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十年越しの遠乗り

「ねえ、リアム。今日はお母様と一緒に、馬を見に行きませんか?」


 朝食の席でそう声を掛けると、リアムは焼きたてのパンへ伸ばしかけていた手をぴたりと止めた。大きな青い瞳がぱちりと瞬き、私の言葉を確かめるように小さく首を傾げる。

 顔立ちこそ父親によく似ているのだが、表情は非常に豊かで、何かを考えている時の顔など、もう頬擦りしたくなるほど愛らしい。四歳になってお喋りも随分上達し、最近では歌まで歌ってくれるようになった。もちろん天使の歌声である。異論は認めない。


「おうま?」


「ええ。王宮の馬房には、立派なお馬さんがたくさんいるんですよ。今日は天気も良いですし、見学に行きませんか?」


「ほんとに?おうま、さわっていい?」


「もちろん、お馬さんのお世話をしている方に聞いてからですけれど。優しい馬なら、撫でさせてもらえると思いますよ。」


 私の返事を聞いたリアムは、ぱっと花が咲くように顔を輝かせた。小さな両手を胸の前で握り締め、喜びをどう表現したらよいのか分からないといった様子で椅子の上でもぞもぞと身体を動かしている。


 可愛い。実に可愛い。まさに天使である。どうしよう、こんなに尊い存在がこの世にいることが広まったら、この子を巡って戦争が起こってしまうかもしれない。致し方ない。全人類の平和のためにも、私が独占的に保護し、責任を持って日々お世話をするしかないだろう。母親という立場を利用した職権濫用だと言われても、こればかりは譲れない。


「お父様!きいた?おうまだって!」


 興奮したリアムが隣に座る父親へ報告すると、ちょうど紅茶のカップを置いたヴィルヘルムが顔を上げた。


「馬ですか。きっと楽しいですよ。」


 柔らかく目を細めて微笑む顔は、今日も変わらず美しい。朝の陽光を受けて淡く輝く金髪も、長い睫毛に縁取られた青い瞳も、相変わらず腹立たしいほど整っている。四歳の息子に向ける笑顔には普段の冷淡さなど欠片もなく、親である私から見ても、これはなかなか犯罪的な光景だと思う。


 見える。私には後光が見える。

 この親子、いつかうっかり人を昇天させるのではないだろうか。


「お父様もいっしょに行く?」


 リアムが期待を込めて尋ねると、ヴィルヘルムは一瞬だけ考えるように目を伏せ、それから食卓の脇に控えていた事務官へ顔を向けた。


「今日の午前の予定は、どこまで動かせますか?」


「……はい?」


「財務関連の決裁は昨日までに大半を終えていますね。午後の会議はそのままで構いませんが、午前の謁見のうち緊急性の低いものは日程を調整できるでしょう。難しいようなら午後の空き時間へ。第二会議室の案件は書面決裁で問題ありません。北部街道の補修計画については明日の朝へ移してください。」


「は、はい。確認いたしますが、その、陛下……。」


「リアムが初めて馬に触れる機会です。私も父親として同行すべきでしょう。」


 至極当然といった様子で告げるヴィルヘルムに、事務官が何とも言えない顔をした。当の本人はすでに頭の中で日程の再編成を終えたらしく、この後に処理しておきたい案件をさらに幾つか挙げ、代替の時間帯まで細かく指定し始めている。予定表を開く様子もないので、恐らくすべて覚えているのだろう。


 相変わらず凄まじい性能を持つ脳である。


 以前、どういう仕組みでそれほど膨大な情報を記憶し、即座に組み替えているのか気になって、思考法を辿ろうと質問を重ねたことがあった。すると本人曰く、知識は暗闇に星のような点として浮かんでおり、何かを見る、聞く、考えると、それらが自然に線で繋がり、必要な形を作るのだという。


 なんだろう、星座かな。

 やはり凡人に天才の頭は理解できない。


「お父様も来るの?」


 リアムがもう一度尋ねると、ヴィルヘルムは事務官との会話を切り上げ、すぐに息子へ向き直った。


「ええ。私も一緒に行きます。リアムがよければ、少し馬に乗ってみましょうか。」


「のる!ぼく、おうまにのるよ!」


「やった!」と今度こそ大興奮で立ち上がろうとした息子を、ヴィルヘルムが片手でそっと制し、まずは朝食を食べ終えるよう穏やかに諭した。

 リアムは勢いよく頷き、パンを取ると俄然やる気に満ちた表情で口へ運び始める。大きく口を開いたものの、注意されると思ったのか途中でぴたりと止まり、一度口を閉じてから、小さめに開け直した。


 もぐもぐと懸命に食べる姿はもう拝みたくなるほど可愛い。

 その頬にバターが少し付くと、ヴィルヘルムが何も言わず布巾でそっと拭った。


 私はそんな二人を眺めながら、ひとり大満足していた。

 可愛い息子に、美しい夫。穏やかな秋の朝に、家族で過ごす朝食の時間。これ以上何を望めというのだろう。まさに理想的な幸福である。


 なお、この時点での私は、約十年前に自分が馬の上でどれほど醜態を晒したのか、すっかり忘れていた。



    ◇



 王宮の厩舎は、城の北西に広がる庭園を抜けた先にある。

 馬房の数も多く、王家の乗用馬から儀仗用の馬、護衛騎士たちが使用する軍馬まで、それぞれ用途に応じて管理されていた。


 朝の空気には秋の気配が混じり始めていたが、日差しはまだ暖かい。石畳の道を歩いていると、風に揺れた木々の葉が頭上でさらさらと音を立て、庭園の奥からは小鳥の声が聞こえてくる。厩舎へ近づくにつれ、乾いた藁や飼葉、土、そして動物特有の温かな匂いが風に混じった。


 リアムはもう、見るものすべてに興味津々だった。厩舎の窓から馬が顔を覗かせれば足を止め、庭の向こうで騎士が馬を引いているのを見つければ、今度はそちらへ視線を向ける。


 父親と母親の手をそれぞれ握り、今にも走り出したそうにしている息子へ、ヴィルヘルムは馬を驚かせないようゆっくり歩くこと、大きな声を出さないこと、後ろから急に近づかないことを一つずつ丁寧に説明した。


 リアムへ向ける言葉は、驚くほど優しい。ただ危険だから駄目だと命じるのではなく、馬は身体が大きくても臆病なところがあり、急に驚かせると自分を守るために動いてしまうことがあるのだと、四歳児にも理解できる言葉を選んで話している。


