ベインバルク編 最終話 帰る場所
秋の谷の朝は、いつもの王都よりも緩やかに訪れる。山際からやっと顔を覗かせた陽の一筋の明かりが、顔に掛かったのを感じて意識がふっと引き上げられた。
小鳥の囀りを耳に静かに瞼を開け、窓の方へゆっくりと視線を巡らせる。
谷を覆っていた朝霧の向こうから、柔らかな陽光が寝室へ差し込んでいた。
夜の間に随分冷え込んだらしく、硝子窓の縁には細かな水滴がついていたが、室内は厚い絨毯と暖炉の残り火のおかげで心地よい温かさに保たれている。
白鹿宮の寝具は王宮のものとは少し違い、羽毛をたっぷり使った掛布は驚くほど軽く、肌へ触れる亜麻布もなめらかだった。
もっとも、何より確かに感じたのは、寝具の柔らかさでも暖炉の温もりでもなく、身体をしっかりと包み込んでいる腕の存在だった。
私はそっと顔を戻し、隣で眠っている夫を眺めた。淡い金髪は枕の上へさらりと広がり、長い睫毛が白い頬へ繊細な影を落としている。
昨夜はほんのり赤く染まっていた目元も、今朝はすっかり元へ戻っており、形の良い唇は僅かに緩んでいた。
普段なら眠っている時でさえどこか気品を感じさせる男なのだが、今朝は昨晩に引き続き随分と無防備な表情をしている。
昨夜ヴィルヘルムは寝台へ入った途端、私を抱き枕のように抱え込んで眠ってしまった。今朝はどうなっているかと少し心配していたが、どうやら一晩中この調子だったらしい。
もっとも、眠り始めた頃よりは腕の力が緩んでいるので、今なら多少は身動きできそうだった。
私は寝ている間も恐ろしく整った顔を眺めながら、自然と口元が緩んでいくのを感じた。
昨夜、この男は猫になった。
しかも、犬にもなった。
あのヴィルヘルムが、である。
普段は恐ろしく優秀な頭脳を持ち、内政も外交も難なくこなし、どれほど厄介な相手を前にしても冷静さを失わない男が、私の前で「にゃあ」と鳴き、さらには「わん」とまで言ったのだ。
しかも、それだけではない。好きだの愛しているだのと何度も繰り返し、頬へ口付け、髪へ顔を埋め、少し離れようとするだけで追いかけてきた挙げ句、最後には私を抱きしめた途端に眠ってしまったのである。
昨夜は随分と大変な思いをしたが、研究成果としては申し分ない。
普段のヴィルヘルムからは想像もつかないような一面を、それも一度に幾つも見ることができたのだから、探求者としては非常に満足である。
ただし、冷静に考えれば少々反省すべき点もあった。
ヴィルヘルムは自分がどの程度まで酒を飲めるのか把握していなかったし、私も兎に角酔うまで飲ませることに苦心していた。
本人が思考の鈍りを訴えたところで飲酒を切り上げたものの、そこまで酔わせるつもりで杯を勧めたこと自体、あまり褒められた行動ではなかっただろう。
昨夜は最後まで自分で歩けていたし、眠る時にも特に異変はなかったが、今朝の体調については念のため慎重に確認しておきたい。
私はそこまで考えて少しだけ心配になり、夫の額へそっと手を伸ばした。
熱はない。呼吸も穏やかで、顔色も普段と変わらなかった。
その時、指先が触れたためか、長い金の睫毛が僅かに揺れた。
「……レベッカ?」
ヴィルヘルムがゆっくりと目を開けた。澄んだ青い瞳が私を捉え、それから少しだけ眠そうに細められる。
彼はいつものようにふわりと微笑むと、私を抱きしめていた腕へ僅かに力を込め、額へ軽く口付けた。
「おはようございます。今日も先を越されてしまいましたね。」
「おはようございます、ヴィルヘルム。よく眠れましたか?」
「ええ。とてもよく……。」
そこまで答えたところで、ヴィルヘルムの動きが止まった。
私は目を瞬かせた。
ヴィルヘルムは暫く何も言わず、何かを考えるように目を伏せている。
今まで穏やかだった表情へ、少しずつ困惑の色が浮かび始めた。長い指が私の肩から離れ、自身の額へ触れ戸惑うようにそのまま前髪を掻き上げる。
