ベインバルク編 第三話 はじめての温泉
ベインバルクへ来て二日目の朝、私は窓の外から聞こえてくる鳥の声で目を覚ました。
王宮の寝室とは違い、白鹿宮の客間には重厚な天蓋も豪奢な装飾もない。
代わりに、壁や天井へ惜しみなく使われた木材が見た目にも柔らかな温もりを添え、暖炉の傍には綺麗な刺繍が施された厚手の絨毯が敷かれている。
昨晩は遠くから響く川のせせらぎに耳を澄ませながら眠った。そして今朝はこうして秋の小鳥の囀りと街の鐘楼の微かな鐘の音で目覚める。
いつもと違う、慣れない場所での覚醒。
これぞ旅行という感覚に、一気に活力が漲る。
寝台から身体を起こして窓辺へ近づくと、谷の向こうには、この街の朝の景色が広がっていた。
夜の間に冷え込んだらしく、街を流れるベルン川から白い霧が立ち込めていた。そこから、海に浮かぶ島のように家々の屋根が顔を覗かせている。
山肌を覆う木々は深い赤や黄金色に染まり、東から差し始めた朝日を受けて、霧の中へ浮かび上がるようにきらきらと輝いていた。
昼間には賑やかだった石畳の通りも、今はまだ人影がまばらだ。
遠く眼下に望む下町の方からは、酒造か浴場か、細い煙が幾つも立ち上っていた。
現実感がすっと薄くなるほどの、幻想的な眺望。
昨夜はリアムが眠った後少しだけ二人でテラスへ出て、お茶を飲んだ。その時の灯りの滲む夜の谷も見事だったが、朝の景色はまた格別だった。
私は暫くその景色を眺めた後、窓硝子へそっと手を触れた。
ひんやりとした感触が指先へ伝わり、思わず口元が緩む。秋の山間部らしい、少し肌寒い朝である。
こんな日に温かな湯へ浸かることができたら、さぞ気持ちが良いだろう。
そう。
今日は温泉なのだ。
昨夜から楽しみにしていたのだが、こうして朝の冷たい空気へ触れると、期待がますます高まってくる。
露天風呂、紅葉、湯気、涼しい風、そして温泉上がりの飲み物。
素晴らしい。
私は思わず頬を緩めた。
「……レベッカ?」
背後から柔らかな声が掛かった。
振り返ると、ヴィルヘルムが寝台の上で身体を起こしていた。
淡い金髪は眠っている間に少し乱れ、普段は隙のない美しい顔立ちにも、まだ微かな眠気が残っている。
長い睫毛に縁取られた青い瞳がこちらを見つめ、私が既に起きていることを確認すると、少し驚いたように目を瞬かせた。
「おはようございます。随分早いですね。」
「目が覚めてしまって。」
「……楽しみで?」
何故分かったのだろう。
私は少々不本意だったが、素直に頷いた。
「ええ。とても。」
ヴィルヘルムは小さく笑うと、寝台を降り、私の方へ歩いた。
後ろから腰へ腕が回り、そっと抱きしめられる。まだ朝の冷気が残る窓辺で、彼と私は暫く黙って朝霧の向こうに広がる山々と街を眺めていた。
「……綺麗ですね。」
私はそっと息を吐いた。
「ええ、本当に。実際に訪れてみなければ分かりませんでした。」
そう言って、ヴィルヘルムは少し眉を下げて笑い、小さく息を吐いた。
「ベインバルクは初めてなのですよね?」
「はい。資料では何度も見ていますが……。」
「温泉は?」
「それも初めてです。まさか自分が入ることになるとは、考えたこともありませんでした。」
私は思わず口を噤んだ。
確かに、ヴィルヘルムがこれまで送ってきた人生を考えれば、全く不思議ではない。
王族とはいえ、いや、王族だからこそ、自由とはかけ離れた生活。母国からすれば旧敵国にあたる国で人質として過ごした十年など、王宮の外へ出ることすら自分の意思ではできなかった。