「おうまも、びっくりするの?」


「ええ。人間と同じです。知らないものを突然見せられたり、大きな音がしたりすると、怖いと思うことがあります。」


「お父様も?」


 ヴィルヘルムは一瞬だけ目を瞬かせた後、少し笑った。


「私も、驚くことはあります。」


「お父様もこわいの?」


「そうですね。大切なものが傷つくことは、とても怖いです。」


 そう言って、リアムの僅かに金の混じった茶髪を優しく撫でる。


 ああ、もう。何なのだ、この光景は。


 私は危うくその場で膝をつきそうになった。天使が二人いる。ここは天国だろうか。一旦落ち着こうと密かに深呼吸したのだが、すぐ隣でヴィルヘルムが馬房の前へ腰を落とし、リアムと同じ目線になるのを見て、早くも冷静さを失いかけた。


「リアム、こちらの馬に触れてみますか?」


「うん!」


「では、私と一緒に。まずはゆっくり手を出してください。」


 栗色の穏やかな牝馬が、こちらへ首を伸ばしてきた。

 ヴィルヘルムは馬の様子を確かめながら、自分の手をその首へ添え、リアムにも同じように触れさせる。


 小さな掌が、そっと馬の毛並みに触れた。


「あったかい……!」


「生きていますから。」


「ふわふわ!」


「ええ。優しく撫でてあげてください。」


 嬉しそうに笑う息子を見て、ヴィルヘルムの目元も柔らかく緩んだ。


 ああ、駄目だ。誰か写真を撮らせて。いや、どうせなら動画がいい。今のこの二人の笑顔を永久保存したい。


 何故この世界には撮影機器がないのだろう。誰かなんとか開発してくれないだろうか。

 映像記録技術の発達は経済、文化、科学、医療等幅広い分野へ恩恵をもたらすはずであり、国庫から研究費を拠出する価値は十分に――。


「レベッカ?」


 真剣に予算の決議書へどう文言を入れるべきかまで思案し始めていた私を、ヴィルヘルムが少し不思議そうに見遣った。


「どうしました?」


「いえ、その……あなたが昔、馬房で馬を撫でていたのを思い出して。」


「……そうですか。」


 咄嗟に口から出した言葉に、ヴィルヘルムは僅かに目を見開き、それから少し困ったように笑った。


 その表情が、かつての少年の姿を思い起こさせた。

 一人静かに馬の首を撫でていた、どこか不思議そうで、寂しげな少年。

 声を掛けずに目を離せば、そのまま朝の光へ溶けて消えてしまいそうな、まるで有明の月のような儚げな姿。


 私は、隣で馬を撫でながら、父親を真似して一生懸命優しく手を動かしている息子を見た。


「リアムは、月というより太陽かしら。」


「何がです?」


「私、あなたと初めて出会った時に、月の妖精に違いないと思ったのです。あまりにも綺麗で。」


 ヴィルヘルムは驚いたように口を噤んだ。それから少し目を伏せ、躊躇うように口を開く。白い頬が仄かに色付いていた。


「私は……あなたを薔薇か太陽かと思いました。あまりにも、美しくて。」


 今度は私が口を噤む番だった。


 顔が熱い。こんなにも風は涼しいというのに。


 耐えられずそっと目線を泳がせると、さっと侍従や厩務員が目を逸らした。

 申し訳ない。国王夫妻の戯れ合いなど、見せられる側には堪ったものではないだろう。


 これは気まずい。

 私は思わず咳払いした。


 やがてリアムのために、背の低い穏やかな小馬が用意された。

 毛色は明るい栗色で、額には小さな白い模様があり、大きな目はとても優しそうだった。子供が初めて乗る際にもよく用いられる、特に人慣れした馬なのだという。


 ヴィルヘルムは乗馬帽をリアムへ被せ、顎紐を丁寧に調整すると、鐙へ足を掛ける位置や鞍の握り方を一つずつ教えた。

 リアムはそれまでの興奮が嘘のように真剣な顔になり、小さな手で鞍を触りながら、父親の説明を懸命に確かめている。


「怖かったら、すぐに言ってくださいね。無理をする必要はありませんから。」


「だいじょうぶ!ぼく、できるよ!」


 リアムは懸命に胸を張ったものの、いざ馬へ近づくと、ほんの少しだけ表情が硬くなった。

 それに気づいたヴィルヘルムが、そっと肩へ手を置く。


「私がそばにいます。大丈夫です。」


 その言葉を聞いた途端、リアムは安心したように頷いた。


 ヴィルヘルムは厩務員と息を合わせ、慎重に息子の身体を持ち上げて鞍へ座らせた。

 初めは少し腰が引けていたリアムだったが、父親が身体を支え、厩務員が手綱を引いてゆっくり馬を歩かせ始めると、次第に目を輝かせていった。


「お母様!みて!」


「見ていますよ!リアム、すごいです!」


「ぼく、おうまにのってる!」


「ええ、とても上手に乗れています!」


 私はもう、感動のあまり泣きそうだった。

 息子が馬に乗っている。まだ四歳なのに怖がらず、きちんと背筋を伸ばしている。


 素晴らしい。天才ではないだろうか。初めてなのにあんなに上手に乗れるなんて、これは完全に父親譲りの才能に違いない。

 いや、好奇心の面で少しは私の遺伝子も貢献している可能性がある。しかし、こと乗馬に関してだけは私の血が薄められていることを願うばかりである。


 馬がゆっくり一周を終えると、ヴィルヘルムは息子の身体を支えて降ろし、そのまま抱き上げた。


「よくできましたね、リアム。とても上手でしたよ。」


 リアムは嬉しそうに父親の首へ抱きつく。


「お父様!ぼく、のれた!」


「ええ、立派でした。最初は少し怖かったでしょう?」


「ちょっとだけ。でも、お父様がいたからだいじょうぶだった!」


 ヴィルヘルムは目を細め、息子の額へ口付けた。リアムも笑うとすぐに父親の頬に口付けを返す。


 その姿を見た私は、静かに天を仰いだ。神よ、これ以上私を幸せにしてどうするおつもりか。流石に供給過多である。私の情緒が持たない。


 そんな幸福なひとときを過ごしていた私の耳へ、息子の無邪気な声が届いた。


「お母様は?」


「……はい?」


「お母様は、のらないの?」


 私は固まった。


 そうだった。乗馬。今日は確かに、私も乗馬をしに来たのだ。格好だってそのために整えてきた。


 十年前の緊張が蘇り、思わず背筋が硬くなりそうになるのを、いや、と心の中で制する。


 あの頃はまだ十五歳で、何かと未熟だった。しかし今や私も二十五歳。一人で小屋暮らしをし、海を越え、子供まで産み育て、現在は王妃として国政へ関わる経験も積み始めている。精神的にも肉体的にも、多少なりとも進歩しているはずである。むしろそうでなくては困る。


