ベインバルク編 第五話 副次的研究課題(前編)
ベインバルクへ来て三日目の夜、私は少々緊張していた。
正確には、緊張というよりも高揚感に近い。
何しろ今夜は、以前から密かに計画していた、ある重要な実証検分を実施する予定なのである。その成果次第では、今後の夫婦生活へ大いに役立つ可能性がある。
いや、少なくとも、私個人の精神的充足に関して、極めて大きな成果が期待できるはずだった。
ただし、研究対象となる本人は、まだその事実を知らない。
私は寝台の傍に腰を下ろし、すっかり眠ってしまったリアムの頬へそっと触れた。
今日もリアムは朝から元気いっぱいで、山の道を散策すれば落ち葉や木の実を集め、昼食の席では茸たっぷりの大きなパイに感動し、午後には地元の工房で職人に教えてもらいながら作った木製玩具へ夢中になっていた。
夕方、白鹿宮へ戻ってからも、一昨日もらった木彫りの鹿と鹿の徽章や、今日手に入れた木の実や玩具を並べて何やら物語を作って遊んでいたのだが、夕食を終える頃にはさすがに眠くなったらしく、寝間着へ着替えると自分から寝台に上がり、そのまますぐに小さな寝息を立て始めた。
小さな手は布団の端を握り、柔らかな茶髪が枕の上へ広がっている。
父親譲りの整った顔立ちは、眠っている時には一層天使のようで、長い睫毛が頬へ落とす影まで愛らしい。
私は暫くその寝顔を堪能していたが、ふと時計へ目を向け、慌てて立ち上がった。危ない、美しい顔というものは、時間泥棒だ。無心で眺めている内にいつの間にか時が経っている。
リアムの寝顔へ最後に口付け、付き添いの侍女へ後を頼んでから、私は隣の客間へ続く扉を開けた。
ヴィルヘルムは、窓辺の長椅子に座り、本を手にしていた。
暖炉の仄かな明かりに照らされた客間で、静かに本を読む美青年。それだけで絵になるのが恐ろしい。彼は私が入ってきたことに気づくと、すぐに本を閉じて立ち上がり、嬉しそうに目を細めた。
「リアムはもう眠ったのですか?」
「ええ。今日は山の中で走り回りましたからね、あっという間でした。」
「ここへ来てから、リアムは毎日本当に楽しそうです。もちろん、私もですが。」
ヴィルヘルムはふわりと微笑むと、当然のように私の手を取った。
今夜の彼は昼間の旅装を解き、肌触りの良い生地の室内着を身に着けていた。襟元は少し緩められ、淡い金髪もいつもより自然に下ろされている。
長い睫毛に縁取られた青い瞳がこちらを見つめ、形の良い唇には穏やかな笑みが浮かんでいた。
相変わらず非常に美しい。何だろう、背景に薔薇どころか楽園が見える。
私は一瞬、本来の目的を忘れかけた。
このまま彼と二人で静かに夜景を眺め、温かな足湯へ浸かりながら他愛もない話をするのも、十分に魅力的だ。
むしろ、この美しい夫が自分との時間を楽しみに待っていてくれたのだから、何も企まず、素直にいちゃいちゃして過ごすべきではないだろうか。
そんな考えが脳裏を過ったが、私はすぐに振り払った。
いや、待て。
そもそも、この旅行を思いついたきっかけの一つは、先日の猫事件に対する意趣返しだったはずだ。
私が恥ずかしがる様子を眺めて嬉しそうに笑った彼に、同じ轍を踏ませる。そう決意したのは私だ。
それに、酔ったヴィルヘルムを一度でいいから見てみたい。いつも理知的で、大体澄ました顔をしている彼が、酔ったらどうなるのか。これは私にとって非常に意味のある研究になるに違いないのだ。
内心で腕を組み、私は深く頷いた。
「レベッカ?」
名を呼ばれ、我に返る。
「……はい?」
「何だか、随分楽しそうですね?」
ヴィルヘルムが少し不思議そうに首を傾げている。
私はにっこり笑った。
「ええ。とても。」
「それは良かった。私も、昨日から楽しみにしていたんです。」
あまりにも素直な返答だった。
私は思わず目を瞬かせた。
「……そんなに楽しみにしていらしたのですか?」
「ええ。あなたと二人で、ゆっくり過ごせるのでしょう?」