それからもう一度、何かを確かめるように寝室の中へ視線を巡らせる。
「……ヴィルヘルム?」
「……少々、お待ちください。」
彼は静かに身体を起こし、寝具の上へ片手をついた。
その横顔を見ながら、私は何となく察した。恐らく昨夜のことへ考えを巡らせているのだろう。
普段ならどれほど複雑な情報でも瞬時に整理してしまう男が、今は珍しく眉間へ皺を寄せ、何かを考え込んでいる。
そして、数秒後。
彼の顔から、すっと血の気が引いた。
「……レベッカ。」
「はい?」
「……昨夜のことなのですが。」
私は思わず口元を緩めかけたが、夫の表情が思いのほか深刻だったので、慌てて引き締めた。
「はい。どうなさいました?」
「……私は、何をしました?」
予想していた問いの一つではあったが、聞き方が随分切実だった。
私は少しだけ考え、まずは彼が何を覚えているのか確認することにした。
「どこまで覚えていらっしゃいます?」
「……足湯へ入ったことは覚えています。あなたと二人で夜景を眺めて、それから幾つかの銘柄を飲み比べたところまでは、はっきり覚えているのですが。」
「その後は?」
「……曖昧、なのです。」
彼は困惑した様子で、僅かに眉を寄せた。
「会話をしたことは覚えている気がします。ですが、何を話したのか、途中から前後の繋がりがはっきりしません。寝室へ戻ったことも、何となくは覚えているのですが……どういう順序で、何があったのか、思い出そうとしても繋がらないのです。」
私は思わず夫の顔を見つめた。
なるほど。どうやら昨夜の記憶がかなり曖昧らしい。
そして、彼にとってその事実は、相当な衝撃であるようだ。
何しろヴィルヘルムは、三年前に読んだ地方の地誌から橋の築造年代を即座に引っ張り出してくるような男である。
自分が見聞きしたことを正確に記憶し、必要な時には瞬時に取り出せるという能力は、彼にとって呼吸をするのと同じくらい当たり前のものなのだろう。
その男が、昨夜の自分の言動を思い出せないというのだから混乱するのも分か気もするが、ここまでだろうか。
彼は硬い雰囲気のまま、眉根をぐっと寄せた。かなり厳しい表情に、私も自然と身体が強張る。
「……レベッカ。私は、あなたへ何か失礼なことをしませんでしたか?」
「いいえ。特に何も。」
「……本当に?」
「ええ。」
「無理に何かをさせたり、あなたが嫌がることをしたりは……。」
「していませんよ。大丈夫です。」
彼は少しだけ安堵したようだったが、まだ表情は硬いままだった。
「リアムは?」
「ぐっすり眠っていました。あなたと会ってもいませんし、他の方と話すようなこともありませんでしたよ。」
「……そうですか。」
ヴィルヘルムはようやく肩の力を抜いたものの、また自分の額へ手を当て、暫く考え込んでいた。私はそんな夫の様子を眺めながら、胸の奥へ小さな罪悪感が生まれるのを感じた。
どうやら、本当に怖がらせてしまったらしい。
私はそっと彼の手を取った。
「ヴィルヘルム。昨夜は私もすごく楽しくて、あなたにお酒を勧め過ぎてしまったんです。全部、私のせいです。本当にごめんなさい。」
ヴィルヘルムが慌てたように顔を上げた。
「いえ、私が悪いのです。」
言葉にはまだ緊張が滲んでいる。
「眠るまで、あなたは楽しめましたか?その、辛いことはありませんでしたか?」
ヴィルヘルムは自分の混乱もさることながら、兎に角私のことを気にしているようだった。
私が慌てて彼の頬に手を当てながら、ずっと笑っていました、と微笑むと、彼は私をじっと見つめた後、静かに息を吐いた。
「……すみません、私もまだまだ自分についての理解が薄かったようです。」
「いえ、私が無理に付き合わせてしまって、本当に悪かったです。体調は大丈夫ですか?」
「ええ、体調は全く問題無いのですが、せっかくのあなたとの夜を覚えていないなど……すみません。」
恥じ入るように目を伏せたヴィルヘルムの額に、そっと口付ける。
