ベインバルク編 第四話 落ち葉の舟
暫く湯へ浸かっているうちに、ヴィルヘルムも少しずつ肩の力が抜けてきた。
笑い合った後も、初めはどこか姿勢を正し、いつも通り周囲の設備や建築の構造、湯船の作りなどを細かく確認しているような様子だったのだが、やがて石の縁へ背を預け、静かに景色を眺めるようになった。
リアムが湯面へ指をつけて小さな波紋を作ると、その様子を笑いながら眺め、時折その髪を優しく撫でている。
温かい湯の中でまったりとその姿を見ていると何とも言えない幸福感が胸に湧き上がってきた。
いや、幸福感というか、高揚感だろうか。なにせ、目の前に広がる山々の景色よりも美しい絶景が、ここにはある。
私はじっと隣に座る夫を見つめた。
濡れた金髪を後ろへ流したヴィルヘルムは、普段とはまた違った美しさを纏っていた。
長い睫毛には細かな水滴がつき、湯気の向こうで青い瞳が柔らかく輝いている。白い頬には湯の熱で微かな赤みが差し、いつもより少しだけ無防備な表情をしていた。
湯浴み着の上からでも分かる広い肩や、引き締まった腕の線も美しい。長年の鍛錬によって作られた身体なのだろう。余分なものがなく、それでいて力強く、何気ない仕草にすら無駄がない。
私は暫し見惚れてしまった。
おかしい。
やはり神はこの男を造る際、何かとんでもない情熱を注いだのではないだろうか。
しかも、その隣にはリアムがいる。
金の混じる茶髪を濡らし、父親によく似た青い瞳で楽しそうに笑っている。
今はヴィルヘルムと同じように髪を後ろへ撫でつけようとしているらしく、小さな両手で懸命に頭を押さえていた。
「お父様みたい?」
リアムが尋ねた。
ヴィルヘルムは目を細めた。
「はい、同じです。上手にできましたね。」
「やった!」
リアムは嬉しそうに笑い、今度は私の方へ向き直った。
「お母様も!」
「私もですか?」
「うん!いっしょ!」
私は少し考えた。
生憎、私の髪は長い。湯へ入るために高くまとめているので、前髪を上げるくらいだろうか。
「お母様は髪が長いですからね。」
「なんで?」
「……なんで、と言われましても。」
私は思わずヴィルヘルムを見た。
私自身は短くてもいいと思っていた。いや、今でもいいとは思っている。貴族女性は長いのが一般的だが、短いと日々の手入れも楽だし、朝もすぐに整えられる。
しかし。
「短くても、いいですか?」
私の言葉に、ヴィルヘルムは若干逡巡するように視線を逸らした。
「短いのも素敵ですが、その、あなたの髪はとても美しいので……。」
「長い方が好みですか?」
「……はい。」
うむ。大変正直で宜しい。少し気まずげに目を伏せたヴィルヘルムに私は小さく頷いた。
「お父様のために、ながいの?」
リアムの何気ないだろう言葉に、私は咄嗟に返答できず口を噤んだ。
実際その通りなのだが、素直に言うには、髪に関する想いは私の中でも少々複雑だった。
追放された先で半ば意趣返しを含めて切った髪。それを見て表情を無くしたヴィルヘルム。更にその様子に酷く動揺した自分自身。
そして恋人同士になってから渡された木の櫛。どうしても森の家に残していけなかった唯一のもの。
髪一つにあれだけ感情を右往左往させて、今思えば非常に恥ずかしい。
顔に少しずつ熱が集まり始める。
「お母様の髪は、とても綺麗ではありませんか?」
ヴィルヘルムが静かに向けた問いにぱちりと目を瞬かせた後、リアムはぱっと笑顔になった。
「うん!お母様きれい!」
「……ありがとう。」
私は何とか笑顔で答え、息子の濡れた髪を優しく撫でた。
「レベッカは髪も含めてとても綺麗です。もちろん、可愛くもあります。」
ヴィルヘルムが真顔で言い切り、頷いた。
ここでわざわざ追撃の必要があっただろうか。
