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ベインバルク編 第二話 焼き林檎と、水の包囲網

 店先に置かれた大きな鉄板の上には、半分に割った林檎が幾つも並んでいた。


 芯を取り除いた窪みへ蜂蜜と砕いた胡桃、少量の香辛料、それからバターを詰め、じっくりと焼いているらしい。

 林檎の皮は熱で少し縮み、表面には艶やかな飴色の果汁が滲んでいる。端の方には香ばしい焦げ目がついており、熱い鉄板へ果汁が落ちるたび、じゅっと小さな音がした。


 店主が出来たてのものを木皿へ載せ、木製の匙を添えて渡してくれる。


「熱いですからね、気をつけて。」


「ありがとうございます。」


 私はさっそく匙を入れてみた。


 柔らかくなった果肉がほろりと崩れ、熱い湯気とともに濃厚な林檎の香りが立ち上る。

 蜂蜜は溶けたバターと混ざって薄い黄金色の蜜になり、林檎の窪みへとろりと溜まっていた。砕いた胡桃がその上へ散らされ、香ばしい香りを添えている。


 これは絶対に美味しい。


 私は少し息を吹きかけて冷まし、一口食べた。


「……!」


 美味しい。


 焼かれた林檎は生の時よりも甘みが強くなっているのに、爽やかな酸味はしっかり残っている。そこへ蜂蜜の濃い甘さとバターの塩気が重なり、胡桃の香ばしさがふわりと広がる。

 柔らかな果肉の中で時折砕いた胡桃がかりっと音を立てるのも心地よく、最後に残る微かな香辛料の香りが全体の味を引き締めていた。


「……美味しい!」


 思わず声が大きくなった。


「でしょう?今年の林檎は特に出来が良くてねえ。」


 店主が嬉しそうに笑う。


「甘いだけじゃなく、酸っぱい林檎を使っているんです。その方が焼いた時に味がはっきりするんですよ。」


「なるほど。確かに酸味があるので、蜂蜜を加えてもくどくなりませんね。」


 私は感心した。これは美味しい。是非とも王宮の料理人にも教えてあげたい。


 リアムも一口食べると、目を見開いた。


「おいしい!」


 言ってすぐにもう一口すくって食べ、にっこりと微笑んだ。


「もういっこ!」


「まずは今の分を食べましょうね。」


 息子の頬が緩みきっている。可愛い。非常に可愛い。私はしばらくリアムが焼き林檎を食べる姿を堪能していたが、ふと隣で静かに眺めている夫に気づいた。


「ヴィルヘルムも食べます?」


「いえ、私は見ているだけでも――」


 私は自分の匙で一口分をすくった。


「はい、どうぞ。」


 ヴィルヘルムが止まった。


 匙を見る。


 私を見る。


 また匙を見る。


「……あの、このまま?」


「せっかくの旅行ですから。」


 万能の理屈である。


 リアムが期待に満ちた顔で父親を見上げた。


「お父様、あーん!」


 逃げ道が消えた。


 白い頬が仄かに赤くなる。ヴィルヘルムは小さく咳払いして、少し迷うように口を開いた。私は嬉々として匙を差し出し、彼が焼き林檎を口にするのを見守る。

 僅かに伏せられた長い金の睫毛が微かに震え、形の良い唇が匙を食んだ。


「どうです?」


「……美味しい、です。」


「でしょう!?」


 何故か私は盛大に威張った。


 ヴィルヘルムは私のその様子を見ながら、何かを思い出しているように目線を泳がせた。なぜか耳まで少し赤くなっている。


 すると、リアムが自分の焼き林檎を匙ですくった。


「お父様!ぼくのもあげるね!」


「リアムまで……。」


「はい、あーん!」


 ヴィルヘルムはもう一度少し困ったように笑い、息子からも食べさせてもらった。


 恥ずかしそうなのに、嬉しそうである。


 ああ、可愛い。私の夫は本当に可愛い。

 私は胸の内が温かく満たされていくのを感じた。


 いつもは王宮で大勢の人間を従え感情を見せず冷淡にも見える国王が、今は屋台の前で妻と息子から焼き林檎を食べさせられ、恥ずかしそうに微笑んでいる。しかも美味しそうに食べてくれるものだから、こちらまで嬉しくなってしまう。