そう言って、彼は私の手を少しだけ持ち上げ、その指先へ軽く口付けた。細められた青い瞳が、長い金の睫毛の下で宝石のように輝いている。
何だろう。
この人。
本当に何ということだろう。
私は再度、本来の目的を忘れそうになった。
いやいやいや。ここで引き下がるわけにはいかない。せっかくの機会なのだ。
私は胸の内で何度目になるか分からない気合を入れ直し、ヴィルヘルムに手を引かれながら、部屋から続く小さな庭の方へ歩き出した。
今夜こそ、必ず。
この美しい夫の、まだ見たことのない姿を拝んでみせよう。
◇
客室から続く庭園へ出ると、冷たい秋の夜気が頬を撫でた。
昼間のベインバルクは紅葉と湯煙に包まれた明るい街だったが、夜になると、その景色は一変する。
山々の輪郭は深い紺色の闇へ沈み、谷底には家々の窓から漏れる橙色の灯りが、無数の宝石のように散らばっていた。
温泉の湯気は夜の冷え込みによって一層白く濃くなり、その向こうに滲む街の明かりを、柔らかな金色の霞へ変えている。
遠くの鐘楼からは静かな鐘の音が響き、庭園の木々が風に揺れるたび、乾いた葉の擦れ合う音が聞こえてきた。
空を見上げれば、山の上には数えきれないほどの星が瞬き、澄んだ夜気の中で冴え冴えと輝いている。
美しい夜だった。
思わず足を止める。
「……今夜はまた一段と綺麗に見えますね。」
「ええ。今日は空気が澄んでいますから。街の灯りもよく見えますね。」
ヴィルヘルムも私の隣へ立ち、暫く同じ景色を眺めていた。
客間から続く小さな庭園の一角には、白い石で造られた足湯が設けられている。温かな湯が絶えず注がれ、その表面からは細い湯気が立ち上っていた。
石壁と庭木によって周囲からの視線は遮られており、二人で静かに過ごすには申し分ない場所である。
私たちは靴を脱ぎ、用意されていた布で足元を整えると、並んで石の縁へ腰を下ろした。
湯へ足を浸した瞬間、思わずふっと息が漏れる。
少し冷えていた足先へ柔らかな熱が広がり、ふくらはぎまでじんわりと温まっていく。肩へ掛けた厚手の外套が夜風を遮り、下半身から伝わる温かさと頬を撫でる冷たい空気が、心地よい対比を作っていた。
「……これは、気持ち良いですね。」
私は思わず呟いた。
ヴィルヘルムが楽しそうに笑う。
「あなたは本当に温泉がお好きですね。」
「もちろんです。体がじんわり温まって、心まで解れませんか?」
「ええ。確かに、少し落ち着く感じがしますね。」
夫もゆっくりと足を浸し、少しだけ目を細めた。
昨日の温泉では最初何をどう楽しめばよいのか分からない様子だったのに、もうすっかり慣れたらしい。
後ろ手をつき、静かに息を吐いている姿は、確かに普段よりも気を抜いているように見えた。
ヴィルヘルムは暫く夜景を眺めた後、そっと私の手を取り、指を絡ませてきた。長い指がゆっくりと手の甲を撫で、そのまま私の身体を少しだけ引き寄せる。
私からも身を寄せて、肩が触れ合う距離まで近づくと、彼はひどく満足そうに微笑んだ。
「……こうしていると、やはり、何だか不思議ですね。」
「何がです?」
「何も考えなくて良いというのが。」
私は顔を上げた。
ヴィルヘルムは遠くの街へ目を向けている。
「何の懸念も憂慮も抱かず、計略も巡らせず、ただ一日を過ごす。こんなことは、初めてかもしれません。」
「……そうなのですか?」
「ええ。いつもはほぼ無意識に頭で試算を始めてしまうのですが。旅行に来てからは、なんというか。今日も、リアムを追いかけて、あなたに手を引かれ、気づけば一日が終わっていました。」
ヴィルヘルムは、少し困ったような恥ずかしいような顔で、小さく微笑んだ。
「……楽しかったです。とても。」
私は胸の奥がじんわりと温かくなった。
「私もすごく楽しかったです。逃避行ではなく堂々と旅行で遠くへ来られましたね。」
私が悪戯っぽく言いながら見上げると、ヴィルヘルムは目を僅かに見開き、それからふっと笑って目を伏せた。
「はい。きっと、十年前の私に言っても信じられないでしょうね。……あなたに愛されることも、あなたを伴侶として迎えることも、ましてや連れて逃げることさえ、可能性はほぼ零に等しいと考えていましたから。」