本当に、美しい人々からの賛辞ほど心臓に悪いものはない。
私は恥ずかしさを誤魔化すように顔を逸らし、庭園の方へ視線を向けた。
赤や黄金色の楓が風に揺れ、細かな葉がひらひらと舞い落ちている。視界の上方には澄んだ青空が広がり、白い湯気がその中へゆっくりと溶けていった。
私は暫く黙って眺めていたが、やがて隣から小さな声がした。
「お父様、はっぱ!」
リアムが浴槽の外を指差している。
庭園の端に設けられた浅い石の水路へ、楓の葉が一枚落ちていた。流れる水に乗ってゆっくりと動き、時折小さな渦へ巻き込まれながら、下流へ運ばれていく。
「おふねみたい!」
リアムは目を輝かせた。
「そうですね。葉っぱの舟ですね。」
ヴィルヘルムが答える。
「どこまでいくの?」
「水路の先まで流れていくかと。」
「ぼくもやりたい!」
息子は嬉しそうに身を乗り出しかけたが、ヴィルヘルムがそっと肩を支えた。
「では、一度湯から上がって、あちらで遊びましょうか。」
「うん!」
私たちは少し休憩することにし、身体を拭いて新しい衣に着替えてから庭園へ出た。
石の水路は温泉の余剰水を流すためのもので、浴槽の外側を緩やかに巡っている。深さはごく浅く、流れも穏やかだった。
周囲には小さな楓の葉が幾枚も落ちており、リアムは早速その中から気に入ったものを選び始めた。
「お母様、これ!」
「とても綺麗な赤い葉ですね。」
「お父様は?」
ヴィルヘルムは少し考え、黄色い葉を一枚拾った。
「では、私はこれを。」
「はっぱのおふね、はやいかな?」
リアムが期待に満ちた顔で尋ねる。
ヴィルヘルムは水路を眺め、何やら流れを確かめるように目を細めた。
「そうですね。粘性応力を考えると、流線としては――」
「ヴィルヘルム。」
「はい?」
「今日は理論より先に遊びましょう。」
彼は一瞬だけ目を瞬かせ、それから、苦笑して手元の葉を見遣った。
「……そうですね。」
ヴィルヘルムとリアムが並んで屈み、それぞれ選んだ葉をそっと水面へ浮かべる。
赤い葉と黄色い葉が、ほとんど同時に流れ始めた。
「がんばれ!」
リアムが声を上げる。
「赤いはっぱ!」
私は息子の隣で笑いながら眺めていたが、ふとヴィルヘルムの表情に気づいた。
妙に真剣に見えた。
何故だろう。
ただ葉っぱを流しているだけなのに、この男、何やら真剣に水面を観察している。
これは確実に流体力学的試算が頭を駆け巡っているに違いない。
私は思わず噴き出しそうになった。
「……ヴィルヘルム。」
「はい?」
「今、少し勝とうとしませんでした?」
彼は一瞬黙った。
「……いえ、別に。」
「本当ですか?」
「……少しだけ。」
認めた。
私は堪えきれず笑ってしまった。
「水路で葉を流しているだけですよ?」
「いえ、その……。」
ヴィルヘルムはばつが悪そうに笑った。
「こういったことは、初めてなので。」
その言葉が、温かいような切ないような複雑な感情を呼び起こした。
勝っても負けても良い、勝敗を特に気にしなくていい小さな戯れ。
きっと彼は今楽しいのだろう。けれど、そう言い切るだけの経験が、あまりにも少ない。
私はその痛みにも似た感情を振り切るようにわざと明るい声を出した。
「では、私も参戦いたします!」
「うん!」
リアムが元気よく答え、新しい葉を拾った。
「お父様も、もういっかい!」
ヴィルヘルムも嬉しそうに頷いた。
それから私たちは、何度も葉っぱの競走をした。
最初はリアムが勝ち、次はヴィルヘルムが勝ち、その次は途中で三枚の葉が重なってしまい、どれが先に着いたのか分からなくなった。リアムはそのたびに大喜びし、負けてもすぐ次の葉を探し始める。
私自身もいつの間にかすっかり夢中になり、赤い葉の方が軽いから流れやすいのではないか、いや形より面積が重要ではないかと、真剣に悩んだ。