 大丈夫。理論は覚えている。馬の動きへ合わせて腰を使い、重心を適切に保ち、急に手綱を引かず、身体を強張らせない。知識は完璧だ。


 私は胸を張り、リアムへ堂々と微笑んだ。


「もちろん、お母様も乗りますよ。リアムがあんなに頑張ったのですから、お母様も負けていられません。」


 そう言って意気揚々と用意された馬へ歩み寄り、そして、目の前でぴたりと足を止めた。


 馬がこちらを見た。


 大きな黒い瞳に、長い首。逞しい四本の脚。馬が小さく鼻を鳴らすと、その温かな息まで届きそうな距離である。


 なんだろう。


 思っていたより、大きいな。


 いや、馬とはこういう生き物である。もちろん知っている。目の前にいるのは穏やかな乗用馬で、きちんと調教されている。危険な動物ではないし、乗り方だって理解している。

 それなのに、いざ馬の背へ上がることを考えると、どういうわけか身体が動かなくなってしまった。


「レベッカ?」


 ヴィルヘルムが声を掛けてきた。


「……少々、お待ちください。現在、頭と身体の間で意見の相違が発生しております。」


 ヴィルヘルムは一瞬黙った後、片手で口元を覆った。何かを堪えている。笑っている。間違いなく笑っている。


「……十年前にも、似たようなことを仰っていましたね。」


「十年経ったので、協議内容も高度化しております。」


「なるほど。それは大変ですね。」


 青い瞳が楽しそうに細められた。


 この男。


 いや、夫である。しかも大変美しい夫である。しかし今は、少しだけ腹立たしい。


「お母様、だいじょうぶ!」


 そんな私へ、リアムが駆け寄ってきた。小さな両手で私の手を握り、真剣な顔で見上げてくる。


「ぼくもできたよ!こわくないよ!」


「ええ、ありがとう、リアム。お母様も頑張りますね。」


「お父様にたすけてもらったら、だいじょうぶ!」


 私は瞬いた。ヴィルヘルムも瞬いた。


 それから彼は、ゆっくりとこちらを見ると、顎に手を当てて私と馬を見比べ、いかにも合点したとばかりに頷いた。


「そうですね。私が一緒に乗って、後ろから支えましょう。」


 大変穏やかな提案だったが、私は見逃さなかった。若干、言葉尻に笑いの気配があった。絶対にあった。


 きっとヴィルヘルムは十一年前も、十年前も、私が馬上で晒した醜態を余すところなく覚えている。私が一人で乗れるはずなどないと確信したに違いない。


 くそう。

 これは悔しい。大変悔しい。


「……一人でも乗れるかもしれませんよ?」


「もちろんです。では、試してみますか?」


 ヴィルヘルムが微笑んだ。


 私は馬を見た。


 馬が私を見た。


 しばらく互いに見つめ合った末、私は静かに夫へ向き直る。


「……やはり、後ろで支えていただけますか。」


「喜んで。」


 即答だった。


 もう少し文句を言ってやろうかと思ったが、ヴィルヘルムが何故かとても嬉しそうに見え、結局私は口を噤んだ。


 しかし、複雑な気持ちは捨てきれない。十年も経ったのに一人で馬にも乗れないとは。

 いや、待て。むしろ今日の私は、一人で馬に乗れない自分を素直に認めた。これは大きな成長と言えるのではないだろうか。


 そうに違いない。

 そうだと言わせてほしい。


「お母様、がんばって!」


 リアムが小さな拳を握って応援してくれた。


 いや、もう恥ずかしい。普通に恥ずかしい。仮にリアムが百年に一人の天才であったとしても、まだ四歳の小さな子供である。その母親が、夫に後ろから支えてもらえなければ馬にも乗れない。


 親としての尊厳が、ごりごりと音を立てて削られていく。


「ありがとう、リアム。お母様、頑張りますからね。」


 笑顔で返しながら、心の中では両手で顔を覆った。


 ヴィルヘルムは厩務員と相談し、大柄で穏やかな黒馬を選んだ。体格がよく、人を二人乗せても安定して歩けるよう十分に訓練された馬で、動きは落ち着いており、厩務員が首筋を撫でると静かに頭を下げている。乗馬を得意としない私のために、ヴィルヘルムが慎重に選んでくれたのだろう。


 馬具を確認した後、彼はまず私を馬の背へ乗せ、足の位置と姿勢を丁寧に直してくれた。


「大丈夫ですか?」


「……今のところは。」


「では、私も乗りますね。」


 そう言って、ヴィルヘルムは鐙へ足を掛けた。


 私は気になって、そっと後ろを見遣る。


 彼はほとんど力みを感じさせない動きで身体を引き上げ、そのまま自然な動作で馬の背へ腰を下ろした。身体を無理に動かすことなく、腰から背、肩へと姿勢が流れるように整い、馬もほとんど揺れない。長年の鍛錬によって身についた動作なのだろう。思わず息を止めて眺めてしまうほど美しい所作だった。


 本人に、見せつけるつもりが全くないところが、これまた悔しい。


 先ほどまでとは別の要因で胸の内が騒がしくなる。


 今日のヴィルヘルムは普段の重厚な黒衣ではなく、濃紺の乗馬服を身に着けていた。身体に沿うよう丁寧に仕立てられた上衣は、広い肩から引き締まった腰までの線を美しく際立たせ、長い脚を包む乗馬靴は、均整の取れた姿勢を一層強調している。

 手袋に包まれた長い指が手綱を扱い、陽光を受けた淡い金髪が風に揺れる。形の良い顎から首筋へ続く線も、馬へ目を向けた時の静かな横顔も、何故こうも一つ一つが絵になるのだろう。


 私は暫し見惚れてしまった。


 おかしい。


 神はヴィルヘルムの造形を制作する際、惜しむとか絞るとか、そういった概念を完全に放棄したのではないだろうか。どう考えても贔屓されているとしか思えない。

 しかもこの男、単に造形が美しいだけではない。頭脳明晰で、剣を扱わせれば一流、乗馬も見事で、国政まできちんとこなす。


 この男の周囲だけ、明らかに世界の解像度が違う。

 何とも不公平である。


「レベッカ?」


 至近距離で名を呼ばれ、私は我に返った。ヴィルヘルムが若干心配そうに私の様子を覗き込んでいる。


「やはり怖いですか?」


「いえ。世の不条理を嘆くべきか喜ぶべきか思案しておりました。」


「気分は?」


「複雑です。」


 ヴィルヘルムは数秒黙った後、何かを察したらしく、目元を和らげた。


「……帰ってから、詳しくお聞きしても?」


「い、いえ、それは大丈夫です。」


 私は慌てて前を向いたが、その直後、彼の腕が腰の前へ回され、身体がそっと背後へ引き寄せられた。


 思わず息を詰める。


 近い。


 いや、当然である。二人で一頭の馬に乗っているのだから、距離が近くなるのは物理的に避けられない。しかし、それにしても近い。


 十年前も、確かにこうして彼の前に座った。けれど、あの頃のヴィルヘルムはこちらへ必要以上に触れないよう細心の注意を払っていたし、二人の身体の間にもどことなく遠慮があった。それにあの時の私は馬に乗っていることに必死で、彼がどれほど気を遣っていたのかなど、考えもしなかった。


