ベインバルク編 第一話 霧の湯都と、小さな外交官
旅というものであれば、私は何度もしたことがある。
前世では仕事で、それこそ国内外色んな場所へ調整やら交渉やらで行かされた。
この世界へ来てからも、追放されてからは馬車に何日も揺られ、色々あった後にはそれよりも長い日数船の上で揺られ、遠い海の向こうの地へ渡りもした。
けれど、秋晴れの空が広がる朝、王城の玄関前へ用意された馬車を眺めながら、私はふと気付いた。
そういえば私は、こうしてただ遊ぶためだけに、どこかへ旅行へ出掛けたことが殆どない。特に今世では一度も。
今回の目的地は、アインシュヴァルト北西部に位置する温泉都市ベインバルク。山間の深い谷に築かれた古い保養地で、秋には見事な紅葉が楽しめることでそれなりに名の知れた場所だそうだ。
王都から馬車で四日ほどの道のりになるため、移動だけでも今までにない長い休暇になる。
それもあって、ヴィルヘルムも私も出発の数週間前から、重要案件を整理し、休憩時間すら惜しんで先の仕事を片付けた。
留守中の政務についても、それぞれの担当者へ、必要な書面と共に権限を委ね、しっかり説明を行った。
旅先でも、大国の国王夫妻が揃うとあっては、当然ながら何もかも自由というわけにはいかない。
警備上の理由で移動経路や宿泊地は事前に決められているし、護衛騎士や侍従たちももちろん同行する。
それでも今回は公式訪問ではなく、あくまでも家族の静養旅行。
出発に際して仰々しい儀式が行われることもなく、王家の紋章も目立たせず、ベインバルク側にも必要最低限の受け入れ準備のみを依頼していた。
そして、驚くべきことに、到着後の予定表には謁見も会議も視察も入っていない。すごい。これは本当にすごい。
散策、観光、温泉、休息。
完成した予定表の文字列を見た時、私は思わず二度見した。公的な予定表に「観光」。しかも、それが私たちの最優先事項なのである。
「お母様!お母様、はやく!」
王城の東扉から元気な声が響き、私は顔を上げた。
小さな旅行鞄を抱えたリアムが、今にも駆け出しそうな勢いでこちらへ向かってくる。そのすぐ後ろでは、濃紺の外套を羽織ったヴィルヘルムが少し心配そうな顔ではしゃぐ息子を見ていた。
リアムはどうしても鞄を持ちたいと言い、何日も前から鞄の中に荷物を入れたり出したりを繰り返していた。
入らない、入らないと悩まし気に思案するのが可愛くて何も言わずに見ていた結果、鞄はお気に入りの玩具と絵本でパンパンに膨らんだ。なかなかの重みなので、走ればこけてしまいそうだ。ヴィルヘルムも手を出すべきか見守るべきか思案している様子だった。
本人はそんな周囲の心配には気付かず、すっかり一人前の旅行者のように胸を張っている。なんとも可愛らしい。いや、勇ましい。つまるところ、今日も天使である。
「リアム、そんなに急がなくても馬車は逃げませんよ?」
「でも、はやく行けば、はやく着くでしょ?」
「そうですね。確かにその通りかもしれません。」
私が笑うと、リアムは胸を張り、私の横に並んだ。鞄の重みで前に体が傾き掛けるのを、そっとヴィルヘルムが横から支える。
「大荷物ですね。代わりに持ちましょうか?」
「いいの!僕のお仕事だから。」
リアムの言葉に、ヴィルヘルムが一瞬僅かに目を見開いて、それからふわりと微笑んだ。ああ、こちらも天使である。私はそっと胸を押さえた。
淡い金髪は柔らかな秋の陽光を受けて輝き、青い瞳は普段よりも穏やかだ。王宮で見る重厚な黒衣ではなく、身体へ馴染むように仕立てられた旅行用の服を身に着けているせいか、いつもより幾分若く、肩の力が抜けているように見えた。
いい。非常にいい。
これから数日間、この美しい夫と可愛い息子を存分に堪能しながら、温泉へ入り、美味しいものを食べ、観光地を歩き回れるのである。
何と素晴らしいことであろうか。
私は早くも幸福感に浸り始めていたが、馬車へ乗り込んだ直後、リアムが鞄をひっくり返したため、慌てて現実へ思考を戻した。
「もう出発できる?」
「ええ。もうすぐ出発です。」
「やったあ!」