 旅行って、こんなに楽しいものだったのか。

 私はしみじみ感動した。


 しかし、息子と夫の楽し気な姿に味を占め、興奮した私の食欲が、これだけで終わるはずもない。


 通りの少し先では、炭火を使った大きな鉄網の上で香草ソーセージが焼かれていた。表面には焦げ目がつき、脂が炭へ落ちるたびにじゅっと音を立てる。

 店主は焼き上がったものを黒麦のパンへ挟み、甘酸っぱい林檎のソースと粒入りの辛子を添えて客へ渡していた。


 屋台の看板を見ると、林檎の搾り粕を飼料へ混ぜて育てた豚を使っているという。

 この土地ならではの畜産術。これは何とも興味深い。


「ヴィルヘルム、あれも食べてみませんか?」


「……レベッカ。先ほど焼き林檎を召し上がったばかりでは?」


「別腹ですから。まだまだ入ります。」


 ヴィルヘルムは結局笑って付き合ってくれた。


 一本を三人で分けることにし、店主から受け取った熱々のソーセージを一口齧る。


 薄い皮がぱりっと弾け、中から熱い肉汁が溢れた。

 香草の爽やかな風味と豚肉の濃い旨味が口いっぱいに広がり、黒麦のパンの香ばしさがそれを受け止める。林檎のソースは甘酸っぱく、粒辛子のぴりっとした刺激が後味を引き締めていた。


「……これも美味しい!」


「おいしい!」


 私とリアムが同時に声を上げる。

 ヴィルヘルムも一口食べ、驚いたように眉を上げた。


「……確かに、これは美味しいですね。」


「でしょう!」


 また私が威張った。


 するとヴィルヘルムは笑いながら、残りをもう一口食べた。屋台で買った食事なのに、なぜだろう。食べ方が上品なせいなのか、それとも彼の雰囲気の為せる業なのか。ソーセージを挟んだパンが高級な食事に見えるからなんとも不思議である。


 しかし、いい。非常にいい。家族三人で食べ歩き。


 私は何だか嬉しくなり、その後も通りを歩きながら気になる店を見つけては足を止めた。


 鹿肉と茸を煮込んだ小さなパイは、薄い生地を割ると中から濃厚な肉汁が溢れ、茸の香りが湯気とともに立ち上る。鹿肉は柔らかく煮込まれており、黒胡椒と香草がよく効いていた。

 さらに、温泉の熱でゆっくり蒸した卵へ岩塩と刻んだ香草を振ったものは、白身が柔らかく、黄身がとろりとしていて、素朴ながら驚くほど美味しかった。


 どの料理も、この土地の恵みを上手に使って作られている。

 林檎、麦、胡桃、茸、川魚、鹿肉、豚肉、卵。

 気候や地形と食文化が結びついているのを見るのは面白い。


 市場には地元の農産物だけでなく、周辺の山村で作られたチーズや蜂蜜、燻製肉なども並んでいた。

 冬の長い地域らしく保存食の種類も豊富で、天井から吊るされた燻製肉や塩漬けの魚を眺めて歩いているだけでも飽きない。


 私はすっかり興奮してしまい、あちらの店、こちらの店と次々足を止めていたが、そんな私にヴィルヘルムが穏やかに声を掛けてきた。


「レベッカ。」


「はい?」


「夕食もあることは覚えておいでですか?」


「も、もちろんです。」


「本当に?」


「これは観光であって、食事ではありません。」


「……その理屈は少々無理があると思いますが。」


 ヴィルヘルムはそう言いながら、自分も薄焼き菓子を食べている。さっきリアムがねだって買ったものの残りだ。

 私は思わず笑ってしまった。


「ヴィルヘルム、楽しいですか?」


 突然尋ねると、彼は少し驚いたように目を瞬かせた。

 それから周囲を見渡す。


 白い湯煙が漂う石畳の通り。赤い林檎を山のように積んだ店先。焼きたての菓子を売る屋台。楽しそうに行き交う観光客たち。

 そして、すぐ隣ではリアムが木彫りの鹿を片手に何かを発見したらしく、目を輝かせている。


 最後に私へ視線を戻したヴィルヘルムは、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せ微笑んだ。


「……はい、とても。私こそ夕食までに気を付けねばなりませんね。」


 私は思わず彼をぎゅっと抱きしめた。彼は驚きながらも私の肩を抱き、そっと髪に頬を滑らせた。


 私は改めて決意した。


 もっともっと色々なところへ連れて行こう。

 まだ知らない景色を見せて、美味しいものを一緒に食べて、何でもないことで笑ってもらおう。


 これまで耐えるしかなかった少年時代も含めて、リアムと一緒に子供のように楽しんでもらいたい。私は内心で静かに拳を握った。

 