旅行も、観光も、娯楽も、彼の中ではきっと資料の中にある知識或いは数値でしかない。
この地についても、産業や税収、人口動態などの情報は驚くほど詳しく把握していても、その景色がどれほど美しいかは昨日初めて知ったのだ。
これは、今日も思いっきり楽しんでもらわなければ。
私は改めて使命感に燃えた。
せっかく初めて温泉へ入るのだから、湯の素晴らしさを十分に味わい、心身ともにくつろぎ、気持ち良く一日を過ごしてもらおう。
何なら、帰る頃には温泉旅行へすっかり魅了され、来年も再来年も行きたいと言い始めるくらいになってくれたら言うことはない。私も嬉しい。
「では、今日は私にお任せください!」
胸を張って言うと、ヴィルヘルムが少し不思議そうに私を見た。
「……何をです?」
「温泉の楽しみ方です。」
「経験がおありなのですか?」
「い、いえ。ただ、しっかり勉強してきましたから!」
「なるほど。それは心強いですね。」
彼は素直に微笑んだ。
その返事を聞き、私はますます張り切った。
今日はこの美しい夫を、温泉の魅力で骨抜きにしてくれよう。
そう考えた直後、隣の部屋から元気な声が響いた。
「お父様!お母様!おはようございます!ぼく、おきたよ!」
どうやら我が家の小さな外交官も目を覚ましたらしい。
ヴィルヘルムは笑うと、私の肩へ軽く口付け、隣室へ向かって歩き出した。私も慌てて後を追う。
今日もまた、楽しい一日が始まりそうだった。
◇
白鹿宮の食堂には、朝から何とも食欲をそそる香りが漂っていた。
大きな窓の向こうには色づいた庭園が広がり、その先には白い霧に包まれた谷が見える。
室内では暖炉の火が静かに燃え、壁面に飾られた木彫りの像と木製の家具が、山荘らしい落ち着いた雰囲気を作っていた。
食卓には焼きたての黒麦パンや山羊乳のチーズ、蜂蜜、数種類の林檎ジャムが並び、温かな茸と根菜のスープからは白い湯気が立ち上っている。
さらに、地元の川で獲れた鱒を軽く燻製にしたものも添えられていた。
薄く切られた身は淡い桃色をしており、爽やかな香草の香りとともに、燻製特有の香ばしい匂いが漂っている。
「わあ、とっても美味しそうですね!」
私は早速席へ着き、温かなスープを一口いただいた。
茸の濃い旨味がしっかり出ているのに、味わいは優しく、根菜の甘みが口いっぱいに広がる。
小さく刻まれた芋はほろりと崩れるほど柔らかく煮込まれており、最後に加えられた香草がほのかな爽やかさを添えていた。
寒い朝にいただくには、実に申し分ない料理である。
焼きたての黒麦パンも香ばしく、表面はぱりっとしているのに中はしっとりとしていた。
そこへ少し酸味のある山羊乳のチーズを塗り、林檎のジャムを添えると、麦の香りと乳の濃厚な旨味、果実の甘酸っぱさが綺麗に調和する。
「……すごく美味しい。」
思わず呟くと、向かいのヴィルヘルムが目を細めた。
「林檎のジャムですか?」
「ええ。甘すぎなくてちょうどいいです。」
「お母様!」
隣からリアムが呼んだ。
「ぼくも、これすき!」
リアムは小さなパンへ林檎ジャムを塗り、嬉しそうに口へ運んでいた。
今朝も元気いっぱいで、昨日の疲れなど欠片も見えない。あれだけ歩き回っていたというのに、四歳児の回復力は実に羨ましい。
「美味しいですね。お父様にも勧めてみますか?」
「うん!」
リアムはすぐに父親へ顔を向けた。
「お父様!これ、おいしいよ!」
ヴィルヘルムは一瞬だけ私を見た。
私は微笑んだ。
昨日、屋台で散々食べさせられたことを思い出したのだろう。ヴィルヘルムは少しおかしそうに口元を緩め、それからリアムへ向き直った。