馬車がゆっくり動き始めると、リアムは小さな両手を窓枠へ置き、王城の庭園や門を一つずつ確かめるように眺めていた。
門を出て大通りへ入ると、今度は普段とは違う高さから見える街並みが珍しいらしく、商店の看板や荷車、行き交う人々へ片っ端から興味を示し始める。
そして王都を出発して十分ほど経った頃には、早くも恒例の質問攻めが始まった。
「お父様、あれなに?」
リアムが指差した先では、刈り入れを終えた畑の上を、小さな黒い鳥の群れが波のように形を変えながら飛んでいた。
ヴィルヘルムは窓の外へ視線を向けると、小さく頷いて、あれは黒椋鳥という種類で、この時期になると群れで暖かな地域へ移動するのだと説明した。
「あったかいところに?」
「ええ。これから北は寒くなりますから、南に向けて。冬の間は南の暖かい土地で過ごします。」
「どこまでいくの?」
「この辺りの群れは、確か、南部の平原を越えて湖沼地帯まで行くとあったと思います。春になれば、また戻ってきますが。」
「なんで戻ってくるの?」
「巣を作るのに、この辺りの森が適しているからでしょう。春には虫も増えますし、雛を育てるための餌が豊富ですから。」
リアムは「へええ」と感心したように頷き、今度は畑の向こうへ見えた石橋を指差した。ヴィルヘルムはまた頷くと律儀に答え始め、気づけば橋の建設年代から街道の整備史、周辺の集落が発達した理由まで説明している。
私は途中で思わず口を挟んだ。
「……ヴィルヘルム。どうして橋の築造年までご存じなのです?」
「三年前の北西部地誌に記載されていましたので。」
「……そうですか。」
なるほど、相変わらず凄まじい性能を持つ脳である。三年前に読んだ地方の地誌など、普通は内容を覚えているだけでも十分優秀だというのに、彼は恐らく掲載されていた統計数値まで正確に再現できるのだろう。
「お父様、なんでも知ってるね!」
リアムは尊敬しきった顔で父親を見上げた。
「何でもは知りませんよ。」
「でも、鳥も橋も知ってる!」
「それはたまたまです。」
いや、たまたまで築造年代まで出てくる人間はそういないと思う。
私は目の前の夫を眺めながら、内心腕を組んだ。
この男、父親としての性能まで高すぎないだろうか。顔面、頭脳、身体能力、政治能力、その上子煩悩。神は本当に能力の配分を間違えている。少しくらい他所へ分けてやっても良かったのではないか。
「お母様は?」
突然リアムに振られ、私は目を瞬かせた。
「はい?」
「お母様は、なに知ってる?」
「お母様はですね……。」
何か対抗できる知識はないかと窓の外を見た。
街道沿いには収穫を終えた畑が広がり、その奥では農夫たちが脱穀作業を行っている。小麦畑の隣には豆類を栽培していたと思しき区画があり、土の色から見て排水はそれほど悪くなさそうだった。
「……あちらの畑ですが、もう少し輪作体系を見直せば、恐らく収量を増やせると思います。」
ヴィルヘルムが思わずといった様子で、笑った。
「……なぜ笑うのです。」
「いえ。着眼点が実にあなたらしいと思いまして。」
「何です、その言い方は。大変重要なことですよ?」
「ええ、もちろんです。帰ってから農務局に確認させましょう。」
表情を整え直し真面目に返すものだから、文句を言おうにも言えない。
リアムは話の意味がよく分からないまま、父親が楽しそうにしていることが嬉しいらしく、一緒になって笑った。
そんな二人を眺めながらも、先の会話の流れで少しそわそわしてしまう。
「ヴィルヘルム、この旅行中は本当に仕事がないのですよね?」
「ええ。ありません。」
「到着してから面会するとか、向こうで報告書を確認するとか……。」
「ありません。」
「本当に?一つも?」
「必要なものはすべて出発前に処理しましたし、急を要する案件が発生しない限り、こちらへ書類を届けることも禁じてあります。」
私は思わずヴィルヘルムの顔を見つめた。
「……何という徹底ぶり。」
「初めての家族旅行ですから。」
ヴィルヘルムは僅かに逡巡した後、少しだけ困ったように視線を伏せた。