前世は完全な文系で、今世の王妃教育にも物理学など含まれていなかった。
勝率を上げ始めたヴィルヘルムに、先ほど感じた僅かな切なさなど忘れ、私は本気で歯噛みした。
◇
十分に遊んだ後、私たちはもう一度湯へ戻ることにした。
今度は先ほどより少しぬるい浴槽へ移り、庭園の景色を眺めながらゆっくり身体を休める。
リアムもしっかり遊んで満足したらしく、父親の隣へちょこんと座り、湯の中で小さな足をゆらゆらと揺らしていた。
私はまた石の縁へ背を預け、長い息を吐いた。
「……こうして家族でお風呂に入るのもいいですね。」
「ええ。本当に。」
ヴィルヘルムも穏やかに答える。
その声を聞きながら、私はふと考えた。
こうして家族三人で湯へ入るというのは、思っていた以上に楽しいものだ。
普段王宮でももちろん湯浴みはしているが、基本的には身体を清潔にするためのもので、こうして時間を掛けて湯へ浸かることはあまりない。
家族三人で入るのも、今日が初めてである。
リアムと一緒に遊び、ヴィルヘルムと他愛もない話をし、時折ただ黙って湯へ浸かる。そんな何でもない時間が、これほど心地よいとは思わなかった。
私は隣の夫を見た。
濡れた金髪を後ろへ流し、青い瞳を細めて庭園を眺めている。
その姿を見ているうちに、私は思いついた。
「ヴィルヘルム。」
「はい?」
「帰っても、時々一緒にお風呂に入りませんか?」
ヴィルヘルムが止まった。
「……はい?」
「広い浴槽でなくても、一緒に入ったら楽しそうです。王宮の浴室なら、湯浴み着を着なくても構いませんし。」
彼は数秒黙った。
それから、少し慎重な口調で尋ねてきた。
「……三人で、ですか?」
「もちろん三人でも良いですし。リアムが寝た後なら、二人でも。」
ヴィルヘルムが絶句した。
白い頬が、じわじわと赤くなっていく。
私は思わず目を瞬かせた。
「……どうしました?」
「いえ、その……。」
ヴィルヘルムは珍しく言葉に詰まり、一度目を伏せた。
「……少々、お待ちください。」
これは。
もしや、照れているのだろうか。
いや、間違いない。
先ほどまで温泉を楽しんでいた美しい夫が、今は私の何気ない提案一つで頬を赤くしている。しかも、まるで想定外の事態へ遭遇したかのように、言葉を選びながら何かを考えている。
何とも可愛い。
私は少しだけ悪戯心が湧いてきた。
「一人用のいつもの浴槽でも、くっついて入れば、そんなに狭く感じないと思いません?」
「……湯浴み着を着ずに、ですか?」
「そんなに驚くことですか?夫婦なのですから、別におかしくないでしょう?」
「……いえ、その、おかしくは、ありませんが。」
夜の夫婦生活も順調そのものなのに、こんなところで照れているのが、彼らしいといえば彼らしい。
「では、決まりですね。」
「……あなたは時々、随分大胆なことを平然と仰いますね。」
ヴィルヘルムの声は低かった。片手で口元を隠し、目線は横へ逸らされている。濡れて少し撫でるように後ろへ流された金髪から落ちた雫が、仄かに赤い首元を伝った。
私はわざとらしく首を傾げた。
「何かまずいことでも想像されたのですか?」
彼は一度目を伏せ、少しだけ恨めし気に言った。
「……そう言われて平静でいられるほど、私はできた人間ではありません。」
私は思わず口元を緩めた。
普段は何でもそつなくこなし、政治も商務も難なく処理するこの男が、妻と一緒に風呂へ入るというだけで、こんなにも狼狽えている。
やはり実に可愛い。
私は少しだけ身体を寄せ、彼の腕へそっと手を添えた。
「では、慣れるまで何度でも入りましょう。」
ヴィルヘルムが息を呑んだ。
白い頬がさらに赤くなる。
私はとうとう笑ってしまった。
「……レベッカ。」