「そうですか。では、私もいただいてみますね。」
自分のパンへ林檎ジャムを塗り、素直に口へ運ぶ。
「……確かに美味しいです。」
「でしょう!」
何故かリアムが威張った。
これは確実に私の癖がうつっている。とても可愛いがちょっと後ろめたい。
朝食を食べながら、私たちは今日の予定について話し合った。
午前中は中町にある大浴堂へ行き、そこでゆっくり温泉を楽しむ。
その後は湯上がりの休憩を取り、体力に余裕があれば周辺の散策や土産物屋巡りをすることになった。
巡ろうと思えば他にも少し離れた場所に名所もあるのだが、リアムはまだ四歳である。昨日も相当歩き回っていたし、今日くらいは少しのんびり過ごした方が良いだろう。
何より、温泉というものは慌ただしく入るものではない。
じっくり楽しむべきである。
「おんせん、いついくの?」
リアムがパンをしっかり飲み込んで、尋ねた。
「朝食を食べ終えて、少し休んでからですね。」
「はやくいきたい!」
「そんなに急がなくても温泉は逃げませんよ?」
「でも、はやく!」
私は笑いながらリアムの頭を撫でた。
何とも気が合う。
私も早く行きたい。
ヴィルヘルムはそんな私たちを眺め、少し不思議そうに首を傾げた。
「今日は随分とお二人の気が合いますね。」
「もちろんです。リアムも楽しみですものね!」
「うん!はやくはいってみたい!」
「ヴィルヘルムも楽しみではないのですか?」
私が尋ねると、彼は少しだけ考えるように目を伏せた。
「……そうですね。初めてですから、どのようなものなのか興味はあります。」
「随分控えめな反応ですね?」
「いえ、その……。」
彼は少し困ったように笑った。
「実を言えば、何をどう楽しめば良いのか、よく分かっていません。」
やはり、そうか。
確かに温泉へ行ったことがない人間にとって、ただ温かな湯へ入るという行為が、どれほど楽しいものなのかは想像しづらいのかもしれない。
しかもヴィルヘルムは基本的に合理的な人間だ。何かをする際には、まず目的や効用について自然と考える癖がある。
身体を洗うだけなら普段の湯浴みで十分なのだから、わざわざ遠くまで出掛けてまで広い湯へ入る意義が分からないのだろう。
私は少し考え、腕を組み、しっかりと頷いた。
「入れば分かります。」
するとリアムも私の真似をして腕を組んだ。それから真剣な表情で頷く。
「はいればわかります。」
ヴィルヘルムは瞬きをすると、リアムを見て、それから私へ視線を戻した。
そして、ふっと柔らかく笑った。
「……分かりました。深く考えずに入ります。」
朝食を終えて少し休憩した後、私たちは中町へ向かった。
昨夕とは違い、朝の街にはひんやりとした空気が漂っている。
石畳は夜の間に降りた露で僅かに湿り、家々の屋根からは白い湯気が細く立ち上っていた。
通りでは商人たちが店先へ商品を並べ始めており、焼きたてのパンや温かなスープの香りが、冷たい山の空気へ混じっている。
昨日歩いた坂道では、林檎の木々が朝日を受けて鮮やかに輝いていた。
枝へ残された赤い実には小さな露の粒がつき、葉の間から差し込む光を受けて、宝石のようにきらきらと光っている。
石造りの家々の窓辺には花鉢が並び、軒下に吊るされた薬草の束が朝の風に揺れていた。
そして、リアムは今日も元気いっぱいだった。
「あ、おじさん!」
通りの向こうで樽を運んでいた職人を見つけると、すぐに手を振る。
「おはよう!」
「おお!昨日の坊ちゃんじゃないか!」
職人が笑って手を振り返した。
「今日はどこへ行くんだい?」
「おんせん!」