「実は、私も出発前に再度予定表を確認しました。何もしなくて良いというのも、落ち着かないものですね。」
「……私達、かなり仕事中毒ですね。」
二人で顔を見合わせて苦笑すると、リアムが不思議そうに首を傾げた。
「お仕事、ないの?」
「旅行中はありません。」
ヴィルヘルムが息子へ向き直る。
「ずっと、リアムとお母様と一緒に過ごします。」
「ずっと?」
「ええ。ずっとです。」
「じゃあ、いっぱいあそべる?」
「もちろん。」
途端にリアムの顔がぱっと輝いた。小さな両手を上げて「やったあ!」と喜ぶ息子を見ながら、私は胸が温かくなるのを感じた。
何もせずに過ごしても良いというのは、やはり随分贅沢なことだ。
しかも一人ではない。愛すべき夫も息子も一緒。
私は少し浮き立った気分で窓を開け、街道の向こうに続く秋の景色へ目を向けた。
◇
王都を離れてからの日々は、思っていた以上に賑やかだった。
最初の日はまだ広い平原と農村が続いていたが、二日目には森が増え、三日目になる頃には遠くにあった山々が随分近づいてきたように感じた。
馬車が進むにつれて気温も少しずつ下がり、初めは緑の中に黄色が混じる程度だった木々が橙や赤を増していく。
街道脇には栗や胡桃の木が目立つようになり、農家の軒下では薪が高く積み上げられていた。
宿駅に立ち寄れば、冬支度を始めた人々が忙しそうに荷車を動かしており、市場では収穫したばかりの根菜や林檎が籠いっぱいに並んでいる。
夏の瑞々しい緑が徐々に薄れ、代わりに豊かな実りと冬の気配が近づいてくる、そんな季節の変化を肌で感じられる旅だった。
リアムは相変わらず見るものすべてに興味津々だった。
馬車の窓から大きな水車を見つければ構造を尋ね、牧草地に羊の群れがいれば数を数え始め、街道沿いの林檎園で収穫作業をしている人々を見つければ、どうして木を揺らさず一つずつ実を取るのかと不思議がった。
ヴィルヘルムはそのたびに丁寧に説明し、分からないことがあれば一緒に考えていた。
私も時折横から口を挟み、前世で見た農業機械や食品加工の知識を思い出しては、現在の生産方法との違いについて一人悶々と思案する。
しかし、一人腕を組み目を細める度に、
「レベッカ、旅行ですよ。」
とヴィルヘルムに笑いながら指摘された。
おかしい。私はこれでも十分に楽しんでいるのだが。外から見ると仕事をしているように見えてしまうのだろうか。
もっとも、そう言うヴィルヘルム自身も、街道沿いに築かれた古い水門を見つけた際には、何故かその場で水利権の歴史から地域の税収構造まで説明し始めたので、あまり人のことは言えないと思う。
そして、その話を聞いていたリアムが「お父様、すごい!」と大喜びしたものだから、私は内心、完全に敗北を認めた。
駄目だ。根本の知識量が違いすぎる。
そうして目的地までの数日間も、私は決して退屈しなかった。
馬車を止めて短い散策を楽しみ、宿駅で焼きたてのパンを買い、珍しい菓子があれば少しだけ味見をする。宿泊先では三人でその日に見たものを話し合い、リアムが興奮してなかなか寝つかない夜もあった。
朝になると、リアムはまた真っ先に起きて窓へ駆け寄り、今日はいよいよベインバルクへ着くのかと毎度尋ねた。そのはしゃぐ姿を見られるだけで、私は毎朝目覚めるのが楽しみになった。
そして四日目の午後、馬車が最後の峠へ差し掛かった頃には、窓の外の景色は王都周辺とはまるで違うものになっていた。
高い山々の斜面には紅葉した広葉樹が幾重にも重なり、深い赤、鮮やかな橙、黄金色、そして常緑樹の濃い緑が、山全体を巨大な織物のように彩っている。
谷へ向かって伸びる街道の脇には清流が流れ、その水面には青空と色づいた木々が映り込んでいた。澄んだ川の底には丸い石が幾つも見え、水が浅瀬へ差し掛かるたびに白く泡立ち、陽光を受けて細かな銀色の光を散らしている。
「うわあ……!」
窓へ張りついていたリアムが、何度目か分からない感嘆の声を漏らした。
「お母様、お山が赤いよ!」
「本当ですね。綺麗……!」
私も思わず身を乗り出す。
