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猫と、ちゅーるたわー

「つかれたぁ……。」


 王妃としてどうなのだろう、とは思った。けれど、そう思った時にはもう遅かった。私は寝台へ向かって身体を投げ出し、柔らかな羽毛布団の上へうつ伏せに倒れ込んでいた。

 さらさらとした白いシーツが頬を撫で、力を抜いた途端、肩から腰、脚の先までが一斉に疲労を主張し始める。

 もう一歩も動きたくない。このまま朝まで眠ってしまっても構わない。むしろ人間という生き物には睡眠が必要なのだから、それこそ最適解ではないだろうか。


 ――いや。それは少し惜しい。


 昨日、ようやく来年度の国家予算が貴族院を通過した。

 この国へ来てから財政資料を読む機会はいくらでもあったし、王妃教育でも一通り学んでいたが、実際の予算編成へここまで深く関わったのは初めてだった。


 最初は重要項目だけ確認するつもりだったのである。本当に、少なくとも私はそのつもりだった。


 ところが、一つ数字を確認すると、その根拠となった計画が気になる。計画を見ると昨年度との差異が気になり、差異を調べれば担当部局の過去三年分の執行状況まで確認したくなる。

 結果として一か月後には、宰相や財務官、事務官たちから「王妃陛下、そこまでご確認いただく必要はございません」「こちらは我々で対応いたしますので」「どうか本日はもうお休みください」と、口々に帰室を勧められるようになっていた。


 彼らの懸念はよく分かっている。私の健康を気遣っているというのも、もちろんあるだろう。


 しかし、決してそれだけではない。


 彼らが一番恐れているのは、私の帰りが遅くなった結果、ヴィルヘルムの機嫌がすこぶる悪くなることだ。

 正確には、表情も口調も普段と何一つ変わらないまま質問や決裁だけが妙に細かく厳しくなり、更に私へ追加の仕事を持ち込んだ者へ向けられる視線が恐ろしく冷たくなるのである。

 王宮では最近それを「礼儀正しい暴君」と表現する者もいるらしい。事務官が青い顔をしてぼそりと呟いたのを、私は聞いていた。


 ヴィルヘルムが礼儀正しいという部分は正しい。暴君かどうかについては、まあ、私からは何とも言えない。


 ともあれ、今回私は周囲の震えを敢えて無視した。

 予算と計画は重要である。それで国の一年の形や在り方が決まるのだ。目の前に数字があるなら、私は確認したい。齟齬があるなら細かく修正したい。


 その結果として、私は一時的に前世の社畜へ回帰した。自分で「働きすぎない」と決めたはずなのに、今回は自分で破ってしまったのである。

 次からは気をつけよう。次からは。きっと。


 それでも、リアムとの食事や寝かしつけだけは欠かさなかった。

 ただ、長い時間一緒に遊ぶことまでは難しかったので、今日は丸一日予定を空け、久しぶりに四歳の息子へ全力を使うことにした。


 かくれんぼ、追いかけっこ、ボール遊び、虫探し、木の枝を剣に見立てた謎の決闘、そして再び追いかけっこという、なかなか過酷な一日となった。

 私は母親であると同時に、日頃事務仕事ばかりで運動不足の二十五歳の女である。四歳男児の体力には到底勝てなかった。


 一日中外を走り回ったリアムは、夕食を食べ、入浴を済ませると、私の隣で絵本を一冊読み終えるより先に眠った。


 寝顔はもちろん天使だった。


 神様も酷なことをする。こんなに可愛く美しいものを生み出して、周りがその愛らしさに狂ったらどうするのだろう。

 いや、もうこれは国を挙げて保護するしかない。もちろん主に私が担当である。これは誰にも譲れない。


 そうして愛する我が子の寝顔を久しぶりにじっくり眺めて満足し、夫婦の寝室へ戻った私は、そのまま寝台へ飛び込んだというわけである。


 ヴィルヘルムはまだ戻っていない。各部へ回す最終資料の確認が残っており、もう少しかかると事務官から伝言があった。


「ヴィルヘルム……。」


 誰もいない室内で、その名を呟いてみる。


 ここ一か月、私たちはほとんど夫婦らしい時間を持てていなかった。彼は一度も不満を口にしていない。仕事を減らせとも、早く帰って来いとも言わない。


 ただ、最近、寝る前の口付けが明らかに長いし、深い。


 最初は気のせいかと思っていた。けれど、以前なら額や唇へ触れる程度だったものが、最近は一度触れた後なかなか離れない。

 しつこいと言ってしまっては身も蓋もないが、背中へ回る腕にも微妙に力が入り、こちらが息を整えるため少し顔を離せば、青い目が何とも言えない顔でこちらを見ている。


 時には服の上からそっと身体の線を辿るように撫でられたり、首筋へ口付けを落とされたり、低く甘い声で名を呼ばれたりもした。控えめに続きを仄めかされているのは、私にだって分かっていた。