「そうか、そりゃいい!たっぷり温まっておいで!」
「うん!」
リアムは満面の笑みで頷いた。
私は苦笑しながらヴィルヘルムを見た。
「……既に地元の知り合いのように可愛がられていますね。」
「ええ。すっかり馴染んでいます。」
「厳つい護衛の騎士たちが付いているにもかかわらず。……こういうのを天然人たらしというのでしょうか。」
「あなたにそっくりです。」
私は不服だったが、ヴィルヘルムはどこか楽しそうに笑った。
その後もリアムは、昨日林檎をくれた女性を見つけて手を振り、菓子店の前では店主へ朝の挨拶をし、通りを掃除していた老人にまで「おはよう!」と声を掛けた。
ほんの一日で、どれだけ顔を覚えられたのだろう。声を掛けられた人々は、目尻を下げながら嬉しそうに言葉を返してくれていた。
私は半分感心半分驚愕しながら眺めていたが、本人は大勢の人と知り合いになっているという自覚すらないらしく、ただ知っている人へ挨拶をしているだけといった様子だ。
なんだろう。今は天使の美少年だが、このまま成長すれば神の最高傑作と言っても過言ではない、国宝級の美青年になるはずだ。想像すると、少し末恐ろしい。
そうやってリアムの将来を悶々と思い描いている内に、いつの間にか目的地に到着していた。
今日入る予定の温泉、白鹿の大浴堂は、思っていた以上に立派な建物だった。
灰白色の石を積み上げた非常に大きな門。続く正面には高い半円形の窓が並び、その上には緩やかな曲線を描く円蓋が見えた。
入口へ続く石段の両側には鹿の彫像が置かれ、角の間には細かな植物の装飾が彫り込まれている。
建物の壁面には温泉の湯を表すような波模様が施され、ところどころに色硝子を嵌め込んだ小窓があった。
正面扉の前には庭園が設けられ、紅葉した楓と常緑の針葉樹が美しい対比を作っている。石造りの細い水路には温かな湯が流れ、そこから白い湯気が立ち上っては、朝の冷たい空気へ溶けるように消えていた。
「……これが温泉施設?」
美術館と言われても納得しそうな壮観な外観に、私は驚いて声を上げた。
「お母様!しか!」
リアムが正面の彫像を指差した。
「ええ、大きな鹿ですね。」
「ぼくのといっしょ!」
昨日もらった木彫りの鹿を思い出したらしい。リアムは嬉しそうに笑い、早速石段の柱へ彫られた鹿を一頭ずつ数え始めた。
内部へ入ると、さらに見事だった。
広い玄関広間には磨かれた石の床が敷かれ、高い天井からは柔らかな光が差し込んでいる。
壁には古い泉の伝承を描いた壁画があり、傷ついた白鹿が山中の泉へ辿り着き、そこで傷を癒やしたという物語が、幾つもの場面に分けて描かれていた。
中央には大きな噴水が設けられ、鹿の角を模した石の装飾から透明な水が流れ落ちている。
広間の奥へ続く回廊には香草を混ぜた湯の爽やかな香りが漂い、建物のどこかから、水が静かに流れる音が聞こえてきた。
「……これは、なかなか立派な設備ですね。」
私は純粋に感動した。
「ええ。現在の建物は二百年ほど前に再建されたものですが、温泉そのものはもっと古くから利用されていたそうです。」
ヴィルヘルムが早速説明を始めた。
「元々は修道院の療養施設だったのですが、温泉を引く水路が整備されるにつれて周辺へ宿泊施設が増え、現在の保養都市へ発展した、とありました。」
「なるほど。温泉の供給設備はどのようになっているのでしょう?」
「源泉の温度がかなり高いので、一度貯湯槽へ集めてから、冷たい水と混ぜて調整しているそうです。浴場ごとに湯温を変えられるようになっていて――」