「ヴィルヘルム、見てください。あちらの山、全部紅葉していますよ!あっ、向こうの黄色い木、すごく綺麗です!」
「今年は冷え込みが早かったので、この辺りは今がちょうど見頃の筈です。」
ヴィルヘルムが真面目に言葉を返した。リアムが目を見開きながら頷く。
「リアム、あちらも見てください。川が光っていますよ。」
「どこ?」
「ほら、あそこ。お日様が当たってきらきらしています。」
「ほんとだ!」
息子と二人、夢中になって窓の外を眺めていると、耐えきれないとばかりに、後ろから笑い声が聞こえた。振り返れば、ヴィルヘルムが何とも楽しそうにこちらを見ている。
「なんです?」
「いえ。あなた方があまりにも楽しそうなので。」
「楽しいですよ。あなたもこちらへ来てください。」
「私も?」
「もちろんです。旅行でしょう?」
ヴィルヘルムは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑って座る位置を変えた。腕を伸ばしてリアムが窓から身を乗り出しすぎないよう支え、私たちと同じ方向へ視線を向ける。
こうして三人で一つの窓から山を眺めていると、何とも不思議な気分になった。ただ移動しているだけなのに、楽しい。目的地へ到着していないのに、もう十分に幸せである。
これが旅行というものだったのだろうか。
私は隣にいるヴィルヘルムの横顔を眺め、少しだけ嬉しくなった。
◇
ベインバルクが見えたのは、午後の日差しが僅かに傾き始めた頃だった。
山肌を縫うように続いていた街道が大きく曲がり、最後の尾根を回り込んだ瞬間、突然視界が開けた。
「……すごい!」
思わず声が漏れた。
深い谷の底に、一つの街が広がっていた。
灰白色の石造りの建物が川に沿って折り重なるように並び、急勾配の屋根は濃い灰色や深緑に塗られている。建物の間には紅葉した木々が枝を広げ、赤や黄金の葉が陽光を受けて鮮やかに輝いていた。谷の斜面へ向かって街は緩やかな階段状に広がっており、最も高い丘には白い石壁を持つ大きな館が幾つか建っている。
何より目を引いたのは、街の至るところから立ち上る白い湯気だった。
屋根の間から細く昇るものもあれば、広場の一角を覆うほど大きく広がるものもある。谷底を流れる川の上にも薄い霧が漂い、午後の光を受けて淡く輝いていた。街全体が柔らかな白い霞に包まれているような、まるで童話の中に迷い込んだような景色だった。
「けむりがいっぱい!」
リアムが窓に両手をついた。
「あれは煙ではなく、温泉の湯気です。」
ヴィルヘルムが説明すると、息子は驚いた顔で振り返った。
「おんせん?」
「地面の下から温かいお湯が湧いているんです。それを求めて、人がたくさん集まって街ができたんですよ。」
「どうして地面からお湯が出るの?」
「そうですね……地中の深いところで水が温められるからです。地下には熱を持った岩盤があって――」
ヴィルヘルムによる地質学の講義が始まった。
私は半分ほど聞きながら、窓の外へまた目を向けた。
馬車が谷を下るにつれ、冷たかった空気の中へ様々な香りが混じり始めた。湿った石と木々の匂い、薪が燃える香ばしい煙、それから温泉特有の微かな鉱物の匂い。遠くの鐘楼からは澄んだ鐘の音が響き、山肌に沿って並んだ家々の屋根を、小鳥が飛び交っている。
その中へ、ふと甘い香りが混じった。
私は思わず鼻を動かした。
「……何か焼いていません?」
ヴィルヘルムが言葉を止めて、そっと外を窺う。
「恐らく林檎でしょう。この辺りはちょうど収穫の最盛期の筈です。」
「ということは、焼き林檎……。」
林檎は私の好物の一つだった。途端にお腹が空いてくる。
今日は昼食を馬車の中で簡単に済ませたあと、菓子を少し食べただけなので、確かにそろそろお腹が減ってもおかしくはない。
だが、それ以上に、知らない街へ入っていく時に漂ってくる美味しそうな匂いというものは、どうしてこうも人の食欲を刺激するのだろう。
「ヴィルヘルム、着いたら何か食べましょう。」
「ええ。昼食は軽めにしましたからね。街のものも楽しめるでしょう。」
「さすがです。」