 しかし翌朝も早い。私も疲れて眠い。だから、いつも彼の背を軽く叩いて「もう寝ましょう」と促していた。

 するとヴィルヘルムは、それ以上は何もしない。少しだけ残念そうに目を伏せ、それでも「おやすみなさい」と言って離れる。


 素晴らしい夫である。実に理性的で、実に紳士的だ。


 しかし、彼もまだ二十四歳。しかも肉体的にも健康。


「少し、スキンシップが足りなかったかも……。」


 誰もいない部屋で、私はふむ、と考えた。ここ数日、朝、部屋を出る前に抱き締めてくる時間も少し長い。資料や業務の確認で彼の執務室を訪れると、明らかに表情が変わるし、ことあるごとに引き留められる。


 もしかすると、不安や寂しさをかなり感じさせてしまったかもしれない。

 そう考えたら、少し申し訳なくなった。今日は夫婦の時間を持った方がいいだろう。いや、周囲の緊張を解くためにも、持つべきに違いない。


 とはいえ、ヴィルヘルムが戻るまではまだ時間がある。何をして待っていようか。私は仰向けに転がり、ぼんやり室内を眺めた。


 ふと、壁際の棚が目に入る。そこには酒類が並べられていた。


 この世界へ来てから、私はほとんど酒を飲んでいない。晩餐会や祝宴で形式的に口をつける程度である。

 ヴィルヘルムも基本的には飲まない。以前、ふと理由を聞いたことがあるが、「わざわざ頭の回転を落とすものを、敢えて飲む理由が分かりません」と返された。実に彼らしい回答だった。