「まったく謝る必要はありません。とても楽しかったですし、非常に可愛かったです。」
私の言葉の最後に、ヴィルヘルムが息を呑んだ。青い瞳が僅かに見開かれる。
「……あの、私は何をしたのです?」
私は少し考えた。
それから、にっこり笑った。
「まず、猫になっていただきました。」
ヴィルヘルムが止まった。
「…………何と?」
「猫です。」
「……猫?」
「ええ。ですから、『にゃあ』と。鳴いていただきました。」
沈黙。
長い沈黙。
ヴィルヘルムは私の顔を見つめたまま、まるで未知の言語を聞いたかのように動かなくなった。
「……私が?」
「はい。」
「……にゃあと?」
「ええ。鳴きましたね。」
先ほどまで青ざめているようにも見えた白い頬が、みるみる赤くなっていく。
可愛い。何だ、この反応は。
昨夜の猫も十分可愛かったが、今朝のこれも相当なものである。
「……本当に?」
「本当ですとも。とても可愛らしかったです。」
彼は片手で顔を覆って俯いた。
私はそんな夫を眺めながら、前回自分が猫になった時のことを思い出していた。
あの時は、ヴィルヘルムの言葉に赤面し、悶絶し、大変だった。うむ、今度はこちらの番だろう。
「それから、犬にもなりました。」
顔を覆っていた手が止まった。
「……犬?」
「ええ。『わん』と。」
「…………。」
「大変美しい大型犬でした。あんなわんこなら、飼いたいですね。」
ヴィルヘルムは暫く黙っていたが、やがて深々と息を吐いた。
「……レベッカ。」
「はい?」
「……もう結構です。」
「まだありますよ?」
「……あるのですか?」
何とも絶望的な声だった。
私はとうとう堪えきれず、声を立てて笑ってしまった。
昨夜の本人は少しも恥ずかしがっていなかった。私にお願いされるまま、大真面目な顔で「にゃあ」と言い、その後で自分から「わん」と言った。
しかもその前には不安を零す寂しがり屋の彼も、ひたすらに愛の言葉を囁く溺愛モードの彼も確認された。
これはもう、一生の宝物となる研究結果に違いない。
「……忘れてください。」
ヴィルヘルムが顔を覆ったまま呟いた。
私はにっこり笑った。
「難しいですね。とても可愛らしかったので。」
以前、自分が言われた台詞をそっくり返してみる。
するとヴィルヘルムは、さらに耳まで赤くした。
「……レベッカ。」
「はい?」
「……お願いですから。」
ああ、もう。本当に可愛い。
そっと宥めるようにヴィルヘルムの頬へ口付けし、少しだけ表情を和らげる。
「でも、本当に可愛かったんです。」
「……それは、もう十分分かりましたから。」
「あなたがあんなに甘えん坊だとは思いませんでした。何度も好きだと仰って、ずっと私を抱きしめていて……私が少し離れようとすると、すぐに追いかけてくるんです。」
「…………。」
「もう、本当に大きな犬みたいでした。」
ヴィルヘルムは何とも言えない顔をした。
私はそんな彼を眺めながら、昨夜のことを思い出していた。これだけは、今伝えておいた方がいいだろう。
「あんなに可愛いわんこが毎晩待っていてくれるなら、仕事がどれほど忙しくても、ついつい早く帰りたくなりますね。」
彼は目を見開いたまま、また動きを止めた。
私はにっこりと微笑む。
「あんなに可愛い子なら、毎晩でも抱きしめて眠りたいです。」
ヴィルヘルムはすぐには何も言わなかった。
青い瞳が僅かに揺れ、口元が何か言いかけるように動いている。普段なら何でも器用に言葉へできるはずの男が、今はただ私の顔を見つめていた。
「……レベッカ。」
「はい?」
「……仕事が忙しくても?毎晩抱きしめて?本当に、そう思いますか?」
「もちろんです。」
私は笑った。
「とても幸せでした。少し重かったですけれど。」
ヴィルヘルムはようやく小さく笑った。
この人はきっと我慢する生き方しか知らない。
