルヘルムがすぐに顔を上げる。
「……どこへ?」
「い、いえ、少し姿勢を変えただけです。」
「……そうですか。」
安心したように、また頬を寄せてくる。
可愛い。
非常に可愛い。
だが、重い。
そして、ここで私は本来の目的を思い出した。
そう。そうだった。
猫だ、猫。
今夜はこの美しい男に猫の鳴き真似をさせるのが、私に与えられた重要な課題だった筈。
私はそっと夫の頬へ手を添えた。
「……ヴィルヘルム。」
「……はい?」
「一つ、お願いしても良いですか?」
彼が顔を上げる。
「……もちろん。あなたからのお願いであれば。」
「猫になってみてください。」
沈黙。
ヴィルヘルムは少しぼんやりとした表情のまま、ひどく緩慢な仕草で首を傾げた。
「……猫?」
「ええ。猫です。」
「……どうして?」
おっと。意外にも、ちゃんと疑問を持った。
いや、ここで動じてはならない。
「先日、私が猫になったでしょう?」
「……はい。」
「ですから、今度はあなたの番ですよ?」
ヴィルヘルムは私の言葉に顎に手を当て、目を伏せ、そのまましばらく考えているようだった。
恐らく揺蕩うような思考の中、必死に考えを巡らせようとしているに違いない。
少し幼くも見える仕草も表情も、とてつもなく可愛い。
しかし、ここで終わるわけにはいかないのだ。
「猫の鳴き真似、聞きたいです。お願い、だめですか?」
追撃とばかりに、ヴィルヘルムの胸にそっと頬を寄せ、上目遣いに見上げる。
ヴィルヘルムは固まった。
普段なら、まず応じないような提案である。いつもの彼は私に対しても恥の心を捨てられず、一定の慎みを忘れない。
彼はしばらく困ったように眉を寄せ、何やら真剣に考え込んだ後、じっと私を見つめた。
それから、形の良い唇を戸惑いがちに開く。
「……にゃあ。」
私は固まった。
言った。
今。
確かに言った。
ヴィルヘルムが。
大国の君主が。
あの美しく、知的で、普段は冷淡にも見えるヴィルヘルムが。
「……にゃあ。」
しかも、もう一度言った。
私は今度こそ胸の内で盛大に勝利の鐘を鳴らした。脳内に高らかに勝利のファンファーレが響き渡る。
勝った。
ついに勝った。
あの日、猫になり、夫をちゅーるたわーと呼んだ挙句にゃんにゃんしまくったという、何とも恥ずかしい黒歴史を塗り替えた。
記憶の恥部となっていた一件の雪辱を、私はついに果たしたのである。
私はやった。
とうとう、やり遂げた。
しかも、何という可愛さだろう。
少し赤くなった頬。
潤んだ青い瞳。
長い睫毛。
そして、私の顔を見つめながら、大真面目に猫の鳴き真似をしている。
これは。
これは非常に良い。
私は思わず両手で顔を覆いたくなった。
しかし、勝利の余韻へ浸っていられたのはほんの一瞬だった。
ヴィルヘルムが、またぎゅっと抱きしめてきたのである。
「……レベッカ、喜んでますね、すごく可愛い。」
「はい?」
「……あなたが笑うと、世界が輝いて見える。」
そう言って、私の肩へ頬を擦り寄せる。
そして、髪へ顔を埋める。
少し離れようとすると、また抱き寄せる。
私は少し考えを巡らせた後、そっと尋ねてみた。
「……ヴィルヘルム。あなた、やはり猫ではなく犬なのでは?」
ヴィルヘルムが顔を上げた。
少しだけ考える。
それから、ひどく真面目な顔で答えた。
「……わん。」
私は絶句した。
鳴き声を変えれば良いという問題ではありません。
私は思わず噴き出してしまった。
「……もう、ヴィルヘルム!」
すると彼は、何故か嬉しそうに笑った。
「……レベッカ、また笑った。」
「笑いますよ、それは!」
「……良かった。ずっと笑ってて。」
そして、またぎゅっと抱きしめてくる。
私はもう、笑うしかなかった。
何だろう。
この生き物。
本当に可愛い。
可愛すぎる。
今夜のヴィルヘルムは、完全に規格外である。
私は思わず彼の金髪を撫でた。
すると、気持ち良さそうに目を細め、さらに頬を寄せてくる。
もう。
完全に大型犬である。
私はそっと夫の背へ腕を回し、少しだけ笑った。
……まあ、良い。
猫の鳴き真似には成功した。
ついでに犬の鳴き真似まで聞けた。
研究成果としては、十分すぎるほどである。
しかし。
そろそろ問題が発生していた。
ヴィルヘルムが、とても眠そうなのである。
「……レベッカ。」
ヴィルヘルムが私の肩へ額を預けた。
「はい?」
「……眠いです。」
私は思わず目を瞬かせた。
素直すぎる申告だった。
「……そうですか。」
「……はい。」
「では、そろそろ寝室へ戻りましょうか。」
「……はい。」
返事は良い。
しかし、離れない。動かない。
私は少し困った。
ヴィルヘルムは長身で、身体もしっかり鍛えられている。普段なら私など軽々抱き上げてしまうような男である。
それを今からどうやら、私が寝室まで連れて行かなければならないらしい。
「ヴィルヘルム、立てますか?」
「……はい。」
「では、ゆっくり行きましょうね。」
私は彼の腕へ手を添え、慎重に立ち上がらせた。