 今は違う。


 ヴィルヘルムは私の腰へしっかり腕を回し、身体が揺れても支えられるように抱き寄せてくる。

 広い胸と硬い腹が背に触れ、衣服を通して体温が伝わった。長い腕が身体の脇を通って前へ伸び、手綱を握る手には少しの迷いもない。

 後ろから包み込まれるような姿勢は思いのほか安定していて、確かにこれなら落ちる心配もなさそうだった。


 しかし、心臓には非常に悪い。


「レベッカ、緊張していますか?」


 耳元に低い声が落ちてきた。


「……少しだけ。」


「馬が怖いですか?」


「……それも、少し。」


 ヴィルヘルムが私の顔を覗き込もうとして、さらに身を寄せた。

 その気配に思わず後ろを向きかけると、彼の頬がすぐ目の前にあった。あと僅かに動けば唇が触れてしまいそうな距離で、二人ともぴたりと動きを止める。


 青い瞳が、すぐ近くで瞬いた。


 長い睫毛までくっきりと見える近さに私は何も言えなくなり、ヴィルヘルムもほんの一瞬だけ目を見開いた後、そっと視線を逸らした。


「……失礼しました。」


「い、いえ。」


 どちらからともなく前を向いたものの、妙に落ち着かない空気だけが残った。


 何だろう、この緊張感は。


 お互い出会って何年になると思っているのだろうか。もう子供までいる。それどころか、夜の夫婦生活だって大変順調である。


 なのに、何故こんなことで今さら照れているのか、我ながらさっぱり分からない。


「……では、参りましょうか。」


「……はい。」


 私たちのやり取りを近くで見守っていた厩務員が、何とも言えない顔で遠くを眺めていた。


 申し訳ない。

 また外野をいたたまれない雰囲気へ巻き込んでしまった。


 私は心の中で陳謝した。


 馬場ではリアムが、もう一度小馬へ乗せてもらうところだった。

 厩務員が手綱を引き、そのすぐ隣には侍従と護衛がついている。本人は先ほどにも増して自信満々で、私たちの姿を見つけると嬉しそうに手を振った。


「お父様!お母様!ふたりでのってる!」


「ええ。お母様も頑張っています。」


「お母様、こわくない?」


「もちろんです。お父様が一緒ですから。」


 私が笑って答えると、リアムは安心したように満面の笑みを浮かべた。

 その無邪気さに救われつつ、私は小さく息を吐く。


 馬がゆっくりと歩き始めた。


 最初はやはり、身体が強張った。馬の背が上下するたび、僅かに腰が浮くような感覚があり、落ちるのではないかという不安が先に立つ。ところが、背後のヴィルヘルムはまるで揺れを予測しているかのように自然に身体を動かし、私の姿勢が崩れかけると、そのたびに腰へ回した腕でそっと支えてくれた。


「息を止めないでください。身体が固くなると、かえって揺れを大きく感じます。」


 懐かしい言葉だった。


「前にも言われましたね。」


「ええ。あの日も、しばらく背中に力が入ったままだったので、どうしようかと心配していました。」


「よく覚えていらっしゃいますね。」


「忘れるわけが、ありません。」


 あまりにも当然のように言われ、私は少し言葉に詰まった。彼の声にからかうような響きがあったわけではない。ただ懐かしむような、惜しむような、そして微かな痛みが混じっている気がした。

 どうしても、私たちにとって昔の話は、少し痛みを伴うものが多い。


「十年も経つのに、結局私は怖がりのままですね。」


 私がわざと軽い口調で言うと、後ろでふっと空気が緩むような気配がした。

 ヴィルヘルムは一度私の腰へ回した腕を緩め、姿勢を確かめてから、またそっと優しく抱き寄せる。


「私も似たようなものです。ただ、もう遠慮なくあなたを抱き寄せられるので、馬上の安全性は上がっているかと。」


「では、私も遠慮なく身をお任せします。」


 私は彼の方へ背をぐっと寄せ、腰へ回った手に自分の指を絡ませた。


 一瞬、背後の身体が強張る。


 微かに息を呑む音が聞こえた。


「安全性向上のためですからね。」


「……もちろんです。」


 声が少しだけ低くなった気がする。


 私は知らない振りをして前を向き、お互いに身体を寄せ合ったまま小さく息を吐いた。


 そうしてヴィルヘルムへ背を預け、馬の動きへ身体を合わせることに集中すると、固くなっていた肩から少しずつ力が抜けていく。

 馬の揺れを無理に抑えようとするのではなく、その動きへ合わせればよいのだと、ようやく身体でも理解できるようになってきた。


「……誰かに背を預けられるなら、確かに怖くないかも。」


「私がいない時は、馬に乗らないでくださいね。」


「どうしてです?」


「嫉妬するので。」


 腰を囲む腕にも僅かに力が入り、私はまたもや閉口した。


 十年前はあんなに遠慮深かったのに、今では何ということもない顔でこんな台詞を口にする。年齢というものは恐ろしい。


「……馬にですか?」


「もちろんあなたが他の誰かに後ろから支えられることに、です。」


「それはまた、大変狭量ですね。」


「自覚しています。」


 即答だった。


 少しは反省してほしい。


 しかし、こういうところまで含めて嬉しいと思ってしまう自分も大概なのだろう。


 私は恥ずかしさを誤魔化すように前を向き、馬場を囲む柵の向こうへ視線を向けた。


 そのまま暫く馬場を巡っていると、ヴィルヘルムがふと、城の裏手へ続く道を見遣った。


「レベッカ、宜しければこのまま少し森の方へ行きませんか?」


「森へ、ですか?」


「王城の管理地なのですが、高台からは王都も一望できます。馬で行けばそれほど時間も掛かりません。」


 思いがけない誘いに少し驚いた。

 彼が示した先には手入れされた道が延びており、確かに馬で散策するには気持ちが良さそうだった。


 ただ、リアムを置いていくことには少し迷いがあり、私は馬場の奥を振り返った。


「リアムは、どうしましょう?」


「もう少しこちらで遊ばせてもらいましょう。あの子はまだ乗り足りないようですから。厩務員と護衛もついていますし、私たちは少し高台まで行って戻るだけです。」


 見ると、リアムは厩務員に手綱を引いてもらいながら、小馬の上で何やら楽しそうに話をしている。こちらが見ていることに気づいたのか、一瞬手を振ったものの、すぐまた馬の方へ興味を戻していた。