そこからヴィルヘルムによる湯温の細かな管理方法と設備構造の説明が続いた。近くで待機していた施設の支配人や職員と思われる人々が国王の詳しすぎる説明に若干たじろいでいる。
「ふむ。便利ですね。もしや地熱を利用した暖房設備も?」
「一部にはありますよ。見に行かれますか?確か一階の休憩所の床下に腐食防止処理を施した温水配管が百二十――」
そこまで話したところで、私たちは同時に黙った。
ヴィルヘルムが私を見る。
私もヴィルヘルムを見る。
「……レベッカ。」
「……はい。」
「今は旅行中です。」
「……ええ。そうでした。」
危ない。
危うく、国王による施設講座どころか、国王夫妻による設備視察が始まるところだった。
私は思わず咳払いした。
「では、難しいことは一旦忘れて、温泉を楽しみましょう。」
「そうですね。」
ヴィルヘルムも笑う。
そして、そんな両親の会話など全く気にせず次は壁面の鹿を数えていたリアムが、天井を見上げ大きな声で言った。
「お父様!すごい!うえにも、しかがいる!」
どうやらリアムだけは、最初から最後まで観光を満喫しているらしい。
いや、これはリアムが正しい。私たちも反省して見習わなければならない。
◇
私たちのために用意されたのは、大浴堂の奥にある貸切の庭園浴場だった。
一般客が利用する大浴場とは回廊と壁で隔てられており、外から覗かれる心配はない。警備の都合もあるため、今回は特別にこの一角を貸し切る形になっていた。
案内係の女性は温泉の利用方法を丁寧に説明してくれた後、薄手の亜麻布で作られた湯浴み着を差し出してきた。
私はそれを見て、少し首を傾げた。
「……これは?」
「湯浴み着でございます。こちらでは皆様、浴場へ入る際にお召しになります。」
「……服を着たままお風呂へ?」
思わず口から出た言葉に、案内係が僅かに目を瞬かせた。
ヴィルヘルムも不思議そうにこちらを見る。
「何か問題がありますか?」
「い、いえ。そういうわけではないのですが……。」
なるほど。
そう来たか。
しっかり勉強してきたと胸を張った手前、少々気まずい。勉強の中身が前世の記憶だったことは、黙っておこう。
私は心の中で少し考え込んだ。
前世の日本では、温泉といえば基本的に裸で入るものだった。
もちろん水着を着用する施設や混浴用の湯浴み着を用いる場所もあったが、一般的な温泉旅館を想像すると、やはり裸で湯へ浸かる光景が真っ先に浮かぶ。
この世界では少し事情が違うらしい。
そもそも古代の浴場文化を考えてみれば、衣服や布を身に着けたまま共同浴場を利用する習慣もあったはずで、別段不自然なことではない。
いや、今回は家族三人で入るのだから、むしろこの方が都合が良いとも言える。
私は差し出された湯浴み着を手に取り、少しだけ生地を確かめた。
薄手だが、目が詰まっていて簡単には透けない。濡れても身体へ過度にまとわりつかないよう、形にも工夫があるらしかった。
「文化の違いですか。」
私は前世でかつて学んだ西洋文化と日本文化の成り立ちの違いについて一人考察しながら、深く頷いた。
ヴィルヘルムは相変わらず少し不思議そうだったが、特に追及することなく、渡されたリアムの湯浴み着を大きさを確認するように広げた。
それぞれ更衣室へ入り、着替えを済ませる。
髪を高くまとめ、用意された湯浴み着へ袖を通して浴場へ向かうと、既にヴィルヘルムとリアムが待っていた。
そして私は、思わず足を止めた。