 前世の私は、それなりに飲んでいた気がする。

 会社の飲み会、仕事帰り、残業を終え、翌朝のことを考えれば一秒でも早く眠るべきなのに、頭だけが妙に冴えていた夜。あの頃の私は酒を飲めた。


 ――ならば、今も飲めるのではないだろうか。


 私は身体を起こして棚へ向かった。扉を開けると、見慣れない瓶が幾つも並んでいる。その中に赤ワインらしきものを見つけ、引き出しから栓抜きを探し出した。


 少し苦労してコルクを抜き、水差しの隣に置かれていたグラスへ赤い液体を注ぐ。

 一口飲むと、舌に渋みが広がり、その後から胸の奥へ柔らかな熱が落ちていった。


 悪くない。むしろ美味しいかもしれない。


 二口、三口と進めるうちに、一杯目はあっさりなくなった。

 特に異常なし。意識も明瞭。したがって私は、酒に弱くない可能性が高い。


 二杯目も問題なく飲めた。少し頭が軽くなった気はするが、それは疲れが取れてきただけかもしれない。


 これはもしや、私は酒に強いのではないか。


「ボトル半分くらい飲めれば、強いということで良いのかしら。」


 誰に確認するでもなく呟き、三杯目は少し続けて飲んでみる。いける。飲める。


「すごい。」


 私は強い。これは新発見だった。もしかするとヴィルヘルムより強いといえる項目ができたのでは――。私は俄然やる気になった。


 四杯目を注ごうとして、グラスを倒した。卓上で乾いた音が鳴り、私はしばらく横倒しになったグラスを見つめる。


「……少し酔ったかしら。」


 いや、まだいける。


 何の勝負なのかは分からないが、まだいける気がした。改めてグラスへ酒を注ぎ、口へ運ぶ。

 身体がふわふわする。頭の中の輪郭が少しずつ柔らかくなっていく。


 いまどれくらい飲んだのだろう。まあ、いいか。


 そういえば、ヴィルヘルムはまだだろうか。

 嫌がるかもしれないが、彼が酔ったところも見てみたい。酔っているのに酔っていないふりをして、白い肌だけ赤くなるのだろうか。絶対に可愛い。


 いつもは完璧で隙がない。黙って立っているだけで周囲が勝手に緊張し、少し目を細めるだけで官僚が姿勢を正す。

 彫刻めいた端正な顔立ちに、白金に近い淡い金髪、冷たく見えるほど澄んだ青い瞳。


 けれど、私やリアムの前では驚くほど柔らかい顔をする。

 笑えば口元だけではなく目元まで僅かにほどけて、少年の頃の面影が戻る。それを見るたび、私は今でも時々、天使かと思う。


「はぁ……。」


 なんだか暑い。

 私は寝衣の襟元を引っ張った。それでも暑いので、上のボタンを二つ外す。まだ暑い。もう一つ外し、そのまま寝台へ寝転がって猫のように背筋を伸ばした。


 冷たいシーツが気持ちいい。


 猫。

 そういえば、カルラが猫を飼っていた。名前はトマト。理由は、カルラがトマトを好きだから。


 カルラは幼少期、全く、本当に全く野菜を食べなかったらしい。周囲がどうしようかと悩んでいたところ、トマトを菓子と勘違いして食べ、それを両親から侍従まで泣いて喜び、褒めて褒めて褒め倒した結果、トマトは彼女の大好物になったそうだ。余りに彼女らしい話に、聞いた時は思わず笑ってしまった。


 そういうわけで、猫はトマトと命名された。

 何度か部屋の中で寛いだり、庭で日向ぼっこしたりしているところを見かけたが、とても可愛い猫だった。


 私はペットを飼ったことがない。飼うなら猫がいいかもしれない。

 ヴィルヘルムは馬が好きだが、猫はどうだろう。


 ヴィルヘルムと猫。きっと絵になる。ふわふわした思考のまま、想像を膨らませた。


 いや、むしろヴィルヘルムが猫でもいい。


 ヴィルヘルムが猫なら、きっと白金に見えるほど淡い金色の毛をしていて、目は青い。警戒心がものすごく強く、知らない相手には絶対に近づかない。

 でも一度心を許した相手には異様なほど執着し、ずっと同じ人間のそばにいる。きっと人の足元へ身体を擦りつけるくせに、他人に見られれば何事もなかった顔をするのだ。


「……ぜったいかわいい。」


 自分の想像に密かに悦に入る。


 ちょうどその時、扉が開いた。


「レベッカ、遅くなりました。」


 ヴィルヘルムの声だった。

 私は顔を上げる。


 入浴を終えてきたのだろう。淡い金髪はまだ少し湿っていて、完全に乾ききっていない毛先が首筋へ触れている。寝間着代わりの薄いシャツは普段の黒衣よりも柔らかな生地で、襟元が少し開いていた。


 見慣れているはずなのに、酔った目には妙に新鮮だった。


 日中は王衣の下へ隠されている肩幅が思っていたより広い。細身に見えても身体はよく鍛えられていて、薄い布越しに胸から腹へ続く均整の取れた線が分かる。袖を捲った前腕には無駄のない筋肉がつき、手首から甲へ薄く浮いた筋が、そのまま長い指へ繋がっていた。


 綺麗な顔の人は、身体まで綺麗なのか。

 大変不公平である。


 ヴィルヘルムは部屋へ入り、私を見た。

 そして、一瞬、本当に完全に止まった。


 卓上の瓶を見る。倒した痕跡のあるグラスを見る。もう一度、私を見る。恐らく状況をかなり正確に判断しているのだろう。


 赤くなった顔。乱れた長い髪。寝台の上に横たわった身体。それから、暑さに任せて三つも外した寝衣のボタン。

 青い瞳がそこまで下がり、ぴたりと止まった。

 次の瞬間、非常に慎重に横へ逸らされた。


「……どれくらい飲まれたんですか。」


 私は考えた。


「よんはい?」


 ヴィルヘルムが小さく息を吐く。溜め息を噛み殺した気配がして、私は少しむっとした。


「ヴィルヘルム、あなたが遅いせいです。」


「私のせいですか?」


 きょとん、とした顔でこちらを見る。


 可愛い。可愛すぎる。

 国王がこんな顔をしてよいのだろうか。


 私は返事をせず、身体を起こして寝台の隣を叩いた。

 ヴィルヘルムは少し迷ったが、そのまま座るのではなく、まず水差しへ向かった。袖口から覗く手首が動き、水を注ぐ。グラスをこちらへ差し出す指まで無駄に長く、形が良い。


「まず、こちらを。」


 私は無言で受け取った。

 悔しい。大変よくできた夫である。


 何口か飲み、グラスを返す。ヴィルヘルムはそれを卓上へ置き、ようやく私の隣へ腰を下ろした。寝台が彼の体重で少し沈む。肩が近い。入浴後の石鹸と、その下にある温かな肌の匂いがした。