「はい?」
「少し、からかっていませんか?」
「少しだけ。」
私は素直に認めた。
ヴィルヘルムは何とも言えない顔をした後、結局困ったように笑った。
すると、隣でリアムが顔を上げた。
「ぼくもお風呂いっしょ!」
「もちろんですよ、リアム。」
ヴィルヘルムがすぐに息子へ向き直った。
「三人で入りましょうね。」
「やった!」
リアムは大喜びだった。
そして、父親の顔をじっと見つめた後、少し不思議そうに首を傾げた。
「お父様、おみみ赤いよ?」
ヴィルヘルムが止まった。
私は思わず噴き出した。
「……温泉が少し熱いのかも、しれませんね。」
ヴィルヘルムがかなり苦しい言い訳をする。
リアムは自分の耳へ手を当て、それから真面目な顔で答えた。
「でも、ぼくは赤くないよ?」
四歳児、容赦なし。
私はもう笑いが止まらなかった。
ヴィルヘルムは片手で顔を覆い、暫く何かを堪えていたが、やがて諦めたように笑った。
「……そうですね。私だけ、少し熱いのかもしれません。」
「だいじょうぶ?」
「ええ。大丈夫です。」
リアムは安心したように頷いた。
その無邪気な様子がまた可愛らしく、私は思わず息子の頬を撫でた。
この上なく幸せな時間だった。
私たちは暫く三人で笑い合い、それからもう一度ゆっくり湯へ浸かった。
◇
温泉を十分に楽しんだ後、私たちは浴場を出て、休憩用の広間へ向かった。
広い窓からは紅葉した庭園が見え、室内には柔らかな長椅子や低い卓が並んでいる。壁には薬草や花を描いた絵画が飾られ、暖炉には小さな火が入っていた。
湯上がりの身体へ冷たい風が直接当たらないよう工夫されているらしく、室内は心地よい暖かさに保たれている。
卓の上には、山間の牧場で作られたという冷たい牛乳や林檎の果汁、蜂蜜を使った乳菓子、胡桃入りの焼き菓子などが用意されていた。
私はそれを見て、思わず目を輝かせた。
何ということだ。
湯上がりに冷たい牛乳とは。
素晴らしい。よく分かっていらっしゃる。私は深く頷いた。
「リアム、何を飲みますか?」
「りんご!」
即答だった。
私は笑って林檎果汁を注ぎ、リアムへ渡した。
リアムは両手で杯を持ち、一口飲むと目を丸くする。
「おいしい!」
「ゆっくり飲んでくださいね。」
私も冷たい牛乳を口へ運ぶ。
濃厚な甘みが舌へ広がり、温泉で温まった身体へ冷たさが心地よく染み渡っていく。王宮で飲む牛乳よりも少し風味が強く、後味に柔らかな甘さが残る。
「……甘い。」
思わず呟くと、ヴィルヘルムが笑った。
「お気に召しましたか?」
「ええ。温泉上がりの冷たい飲み物は最高です。」
ヴィルヘルムも牛乳を一口飲み、少し感心したように頷いた。
「なるほど。確かに、身体が温まった後だと一層美味しく感じられる気がします。」
私は嬉しくなり、内心胸を張った。
これでまた一つ、温泉の魅力を伝えられた。
それから、目に入った蜂蜜を使った乳菓子を手に取った。
柔らかな生地の中には甘さを抑えたクリームが詰められ、上にはとろりとした濃い琥珀色の蜂蜜が乗せられている。
口へ運ぶと、しっとりとした生地と滑らかなクリームが溶け合い、蜂蜜の優しい甘さが広がった。
「おいしい!」
リアムも小さな口へ運び、嬉しそうに頬を緩めている。
ヴィルヘルムはそんな私たちを眺めながら、そっと庭園の景色へ目線を流した。
「温泉へ来るというのは、こういう過ごし方なのですね。」
そう言って、また少し不思議そうに微笑む。
「湯へ入って、景色を眺めて、遊んで、こうして美味しいものを食べる。何も特別なことをしていないのに、昨日に引き続き、随分と充実している気がします。」
その言葉を聞いて、私は胸の奥が温かくなった。
「楽しかったですか?」
尋ねると、ヴィルヘルムはすぐに頷いた。