    ◇



「今年の熟成酒、試していきませんか?」


 そんなことを考えていたところへ、何とも魅力的な声が掛かった。


 私はさっと振り向いた。


 酒屋である。


 店先には大小様々な樽が並び、奥の棚には濃い琥珀色の酒を入れた瓶がずらりと並んでいた。

 壁には古い蒸留器を描いた木製の看板が掲げられ、入口の脇には麦束と林檎の枝が飾られている。


「いただきます……!」


「レベッカ?」


「試飲です!」


「……まだ何も言っていませんが。」


 また先ほどと同じ会話をしている。


 しかし、これは仕方がない。せっかく蒸留酒の名産地へ来たのである。土地のものを味わわずに帰るなど、それこそ失礼にあたるのではないだろうか。


 店主が小さな試飲杯へ注いでくれた酒は、深い琥珀色をしていた。杯を傾けると液面へ柔らかな光が差し、透明な金色の筋がゆっくりと流れる。


 鼻先へ近づけると、先ほどの林檎酒とは全く違う香りがした。

 樽の木香、焦がした麦、蜂蜜のような甘い香り。それから、微かに乾いた果実や香辛料を思わせる複雑な香りが重なっている。


 私はほんの少し口へ含んだ。


 舌へ鋭い熱が走り、その直後、濃厚な甘みと香ばしさが広がる。

 酒精の強さは確かにあるものの、ただ辛いわけではない。

 口の中で温められるにつれて香りが幾重にも変化し、飲み込んだ後には身体の内側がじんわりと温かくなった。


「……わあ、美味しい。」


 思わずため息が漏れた。


「三年熟成のものですよ。山の貯蔵庫でじっくり寝かせてあるんです。」


「樽の香りがかなりしっかりしていますね。先ほどの林檎酒とは全く違います。」


「奥様、なかなかお詳しいですね。」


「いえいえ、それほどでも。」


 私はもう一度杯へ目を向けた。


 面白い。樽材や貯蔵場所によってもかなり味が変わるのだろう。

 そういえばこの町では地熱を利用した麦芽の乾燥や仕込みの設備があると聞いている。貯蔵庫も山肌を掘り込んだものが多いというし、製造工程を見学すれば色々と発見がありそうだった。


 なるほど、なるほど。それにしても、これがこの地の蒸留酒。度数はかなり強めであるが、美味しい。副次的研究にも役立てられそうだ。


 私は早速研究対象者の感触を窺うべく、計略を巡らせながら後ろを振り返った。


「ヴィルヘルム、これも美味しいですよ。香りが――」


 目の前へすっと水が差し出された。

 私は口を噤んだ。


 ヴィルヘルムが大変美しい顔で、優しく微笑んでいた。


「どうぞ。」


「……ヴィルヘルム。」


「はい。」


「何故毎回毎回、水が出てくるのです?」


「水分補給は大切ですので。」


 思わず目を細める。


「私はまだ酔っていませんが。」


「存じています。」


「では何故?」


「先手です。」


 また同じことを言われた。


 試飲とはいえ飲酒には違いないのだから、水を飲んでおくに越したことはない。少々不満には思いながらも素直に杯を受け取って口へ運ぶと、ヴィルヘルムは安心したようにまた微笑んだ。


 確かに前回飲み過ぎた際は翌日に体調不良になった。午前中は寝台の上で書類を読む羽目にもなった。

 しかし、これほど警戒されているとなると、ヴィルヘルムに飲ませることも難しいのではないか。

 旅行先でいつもと違う雰囲気であれば、断られずに杯を受け取ってもらえると思っていたが、少し工夫が必要かもしれない。


 内心腕を組み悩み始めたところで、横から小さな声がした。


「お母様、おみずいる?」


 私は固まった。

 リアムが水差しを指差している。


「……リアムまで?」


「お父様が、お酒のときはおみずって!」


 ヴィルヘルムがそっと目を逸らした。


「……ヴィルヘルム。」


「はい。」


「一体、何を教育しているのです?」


「健康管理です。」


「四歳児に?」


「早期教育は重要かと。」


 何ということだ。

 完全に包囲されている。


 しかも、次に立ち寄った菓子店で蒸留酒を少量使ったというケーキを勧められた際にも、ヴィルヘルムは何も言わずに水を差し出してきた。


「これはお菓子ですよ?」


「しかし酒が入っています。」


「量はごく僅かでしょう?」


「念のためです。」


「お母様、おみずのんで!」


「リアムまで!」


 酒より先に水で腹が膨れそうである。


 もっとも、差し出された水を飲みながら横を見ると、ヴィルヘルムは少し楽しそうに笑っていた。どうやら本気で心配している部分もある一方、私をからかっているところも少なからずあるらしい。