 ただし、妙に姿勢が硬い。片手で口元を覆い、少し考えるように視線を下げている。白い耳が薄く赤い。


「どうしました?」


 ヴィルヘルムは横目で一度だけ私を見て、すぐにまた視線を逸らした。


「その……胸元が開いています。」


 私は自分の服を見下ろした。確かに寝衣の襟はかなり開き、柔らかな布の間から肌が覗いている。


「もう何度も見ているではありませんか。」


 ヴィルヘルムは今度こそ瞼を閉じ、小さく息を吐いた。長い金の睫毛が頬へ影を落とす。


「……最近、夫婦の時間がなかったので。」


「ので?」


 沈黙が落ちる。私は待った。

 ヴィルヘルムの耳から頬へ、薄く赤みが広がっていく。


「……今夜は、許可がいただけるかと思っていました。」


 低く言って、一瞬だけこちらを見る。青い瞳に、ほんの少し恨めしそうな色が乗っている。


「期待していました。」


 駄目だった。

 これはもう、堪らなかった。


 私は膝立ちになり、そのまま彼へ飛びついた。


「レベッ――。」


 ヴィルヘルムは反射的に受け止めた。腰へ回された腕は思っていたより硬く、しっかりしていて、私の身体を容易く受け止める。そのまま勢いで二人とも寝台へ倒れ込み、私は彼の胸へ顔を埋めた。


 布越しに触れる胸板は、見た目以上に厚かった。呼吸のたびにゆっくり上下し、その奥では心臓が思っていたより速く脈を打っている。私を抱き留めたままの腕も硬く、肩から背へ続く筋肉が身体を支えるたびに形を変えるのが、薄い布越しにも分かった。