「……何がです?」
「旅行先で美味しいものを食べるための胃袋の余白まで管理しているところです。」
ヴィルヘルムは否定せずに、ふっと笑った。私の思考まで完全にトレースしている。できる夫はやはり違う。
馬車はやがて街の門を通り、石畳の道へ入った。
左右には二、三階建ての石造建築が並び、窓枠や看板には濃い色の木材が使われている。建物の壁にはところどころ細い蔦が這い、紅葉した葉が白灰色の石を鮮やかに彩っていた。
街路脇には石造りの細い水路が走り、蓋のない場所からは白い湯気がゆらゆらと昇っている。軒下には乾燥させた薬草や花束が吊るされ、店先には籠いっぱいの林檎や栗、胡桃などが並んでいた。
そして何より、人々の様子が実に楽しそうだった。
広場では旅人が地図を広げ、宿の前では荷物を降ろす馬車が行き交っている。店先では商人と客が笑いながら言葉を交わし、酒場の扉が開くたびに賑やかな声が通りへ漏れてきた。少し離れた場所では楽器を抱えた若者たちが演奏の準備をしており、その周囲へ子供たちが集まっている。
私は馬車の窓からその光景を眺め、胸の奥がむずむずするのを感じた。
ああ、駄目だ。
早く歩きたい。
あの艶やかな林檎をよく見たいし、あちらの店の焼き菓子も気になる。石造りの水路も近くで見てみたいし、できればあの広場から街全体を眺めてみたい。
旅行だ。
これこそ、旅行だ。
私は前世でかつて聞いた三都物語の曲を密かに思い出しながら、高鳴る胸の鼓動を感じていた。
◇
まもなく、上町の王家の保養邸、白鹿宮へ到着した。
白鹿宮は宮殿というより、山の斜面に建てられた大きな別荘に近かった。白い石壁と濃い茶色の木材を組み合わせた建物で、屋根は雪が滑り落ちやすいよう急な傾斜を持ち、窓や壁など至る所に美しい細工が施されている。庭には背の高い針葉樹と色づいた楓が植えられ、建物の裏手からは微かに湯気が立ち上っていた。
室内も実に居心地が良さそうだった。厚い絨毯が敷かれ、暖炉には既に火が入っている。大きな窓からは谷と街並みが見渡せ、客間の壁には山の風景や鹿を描いた絵画が飾られていた。
本来なら少し休憩してから街へ出るべきだろうと考えていたのだが、窓の向こうに広がる紅葉を見ているうちに、私はそわそわしてきた。堪らず、リアムの鞄の玩具を寝台の横へ並べていたヴィルヘルムへ声を掛ける。
「……今から街へ出てもいいですか?」
「ええ、それは構いませんが……休まなくて大丈夫ですか?」
「大丈夫です。行けます!」
「ぼくも!」
リアムまで勢いよく手を上げた。
ヴィルヘルムは私と息子を交互に見て、それから小さく笑った。
「では、行きましょうか。」
ヴィルヘルムはそう言って、掛けたばかりの外套を取った。
お互い旅行用に用意した落ち着いた色の外套を羽織り、リアムの小さな上着を整えてやると、私たちは必要な護衛だけを伴って街へ向かった。
上町から中町へ続く坂道は幅の広い石畳になっており、道の両側には林檎の木が幾本も植えられていた。大きな実は既に大半が収穫されていたが、枝にはまだ赤や黄の林檎が残っている。
木々の間から見える街並みは山間の傾斜に沿って緩やかに広がり、通りの先では温泉の湯気が風に揺れていた。
途中、建物の壁へ絡まった蔦が真っ赤に色づいているのを見つけ、私は思わず足を止めた。淡い灰色の石壁へ赤い葉が幾重にも重なり、横から差し込む陽光を受けて透き通るように輝いている。
窓辺には小さな花鉢が並び、その下には木製の長椅子まで置かれていた。
「かわいい。素敵なおうちですね。」
「少し、森の家に似ています。」
「……もう五年も前なのですよね。家にも上がらせてもらえず、軒先で白湯を飲んだこと、覚えてます?」
「もちろんです。では、今夜は思い出に浸りながら白鹿宮のテラスでお茶でもいかがですか?ここは夜景も素晴らしいそうですよ。」
「それはぜひ。」
自分でも驚くほど弾んだ声が出た。
ヴィルヘルムはそれを聞いて、嬉しそうに微笑み、私の手を握った。
そうして中町へ入り、商店の並ぶ賑やかな通りを歩き始めたところで、私はあることに気づいた。