誰かに甘えたいと思っても、その気持ちを口にできず、寂しい時には寂しいと言わず、欲しいものがあっても自分から手を伸ばせなかった。
幼い頃からそんな生き方を続けてきたのだから、今さら何でも素直に表現できるはずがない。
ヴィルヘルムが私の額へ軽く口付けた。
その顔は、もう普段どおりだった。
美しく、穏やかで。
ん?何故か少しだけ悪戯っぽく口端を上げている。
「では、今夜も犬になって構いませんか?」
私は思わず目を瞬かせた。
「……はい?」
「毎晩でも構わないのでしょう?」
ヴィルヘルムはにっこりと微笑んだ。
これは、まさか反撃されているのだろうか。
私は一瞬固まった。
すると彼は、私の頬を撫でながら、美しい顔を近づけた。青い瞳が私の様子をつぶさに確認するように見つめている。
「昨晩の私は随分気に入られているようですし、記憶の補完のために是非素面で実演させてください。」
「え?いや、その。さすがに連日は心臓が持ちませんので……。」
「あとで昨夜の私の発言をできるだけ詳細に教えてくださいね。全力で再演いたしますので。」
昨晩の彼の可愛さや色っぽさや妖艶さを思い出し、私は思わず口を噤んだ。
「いや、そのままなぞっても、つまりませんかね。今晩は犬だけでなく、狼にもなりましょうか。」
「お、狼……?」
「可愛い子羊を襲う狼です。」
「子羊とは?」
彼は少しだけ目を細め、僅かに首を傾げまた微笑んだ。
「もちろん、あなたです。」
どうやら、一連の意趣返しも昨晩の企みも全て見通されてしまったようだ。これは大変である。
私は今晩の夫婦の時間を思い、困るべきか照れるべきか、或いは期待すべきなのか、暫く悩んだ。
◇
「お父様!お母様!おはよう!」
夫婦の甘い時間を終わらせたのは、当然ながら我が家の小さな外交官だった。
隣室へ続く扉の向こうから元気な声が聞こえ、程なくして侍女に付き添われたリアムが顔を覗かせた。
昨夜は随分早く眠っていたが、そのおかげか今朝もすっかり元気を取り戻したらしい。
金の混じる茶髪は寝起きのため少し跳ねていたが、青い瞳はきらきらと輝き、その両手には初日にもらった木彫りの鹿が大切そうに握られていた。
「おはようございます、リアム。」
私が声を掛けると、息子は満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「お母様!きょうはお酒のおうち行く?」
「ええ。昨日お約束しましたものね。」
「やった!」
リアムは両手を上げて喜び、それからヴィルヘルムへ顔を向けた。
「お父様、おはよう!」
「おはようございます、リアム。よく眠れましたか?」
「うん!」
ヴィルヘルムが腕を広げると、息子は迷わずその胸へ飛び込んだ。夫は慣れた様子で抱き上げ、小さな身体をしっかり支えながら頬へ口付ける。
その光景を見た瞬間、私は思わず笑いそうになった。
ああ、駄目だ。
昨夜の大型犬を思い出してしまう。
今朝はすっかり普段どおりの国王へ戻っているというのに、息子を抱きしめて嬉しそうに微笑んでいる姿を見るだけで、何故か「わん」という声が脳裏へ蘇ってくるのだ。
私は何とか表情を取り繕った。
ところが、そんな私の努力を嘲笑うかのように、リアムが不思議そうな声を上げた。
「お父様、またおみみ赤いよ?」
ヴィルヘルムが止まった。私は思わず口元を押さえた。
「……少し、部屋が暖かいのかもしれませんね。」
彼はこれまたかなり苦しい言い訳をした。
リアムは首を傾げる。
「でも、お母様は赤くないよ?」
「……そう、ですね。」
「お父様、あつい?」
「大丈夫ですよ。」
ヴィルヘルムは息子へ優しく笑いかけた。
私はとうとう堪えきれず、噴き出してしまった。
「……レベッカ。」
「はい?」
ヴィルヘルムがこちらを見る。私は必死に笑いを堪えた。
「何でしょう?」
「……大変楽しそうですね。」
青い瞳が静かに細められる。私はそれ以上揶揄うことはせずに、小さく咳払いした。