 入浴後の清潔な石鹸の香りと、肌の温かな匂い。


 ――もっと触りたい。


 酔った頭が実に素直な結論を出した。


 私は頬を彼の胸へ擦りつけるように動かした。ヴィルヘルムの身体が、一瞬だけ強張る。面白くなって、掌を胸元へ当てたまま、指先で何となく輪郭を確かめてみる。


 硬い。

 思った以上に。


「……レベッカ。」


 先ほどより低い声で名を呼ばれた。

 僅かに咎める色がある。


 私は顔を上げた。


「今日はもう眠りましょう。あなたはかなり酔っていますし、恐らく明日は頭痛と吐き気で体調を崩します。」


 私は彼の胸へ手をつき、身体を起こした。掌の下にある硬さがやはり気になり、無意識にもう一度指を動かした。


 ヴィルヘルムが息を詰める。

 ほんの一瞬だったが、明らかだった。


 私は顔を上げた。彼は律儀に私の胸元を見ないよう横へ視線を逸らしている。

 湿り気を帯びた淡い金髪が、少し乱れて白い額に散っていた。目元から耳にかけて仄かな朱色が差し、普段は冷たいほど端正な顔が、今だけ妙に若く、そして色っぽく見える。


 口端が自然と緩んだ。


「……大国の君主が、こんなに可愛くてどうするのです。」


 堪らず口にすると、ヴィルヘルムは一瞬目を閉じ、逡巡するように僅かに眉を顰めた。


「私のことを可愛いと言うのは、あなたくらいです。」


 青い瞳が諦めたようにこちらへ戻る。

 しっかりと合わされた目は、いつも通り青い宝石のように綺麗だった。


 何だろう。ソーダ飴みたい。

 彼はいつも私に甘いが、もしかして瞳まで甘かったりするのだろうか。そんなわけもないのに、私は唐突に思った。


 ――美味しそう。


 私はヴィルヘルムの頬を両手で挟んだ。少し冷たく、滑らかな頬。その下で彼の身体がわずかに固まる。


「レベッカ?」


 顔を近づけ、青い目を舐めようとした。

 ヴィルヘルムは反射的に目を閉じる。結果、長い睫毛と瞼をぺろりと舐めることになった。肩が一瞬びくりと震えた。


 ヴィルヘルムが目を見開く。


「……レベッカ、これは?」


「ヴィルヘルム。猫は好きですか?」


「……猫、ですか?」


 形の良い眉が困惑気味に寄る。


「可愛いと思いません?」


「そう、ですね。」


 明らかに質問の意図を探していた。静かに細められた瞳が、私の思考を読もうとしているのが分かる。


 しかし、幾ら精巧な頭脳とはいえ、酔った人間の突拍子もない思考までは測れまい。

 私はなぜか、とても勝ち誇った気持ちになった。


「私は今から猫です。」


「……はい?」


「そしてヴィルヘルム、あなたは今からちゅーるたわーです。」


 ヴィルヘルムは口を閉じた。

 僅かな沈黙が落ちる。


「……申し訳ありません。」


 ヴィルヘルムが非常に真剣な顔のまま言った。


「それは、何ですか?」


「猫が大好きなものです。」


「食べ物ですか?」


「だいたい。」


 また沈黙が落ちる。

 ヴィルヘルムは一度瞬きして、首を僅かに傾げた。微かに揺れた白金の髪の下、白く柔らかそうな耳が覗いている。


「……私は、食べられるのですか?」


「今から確認します。」


「待ってくださ――。」


 私は彼の白い耳を甘く噛んだ。

 下にある身体が、はっきりと震えた。


「……っ。」


 押し殺した息が漏れる。


 面白い。

 もっと反応が見たくなる。


「ヴィルヘルム、かわいい。」


 耳元へ唇を寄せ、息を混ぜるように囁くと、彼の喉が大きく上下した。長い首筋に薄く筋が浮き、喉仏が一度だけ動く。


 妙にそこが綺麗に見えた。


 よし、次はここだ。

 そう思って唇を首筋へ近づける。


 今度は、寸前で肩を掴まれた。

 慎重な動きなのに、先ほどより明らかに力が強い。


「駄目です、レベッカ。」


 声が低い。

 先ほどまでの、妻を宥める夫の声ではなかった。


 耳から首筋まで赤くなっている。呼吸も僅かに深い。


「今のあなたは、正気ではありません。」


「大丈夫です。取り敢えず、次は首を確認します。」


「……何を確認するのですか?」


「味です。」


「……まったく大丈夫ではありません。」


 言葉は冷静なのに、声だけが少し掠れている。

 ヴィルヘルムは私の肩から手を離し、起き上がろうとした。


 ――逃がしたくない。

 そう思った瞬間、私は彼の襟元へ手を伸ばし、そのまま身体を引き寄せて唇へ口付けた。


 最初は軽く触れるだけ。


 もう一度。

 次は、柔らかな唇を確かめるようにゆっくり重ねる。


 ヴィルヘルムは動かなかった。

 拒んでいるというより、耐えているようだった。

 こちらから触れれば触れるほど、姿勢だけが僅かに硬くなっていく。


 私は一度離れ、その顔を見た。


 青い瞳は少しだけ熱に潤んでいるように見える。

 唇は僅かに開き、息がいつもより深い。


 もう一度口付ける。今度は少し長く。


 息を整える為に唇を離そうとした時だった。ヴィルヘルムの顔が追ってきた。ほんの数センチ。それだけだった。

 けれど、私は動きを止めた。彼自身も、自分が何をしたのか気づいたらしい。


 青い瞳が一瞬揺れる。


 次の瞬間、後頭部へ大きな手が回った。

 長い指が髪の中へ差し込まれ、逃げる隙間をなくすように頭を支えられる。


 そして、完全に口付けの主導権が入れ替わった。

 先ほどまで私の好きにされていた青年とは思えないほど、ヴィルヘルムの口付けは熱かった。


 一度深く触れ、そのまま離れない。

 けれど乱暴ではなく、こちらの息を確かめるように少し間を置き、また口付ける。そのたびに近づく距離が少しずつなくなり、最後には身体の隙間までほとんど消えていた。


 背中へ回された腕が、ぐっと強くなる。


 息が詰まるほどではない。

 けれど、絶対に離したくないのだと分かる力だった。


 胸から腰までが、ぴったりと触れる。

 薄い寝衣越しに、彼の体温と、胸板の硬さと、その下で速くなった鼓動まで伝わってくる。


 恋人関係になる前まで、ヴィルヘルムは細身だと思っていた。

 正確には、服を着るとそう見えるだけだったのだろう。


 剣を振るう腕も、馬を御す背も、私を軽々と抱き留める身体も、日々の鍛錬に相応しい強さを持っている。ただ大きさを誇示するような身体ではなく、無駄なく引き締まり、動くための筋肉だけが綺麗についている。