「そうですね。では、少しだけ。」


 私が頷くと、ヴィルヘルムは一度、後ろからぎゅっと私を抱き締めた。


「ありがとうございます。」


 妙に嬉しそうである。


 それからリアムと厩務員、護衛や事務官へ声を掛け、少し離れて護衛たちが後を追う形で、馬をゆっくりと森へ向かわせる。


 王城の敷地を囲む石壁の内側には、広い林地と庭園が続いている。

 手入れされた道はやがて木々の間へ入り、馬の蹄が踏む地面も、固く締められた砂から柔らかな土へと変わっていった。


 秋の入り口の森は、まだ深い緑を残していた。葉の先だけが少しずつ黄や赤に染まり、枝の間から落ちる光は細かな模様を地面へ描いている。風が吹くたび木々の梢が揺れ、遠くからは澄んだ鳥の声が響く。

 夏の間に濃く茂った草や土の匂いに、乾き始めた落葉の香りが僅かに混じり、頬を撫でる風も馬場にいた時より幾分涼しく感じられた。


 馬は穏やかな足取りで進んでいる。背後には私の身体を支える夫がいて、歩調に合わせて静かに上下する馬の背にも随分と慣れてきた。


 こうして余裕が生まれると、初めて馬の背から眺める景色そのものを楽しめるようになる。


「……綺麗ですね。城のすぐ裏手に、こんな場所があるなんて。」


「ええ。今度はリアムも連れて三人で来ましょう。」


 ヴィルヘルムの声も、どこか楽しそうだった。


 私は木々の隙間に見える青空を眺めながら、この人は本当に馬が好きなのだと改めて思う。


 ――馬は、嘘を吐きませんから。


 脳裏に、少年の声が過った。


 旧敵国の王城へ送られ、決して弱みを見せられず、誰かの善意さえ疑わなければならなかった彼にとって、きっと馬は唯一、警戒せずに近づける温もりだったのだろう。


 私はそっと、腰へ回されたヴィルヘルムの腕へまた手を重ねた。


「どうしました?」


「いえ。あなたが馬を好きでいてくれて、良かったと思っただけです。」


 背後で、ヴィルヘルムが少しだけ息を止めた気がした。次いで腰に回された腕が僅かに強まり、私の髪へ頬を寄せるような気配とともに、柔らかな声が返ってくる。


「……私もそう思います。こうして、あなたを乗せて歩けますから。」


 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が温かくなった。


 それから暫く進んだところで、ヴィルヘルムが馬を止めた。


 目の前には木々の間を抜けるように緩やかに延びた広い道があり、地面はよく整備され、先の見通しも良い。馬が走るには十分な幅があり、その奥には日の差し込む明るい場所が続いていた。


「レベッカ、少しだけ走らせてもよろしいですか?」


 私は目の前に延びる道と、馬の逞しい首とを交互に見た。


 怖くないと言えば嘘になるが、先ほどよりはずっと落ち着いていたし、ヴィルヘルムが後ろにいるのだから、きっと大丈夫なのだろう。


「……大丈夫だと思います。」


「無理はしないでください。怖ければすぐ止めますから。」


 私が頷くと、ヴィルヘルムは身体をもう一度確かめるように支え直し、手綱を握った。


 馬が歩き始める。蹄が土を踏む音が少しずつ速くなり、四肢の動きが変わるにつれて、鞍の下から伝わる振動も明らかに大きくなる。

 やがて馬は軽い駈歩へ移り、先ほどまでゆっくり流れていた木々が急に速度を増して後ろへ過ぎていった。


 思わず息を呑む。


 地面が遠い。馬の背が大きく上下し、身体が鞍から浮きそうになるたびに心臓が跳ねる。

 緩やかな歩みとは全く違う力強い動きに、私は反射的に肩を縮め、腰を固くした。


 やはり怖い。


 そう思った瞬間、ヴィルヘルムの腕が私の腰をしっかりと抱き寄せた。


「大丈夫です。私に身体を預けてください。無理に揺れを止めようとしなくていいですから。」


 耳元へ届く声は、驚くほど落ち着いていた。彼の胸が背を支え、腰へ回された腕が大きな動きを受け止める。

 馬の歩調に合わせてヴィルヘルムの身体が自然に動き、私の姿勢が崩れないよう、必要な時だけ力を添えてくれていた。


 私は大きく息を吸い、言われた通り背中を彼へ預けてみる。


 馬の背が上下する。腰から伝わる動きに合わせて身体が揺れ、ヴィルヘルムの腕がそのたびに支えてくれる。

 何度か繰り返すうちに、初めは恐ろしく感じられた振動にも一定の規則があることが分かった。やがて無理に抗わなければ、馬は思っていたよりずっと自然に私たちを運んでくれるのだと気づく。


 そうして顔を上げた時、目の前に広がっていた景色が、それまでとは全く違って見えた。


 枝の間から差し込む光が流れ、葉の隙間に覗く青空が次々と形を変える。頬を撫でていた風は髪を後ろへ引くほどに強くなり、結んだ髪から零れた一筋が耳元でさらさらと音を立てた。