ここでこれ以上時間を取るのもよくない。なにせ今日も朝から楽しい予定がある。
蒸留所見学である。
私は胸の内で気持ちを切り替えた。
昨夜は結果的に私まで酒に振り回されたが、今日はその酒がどのように造られるのか、しっかり見学させていただこうではないか。
◇
朝食を終えた私たちは、蒸留所見学へ向かった。
今日もベインバルクは見事な秋晴れだった。山々は鮮やかな紅葉に彩られ、谷間を流れるベルン川の水面には青空と赤い木々が映り込んでいる。
上町から中町へ続く坂道には、昨日よりも多くの観光客が歩いていた。どうやら収穫祭の期間中らしく、広場には色とりどりの布を張った屋台が増え、店先には大きな林檎の籠や麦束が飾られている。
遠くからは楽器の音が聞こえ、焼き栗や香草を使った料理の香りが風に乗って漂ってきた。
私は思わず足を止めかけた。
屋台からとても良い匂いが漂ってきている。
いや、待て。今日は蒸留所だ。まずは予定を優先しなければ。
「レベッカ?」
ヴィルヘルムが私を見て足を止める。
「気になるお店でもありましたか?」
「……いえ。その、帰りに寄ろうかと思いまして。」
「そうですか。」
彼は楽しそうに微笑む。
「では、帰りにゆっくり見て回りましょう。」
「本当ですか?」
「ええ。今日はまだ時間もありますから。」
私は嬉しくなり、彼の手をぎゅっと握った。
その様子を見ていたリアムが、反対側から父親の手を取る。
「お父様、ぼくも!」
「ええ。もちろん。」
こうして三人で手を繋ぎながら、私たちは石畳の坂道を下っていった。
下町、通称「樽街」と言われている区画へ入ると、街の雰囲気はそれまでとは随分違ったものになった。
中町には観光客向けの宿屋や菓子店、温泉施設が多かったが、こちらには大きな倉庫や工房が立ち並び、荷車を引く馬や荷を運ぶ職人たちが忙しそうに行き交っている。
通りの両側には樫材を積み上げた材木置き場があり、建物の軒下には大小様々な樽が並べられていた。
空気へ漂う香りも独特だった。
麦を乾燥させた香ばしい匂い、発酵途中の甘酸っぱい香り、木材の乾いた香り、そして蒸留所から漏れてくる酒精の鋭い匂い。
それらが薪の煙や川から吹き上げる湿った風と混じり合い、他の地区とは全く違った、活気ある雰囲気を作っている。
川沿いの広い通りでは、麦を積んだ荷車が何台も並び、倉庫の前では職人たちが大きな樽を転がしていた。
建物の壁にはそれぞれの工房の印が掲げられ、鹿や麦穂、林檎、樽などを象った木製の看板が、秋風に揺れている。
「……わあ。」
私は思わず感嘆の声を漏らした。
「すごいですね。想像していた以上に大規模です。」
「そうですね。ここで、国内に出回る蒸留酒の約三割が生産されていますから。」
ヴィルヘルムが頷きながら説明する。
「ベインバルクの街だけでなく、周辺の谷や山麓にも多数の工房があって、原料の麦や林檎は広い範囲から集められているんです。熟成庫も各地に分散していますし、樽材を扱う職人や輸送業者も多いので、この地方全体が蒸留酒産業を中心に発展を遂げた形になりますね。」
「なるほど。単なる観光地ではなく、一大産業集積地なのですね。」
「ええ。北西部の蒸留所群を合わせれば、国内で生産される蒸留酒の五割近くを占める年もあります。」
「……五割。」
私は思わず立ち止まった。
それはすごい。
単純に考えて、国家経済への影響が相当大きい。
酒税収入はもちろん、農業、林業、輸送、樽製造、宿泊業、飲食業など、関連する産業まで含めれば、この地域の経済的な重要性は計り知れないだろう。
しかも地熱を利用した生産設備があるという。
これは面白い。
「原料の麦も全てこの地域で?」
「いえ、この谷だけでは到底賄いきれませんから、周辺の平野部からもかなりの量が運び込まれています。特に冬場は輸送路が限られますので、秋のうちに相当量を確保して保管しています。」