 その身体が今、自分にだけこんなふうに触れている。

 そう思った途端、酔いとは別の熱が胸の奥から一気に上がってきた。


 ヴィルヘルムの手が、後頭部から首筋へ滑る。親指が頬の際へ触れ、そのまま顔を少し傾けられる。


 もう一度、口付けられた。

 今度は、先ほどよりさらに余裕がなかった。


 ヴィルヘルムの呼吸が唇の間で乱れ、一度離れたと思った次の瞬間には、また追いかけるように重なる。こちらが息を吸う隙を作ろうとすれば、その間さえ惜しむように額や頬へ唇が触れた。


 いつもなら、私の反応を一つずつ確かめてから次へ進む。

 その慎重さが、少しずつ崩れている。


 それが分かるのが、どうしようもなく嬉しい。


「ヴィルヘルム。」


 名前を呼んだ。

 口付けが止まった。


 ほんの僅かな距離を置いて、彼がこちらを見る。

 青い瞳は、いつもの冷たいほど澄んだ色ではなかった。


 明らかに熱を持っている。

 呼吸も乱れている。


 湿った金髪が額へ落ち、長い睫毛の影が頬へかかっていた。口付けを重ねた唇は少し赤く、いつもの隙のない美しさとは別の、ひどく生々しい色気があった。


「……呼ばないでください。」


「どうしてですか?」


「余計に、止まれなくなるので。」


 低く掠れた声で、そんなことを言う。

 胸の奥がぞくりとした。


「もう一回。」


「レベッカ。」


「ヴィルヘルム。」


 ヴィルヘルムが息を詰めた。

 その顔が、完全に困っている。


「……レベッカ。」


「ヴィルヘルム、止めないで。」


 次の瞬間、視界が回った。

 身体が柔らかな寝台へ沈む。


 先ほどとは逆に、ヴィルヘルムが上にいた。


 両手首を一つずつ軽く押さえられ、頭の左右へ縫い留められる。腕を伸ばしたことで、薄いシャツ越しに肩から胸へかけての線が浮いて見えた。


 逃げようと思えば逃げられる程度の拘束だ。けれど、当然私は逃げる気など微塵もなかった。


 彼のこんな顔、私以外誰も見たことはないだろう。

 呼吸は乱れ、頬も耳も赤い。長い睫毛の下の瞳には、困惑と欲望が同居している。


 いつもの完璧な国王はどこにもいなかった。

 そこにいるのは、ひどく綺麗で、ひどく困っていて、そして私を欲しがっている二十四歳の青年だった。


 その事実だけで、また胸の奥が熱くなる。


「レベッカ。」


 名前を呼ぶ声は微かに掠れていた。


「このままだと、明日のあなたに叱られる未来しか見えません。」


「このまま寝たら、今の私が叱ります。」


 ヴィルヘルムは黙った。

 青い瞳が私を見つめる。


 その視線が顔から唇へ落ち、一度だけ、開いた寝衣の襟元へ下がる。


 そこで止まった。

 すぐに顔へ戻る。


 それだけで、この人がどれほど耐えているのか分かってしまった。


「ヴィルヘルム。今はお互い、人間を忘れて猫になりましょう。」


「……なぜ私まで猫になるんですか?」


「私、今日はあなたの上で鳴きたい気分です。」


 ヴィルヘルムの瞳が閉じた。

 眉間に深く皺が寄る。


 押さえられた手首へ力が加わったわけではない。ただ彼自身が何かへ耐えるように、腕と肩に一度だけぐっと力が入ったように見えた。


「……私にも、理性の限界があります。」


「知っています。」


「本当に、分かっていてなさっているんですか。」


「もちろん。」


 青い瞳が開いた。

 今度は完全に熱を含んだ色だった。


 けれど、それでもヴィルヘルムは動かなかった。


 数秒。

 ただ私を見つめていた。


 そして、少しだけ声を落とす。


「……私のことを、嫌いになりませんか。」


 そこだけは、冗談ではなかった。


「また、どこかへ消えたり。他人行儀になったり。」


 私は一瞬、酔いが薄れたような気がした。


 ああ。

 この人は、まだそこが怖いのだ。


 何度一緒に夜を過ごしても、正式に夫婦になっても、リアムがいても、私が突然いなくなることを、心のどこかではまだ恐れている。