誰も彼もが、こちらを見ている。
最初は気のせいかと思ったが、やはり違う。林檎を籠へ並べていた若い女性が、こちらを見て口を開けたまま手を止めている。反対側から歩いてきた二人組の娘など、一度すれ違った後、わざわざ振り返って立ち止まり、頬を染めてこちらを見ている。店先で荷物を運んでいた青年まで動きを止め、通りの向こうで買い物をしていた年配の女性が「あらまあ」と小さく声を上げ、持っていた籠を落とした。
そう。
これ。これである。
私は妙に満足した。
王宮では、皆慣れすぎているのだ。ヴィルヘルムが廊下を歩いていても、誰も書類を取り落としたりしない。リアムが侍従へ笑いかけても、いちいち天を仰いだりはしない。日常的に接しているうちに、この二人の容姿がどれほど異常な水準にあるのか、感覚が麻痺してしまっているのである。
だが、本来これが正しい反応なのだ。
分かる。分かりますとも。皆様、どうぞ存分にご覧ください。こちら、国宝級の美貌でございます。しかも一人ではない。親子二代である。
淡い金髪と青い瞳を持つ、天才画家が死力を尽くして描いた絵画から、そのまま抜け出してきたような美青年。そして、その父親に似た顔立ちで無邪気に笑いながら歩く、天使のような四歳の美少年。
驚くべきことに、ただの美青年と美少年ではない。何と国王と王子なのである。
顔面だけでも凄まじいのに、肩書きまで強い。
どうです皆様。
素晴らしいでしょう。
因みに、私の夫と息子です。
構いません、構いません、どうぞ存分にお崇めください。
「……レベッカ?」
ヴィルヘルムが不思議そうに私を見た。
「どうかされました?」
「いえ、皆さんが大変正しい反応をしているので、やはり私の認識が正しかったと、深く実感しているところです。」
「正しい反応、ですか?」
「あなたとリアムに対しての反応です。」
「……?」
ヴィルヘルムは明らかに理解していなかった。
彼は、自分の顔については本当に自覚が薄い。時折その容姿を利用して政治的に有利な状況を作ることもあるのだから、自分が人目を引く外見であるという認識はあるのだろう。
それなのに、どういうわけか日常生活ではまるで気にする様子がない。
もったいない。
いや、もったいないとは何だろう。
自分でもよく分からないが、少なくとも世界的に見ても貴重な文化財であることは間違いないと思う。
その時、店先に立っていた年配の女性がこちらへ顔を向け、嬉しそうに声を掛けてきた。
「まあまあ、なんて綺麗なご家族だこと。旦那様も奥様も、お坊ちゃんまで、お人形みたいに整ったお顔ねえ。」
「ありがとうございます。自慢の夫と子供です。」
私が誇らしげに言うと、ヴィルヘルムが、少しきょとんとした顔でこちらを見た。
「今、ご自分も褒められていましたよ。」
「私は付属品です。」
「……そういうことにしておきましょうか。」
何故か笑われた。
よく分からない。
「こんにちは!」
気がつけば、リアムは先ほどの女性のところまで歩いていた。
女性も驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに顔を綻ばせる。
「まあ、こんにちは。元気な坊ちゃんだねえ。」
「これ、りんご?」
「そうだよ。今年取れたばかりの林檎だよ。」
木箱の中には赤や黄の林檎が種類ごとに並べられ、店先の籠には小ぶりな青林檎も盛られていた。熟した果実の甘い香りが漂い、表面にはまだ畑から運ばれてきたばかりのような瑞々しい艶がある。
リアムはその一つを指差して尋ねた。
「なんで赤いの?」
「お日様をたくさん浴びると赤くなるんだよ。」
「こっちは黄色いよ?」
「種類が違うんだよ。こっちの黄色いのは酸味が強くてね、焼いたりお酒にしたりすると、とても美味しいよ。」
「お酒?」
リアムがぱっと振り返った。
「お母様!これ、お酒になるんだって!」
「そうなんですか?」
私は興味を惹かれて林檎を見た。色や大きさに随分と違いがある。
「奥様、試していかれますか?」
女性が笑顔で言った。