 陽光を受けた葉が一瞬だけ黄金色に輝いたかと思えば、次の瞬間には緑の影の中へ消えていく。

 足元では蹄が軽快な一定のリズムを刻み、その響きが馬の動きとともに身体の奥まで伝わってきた。


 景色が動くのではなく、自分の身体そのものが風と一緒に進んでいるようだった。


 地面へ足をつけて歩いている時には決して味わえない速さで森が流れ、その向こうへ、さらに知らない世界が続いているような気がする。


 馬の力強い動きも、頬を撫でる風も、全身へ降り注ぐ陽光も、すべてが今まで知らなかった新鮮な感覚となって胸へ飛び込んでくる。


 楽しい。


 恐怖が消えた後、胸の内を満たしたのは、驚くほど純粋な喜びだった。


 私は思わず声を上げた。


「すごい!風になったみたい!とても気持ちが良いです!」


 耐えきれず笑い声が漏れた。

 知らなかった。あれほど怖がっていた馬の背に、こんなにも素晴らしい世界が広がっていたなんて。


「こんなに楽しいものだったのですね!」


 私は嬉しくて、もう一度声を上げて笑った。

 王妃としての振る舞いも、母親としての責任も、日頃抱えている仕事も、その時ばかりは何も考えていなかった。

 ただ目の前に広がる景色が美しく、風が気持ちよく、馬が力強く走ることが嬉しくて、胸の内から湧き上がる感情を抑えられなかった。


 すると背後から、ヴィルヘルムが楽し気に答えた。


「もう少し、速度を上げます。」


 振り返らなくても分かる。


 彼も笑っている。


 私は腰に回された彼の手へ、自分の手を重ねた。手袋越しに伝わる温かさが妙に心地よく、嬉しくて自然に指へ力を込めると、腰を支える腕が応えるように僅かに強くなった。


 十年前とは、何もかも違う。


 あの時の私は馬から落ちないことだけで精一杯で、後ろにいる少年を気にする余裕さえあまりなかった。


 今は、彼の腕の中で風を楽しみながら、同じ景色を見ている。


 それが、何故かひどく嬉しかった。


 やがて馬は速度を落とし、再びゆっくりと歩き始めた。

 木々の間が次第に開け、緩やかな坂を上り切ると、その先には陽光に満ちた広い高台があった。


 眼下には深い緑の森が広がり、その向こうに王城の白い尖塔が幾つも聳えている。

 青みを帯びた屋根が秋の日差しを受けて輝き、さらに遠くには王都の街並みが続いていた。建物の間を縫うように大通りが伸び、赤や橙の屋根が陽光の下へ小さく連なっている。

 王都を囲む城壁の向こうには畑や草原が広がり、そのすべてを包むように、淡く澄んだ青空がどこまでも続いていた。


「……まあ。こんな景色が見られる場所があったのですね。」


「海こそ見えませんが、夕焼けも、夜景もなかなか美しい場所です。」


 ヴィルヘルムは馬を止めると、先に慎重に地面へ降り、私へ手を差し出した。私はその手を取り、しっかりと支えられながら足を動かす。

 馬から降りる時にはまた少し怖くなったが、ヴィルヘルムは腰へもう一方の手を添え、私の身体を難なく支えて地面へ下ろしてくれた。


 ようやく両足が地面についたことにほっとしながら顔を上げると、ヴィルヘルムがこちらを見て微笑んでいた。


 風で少し乱れた淡い金髪も、陽光を受けた青い瞳も、乗馬服の襟元から覗く長い首筋も、相変わらず隙がない。


 神は本当に、何を考えてこの男を作ったのだろう。

 私は改めてその造形の理不尽さを噛み締めた後、もう一度眼下の景色へ視線を戻した。


 美しい。

 ただひたすらに、美しい。


 少し離れてついてきていた護衛へ馬を預けると、ヴィルヘルムは私の隣へ戻ってきた。それから、当たり前のように私の手を取る。


 高台には穏やかな風が吹き、時折、木々の梢が一斉に揺れて乾いた葉擦れの音を響かせる。

 王都の方から鐘の音らしきものが微かに届いたが、ここではその音も、遠い街の営みを知らせる柔らかな響きにしか聞こえなかった。


 私たちは暫く黙って景色を眺めていた。


 先ほどまで身体を包んでいた馬の躍動感がまだ僅かに残っていて、心地よい疲労とともに胸の奥を満たしている。

 こんな場所で彼と二人、何もせずに景色を眺めていられることが、何だか不思議だった。


 やがて、ヴィルヘルムがゆっくりと口を開く。


「……また一つ、夢が叶いました。」


 私は顔を上げた。


「夢、ですか?」


 ヴィルヘルムは眼下の王都ではなく、その向こうの遥か遠くを見るように目を細めた。


「……あの日、このままあなたを乗せて、二人でどこか遠くへ行けたならと思ったんです。」


 予想もしていなかった返答に、思わず目を見開く。


「誰も知らない遠い場所で、王妃候補と質子ではなく、ただの少年と少女として、あなたと生きていけたらと。」


 ヴィルヘルムは少し困ったように笑った。


「あなたの手すら理由なく取れない立場で、籠の鳥が随分な想像ですよね。」


 その言葉を聞いて、私は胸の奥がきゅっと締めつけられるような気がした。


 あの頃の彼はいつも無表情で冷静で、何の望みもないかのように振る舞っていた。

 王宮の外へ行きたいとも、母国に帰りたいとも、この場から本当は逃げ出したいとも、そんな言葉は一度も聞いたことがなかった。


 けれど、彼はやはり見せないようにしていただけで、ずっと苦しみ、ずっと願い続けてきたのだ。


 今よりずっと幼く、華奢だった少年が、自分の望みを押し殺し、誰にも気づかれないよう耐え忍んできたことを思うと、ひどく切なく、痛々しい。


 そこで私は、若干の引っ掛かりを感じた。


 私を連れて行きたいと思った、あの日の彼は十四歳。


 十四歳。


 いや、以前から彼の執着については色々聞いている。今さら驚くことではない。分かっているのだが、こうして改めて聞かされると、やはりなかなか重い。


 愛が重い。


 もちろん嬉しい。非常に嬉しいのだが、一体いつから私をそんな目で見ていたのかと考え始めると、少々胸に来るものがある。


 私が切なさと喜びと、若干の重さへの驚きを同時に処理していると、ヴィルヘルムが景色からこちらへ目を移した。少しだけ心配そうな色が浮かんでいる。


「幻滅しましたか?」


「いいえ。」


 私は即座に答えた。


 それから少し考え、繋いだ手へ力を込める。


「ただ、これからたっぷりお返ししないとな、と思っただけです。」


 ヴィルヘルムの瞳が僅かに揺れた。


 ちょうどその時、王都の街並みの中で何かが陽光を反射し、小さな光となって瞬いた。


 それを見た瞬間、私の脳裏にも一つの記憶が蘇った。


「私が十七歳の時分に、風見鶏の話をした時のことを覚えていますか?」


「……そんなことも、ありましたね。」


 ヴィルヘルムの表情が、ほんの少し苦くなる。


 私はそれを見て小さく笑った。


「あの時、来ない待ち人の席へ座ってくれたあなたに、この席が本当にあなたのものだったら良いのにと、私も思ったのです。」


 今度はヴィルヘルムが目を見開いた。


 私は少し恥ずかしくなり、視線を眼下の王都へ戻した。


「私は、公爵家に居場所がありませんでした。王宮は私にとって逃げ場であり、同時に舞台でもありました。公爵令嬢として、将来の王妃として、強く身を立て、与えられた役目を演じ続けるための場所でした。」


 風が吹いた。


 秋の入り口の柔らかな風が、結んだ髪から零れた一筋を攫い、頬の横で躍らせる。


「筋書きを疑うことも、有り得ないはずの未来を想像することも、自分の中では禁忌だったのだと思います。決まった演目の中で、演者に自分の望みなんて必要ありませんから。」


 口にしてみると、思った以上に恥ずかしい。


 今さら何を言っているのだろう。あれだけ紆余曲折して、すったもんだした挙句、結婚して子供までいるというのに。


 それでも、言っておかなければと思った。


 ヴィルヘルムがあの頃、一人でどれほどの思いを抱えていたのか、私はすべてを知っているわけではない。だからこそ、私もまた彼の知らないところで、少しずつ彼に心を寄せていたのだと伝えたかった。