ヴィルヘルムは、白い亜麻布の湯浴み着を身に着けていた。普段の衣装とは違い、装飾らしい装飾はなく、身体へ沿うような簡素な形をしている。薄手の衣だからこそ、広い肩から引き締まった腰へ続く線や、均整の取れた、ほどよく鍛えられた体躯の美しさが一層際立って見えた。
淡い金髪は少しだけ後ろへ撫でつけるように整えられ、宝石のような青い瞳が朝の柔らかな光を受けている。形の良い顎から首筋へ続く線も、何気なく息子を見下ろす横顔も、どうしてこうも一つ一つが絵になるのだろう。
そう。そして、隣にはこれまた小さな天使が立っている。
こちらも父親と似た形の湯浴み着を身に着け、陽の光が当たると金に見える茶髪はヴィルヘルムと同じように少しだけ整えられていた。本人としては父親と同じ格好をしているつもりらしく、胸を張っている。
「お母様!」
リアムが私を見つけ、ぱっと顔を輝かせた。
「みて!お父様といっしょ!」
「本当ですね。とってもお似合いですよ。」
「お父様みたい?」
「ええ。そっくりです。」
リアムは大喜びだった。
ヴィルヘルムも嬉しそうに笑っている。
私はそんな二人を眺めながら、心の中で静かに天を仰いだ。
何という光景だろう。
国宝級の美青年と、天使のような美少年が、お揃いの湯浴み着を着て並んでいる。いつもと少し違う、これまたお揃いの髪型で。
こんな素晴らしい情景を一人で独占して良いのだろうか。
いや、良い。
妻であり母親なのだから、むしろ正当な権利である。
私は今日も大変満足した。
「レベッカ?」
ヴィルヘルムが少し心配そうにこちらを見た。
「どうしました?」
「いえ。あまりの眼福に感動しておりました。」
「……?」
よく分からないという顔をされた。
この人は本当に、自分の容姿について自覚が足りない。
◇
庭園浴場へ足を踏み入れた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
高い石壁に囲まれた庭には、紅葉した楓が幾本も枝を広げ、その下へ灰白色の石で造られた大きな浴槽が設けられていた。
湯は透明で、縁から溢れた水が細い溝を通って静かに流れていく。冷たい秋の風が吹くたびに白い湯気が横へ揺れ、赤や黄金色の葉の間から差し込む陽光が、柔らかく滲んでいた。
浴槽の奥には小さな石造りの泉口があり、そこから絶えず新しい湯が注がれている。
湯面へ落ちた水が細かな波紋を作り、それがゆっくりと広がっていく様子も美しい。
石壁の向こうには紅葉した山々の稜線が覗き、庭の隅では常緑樹が濃い緑広げ、朝の風に微かにその葉を揺らしていた。
何という素晴らしい景色だろう。
まるで絵画の中へ入り込んだようだった。
「……すごく綺麗。」
思わず呟くと、ヴィルヘルムも隣で静かに頷いた。
「ええ。これはなかなか……。」
彼も少し驚いているようだった。
温泉の設備や効用については詳しくても、実際にこうして庭園浴場へ入るのは彼も初めてだ。普段の冷静な表情がほんの少し緩み、青い瞳が周囲の景色をゆっくりと追っている。
私はそれを見て、少し嬉しくなった。
まずは身体を清め、それから湯へ入ることになった。浴場の一角には石造りの洗い場が設けられ、温かな湯を汲めるようになっている。
リアムは何もかも珍しいらしく、桶を見つけるたびに触ろうとし、壁へ彫られた鹿の模様を見ては「しか!」と嬉しそうに報告してくれた。
ヴィルヘルムはリアムの身体に丁寧に湯をかけながら、石の床は滑りやすいこと、熱い湯へ急に入らないことなどを一つずつ説明していた。
私もここぞとばかりに胸を張る。
「リアム、温泉は気持ち良いですが、熱い場所もありますからね。必ず私たちと一緒に入りましょう。」