「今年の新酒があるんですよ。ちょうど昨日、最初の樽を開けたところでね。」
「いただきます……!」
「レベッカ。」
「試飲です。」
「まだ何も言っていませんよ。」
そう言って苦笑したヴィルヘルムに少しだけ悲し気な表情を返すと、慌てたように抱きしめられ、こめかみに口付けられる。
「体調を悪くしない程度なら、構いませんから。」
なんとも妻に甘い夫である。
そうして受け取った陶器に注がれた林檎酒は、陽光を受けて淡い金色に輝いていた。
鼻先へ近づけると、驚くほど鮮やかな林檎の香りが立ち上る。爽やかな青い果実の香りだけでなく、熟した林檎特有の柔らかな甘さも感じられ、微かに発酵由来の複雑な香りが混じっている。
一口含むと、舌の上で細かな泡がぱちぱちと弾けた。
思った以上に酸味が鮮やかで、けれど決して尖っていない。爽やかな酸っぱさが口いっぱいに広がった後、果実らしい柔らかな甘みが追いかけてくる。飲み込んだ後にも青林檎のような香りが鼻へ抜け、思わずもう一口飲みたくなる味だった。
「……わ、美味しい!」
私は目を輝かせた。
「でしょう? 今年は天候に恵まれましてね。」
「すごく林檎の香りが残りますね。酸味も綺麗ですし、これなら食事にも合いそうです。」
「おや、奥様、随分お詳しいね。」
「いえいえ、それほどでも。美味しいものが好きなだけです。」
実際にはそこまで酒に詳しいわけではないが、前世での社会人生活を通じて、酒の味や香りについて話すことには多少慣れている。
それにしても、こうして産地で飲む新酒というものは、ただそれだけで格別な気分になる。
「もう一口いただいても――」
目の前へ水が差し出された。
私は杯と水とを交互に見る。
ヴィルヘルムが穏やかに微笑んでいた。
「どうぞ。」
「……まだ一口ですよ?」
「ええ。」
「酔っていませんよ?」
「もちろん存じています。」
「では、何故?」
「先手です。」
この男。
私は少々不満だったが、先日の件もある。差し出された水を受け取り、素直に口へ運んだ。冷たい水が舌に残っていた林檎酒の甘みをすっきり洗い流した。
たしかに、旅行への興奮で、今日はあまり水分を摂っていなかったので、水も美味しく感じた。しかし、悔しい。どこまでできた夫なのだろう。
リアムはそんな私たちのやり取りを興味深そうに眺めていたが、すぐにまた林檎へ関心を戻し、女性へ次の質問を始めた。
「これもお酒になるの?」
「そうだよ。こっちは甘いお酒になるねえ。」
「じゃあ、これも?」
「そっちはお菓子にする方が美味しいかな?」
「おかし!」
分かりやすい。
女性は嬉しそうに笑い、籠から小ぶりな林檎を一つ取り出した。
「坊ちゃん、これを持っていきな。甘くて美味しいよ。」
「いいの!?」
「もちろんさ。目の保養もさせてもらったしね。」
「ありがとう!」
リアムは両手で林檎を受け取り、嬉しそうにこちらへ見せてきた。
「お母様、もらった!」
「まあ、良かったですね。大切に食べましょうね。」
私は女性へもう一度礼を述べ、林檎酒を数本、土産物として包んでもらうことにした。
着いたその日だというのに早速荷物が増えているが、まあ良いだろう。
旅行とはそういうものだ。
恐らく。
◇
それからのリアムは、まさに水を得た魚だった。
通りの向こうで樽を転がしている職人を見つければ、すぐに興味を示して近づいていく。勝手に走り出さないように手は握っているものの、行ってもいいかと何度も確認してくる。
目はきらきらと輝いており、見たい、聞きたい、知りたい、と全身で訴えていた。
「おじさん、これなに?」
「おや、樽だよ。酒を入れるんだ。」
「お酒のおうち?」
「おお! そうだな、酒のおうちだ!」
大柄な樽職人は豪快に笑い、リアムの目の高さまで屈んで木製の樽を指差した。
職人が側板を並べ、鉄の輪で締め、底板をはめ込む仕組みを説明すると、真剣な顔で一つずつ頷いている。
「どうして木でつくるの?」
「木の香りが酒へ移るんだよ。特にここの酒は、樽で寝かせると美味しくなるんだ。」
「お酒、ねるの?」
「そうだよ。何年もずうっと寝るんだ。」