「……まあ、色々あり過ぎるくらいありましたからね。」
何か一つでも違っていれば、ここで二人こうしている未来にはならなかっただろう。私達に今あんなに可愛い子供がいることも、本当に奇跡と思える確率に違いない。
そう思うと、確かに不思議だ。実際静かに終わるか、途中で途切れるか、むしろ共にいない未来の道の方が多かったとも思える。
「赤い糸、というものでしょうかね。」
「赤い糸?」
不思議そうな顔をしたヴィルヘルムに、私は少し照れながらも口を開いた。
「最初から結ばれる運命として産まれ、二人が赤い糸のようなもので繋がっていて、どんな困難や障害や距離があっても、最後は必ず一緒になれるという……運命論の恋愛的象徴の一つ、という感じでしょうか。」
「それなら、あると信じたいです。私とあなたの間に、最初から結ばれる運命があったと。」
あまりにも真剣な様子に私は思わず口を噤んだ。
顔に徐々に熱が集まり始める。秋の夜風はこんなにも涼しいというのに、なんだか首元まで熱い。
「……これから先もずっと、あなたと赤い糸で結ばれて、何があっても離れないように。」
いや、急に重い。私は頭の中で僅かに首を傾げた。
「い、いえ、これはただの言い伝えというか、伝説というか……。」
「来世というものがもしあるなら、そこでも一緒になりたいです。絶対に。」
いや、早い早い。執着はさることながら、愛が重い。嬉しいが、非常に重い。
「……ヴィルヘルム、まずは今世をしっかり生きましょう。私たちまだ二十四と二十五ですよ。リアムもまだ四歳ですし。」
「しかし、何事も隠さずしっかり意思表示が必要と学びましたので。」
「……そうですか。」
「レベッカ、愛しています。来世もどうか、私の傍で。」
隣からぎゅっと抱きしめられる。
私は、恥ずかしさやら困惑やら少し複雑な感情を誤魔化すように笑い、彼の肩へそっと身を寄せた。
「私も愛しています。では、もし来世があるなら、また一緒になりましょう。」
「はい。」
ヴィルヘルムはひどく嬉しそうに答えると、私の髪へ軽く口付けた。
私はそのまま暫く、彼の肩へ頬を預けていたが、はっとして身を強張らせる。
危ない。また危なかった。いつものように重すぎる愛に呑まれるところだった。
今夜は大変楽しい研究を行うはずなのに。まだ開始さえしていないのに。なぜかヴィルヘルムは私の返答に満足し、一人言質を取ったとばかり、感動のラストに浸っている気配さえする。
私は胸の内で小さく咳払いし、そっと姿勢を正した。
さて。
そろそろ、本来の目的へ取り掛かるとしよう。
◇
私が侍従へ合図すると、程なくして小さな卓が運ばれてきた。
木製の盆の上には、細身の硝子瓶や小さな陶器の酒器が幾つも並んでいる。
琥珀色の麦の蒸留酒、林檎を使った蒸留酒、樽材や熟成年数の異なる幾種類かの銘柄。
それから軽い口当たりの林檎酒や水、つまみとしてチーズや胡桃、薄く切った燻製肉なども添えられている。
この土地の名産品を楽しむという口実には、もってこいの品揃えに見える。もちろん、ちょうどいい塩梅に見えるように調整した結果だ。
ヴィルヘルムは運ばれてきた盆を見ると、ほんの僅かに目を瞬かせた。
「……お酒、ですか?」
「ええ。せっかくベインバルクへ来たのですから、名産品を少し味わってみようと思いまして。」
「なるほど……。」
ヴィルヘルムはゆっくりと頷いたものの、その表情には微かな戸惑いが浮かんでいた。
私は気づかない振りをした。
この男は、基本的に酒を好んで飲まない。
体質的に弱いというわけではなく、そもそも飲酒そのものへあまり興味がない。
酒の香りや風味については当然ながら詳しいし、外交の席で必要とあれば杯を取ることもある。しかし、わざわざ思考や判断を鈍らせるものを飲むのは非合理だとして、基本的には飲まない。
王宮でも勧めてみたこともあるが、「酒よりもあなたに酔いたい」と美しい顔で微笑まれるものだから、私は二の句が継げぬまま諦めた。