 この男。

 いつからこんなに意地悪になったのだろう。

 十年前の慎み深い少年は、一体どこへ行ってしまったのか。


 私は少し眉を寄せ胸の内で唸ったものの、リアムが父親の真似をして得意そうに水差しを持っている姿を見て、一瞬で現実へ引き戻された。可愛いは正義である。間違いない。



    ◇



 食べ歩きばかりが観光ではない。


 ベインバルクの中心部には《七泉の回廊》と呼ばれる一角があり、異なる七つの源泉を巡る小径が整備されていた。

 石造りの小さな泉亭が幾つも並び、それぞれ違った温度や色、匂いの湯が湧き出している。


 ある泉は乳白色に濁り、湯気の向こうで石畳まで白く霞んでいた。別の泉は鉄分を多く含むためか、湯の流れる溝が赤褐色に染まっている。さらに奥の泉では透明な湯が青みを帯びて見え、周囲へ張り出した石の縁には白い鉱物の結晶が薄く付着していた。


 リアムは一つ見つけるたびに足を止め、目を輝かせながらヴィルヘルムへ質問を繰り返した。


「お父様、これもおんせん?」


「ええ。こちらは鉄分が多いので、周囲の石が赤く染まっているんです。」


「こっちは白いよ?」


「水の中に含まれる成分が違うからですね。」


「せいぶん?」


「水の中に溶けているもののことです。温泉は地面の下を長い時間かけて通ってきますから、その途中で色々なものを含むことがあります。」


「へええ……。」


 リアムは真剣に聞いているが、どこまで理解しているのかは分からない。それでも、父親が教えてくれることが嬉しいらしく、時折大きく頷いている。


 七つの泉をすべて巡ると小さな木製の徽章を受け取れるというので、リアムは当然ながら全部見て回ると意気込んだ。小さな拳を握り、きゅっと眉根を寄せて気合を入れているところなど、もう可愛さの権化である。