「……ただ、あなたが私を見て表情を和らげるたびに、全身を縛っている糸が一本ずつ解けていくように感じていました。私がもっと自分の想いや欲に正直な人間だったら――」


 私は少し笑った。


「私こそ、あなたを連れて逃避行していたかもしれません。」


 その瞬間、繋いだ手を引かれ、身体を引き寄せられた。


 強く、けれど少しも乱暴ではない抱擁だった。

 広い胸へ頬が触れ、長い腕が私の背中へ回る。


 背や肩から伝わる体温がひどく心地よく、私は自然に目を閉じていた。


 ヴィルヘルムは何も言わなかった。

 ただ、抱き締める腕へ少しずつ力を込めると、私の髪へ顔を埋めるようにして、長い息を吐いた。


 私はそっと彼の背へ腕を回した。


 昔の彼なら、こんなふうに感情のまま抱き締めることなどできなかっただろう。自分の気持ちを言葉にすることさえ、許されないことのように考えていたに違いない。それが今は、こうして私を抱き寄せる腕に少しも迷いがない。


 触れていることを隠さず、誰かに咎められることを恐れず、ただ嬉しいからという理由で抱き締めてくれる。


 あの頃の彼に、この姿を見せてあげられたらいいのに。

 あなたはいつか、その人と愛し愛される仲になり、何も気にせず抱きしめ合えるようになりますよ、と。


 しかもその頃には二人だけではない。二人の間に生まれた子供が、馬場で「もう一回」と大喜びしながら馬に乗っているのだ。


 きっと十四歳の彼には、到底信じられないだろう。


 暫くして、ヴィルヘルムが小さく息を吐いた。


「……あなたと恋人になれた時、人生で一番幸せだと思いました。」


 低い声が、耳元へ落ちてくる。


「あれ以上の幸福など、きっとないのだと。でも、結婚して、リアムもいて……今は朝目が覚めて、あなたとあの子の顔を見るたびに、あの頃の私は何も分かっていなかったのだと思うんです。幸せというものに、こんなに先があるとは思っていませんでした。」