「おきないの?」
職人がまた大笑いした。
私は思わず口元を押さえた。リアムは何もふざけていない。本気で不思議なのだろう。それがまた何とも可愛らしく、職人の方もすっかりリアムを気に入ってしまったらしい。
「坊ちゃん、これやるよ。うちの親父が作ったもんだ。」
差し出されたのは、掌に収まるほどの小さな木彫りの鹿だった。樽材の端材で作られたものらしく、丁寧に削られた角とつぶらな目が愛らしい。
「しか?」
「そう。ベインバルクは鹿が多いからな。」
「わあ!ありがとう!」
リアムは嬉しそうに受け取った。
私はその様子を見ながら、夫へそっと顔を寄せた。
「……先ほどから、購入した覚えのないものが増えているのですが。」
ヴィルヘルムは息子の手元へ目を向け、真面目な顔で頷いた。
「外交成果です。」
「四歳ですよ?」
「たいへん将来有望かと。」
ヴィルヘルムは非常に誇らしげだった。
その後も、リアムは温泉水路から立ち上る湯気を見つければ、掃除をしていた老人へ「ここ、お風呂なの?」と尋ね、屋台から香ばしい匂いが漂ってくれば、店主へ自分から「いいにおい!」と報告しに行った。
誰にでも話しかける。相手が年配の商人でも、職人でも、観光客でも関係ない。
しかも一方的に喋るわけではなく、相手の話を聞いた上で「どうして?」「それから?」と次々質問するものだから、話しかけられた側もつい熱心に答えてしまう。
気がつけば焼き栗の入った紙袋と、町の印が入った手布、小さな林檎の形の胸飾りまで増えていた。
私は息子の手元を眺め、少々困惑した。
「……リアム、皆さんに何かいただいたら、きちんとお礼を言うのですよ。」
「うん!ありがとうって言った!」
「偉いですね。」
「お母様も食べる?」
小さな手が、焼き栗を一つ差し出してきた。殻を剥いてもらったらしく、温かな実からほのかな湯気が立っている。
「まあ、ありがとうございます。」
受け取って口へ運ぶと、ほくほくとした栗の甘さが広がった。砂糖など使っていないのに驚くほど甘く、香ばしく焼けた表面との相性も良い。
「美味しい!」
「おいしいね!」
リアムは満足そうに笑った。
ああ、本当に。
この子はなんて可愛いのだろう。
しかし、この社交性は一体誰に似たのだろうか。私は幼い頃からそれなりに人付き合いは得意だったが、初対面の人間へここまで臆せず話しかけていた記憶はない。
ヴィルヘルムに至っては、少年時代にこのような振る舞いをしていたとは到底思えない。
「ヴィルヘルム、リアムは誰に似たのでしょうね。」
「あなたでは?」
「私ですか?」
「ええ。興味を持ったことにはすぐ近づいて、捕まえて話を進めていくところなど、よく似ていると思います。」
「そうですか?」
「……私は出会ってすぐに連行されましたから。しかも、その後一刻ほどの討論に持ち込まれました。」
ヴィルヘルムは懐かしむように小さく微笑んだ。彼のことだ。きっと討議内容も正確に記憶しているに違いない。
かつての自分とはいえ、若干頭を抱えたくなった。
私はそうして少々複雑な気持ちになったが、当のリアムはそんな両親の会話など気にも留めず、今度は向かいの店から聞こえてきた威勢の良い声へ顔を向けていた。
「焼き林檎ですよ!焼きたての焼き林檎はいかがですか!」
その声と同時に、何とも甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
私は反射的に振り返った。
蜂蜜、焦がしたバター、それから温められた林檎特有の甘酸っぱい香り。
こ、これは。
これは食べなければならない。私はヴィルヘルムの袖を引いた。
「ヴィルヘルム、あちらへ行きましょう……!」
「……焼き林檎ですか?」
「食べます!」
「あなたは本当に林檎が好きですね。」
「だって美味しいではないですか!」
ヴィルヘルムが笑った。
「お母様、ぼくも!」
「もちろんです。リアム、一緒に行きましょう!」
ヴィルヘルムとリアムの手を握って、私は意気揚々と歩き出した。
旅行はまだ始まったばかりである。