「もう!」


 私は押さえられた手を動かした。


「するわけないでしょ!」


 ヴィルヘルムが目を見開く。


「一生離さないから!」


 青い瞳が今度こそ大きく揺れた。


 私はそのまま堂々と言い放つ。


「だから早く舐めさせなさい!」


「……。」


 ヴィルヘルムは再び目を閉じた。

 今度は本当に頭が痛そうな顔だった。


 けれど。

 少しして、肩から力が抜けた。


 瞼がゆっくり上がる。

 そこには先ほどまでの困惑よりも、諦めと、それ以上の喜びがあった。


 ヴィルヘルムが私の手首から手を離した。

 その代わり、指を絡める。掌が重なる。


「……では、猫さん。」


「はい。」


 彼は少しだけ笑った。

 耳も、頬も、まだ赤い。


「鳴いてみていただいても?」


「にゃー。」


 ヴィルヘルムの目が細くなる。

 その表情があまりにも嬉しそうで、恥ずかしくなるより先に、こちらまで笑ってしまった。


 次に落ちてきた口付けは、先ほどまでよりずっと優しかった。

 けれど、決して短くはなかった。


 何度も、何度も。


 途中でこちらが笑えば、その笑い声ごと塞ぐように唇を重ねられ、名前を呼べば抱く腕が強くなる。

 ヴィルヘルムが自分から求めてくるたび、いつもなら決して表へ出さないものを全部こちらへ預けてもらっているような気がして、胸の奥がひどく満たされた。


 その夜、寝室の灯りが消えるのは、かなり遅くなってからだった。



   ◇



 翌朝、私は目を覚ました瞬間、死ぬ、と思った。

 頭が痛い。脈打っている。胃が気持ち悪い。腰も身体も重い。口が乾いている。


 そして何より、記憶がある。


 猫。ちゅーるたわー。瞼。耳。首。にゃー。

 さらに、その後。にゃんにゃんにゃん……。


「……。」


 私は両手で顔を覆った。


「なによ猫って……。ちゅーるたわーって……。」


 最悪だ。

 前世の知識を、なぜあそこで使った。ヴィルヘルムは絶対に意味を分かっていない。分からないまま、ものすごく真剣に理解しようとしていた。いつものように、真面目に。


 酒に酔うどころか、猫の鳴き真似までする妻を見て、一体どう思っただろう。

 もっと色々思い出してきた。

 私は耐えきれず布団の中へ潜り込んだ。


 恥ずかしい。もう無理である。百年の恋も執着も冷めても仕方がない。


 窓の外は薄明るかった。ヴィルヘルムはいない。すでに執務へ向かったのだろう。


 むしろ、逃げた可能性もあるやも。

 さすがに、それはないと思いたい。思いたいが、昨晩のあの失態だ。


 その時、執務室側へ繋がる扉が開いた。

 私は布団から少しだけ顔を出した。


 ヴィルヘルムが入ってくる。


 いつもの黒衣を隙なく着込み、淡い金髪も整え、完璧な国王へ戻っている。

 所々に金の刺繍が施された重厚な黒衣は彼の長身をさらに際立たせ、広い肩から引き締まった腰へ落ちる線は相変わらず隙なく美しい。

 昨夜、あれほど余裕を失っていた青年と同一人物とは思えない。


 表情も普段通り薄い。


 ――いや。

 なぜか、機嫌が良い。


 私には分かる。

 ヴィルヘルムは今、かなり機嫌が良い。

 それどころか、いつもならほとんど動かない口元が、よく見れば僅かに緩んでいる。


 私は恥ずかしさよりも探究心の方が先立ち、彼の表情をもう少し観察しようと身を起こした。


「レベッカ。大丈夫ですか?」


 心配そうにこちらを見ていた青い目が、私が身体を起こしたところで、そっと下へ逸らされた。

 私は慌てて自分の寝衣を確認した。やはり少し乱れていたので整える。それから改めてヴィルヘルムを見た。


 よく観察すると、今日に限って首元まできっちり留める型の黒衣を着ている。


 これは、やはり、そういうことだろう。

 私は昨日の自分を蹴り飛ばしたくなった。


「……。」


「……。」


 沈黙が落ちる。