「お父様!四つめだよ!」


「あと三か所ですね。」


「全部いったら、しか、もらえる?」


「ええ。小さな鹿の徽章だそうですよ。」


「やったあ!」


 既に木彫りの鹿を一ついただいている。恐らく今日の夜には、寝台の上に二頭の鹿が並び、何か物語が始められるに違いない。


 途中の飲泉堂では、飲用として管理されている温泉水を試すこともできた。


 小さな陶器の杯へ注がれた湯は少し温かく、微かに独特の匂いがある。

 私は興味津々で口へ運んでみたが、どうにも鉱物らしい味が強く、正直なところ美味しいとは言い難かった。


 リアムも少しだけ口へ含み、ものすごく正直な顔をした。


「……おいしくない。」


 近くにいた人々が笑った。


「健康のために飲む方もいるそうですよ。」


 ヴィルヘルムが説明すると、リアムは父親を見上げ、真面目な顔で答えた。


「でも、おいしくない。」


「……そこは否定できませんね。」


 ヴィルヘルムも真面目な顔で頷いた。

 私も笑いながら頷いた。


 回廊を抜ける頃には、日差しが少し柔らかくなっていた。


 中町の中央広場では、古い石造りの鐘楼、湯鐘塔が高く聳え、時折その上から深い鐘の音が響いている。

 かつては温泉へ入る時間を鐘で知らせていたそうで、今でも町の人々の暮らしに合わせて決まった時刻に鳴らされているという。


 鐘楼の周囲には宿屋や菓子店、酒場、土産物屋が並び、その先には川沿いへ続く緩やかな坂道が延びていた。


 下町には大きな倉庫や工房が密集し、樽を積んだ荷車が何台も行き交っている。煙突からは白い煙が昇り、温泉水路から立ち上る湯気と混じって、独特の景観を作り出していた。


「……あちらが酒造りの工房ですか?」


 私は下町が見下ろせる石造りの欄干から、思わず身を乗り出した。


「恐らく。下町は昔から醸造業が盛んな地区ですから。地熱を利用する工房も多くある筈です。」


「……面白そうですね。」


 ヴィルヘルムが微笑んだ。


「滞在中に見学してみますか?」


「中へ入れるのですか?」


「もちろん。見学を受け入れている工房もあったはずです。必要なら手配しておきましょう。」


「行きます!」


 即答だった。

 リアムも勢いよく手を上げる。


「ぼくも!」


「そうですね。リアムも一緒に見に行きましょう!」


 私は既に、蒸留器の構造や燃料効率、原料の仕入れ経路、樽材の調達、熟成による酒の変化など、聞いてみたいことを頭の中で列挙し始めていた。


 地熱を利用した産業というものは、前世でも地域資源の有効活用として興味深い分野だった。製造工程を見学すれば、この国の他地域へ応用できる技術が見つかるかもしれない。


「……レベッカ。」


 夫に呼ばれ、はっとした。


「はい?」


「今は旅行中ですよ。」


「わ、分かっています。」


 私は胸を張った。


「ものすごく楽しんでいますから。」


 ヴィルヘルムは数秒黙った後、笑った。


 何故だろう。

 何かおかしいことを言っただろうか。


 その時、通りの向こうから聞き覚えのある声がした。


「あら、坊ちゃんじゃないか!」


 振り向くと、最初に林檎をくれた年配の女性が、籠を片手にこちらへ歩いてきていた。どうやら店を一旦誰かへ任せ、買い物へ出てきたらしい。


 リアムがぱっと顔を輝かせた。


「りんごのおばあちゃん!」


「まあまあ、こんなところまで歩いてきたのかい?」


「いっぱい食べた!」


「そうかい、そうかい。美味しいものがたくさんあっただろう?」


「うん!りんごも、おにくも、くりも!」


「それは良かったねえ。」


 二人はすっかり知り合いである。

 しかも、リアムはそのまま女性へ先ほど見た温泉のことを一生懸命説明し始めた。

 白い泉があったこと、赤い泉もあったこと、水を飲んだけれど美味しくなかったこと。女性はそのたびに相槌を打ち、時折声を上げて笑っている。


 護衛の騎士達が少し離れた場所で待機しているのも見えるだろうに、その重圧感も警戒心も解かせるほどの社交性。

 身なりや外見、周囲の警備からすれば、どう見ても、隔たりを感じさせて仕方のない様相に違いない。しかし、それを軽く飛び越えていく愛嬌、或いは親しみやすさがリアムにはある。


 私は思わずヴィルヘルムを見遣った。


「……リアムが、もう知り合いを作っています。」


「素晴らしい外交力ですね。」


「私もヴィルヘルムも初対面の相手にここまで飛び込んでいく性格ではないのに、一体誰に似たのでしょう。」


 つい呟くも、本日二度目の問いだった。ヴィルヘルムは少しだけ目を細め、私を見た。私はそっと視線を逸らした。


 いや、過去の私よ。初対面で隣国の王子の手を掴んで連れ去るとは何事か。

 しかもその時、「これは押しに弱いタイプ。討議の相手としては物足りないが、代役にはちょうどいいか」などとかなり失礼なことを考えていた気がする。その後物足りないどころか、引き分けか若干劣勢にまで持ち込まれるとも知らず。