「うん!」
「走らないこと。急に深いところへ入らないこと。分かりましたか?」
「わかった!」
返事は非常に良い。
ただし、目は既に浴槽へ向いている。
私は思わず笑ってしまった。
洗い終わったところで、私たちはまず湯温が低めに調整された広い浴槽へ向かった。ヴィルヘルムが先に湯へ触れて温度を確かめ、リアムをゆっくりと入れてやる。
「どうです?」
「……あったかい!」
リアムは目を丸くした。
「お父様、あったかいよ!」
「ええ。温泉ですからね。」
ヴィルヘルムもリアムの隣へ腰を下ろした。
私はその様子を眺めながら、いよいよ自分も湯へ足を入れる。
温かい。
足首から膝、腰へと、柔らかな熱が少しずつ広がっていく。
湯は思っていたよりも滑らかで、肌へ触れる感触も優しい。
身体をゆっくり沈めると、長い馬車移動で少し凝っていた背中や腰が、じんわりと温められていくのを感じた。
そして肩まで浸かった瞬間、私は思わず長い息を吐いた。
「……きもちいぃ……。」
随分と間の抜けた声が出た。
しかしこれは仕方がない。
気持ち良い。実に気持ち良い。
身体の芯へ温かさが染み込むようで、張っていた肩の力が自然に抜けていく。
目を閉じれば、湯の流れる音と遠くの鳥の声が柔らかく重なり、冷たい秋風が頬を撫でるたびに、湯へ浸かっている身体の温かさが一層際立った。
「……最高です。」
私はしみじみ呟いた。
ヴィルヘルムが目を瞬かせる。
「……レベッカ?」
「最高です。」
「……そうですか。」
「ええ。これはもう、最高です。」
彼は少し驚いたような顔をした後、とうとう耐えきれないとばかりに笑った。
普段はそれなりにきちんと振る舞っている妻が、石の縁へ背を預け、何とも気の抜けた顔で湯へ浸かっているのだから、無理もないかもしれない。
すると、隣でリアムが私の真似をした。
「きもちいぃ……。」
肩まで浸かって。
しかも、私の口調を妙に忠実に再現している。
私は噴き出した。
「リアム、もうそんなに気持ち良いのですか?」
「うん!きもちいぃ……。」
もう一度。
ヴィルヘルムまで笑い始めた。
リアムは両親が笑っているのが嬉しいらしく、ますます得意そうに「きもちいぃ」と繰り返している。
「ヴィルヘルム、あなたもどうぞ。」
「……私も、ですか?」
「ええ。温泉とは、こういうものです。」
私は胸を張った。
ヴィルヘルムは数秒黙った後、観念したように笑った。
「……では。」
そして、咳払いをして、真面目な顔をすると、私たちの真似をするように石の縁へ背を預けた。しかし、耐えきれなかったのか、口元に手を当てながら小さく呟く。
「……気持ちいい。」
声が笑いで震えていた。
ああ、もう。
駄目だ。
私も堪えきれずまた笑ってしまった。
冷静に考えると、なかなかの光景である。
大国の国王夫妻と王子が、三人揃って温泉へ浸かり、ただ気持ち良さそうに息を吐き、普段なら少し目を細めただけで官僚たちを震えさせる国王が、今は妻と息子に言われるがまま、湯の中で呟き笑っている。
平和とは、こういうことを言うのではないだろうか。
私はしみじみ感動した。
「……どうです?」
尋ねると、ヴィルヘルムは少しだけ目を伏せ、それから柔らかく笑った。
「……なるほど。これは確かに、気持ちが良いですね。」
「でしょう!」
何故か私が威張る。
リアムも嬉しそうに手を叩いた。
「お父様も、あったかい?」
「ええ。とても。」
「お母様も?」
「もちろんです。」
「ぼくも!」
三人で顔を見合わせて笑った。
何とも、幸せな情景だった。