 私は咳払いをした。


「そ、その。少し頭痛と吐き気が。」


「侍女を呼びます。朝は簡単なものだけにした方が良いでしょう。まずは水を飲んでください。」


「……はい。」


 ヴィルヘルムはベッド横の水差しからグラスへ水を注ぐ。

 その姿を見ながら、私は考えた。


 よし。

 ここは忘れたことにしよう。

 そうしよう。


 私は、昨日の失態の責任から逃れることを静かに選んだ。


「……あの。」


「はい。」


「実は、昨日のことを、よく覚えていなくて。」


 もちろん、まったくの嘘である。

 むしろかなり詳細な内容まで覚えている。


 そうです。

 神が死力を掛けたであろう最高傑作へ、鬱血だの歯型だのをつけたのはこの私です。


「……そ、その、私、何かしましたか?」


 ヴィルヘルムがグラスを持ったまま止まった。

 視線を彷徨わせ、口を開いては、また閉じる。


 珍しく迷っている。


 私は胸の内で嘆息し、仕方なく付け足した。


「……嫌なことがあったのなら、教えてください。二度としません。」


 ヴィルヘルムはそこで何かに気づいたように、気まずそうに咳払いをした。また目元から耳へかけて、僅かに朱色が上がっていく。


「昨日のあなたは……まるで。」


「ま、まるで?」


 私は息を飲んだ。


「猫……。」


 ヴィルヘルムがそこで一度言葉を止める。


「いえ。」


 何かを考え直した。


「女豹のようでした。」


「め、女豹?」


「……はい。」


 それだけ言うと、ヴィルヘルムは口を閉じた。

 耳がもう真っ赤だった。


「……嫌でしたか?」


 数秒の沈黙。

 ヴィルヘルムは一度目を伏せ、やがて観念したように答えた。


「嫌なはずが、ありません……。」


 声が昨日を思い出したように僅かに低くなった。

 それだけで、私の方までまた顔が熱くなる。


 再び沈黙が落ちた。

 ものすごく気まずい。

 私は布団の端を握りながら、昨日の私を再度心の内で呪った。


 ヴィルヘルムはグラスをテーブルの上に置き、小さく息を吐く。それから、そっと目を細めてこちらを見遣った。


「ただし、今後、私がいない場所では飲酒しないように。」


「遵守します。誓って。」


「本当にお願いします。」


「……はい。」


 やっとこれで終わり。

 私は内心冷や汗を拭いながらそう思った。


 ところが、ヴィルヘルムはまだ何か言いたそうにしている。


 視線が僅かに泳ぐ。

 口を開き、閉じる。


「……どうしました?」


「その、猫は……。」


 ヴィルヘルムは、非常に真面目な顔をしている。

 私は僅かに身構え、姿勢を正した。


「とても可愛いですね。」


 私は思わず瞬きをした。


「昨晩、私のところへ来てくれた猫なら。」


 僅かに頬が赤い。


「……飼いたい、です。」


 一言、そう言った。


 大国の国王が、ものすごく真剣な顔で。

 議会で法案を最終決議する時よりも真面目な様子で、言い切った。


 恐らく高性能な頭で、何度も考え、考え抜いた結果、それでも言おうと決めたのだろう。


 ヴィルヘルムは惚けた私を残し、「侍女を呼んできます」と告げると、明らかに少し早い足取りで部屋を出ていった。


 扉が閉まる。

 私はしばらく動けなかった。


 じわじわと顔へ熱が集まってくる。

 もう耳まで熱い。


「……負けた。これは完全敗北だわ。」


 枕を掴み、顔を埋めた。


 とても恥ずかしい。

 恥ずかしいのに、口元が勝手に緩んでしまう。


 昨晩の自分は酔っていた。

 今日は素面である。

 その違いは、かなり大きい。


 しかし、本当の問題は今夜だ。


 私は枕へ顔を押しつけたまま、今夜の夫婦時間をどうするべきか、一昨日までの国家予算よりも真剣に検討することになった。

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