「ええ。楽しかったです。想像していたより、ずっと。入れば分かるとあなたが仰った意味が分かりました。」
彼が「楽しい」と口にする回数が、旅行へ来てから確実に増えている。
昨日は屋台で食べ歩き、街を観光して、今日は温泉へ浸かり、家族で葉っぱの競走までした。
それだけで、私は来た甲斐があったと思えた。
「では、また来ましょうね。」
何気なく言うと、ヴィルヘルムが少し驚いたようにこちらを見た。
「……また、ですか?」
「ええ。来年でも、再来年でも。もちろん他の温泉地でも良いですよ。」
彼は暫く黙っていた。
それから、ひどく嬉しそうに微笑んだ。
「……そうですね。また来ましょう。」
その返事が、何だかとても嬉しかった。
◇
白鹿宮へ戻る頃には、リアムはすっかり遊び疲れていた。
温泉の後、周辺の観光でも走り回っていたから当たり前かもしれない。
昨日に続き、帰路の途中でヴィルヘルムに抱き上げられたリアムは、父親の肩へ頬を預けたまま、時折小さく欠伸をしていた。
それでも白鹿宮へ到着すると、今日見たものを侍従たちへ報告することだけは忘れなかった。
「おんせん、あったかかった!」
「それは良かったですね、殿下。」
「お父様と、はっぱであそんだ!」
「まあ、そうでございましたか。」
「ぼく、かった!」
リアムは胸を張った。
実際には勝ったり負けたりしていたはずだが、どうやらリアムの記憶の中では、自分が勝ったことが最も重要らしい。
「ええ。リアムはとても上手でしたよ。」
ヴィルヘルムが優しく言うと、リアムは満面の笑みを浮かべた。
ああ、もう。
なんて可愛いのだろう。
私はリアムの頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめた。
その後は少し休憩を取り、夕食をいただくことになった。
今夜の食卓には、ベインバルク周辺の山村の伝統料理が並んでいた。
香草と一緒に焼いた大きな川魚は皮が香ばしく、身はふっくらと柔らかい。鹿肉を煮込んだ濃厚なシチューには焼きたての黒麦パンが添えられ、さらに林檎と牛乳を使った甘い飲料が食後に用意されていた。
私は今日一日で随分食べたはずなのに、どういうわけか夕食もしっかり美味しくいただいてしまった。
食事を終える頃には、リアムのまぶたがすっかり重くなっていた。
まだ起きていたい気持ちはあるらしく、今日の出来事を何度も話していたが、とうとう我慢できなくなったようで、小さな欠伸を繰り返し始める。
「リアム、そろそろ寝ましょうか。」
「……まだ、あそぶ。」
「明日もたくさん遊べますよ。」
「……あしたも?」
「ええ。明日も。」
ヴィルヘルムが優しく答えると、リアムは安心したように頷いた。
「……また、おんせん行こうね。」
「もちろんです。」
「……お父様も?」
「ええ。私も一緒に行きます。」
「……お母様も?」
「もちろんです。」
三人で一緒に、ということを確かめたかったのだろう。リアムは満足そうに笑うと、ヴィルヘルムへ抱きついた。
寝室へ連れて行き、寝間着へ着替えさせる頃には、もうほとんど目が閉じかけていた。
それでも最後に私たち二人へ口付けを求め、父親と母親の頬へそれぞれ小さな唇を押し当てると、安心したように布団へ潜り込んだ。
愛らしいにも程がある。
私は暫く寝顔を眺め、そっと頬を撫でた。
本当に楽しい一日だった。
ヴィルヘルムも息子の寝顔を眺めながら、静かに目元を和らげていた。
「……よく眠っていますね。」
「ええ。今日も随分遊びましたから。」
「そうですね。」
彼は小さく笑った。
「私も、少し疲れました。」
私は思わず顔を上げた。
珍しい。
ヴィルヘルムが自分から疲れたと言うなど、滅多にないことである。
「大丈夫ですか?」