「……あなた、初めて会った日、よく怒りませんでしたね。」


「あの時のレベッカも可愛かったですから。好意を持った女性に手を握られて、嫌がる人間はいないでしょう。」


 当然といった調子でしれっと言われた言葉に、私は固まった。

 ヴィルヘルムは特に恥ずかしいことを言った認識もないようで、懸命に話すリアムを微笑みながら見遣っている。


 この男。

 いや、もう長年の執着はさておき、少しずれているのは、天然だからなのか、それとも賢すぎるが故なのか。

 私は顔に集まる熱を逃がすべく、そっと外套の襟元を広げた。



    ◇



 夕方になると、ベインバルクの街は昼間とはまた違う顔を見せ始めた。


 山々の稜線へ傾いた陽光が紅葉を一段と鮮やかに照らし、昼間は明るい橙色だった葉が深い赤へと変わっていく。

 灰白色の建物の壁にも柔らかな金色の光が差し、窓辺へ飾られた花や蔦の影が石畳へ長く伸びていた。


 谷底を流れるベルン川には薄い霧が立ち始め、温泉水路から昇る湯気と混じり合って、街全体をゆっくりと白く霞ませていく。

 家々の窓には一つずつ灯りがともり、宿屋や酒場の看板の下では、暖かな色のランタンが風に揺れていた。


 昼間の賑やかさが少しずつ落ち着き、代わりに夕食の準備をする家々から香ばしい匂いが漂い始める。

 焼いた肉、煮込んだ野菜、薪の煙、そしてどこかの菓子店から流れてくる甘い焼き菓子の香り。遠くの鐘楼では澄んだ鐘の音が響き、谷の斜面に沿って柔らかく広がっていった。


 上町へ続く坂道の上から、爽やかな緑の香りを含んだ一陣の風が吹き下りる。道の脇に植えられた林檎の木々の葉がざあっと音を立てて揺れ、色付いた赤い落ち葉が脇を滑るように踊り、後方へ舞った。

 私は足を止め、思わず振り返る。


「……綺麗。」


 何とも美しい街だった。


 建物の屋根が夕陽に照らされ、その間を白い湯煙がゆっくりと流れていく。

 紅葉した木々は光の当たる場所で鮮やかに輝き、影へ入るところでは深い赤や紫に沈んでいた。川の向こうでは橋の上を馬車が一台通り過ぎ、石畳に響く車輪の音が遠くから届く。


 まるで一枚の絵画を眺めているようだった。


 歩いて僅かに火照った頬を、坂から下りる秋風が撫でていく。


「お母様、あれなに?」


 リアムが遠くの灯りを指差した。


 声に少しだけ眠気が混じっている。

 あれほど元気に走り回っていたのだから、当然だろう。実際、少し前から歩幅が随分小さくなっており、時折何でもないところで足がもつれそうになっていた。


「リアム、疲れましたか?」


「つかれてない。」


 これは明らかに疲れている。


 私は笑ってヴィルヘルムを見た。

 彼も同じことを考えたらしく、少しだけ目元を緩める。


「リアム、抱っこしましょうか?」


「……だっこ。」


「おいで。」


 ヴィルヘルムが屈んで両腕を広げると、リアムは素直にその胸へ飛び込んだ。

 彼がその小さな身体を抱き上げると、リアムは安心したように息を吐き、すぐに父親の肩へ頬を預ける。


 それでも目だけはまだ開いており、行き交う人々や店先の灯りを眺めては、時折新しい質問を思いつくらしかった。


「あれ、なに?」


「宿屋の灯りです。」


「じゃあ、あれは?」


「温泉の湯気ですね。」


「……あれは?」


「酒場の看板です。」


 まだ訊く。

 眠気に負けそうになりながらも、好奇心だけは最後まで旺盛である。


 私は笑いながら二人の隣を歩いた。ヴィルヘルムの肩へ小さな頬を寄せているリアムは、時折まぶたが落ちかけるたびに頑張って目を開け、何かを見つけては父親の襟を引いている。

 ヴィルヘルムも一つずつ丁寧に答え、そのたびに息子の背を優しく撫でていた。


 私はその横顔を眺めながら、ふと今日一日を振り返った。


 ただ気の向くままに街を歩き、食べ、遊んだ。


 リアムが足を止めれば私たちも止まり、知らない人へ話しかければ一緒になって話を聞き、匂いにつられて屋台へ寄り、買うつもりのなかったものを食べた。いつの間にか手荷物は増え、土産物まで購入した。


「……旅行って、こういうものなのですね。」


 思わず呟くと、ヴィルヘルムがこちらを見た。


「私も、初めて知りました。」


 彼は腕の中でうとうとしているリアムへ目を落とし、それから夕暮れの街並みへ視線を向けた。


「一日ただ気の向くままに歩いて、食べて、見て。それがこんなに充実したものになるとは、思いもしませんでした。」


 ヴィルヘルムはどこか不思議そうな顔をしていた。私は小さく笑って息を吐いた。


「それで、幸せですか?」


 尋ねると、ヴィルヘルムは私の顔を見て、ひどく穏やかに微笑んだ。


「ええ。もちろんです。」


 胸の奥が温かくなった。


「私もです。旅行に来て良かった。」


 ヴィルヘルムはもう一度微笑み、眠りかけているリアムの髪をそっと撫でた。


「今日はこの子のおかげで、随分色々なものを見られましたね。」


「本当に。私たち二人だけだったら、恐らくもっと真面目に観光していたでしょうね。」


「……真面目に観光、ですか?」


「ええ。名所を確認して、歴史を調べて、効率よく順路を組んで……。」


「確かに、そうなっていたかもしれません。」


 二人で顔を見合わせて笑う。


 リアムを色んな場所へ連れて行ってあげたい、色んなものを見せてあげたい、色んな経験をさせてあげたい、そう思いながら、私達こそ、リアムに新しい場所へ連れて行ってもらい、新しい世界の見え方を教えてもらい、これまでになかった経験をさせてもらっている。