酒を飲むこと自体を楽しむという発想が、彼には薄いのだろう。
しかも今夜の彼は、私と二人で足湯へ入りながら、静かにいちゃいちゃするつもりだったらしい。実際、先ほどまでは随分と嬉しそうにしていたのに、酒器を見た途端、少しだけ困ったような顔になっている。
これはまずい。
私がどうしたものかと研究対象を観察していると、彼は遠慮がちに口を開いた。
「レベッカ。あなたがお酒を楽しむのは良いのですが、私は別に飲まなくても――」
「……ヴィルヘルム。」
私はそっと声を掛けた。
「はい?」
「あなた、また猫に会いたくありませんか?」
ヴィルヘルムが止まった。
「……猫、ですか?」
「ええ。先日、随分お気に召していたでしょう?」
その瞬間、夫の白い頬がじわじわと赤くなっていった。
赤ワイン。猫の真似。ちゅーるたわー。そして、その後のあれやこれや。
ヴィルヘルムは少し目を泳がせると、片手で口元を覆った。
「……あれは、その……。」
「とても可愛らしかったのでしょう?」
「……ええ。」
認めた。
しかも、恥ずかしがりながらも、少々嬉しそうである。
私はにっこり笑った。
「一緒にいるのに一人だけ飲むのは寂しいです。それに、あなたにも、美味しいと思えるお酒が見つかるかもしれませんし。」
ヴィルヘルムは暫く考え込んだ。
青い瞳が酒器へ向けられ、次に私の顔へ戻る。何かを思案しているようだったが、やがて少しだけ困ったように笑った。
「……そうですね。では、少しだけ。」
よし。
私は胸の内で静かに拳を握った。
これで無事、検証の席へ着かせることにはまず成功した。
ヴィルヘルムは私の手をもう一度取り、手の甲へ軽く唇を寄せると、心底嬉しそうに微笑んだ。
恐らく彼の頭の中では、妻と一緒に酒を楽しみ、その後に可愛い猫が現れるという、実に素晴らしい未来が想像されているのだろう。
しかし。
残念だったわね、ヴィルヘルム。
私は美しい夫の顔を眺めながら、胸の内でそっと呟いた。
今夜、猫になるのはあなたよ。
◇
さて。
ここからが本番である。
私は前世で、三十過ぎまで企業戦士ならぬ社畜として働いていた。しかも、決して楽な職場ではなかった。会議、交渉、出張、客先対応、社内調整。そこへ時差もある。欧州は日本時間の夕方頃からの始業であるし、米国とは夜中か早朝しか会議を設定できない。
そういった環境で朝から晩まで働き詰めで、時には日付が変わるまで会社へ残り、翌朝には何事もなかったような顔で出社することも珍しくなかった。
そんな生活の中で身についた技術は数多いが、接待の席を無難に乗り切る能力も、その一つである。
相手の機嫌を損ねず、場の雰囲気を盛り上げ、適度に話題を振りながら、自分は翌日の仕事へ差し障りがないように立ち回る。
上司や取引先が気持ち良く帰宅してくれるよう会話や酒量を調整し、時には相手の顔色から疲れ具合を察して、そろそろお開きにすべきか判断する。
前世では何度、この技術に助けられたことだろう。
特に、翌朝早くから会議があるというのに、酔った上司が妙に機嫌良く二軒目へ行こうと言い出した時など、私の頭脳は凄まじい速度で回転していたものである。
人間、睡眠時間が懸かると必死になる。
そんなわけで、私は今夜、懐かしき社畜時代の経験を大いに活用するつもりだった。
ただし今回の相手は、そこらの上司とは訳が違う。
何しろヴィルヘルムである。
恐ろしく頭が良く、観察眼も鋭く、相手の些細な仕草の変化から思考を読み取ることすらある。大抵の者は、彼の前へ連れて来られた瞬間、九割以上の思惑は読み取られていると覚悟した方が良い。
だが。
この男には、一つだけ大きな弱点がある。
私である。
私は何とも複雑な気持ちで、その事実を噛み締めた。
ヴィルヘルムは、基本的に私からの頼みを断らない。
もちろん政治や安全に関わることであればきちんと意見を言うし、無茶な要求には理路整然と反論する。