「ええ。充実した疲れ、というものでしょうか。」
彼は柔らかく微笑んだ。
「……こういう疲れ方も、良いものですね。」
私は嬉しくなり、そっと彼の腕へ手を添えた。
「……また明日も、たくさん遊びましょうね。」
「ええ。今から楽しみです。」
ヴィルヘルムはそう答えると、私の額へ軽く口付けた。
私は微笑みながら、腕に添えていた手を滑らせて、彼の手を握った。
◇
リアムが眠った後、私たちは二人で客間へ戻った。
夜のベインバルクは、昼間とはまた違う美しさを見せていた。
大きな窓の向こうには、暗く沈んだ山々の輪郭が浮かび、その麓には無数の灯りが宝石のように散らばっている。
白い湯煙がその光を柔らかく滲ませ、谷全体が淡い金色の霧に包まれているようだった。遠くからは鐘の音が微かに響き、夜風に揺れる木々の葉擦れが、静かな客間の中へ届いている。
私は窓辺へ近づき、小さく息を吐いた。
「……綺麗。」
ヴィルヘルムも隣へ立ち、同じ景色を眺めた。
「やはり王都の夜とは随分違いますね。」
「そうですね。王都は広い星空のようですけど、ここは何だか、街全体が灯りの海みたい。」
私は暫く黙って眺めた後、ふと客間から庭園へ続く扉へ目を向けた。
そこには、白い石で造られた小さな足湯がある。
温泉水が絶えず注がれ、夜の冷たい空気の中で、ほのかな湯気を立てていた。
周囲には低い石壁が巡らされ、外からの視線が入らないよう工夫されている。近くには木製の長椅子も置かれ、夜景を眺めながらゆっくり過ごせるようになっていた。
私は静かに目を細めた。
ふむ。これは大変良さそうな場所である。
この旅行で成そうと思っていた研究について、私はそっと思考を巡らせた。
秋の夜風は少し冷たいが、足元を温めながら景色を眺めれば、さぞ気持ちが良いだろう。二人きりで静かに過ごすには、きっと申し分ない場所だ。
「ヴィルヘルム。明日の夜、リアムが寝た後に、あちらの足湯へ一緒に入りませんか?」
ヴィルヘルムが少し驚いたようにこちらを見た。
「足湯ですか?」
「ええ。せっかくですし、夜景を眺めながらゆっくり過ごすのも良いと思うのです。」
彼は窓の外へ目を向けた。
白い湯気の立ち上る足湯。
その向こうに広がる、灯りに包まれたベインバルクの街並み。
暫く眺めた後、ヴィルヘルムは柔らかく微笑んだ。
「……良いですね。ぜひ。」
「本当ですか?」
「ええ。私も、あなたとゆっくり過ごせるなら嬉しいです。」
素直に夫婦水入らずの時間を期待する返事に、喜びと同時に、若干の罪悪感が込み上げる。
いや、しかしこれも研究のため。それも、世界的にもかなり重要な研究と言えるに違いない。
なにせ国宝級の美青年の猫真似など、需要しかないではないか。観測者も研究成果の帰属先も妻一人であることは置いておいて。
「では、約束ですね。」
「ええ。」
ヴィルヘルムは微笑んだ。
その顔があまりにも美しく、私は思わず胸の内で拳を握った。
内心の企みなど微塵も感じさせない顔で、彼の手をそっと握る。
「明日の夜も、楽しみですね。」
彼は私の手を握り返し、ひどく穏やかに微笑んだ。
「ええ。とても。」
その返事を聞きながら、私はもう一度、窓の向こうへ広がる夜のベインバルクを眺めた。
白い湯煙の向こうで無数の灯りが揺れ、遠くの山々は静かな夜の闇へ沈んでいる。温泉水の流れる音が微かに聞こえ、冷たい秋風が庭園の木々を揺らしていた。
明日の夜はこの景色を見ながら足湯に入る。
私は思わず口元を緩めた。
いや、主目的はもちろん、夫と二人この美しい夜景を楽しむためである。
副次的研究は、あくまで副次的なものだ。夫を猫にすることが主目的なわけがない。決して。
私は隣にいる美しい夫を眺め、大変素晴らしい想像に満足しながら微笑んだ。