 子育ては親育てとは、よく言ったものだと思う。


 そんなことを考えていると、父親の肩へ頬を預けていたリアムが、突然ぱちりと目を開いた。


「あしたも、いっぱいあそぶ?」


 ヴィルヘルムが微笑んだ。


「もちろんです。明日は温泉へ行きましょうか。」


「おんせん!」


 リアムの目が少しだけ大きくなった。


 そして私も即座に反応した。


「温泉!」


 思わず声が弾んだ。


 ヴィルヘルムが驚いたようにこちらを見る。


「……そんなにお好きなのですか?」


「好きですとも!」


 温泉。

 前世以来である。


 この世界へ来てからも湯浴みはしているが、日本の温泉のようにたっぷりとした湯へ浸かり、身体の芯まで温まるような経験は一度もできていない。


 しかも周囲には紅葉した山々があり、露天の浴場もあるという。

 冷たい秋風を頬へ受けながら、温かな湯へ浸かる。

 湯気の向こうには美しい景色が広がり、隣にはこれまた美しい夫と息子がいる。


 控えめに言って最高ではないか。


「ヴィルヘルム、明日は朝から行きましょう!」


「え?ええ、それはもちろん。」


「温泉の種類も色々あるのでしょう!?先ほど見た七泉の中にも、浴場として利用されているものがあるのですよね?」


「ありますよ。家族用の貸切浴場も幾つかありますし、白鹿宮にも専用の浴場があります。そういえば客間のテラスに足湯もありましたね。」


「……素晴らしい!」


 私は早速明日の予定について次々質問を始めた。ヴィルヘルムは一つずつ答えながら、何とも楽しそうに笑っている。


「……レベッカ。」


「はい?」


「あなたの方が、リアムより楽しそうです。」


「……気のせいです。」


「そうでしょうか?」


「でも、まあ、旅行ですからね!」


 私は胸を張った。

 万能の言葉である。


 ヴィルヘルムは少し苦笑しながらも、嬉しそうだった。


 やがて白鹿宮へ続く門が見えてくると、リアムはようやく眠気に負けたらしく、ヴィルヘルムの肩へ顔を埋めて静かになった。

 小さな手はまだ父親の外套を握っており、その指の間には、今日もらった木彫りの鹿がしっかりと挟まれている。上着の肩に付けた鹿の徽章との物語が始まるのは、だいぶ後になりそうだ。


 私はそっと近づき、息子の頬を撫でた。


「たくさん遊びましたね。」


「ええ。本当に。」


 ヴィルヘルムは眠るリアムを抱え直し、柔らかな声で答えた。


 私はもう一度、夕暮れのベインバルクを振り返った。


 白い湯煙の向こうへ橙色の灯りが滲み、紅葉した山々の輪郭が少しずつ夜の色へ溶け始めている。遠くから街のどこかで演奏しているらしい弦楽器の賑やかな音が、風に乗って微かに届いてきた。


 明日は温泉。

 その次は、酒造りの工房も是非見たい。

 まだ食べていない料理も山ほどあるし、林檎酒の飲み比べもしたい。

 リアムが気になっていた、町の所々に設置された動物の看板を探して回ってみてもいいし、ヴィルヘルムと一緒に王宮の皆への土産物を選ぶのも楽しそうだ。


 やりたいことが次々増えていく。

 仕事の予定ではない。遊ぶ予定が。


 何とも贅沢なことである。


「ヴィルヘルム。」


「はい?」


「明日は、もっとたくさん遊びましょうね!」


 私が気合を込めてそう言うと、ヴィルヘルムは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。それから、眠るリアムへ目を落とし、もう一度こちらを見て小さく笑った。


「……ええ。そうしましょう。」


 私は嬉しくなり、空いている彼の手をそっと握った。


 これから始まる温泉と観光の日々を思い浮かべ、私は幸せな気持ちで白鹿宮の門をくぐった。



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