しかし、私が何かを楽しそうにしていたり、彼へ甘えるような態度を取ると、途端に判断基準が甘くなるのだ。
そして今夜も。
「ヴィルヘルム、こちらの林檎のお酒、随分香りが良いですよ。」
「そうなのですか?」
「ええ。せっかくですし、一緒に味わってみませんか?」
「……では、少しだけ。」
ほら。
もう杯を手にしている。
私は胸の内でほくそ笑みながら、自分の杯へは軽い林檎酒を注ぎ、夫には同じ林檎でも度数の高い蒸留酒を用意した。
もちろん無理に飲ませるわけではない。私が勧めて、本人が飲むと同意したものだけを飲んでもらい、一緒に酒の香りや風味について会話を楽しむ。
もっとも、私の頭の中では、既に別の計算が始まっていた。
飲酒量、経過時間、顔色、発言内容。
そして、身体接触の頻度。
前世の顧客上司対応で鍛えられた接待力、及び今世の王妃教育で叩き込まれた観察眼。それが、今夜ばかりは夫の酔い方を研究するために総動員される。
二度の人生、何がどこで役に立つか分からないものである。
「……これは、なかなか面白い香りですね。」
ヴィルヘルムが酒杯を傾けながら言った。
「でしょう?樽材の違いで随分変わるそうですよ。」
「こちらは少し甘い香りが強いですね。熟成年数の違いもあるのでしょうか。」
「恐らく。そういえば、石蔵で寝かせたものと湯蔵で寝かせたものでは、風味も変わると聞きました。」
「なるほど。貯蔵温度の違いが影響するのかもしれませんね。」
飲ませ始めてすでに数杯。
まだまだ普通に会話が成立している。
しかも、理路整然とした内容で、いつもと何ら変わりない。
この男、本当に酔うのだろうか。
私は少々不安になってきた。
ヴィルヘルムは丁寧に酒を味わい、香りを確かめ、時折私の感想へ耳を傾けていた。
普段はそれほど酒へ興味を示さない彼だが、こうして幾つかの銘柄を並べてみると学術的興味を惹かれるのか、意外と面白いらしい。
何より、私がとても楽しそうに見えることが嬉しいようだった。
「レベッカ、今夜はいつにも増して上機嫌ですね。」
「ええ。とても。」
「そんなにお酒がお好きでしたか?」
「美味しいものが好きなのです。お酒も料理も、土地ごとに色々違いがありますから。歴史、風土、文化と繋がって、勉強にもなります。」
ヴィルヘルムは私を見詰め、嬉しそうに笑った。
「あなたらしいですね。」
その笑顔があまりにも穏やかだったので、私は一瞬だけ胸が痛んだ。
……いや、待て。
私は別に悪いことをしているわけではない。
夫と一緒に土地の名産品を楽しみながら、少しばかりその反応を観察しているだけである。
そう。ほんの少しばかり。
そうして三十分。横でそっと空いた杯に酒を注ぎながら、私は密かに脳内の記録を更新した。
現時点で外見上の変化なし。言語能力、判断力、記憶力、いずれも正常。瞳孔の反応も普段と変わらず、姿勢も安定している。
この男、まさか「ざる」若しくは「わく」というやつではないだろうか。
肝臓の性能まで規格外とは、神は一体どこまでこの男を贔屓するつもりなのだろう。
私は少々悔しくなりながらも、表向きはにこやかに会話を続けた。
すると、ヴィルヘルムがふと私を見て、僅かに首を傾げた。
「……レベッカ。」
「はい?」
「何か、企んでおいでですか?」
来た。
私は一瞬だけ内心で身構えたが、ここが勝負だ、と気合を入れ直す。
「……なにか、企んでは駄目ですか?」
彼の腕に縋るように胸元を付け、ぐっと身を寄せる。
そして、意味ありげに上目遣いしながら、彼の太腿の辺りをそっと撫でた。
「もう少し酔いたい気分なんです。付き合ってもらえません?」
ヴィルヘルムは固まった。酒にも微動だにしなかった白い頬がじわじわと色づき始める。
「それは、もちろん……。」
伏せられた綺麗な青い瞳がそっと逸らされたところで、私はすかさず彼の杯を新しいものと替えた。
やはり愛とは、実に素晴らしいものである。
時として、人類最高峰の頭脳を持つ男の警戒心すら鈍らせてしまうのだから。
◇