ヴィルヘルムは一応、自分の足で立っている。
ただし、何故か私へもたれる様にくっついてくる。これでは一歩進むのにも大仕事だ。
「……ヴィルヘルム。」
「……はい。」
「もう少し離れていただけますか?」
「……嫌です。」
「……嫌です、ではなく。」
「……レベッカ。」
「はい?」
「……そばにいてください。」
ああ、もう。
私は思わず天を仰ぎたくなった。
何という可愛さだろう。
そして物理的にも何という重さだろう。
それでも、何とか彼に歩いてもらいながら客間へ戻る。
途中で侍従が心配そうに声を掛けてきたが、私はひとまず大丈夫だと伝え、水と必要なものだけを用意してもらうことにした。
ヴィルヘルムのこの姿を他人へ見せるのは、少々惜しい。
いや、違う。夫の尊厳を守るためである。
ようやく寝室へ辿り着くと、私はヴィルヘルムを寝台へ座らせ、用意されていた水を差し出した。
「はい、少し飲んでください。」
彼は素直に杯を受け取り、ゆっくりと水を飲んだ。
その様子は何とも真面目で、先ほどまで猫だの犬だのと鳴いていた人間と同一人物とは思えない。
ここまで来れば一安心である。
後は寝かせてしまえば良い。
私は夫の外套を脱がせ、寝具を整え、ようやく一息ついた。
「……さあ、寝ましょうか。」
ヴィルヘルムは少しだけ不安そうな表情で私の方を見遣った。
「……一緒に?」
「もちろんです。」
すると、また心底嬉しそうに微笑む。
ああ、もう。
本当に可愛い。
寝台に身体を預けたヴィルヘルムを見ながら、私も横になる。
その瞬間、腕が伸びてきた。
「……っ」
あっという間に抱きしめられた。
広い胸へ身体を引き寄せられ、腕が背へ回る。ヴィルヘルムはさらに頬を髪へ寄せ、安心したように小さく息を吐いた。
「……レベッカ。」
「はい?」
「……大好きです。」
そう言ったかと思うと、そのまま静かになった。
数秒後。
規則的な息遣いが聞こえてきた。
寝た。
あっという間に寝た。
私は暫く呆然とした。
先ほどまで好きだの愛しているだのと繰り返し、こちらが動くたびに追いかけてきた大型犬が、次は妻を寝台で抱きしめた途端、安心しきってすぐに眠ってしまったのである。
少し冷たい寝台のシーツの上で、重なった身体が温かい。さらりとした金髪が頬へ触れている。
非常に幸せな状況では、ある。
しかし、重い。
そして、まったく身動きが取れない。
私は天井を眺めながら、長い息を吐いた。
これは、想像を遥かに超える研究結果が得られた。
最初は少々顔が赤くなる程度かと思っていたのに、まさかあれほどの感情が次々と溢れてくるとは。
寂しさ、不安、執着、猛烈な愛情表現。そして最後には大型犬。
猫の鳴き真似の取り組みも無事成功した。
しかし、今夜は一体、何度彼に好きだと言われたことだろう。
そして、そのたびにあの美しい顔で、心から嬉しそうに微笑むのである。
これはもう、どう考えても反則ではないだろうか。勝ったはずなのになぜか負けた気さえする。
私は思わず頬を熱くした。
思い返すだけで、少々恥ずかしい。
私はそっと彼の頬へ触れた。
「……私ももっと愛し返さないとね。あなたが不安を感じなくなるくらい、一生かけて。」
小さく呟く。
ヴィルヘルムは眠ったままだった。
私は少し笑い、彼の背へ腕を回した。
これからは、もう少し気をつけよう。
どれほど仕事が忙しくても、せめて眠る時くらいは一緒に過ごし、彼が抱きしめたいと思った時には、素直に応じてあげよう。
そう考えると、今夜の実証検分は単なる意趣返しでは終わらなかったのかもしれない。
もっとも、酒量の限界を探るような真似は、今後は控えた方が良いだろう。
明日の朝、もし体調が悪ければきちんと謝らなければならない。
私はもう一度、眠る夫の顔を眺めた。
いつもよりあどけなく、力が抜けているように見える寝顔。
この姿を見ることができたのだから、今夜の研究には十分な価値があった。
そこまで考えた時、ヴィルヘルムが身じろぎし、私をさらに抱き寄せた。
「……っ」
重い。
本当に重い。
私は思わず呻いた。
しかも、全く離れる気配がない。
私は暫く身動きしようと試みたものの、結局諦めて、夫の胸へ頬を預けた。
まあ、いいか。
これほど安心しきった顔で眠っているヴィルヘルムを見られるのは、なかなかの役得ではないだろうか。
私は小さく笑い、彼の背へもう一度腕を回した。
明日からは、もっとたくさん抱きしめてあげよう。
忙しい時も、疲れている時も、何でもない時も。
この人が寂しくならないように。
そして、いつか酔わずとも、こんなふうに素直に甘えてくれるようになったら嬉しい。
ただ、もう少しだけ、腕の力を緩めてもらえるととても助かるのだけれど。
私はそんなことを考えながら、そっと目を閉じた。
いや、きつい。
やっぱり、ちょっときつい。
そうして私は、大変美しい大型犬に抱きしめられ身動きできないまま、ゆっくりと眠りへ落ちていった。