「なるほど。倉庫の容量も重要ですね。樽材の調達はどうですか?この辺りの森林資源だけで賄えるとは思えませんが。」
「はい、一部は南部からも移入しています。樫材は特に品質の差が大きいので、工房ごとにそれぞれ異なる地域から調達先を選んでいるようです。」
「それは興味深いですね。樽の品質管理は相当重要でしょうし、木材の乾燥期間も――」
「……レベッカ。」
ヴィルヘルムが少し笑った。
「はい?」
「旅行中ですよ。」
私はその言葉にぎくりと固まった。
危ない。危うく、通りの真ん中で産業政策の議論を始めるところだった。
私は慌てて咳払いして、目を伏せた。
「分かっています。私は大変楽しんでいます。」
「そうですか。」
ヴィルヘルムは私のこめかみにそっと口付けると、微笑んで私の手を引いた。
「そういうところも、素敵ですよ。」
この男、やはり酔っていなくても甘い言葉を平気で言う。そして恐らく本人には一切その気はない。
そんな会話をしているうちに、目的の蒸留所へ到着した。
石造りの大きな建物が幾棟も連なり、その奥には樽を貯蔵する倉庫が建っている。
広い中庭には麦を積んだ荷車が並び、職人たちが忙しそうに荷を運び込んでいた。入口の上には鹿の角と麦穂を組み合わせた紋章が掲げられ、建物の壁には創業年代を刻んだ石板が嵌め込まれている。
見学のために迎えてくれた工房の責任者は、恰幅の良い壮年の男性だった。
彼は私たちを見ると、少し緊張した様子で深く頭を下げた。
「本日はようこそお越しくださいました。両陛下と王子殿下に、当工房をご案内できることを光栄に存じます。」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
私が笑顔で答えると、彼は少し安心したようだった。
もっとも、その安心は長続きしなかったようだ。
まず、工房へ入った途端、私が完全に夢中になってしまった。
最初に案内されたのは、原料の麦を加工する建物だった。
石壁の大きな室内には乾いた麦の香りが漂い、天井近くには太い木の梁が何本も渡されている。床には作業用の溝や通路が設けられ、職人たちが大きな木製の道具を使って麦を運んでいた。
責任者の説明によると、ここでは麦芽を乾燥させる工程の一部に地熱を利用しているらしい。
私は思わず目を輝かせた。
「……ここが地熱ですか?」
「はい。近くの源泉から得られる熱を利用しておりまして、温泉水そのものを麦へ掛けるわけではなく、別の経路で空気を温める仕組みでございます。」
「なるほど。直接燃料を燃やす量を減らせるのですね。」
「ええ。もちろん全てを賄えるわけではございませんが、薪の消費をかなり抑えられるようになりました。」
「それは素晴らしいですね。設備の導入はいつ頃から?」
「現在の方式へ切り替えたのは、三十年ほど前でございます。」
「導入前後で燃料費の比較記録は残っていますか?」
責任者がきょとんとした表情で私を見遣った。
「……はい?」
「地熱の利用によって、どの程度の燃料削減効果があったのか、可能なら知りたいのです。もちろん設備の維持費も掛かるでしょうけれど、日々の運用費はかなり抑えられるのですよね?何年で設備費が回収できましたか?」
「……は、はい。それは、その……。」
男性は少し困惑した顔で、後ろに控えていた職人へ視線を向けた。
「それから、源泉の温度変化による影響はどうでしょう?季節によって供給熱量が変わるなら、補助の燃料設備も必要でしょうし、配管の鉱物付着による保守費用なども気になりますね。分解整備は何年おきに?それとも腐食に長期的に耐えうる素材か塗料を使用しているのですか?鋼材も色々ありますものね。性能を確認したいです。仕様書はあります?或いは配管材の試験表でもいいです。」
答えが返って来ないのに気づいて、私はようやく思考を中断し、周りに目を配った。
責任者が固まっている。
ヴィルヘルムも、少しだけ驚いた顔でこちらを見ていた。