最初の異変に気づいたのは、それから暫く経った頃だった。
先ほどの雰囲気も一旦薄れ、他愛のない話をしていたところで、ヴィルヘルムが酒杯を置き、何気なくこちらへ顔を向けた。
その白い頬にほんの僅かな赤みが差している。
しかも、よく見ると耳の先まで少し赤い。
私はそっと夫の顔を覗き込んだ。
「……ヴィルヘルム?」
「はい?」
「少し顔が赤いですね。」
「……そうですか?」
彼は不思議そうに瞬いて、首を僅かに傾げた。庭園に置かれた燭台の灯りの中、金糸のような髪がさらりと微かに揺れる。
「足湯のせいでしょうか。」
「どうでしょうね?」
私は何気ない調子で答えたが、胸の内では盛大に鐘が鳴り響いていた。
来た。
ついに来た。
しかも、実に良い具合である。
白い頬に淡い赤みが差し、青い瞳は普段より少し柔らかく見える。いつもの冷静な表情も僅かに緩み、私の顔を見るたびに、何とも嬉しそうに微笑んでいた。
可愛い。
非常に可愛い。
私は早速、脳内の調査記録へ追記した。
顔面への軽度の発赤。耳介部にも同様の変化を確認。表情の軟化。笑顔の発生頻度上昇。
実に素晴らしい。
しかし、ここからがさらに興味深かった。
私が何気なく話題を振ると、ヴィルヘルムはいつもよりほんの少しだけ間を置いてから返事をするようになったのである。
普段なら質問を聞き終えるより早く答えが返ってくるような男だ。それが、今は一瞬だけ考え込んでから言葉を選んでいる。
私は思わず目を細めた。
あのヴィルヘルムが。
簡単な返答へも頭を使って考えている。
いや、普段も考えているのだが、こちらにその過程が見えることは滅多にない。
これは非常に貴重である。
「……レベッカ。」
ヴィルヘルムが少し眉を寄せた。
「はい?」
「……少し、妙な感じが。」
「どうしました?」
「考えが……いつもより、まとまりにくい気がします。」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の内で立ち上がった。
来た。
来た来た来た。
常に無意識下で動いてしまい、本人にも止められないような恐ろしく優秀な頭脳の処理が、どうやら僅かながらでも減速しているらしい。
先ほどまでは諦めかけていたが、これはもしかすると、最終目的までなんとか辿り着けるかもしれない。私は思わず横にいる青年をぎゅうっと抱きしめたくなった。
ヴィルヘルムは少し困惑した様子で自分の手元を見下ろし、それから酒杯へ視線を向けた。
「……これは、酔っているのでしょうか。」
「そうかもしれませんね。」
「……そうですか。」
口元に手を当て、また僅かに首を傾げる。いかにも不思議そうな顔で、仕草がやけに可愛い。
私はとうとう笑いそうになった。
この男、本当にここまで酔った経験がないのだろう。普段なら自分の思考や身体の状態を正確に把握しているだけに、少し判断が鈍るというだけで、随分と戸惑っているらしい。
可愛い。
あまりにも可愛い。
しかし、ここで私は一つ、重要なことに気づいた。
ヴィルヘルムは、自分がどの程度酒へ強いのか、正確に把握していない。
普段はほとんど飲まない上に、酔うほど飲んだ経験もない。本人が平気だと思っていても、それが本当に適量なのかは分からないのだ。
私は少しだけ反省した。
いや、そもそも酔わせること自体を目的にしていたのだから、今さらという気もするが、実際に夫が戸惑っている姿を見ると、もう面白がってばかりもいられない。
「ヴィルヘルム、少し休みましょうか。」
「……はい?」
「もうお酒はこのくらいにして。せっかくですし、夜景を眺めながらゆっくりしましょう。」
ヴィルヘルムは少し考えた後、素直に頷いた。
「……そうですね。」
私は侍従へ酒器を片づけるよう頼み、代わりに水と温かな飲み物を用意してもらった。
なお、脳内の記録については継続する。
何しろ、このままでも十分に興味深い状態だ。
私は何とも言えない期待を胸に抱きながら、ヴィルヘルムと一緒に足湯から上がった。