 私はゆっくりと顔を上げた。


 すぐ近くに、ヴィルヘルムの顔がある。長い金の睫毛が伏せられ、青い瞳が私を見つめていた。

 少年の頃よりもずっと大人びた顔立ちになったけれど、こうして柔らかく微笑む時には、時折あの頃の面影が戻る。


 私はその顔を眺めながら、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


 こちらも負けてはいられない。


「……では、ヴィルヘルム。」


 少し背伸びをして、彼の頬へ自分の頬を寄せる。柔らかな金髪がこめかみへ触れ、石鹸と微かな香油の香りが鼻先をくすぐった。


「もっと幸せにしてあげるから、覚悟してね。」


 ヴィルヘルムが息を止めた。


 ほんの一瞬だったが、私の背へ回されている腕が僅かに強張る。少し身体を離して顔を覗き込むと、青い瞳が驚いたように揺れていた。


 それから彼は一度目を伏せた後、ひどく嬉しそうに微笑んだ。


「……はい。楽しみにしています。」


 その返事があまりにも素直だったので、私は思わず少し笑ってしまった。


 するとヴィルヘルムは私の顎へそっと指を添え、顔を上げさせる。すぐ近くで青い瞳が細められ、次の瞬間、柔らかな唇が重なった。


 最初は触れるだけの優しい口付けだった。


 一度離れ、彼と目が合う。

 どちらからともなく笑ってしまった後、もう一度唇を重ねた。


 今度は、先ほどよりも長い。

 背中へ回された腕がゆっくりと強まり、こちらも自然に彼の肩へ手を置く。

 秋風が二人の傍らを通り抜け、髪が頬へ触れたが、ヴィルヘルムは気にする様子もなく、そっとそれを指で流した。


 指先が頬へ触れたまま、もう一度唇が重なる。


 こうして夫婦になってから、何度口付けを交わしただろうか。

 それでも、いつもは冷静で隙のない表情をしている彼が、私へ口付ける時だけ少し目を伏せ、時折ひどく幸せそうに微笑むのを見ると、未だに堪らない気持ちになる。


 綺麗で、格好良くて、可愛くて。


 私は彼の肩に置いていた手を首へ回し、そのままぐっと引き寄せた。


 口付けが深くなる。

 一瞬だけヴィルヘルムの身体が驚いたように強張ったが、すぐに背へ回された腕も強くなった。


 ……これ以上は、少々危険な気がする。


 そう思った時には、既に二人とも若干息が乱れていた。


 暫くしてようやく顔が離れる。

 ヴィルヘルムの白い頬には僅かな赤みが差し、普段の冷淡な国王の姿などどこにもない。私も恐らく、かなり情けない顔をしているに違いなかった。


 お互いの状態が何となく分かり、少々気まずくなりながら息を整える。


 何ということだ。

 このままでは本当に帰れなくなる。


「……早く帰らないと。」


「リアムも待っていますしね。」


 午後には仕事も残っている。私は名残惜しさを誤魔化すように小さく息を吐き、首へ回していた腕を解くと、彼の頬を両手で包んだ。


「……今日は、私の午後の決裁はそれほど多くありませんので、リアムを寝かしつけたら、そのまま寝室へ行きますね。」


 ヴィルヘルムが瞬いた。


 それから、私の言葉の意味を理解したらしく、頬を微かに染めたまま、ゆっくりと口元を緩める。

 先ほどまでの感慨深そうな表情が、どこか楽しげなものへ変わっていくのを見て、今度は私の方が少し恥ずかしくなった。


「では、私も夜の会議は明日へ移しておきましょう。」


「また礼儀正しい暴君と言われませんか?」


 少しからかうつもりで尋ねると、ヴィルヘルムは目を伏せ、口端を上げた。


「あなたとリアム以外になら、何と思われても別に構いません。」


 しれっと言い切った。

 私は思わず額を押さえたくなった。


 やはり事務官たちの心配は正しい。いや、違う。私のせいではない。元々この人はこういう人なのだ。私とリアムに関してだけ、少々判断基準がおかしいのである。


「……ヴィルヘルム。あまり事務官たちを困らせないでくださいね。」


「善処します。」


「その返答、全く信用できないのですが。」


 ヴィルヘルムは楽しそうに笑った。しかも、こちらが呆れているのを分かっているらしく、少し悪戯っぽく目を細めている。


「今夜は猫が来てくれそうですか?」


 私は固まった。


 猫。


 脳裏に、つい先日の出来事が凄まじい勢いで駆け巡る。


 赤ワイン。ちゅーるたわー。にゃんにゃんにゃん……。


 駄目だ。

 思い出してはいけない。


 結局先日は長考の末、羞恥心が勝り、私はすべてなかったことにした。

 ヴィルヘルムも私のぎこちなさを慮ってか、その日の夜以降も特に話を蒸し返してこなかったので、私はてっきりあの一件は無事終息したものだと思っていた。


 ここで。

 ここで来たか。


 私は反射的に顔を逸らし、精一杯何でもない様子を装った。


「な、何のことでしょうか?」


 ヴィルヘルムが僅かに首を傾げる。


「私は少し残念に思っておりましたので。」


「……また傷だらけになりますよ。」


「可愛い猫からの愛の証ですから。」


 ヴィルヘルムは青い瞳を細め、唇の端へ悪戯っぽい笑みを浮かべている。


 十四歳のヴィルヘルムなら、絶対にこんな冗談は口にしなかっただろう。あの頃は、笑い方さえ慎重に選んでいた。

 それが今では、妻をからかうために、長年鍛え上げた優秀な頭脳を惜しげもなく使用している。


 実に恐ろしい成長である。


「……ヴィルヘルム、その話はもう忘れてください。」


「難しいですね。とても可愛らしかったので。」


 ほう。

 可愛い夫からの挑戦状。


 これはもう、応戦するしかないようだ。


「では、今度はあなたが猫になりますか。」


「はい?」


 今度はヴィルヘルムが固まった。


 よし。

 少しだけ気分が良い。


「国家予算の編成時に確認したのですが、確かアインシュヴァルトの北西端に温泉地がありましたね。蒸留酒が名産品だった筈です。」


「ああ、ベインバルクですね。熟成に地熱が利用できるので、昔から酒造りが盛んな土地ではありますが……。」


 私は目の前の彼が酒に酔い、白い頬を赤く染める姿を想像した。


 いつも完璧な頭脳が少しだけ鈍り、本人は平静を装おうとしているのに、耳だけ真っ赤になる。そこで恥ずかしながらでも、一声猫の鳴き真似がいただけたら。


 いい。

 これは大変良い。


 少し想像しただけで堪らない。私は脳内でしっかりと拳を握った。


「……レベッカ?」


「旅行に行きましょう。」


 ヴィルヘルムが、驚いたようにこちらを見る。


「ベインバルクへ、ですか?」


「ええ。温泉もありますし、秋の景色も綺麗でしょう。リアムもきっと喜びます。最近はあなたも私も忙しかったですし、家族三人でゆっくり過ごすのも良いと思いませんか?」


 そこまで言うと、ヴィルヘルムの表情がゆっくりと和らいだ。


「……そうですね。それは、素晴らしいご提案かと。」


「でしょう?」


「ただ。」


 彼が少しだけ目を細める。


「蒸留酒の話から始まったのが、若干気になりますが。」


「気のせいです。」


「本当に?何か企んでおられませんか?」


「いえいえ。そんなことは露ほども。主目的は家族旅行です。」


「では、蒸留酒は?」


「……副次的な研究課題です。」


 ヴィルヘルムが数秒黙った。


 それから、とうとう声を上げて笑った。


 その笑い声を聞きながら、私は思わず口の端を緩めた。


 昔の彼なら、こんなふうに笑わなかった。

 何かを望むことも、誰かと未来の予定を立てることも、遠くへ旅に出ることも、決してできなかった。


 それが今では、私と息子との旅行の計画を、当然のように立てられる。


 家族三人で、いつもと違う景色を見に行こう。美味しいものもたくさん食べて、ゆっくり観光して。ヴィルヘルムはきっとまたすごい量の知識を披露してくれるに違いない。


 そして。

 蒸留酒も少しくらい飲ませてみよう。


 夫の酔った姿を見るという、実に重要な研究も兼ねて。


「……やはり何か企てておいでですね?」


 ヴィルヘルムが笑いながら尋ねた。


「いいえ。まったく。」


「その顔は信用できません。」


「失礼ですね。」


 私は笑った。

 ヴィルヘルムも笑う。


 高台を吹き抜ける爽やかな秋の風が、二人の髪を揺らしていった。


「ヴィルヘルム、そろそろ戻りましょうか。」


「ええ。リアムにも旅行の話をしましょう。」


「きっと今夜から出発したがりますね。」


「目に浮かびます。」


 ヴィルヘルムはまた笑った。

 私はその横顔を眺めてから、馬の方へ歩き出す。


 そこで、重大なことに気づいた。

 帰りも当然、馬に乗るのである。


 先ほどまでの爽快感も、森を駆けた喜びも、間違いなく本物だった。

 けれど、地面から見上げる馬の背は、やはり高い。


 私が足を止めると、何かに気付いたように黒馬が顔を上げ、こちらを見る。


「……レベッカ?」


 ヴィルヘルムが不思議そうに振り返った。


 私は暫し馬と見つめ合った後、静かに夫へ向き直る。


「……少々、お待ちください。先ほど終結したと思われた協議が、再開いたしました。」


 ヴィルヘルムは一瞬黙った。


 それから口元へ手を当てたものの、とうとう堪えきれず肩を震わせ始める。


「……十年前から、本当にお変わりになりませんね。」


「もう!笑わないで!あなたは、随分意地悪になりましたね。昔はもっと慎み深かったと思うのですが。」


「そうですか?私としては、以前より素直になっただけのつもりなのですが。」


 言いながら、そっと頬を撫でられる。


「本当は午後の仕事を全て取りやめて、あなたとすぐにでも寝室に入りたい気分です。」


「……素直というより臆面がなくなったというべきかしら。」


 私がそっと視線を巡らせると、手綱を握った騎士と、その後ろに控えていた他の騎士達や事務官がそっと顔を背けた。事務官の方は若干げっそりしている気がする。本当にすみません。もちろんお互い午後も仕事に邁進する所存です。私は胸の中でまた陳謝した。


「もっと幸せにしてくださるのでしょう?」


 ヴィルヘルムは、僅かに首を傾げて微笑んだ。

 私がこの仕草に弱いことを知っていてやっているに違いない。しかし可愛い。本当に大国の君主がこんなに可愛くてどうするのだろう。


「……そのためにも仕事を頑張りましょう。旅行に向けて時間を確保せねば。」


「それは確かに、そうですね。」


 笑いながらも若干残念そうに息を吐いた彼を、私は代わりにぎゅっと抱き締めた。

 頭の中ではもうベインバルクまでの行程と、リアムに見せたい景色と、宿泊日数と、夫に飲ませる蒸留酒の適正量まで候補が並び始めている。


 もちろん主目的は家族旅行である。


 副次的研究課題については、現地で慎重に検証することにしよう。


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