何かおかしいことを聞いてしまっただろうか。
「……レベッカ。」
夫が静かに呼んだ。
「はい?」
「今は、旅行中の見学ですよ。」
「ええ。分かっていますが。」
「……少々、質問が専門的すぎるのでは?まるで、査察のようです。今は仕事のことは忘れましょう。」
「そうでしょうか?」
私は首を傾げた。だって、面白いではないか。
地熱を利用して乾燥工程の燃料を削減する技術など、前世においても十分に研究対象となる分野だった。しかも、この世界では蒸留酒産業も重要な税収源の一つとなっているのだから、生産効率を高める仕組みには国家経済上の意味もある。
実際、地熱利用は温泉都市としての観光資源と産業基盤を結びつける重要な技術だろう。
再び考えを巡らせていると、ふと隣でヴィルヘルムが口元を押さえていることに気づいた。
笑っている。何故だ。
「……何故笑うのです。」
「……いえ。あなたらしいと思いまして。」
「何です、その言い方は。」
すると彼は楽しそうに笑い、責任者へ向き直った。
「申し訳ありません。妻はこうした設備や産業の仕組みに大変興味があるものですから。」
「い、いえ!とんでもございません!」
責任者は慌てて頭を下げた。
私は少々不満だったが、すぐにまた責任者の説明へ意識を戻した。
その後も、仕込み場では大きな木製の槽を使って麦芽と温水を混ぜる工程を見学し、発酵室では甘酸っぱい香りの漂う大きな発酵槽を見せてもらった。
さらに奥の蒸留室では、磨かれた銅製の蒸留器が何基も並び、丸みを帯びた胴体と細長い管が、柔らかな光を受けて鈍く輝いていた。
私は思わず息を呑んだ。
「……まあ、綺麗。」
何とも美しい設備だった。
大きな銅製の蒸留器は、一つ一つ僅かに形が違っている。胴体の丸みや首の長さ、管の曲がり方などに工房ごとの工夫があるらしく、職人たちは温度や蒸留の進み具合を細かく確認しながら作業していた。
高温の設備へ近づかないよう、見学通路にはしっかりと柵が設けられている。足元も滑りにくく整備され、観光客が安全に見学できるよう工夫されていた。
私はそれらを眺めながら、思わず感心した。
「すごいですね。製造工程がかなり体系化されています。」
「ありがとうございます。」
責任者は少し嬉しそうに胸を張った。
「当工房では、代々の職人たちが蓄積してきた技術を大切にしておりまして、特に蒸留器の形状や温度の管理については、長年試行錯誤を重ねてまいりました。」
「なるほど。蒸留器の形状によって、仕上がる酒の風味にも違いが出るのでしょうね。」
「ええ。まさにそのとおりでございます。」
責任者はすっかり嬉しくなったらしく、今度は自分から熱心に説明を始めた。
私はその話を聞きながら、ひたすら感心していた。
胸が躍る。これこそまさに工場見学。私は前世から工場や巨大な建造物が大好きだった。製鉄工場や巨大な化学プラントなど、機械が一つの身体を持って生きているようで、見ているだけで楽しかった。
私はここでもすっかり満足したが、工房の奥には、さらに、樽を貯蔵する大きな石蔵が設けられていた。
山肌へ掘り込まれた貯蔵庫は、外の気温とは異なり、ひんやりとした空気に包まれていた。厚い石壁が温度の変化を和らげるらしく、内部には大小様々な樽が整然と並べられている。
乾いた木材と熟成酒の香りが漂い、薄暗い通路には小さな灯りが点々と続いていた。
私はそれを見て、また興奮した。
「……ここは、地熱を利用していないのですね?」
「はい。湯蔵で寝かせる工房もございますが、当工房の酒は、温度の変化が少ない場所で熟成させる方が向いておりますので。」
「なるほど。先ほどの乾燥工程とは逆なのですね。」
「おっしゃるとおりです。」
理にかなっている。
温泉都市だからといって、何でも温めれば良いというわけではない。工程ごとに適した環境を整えて、土地の資源を最大限に活用している。実に面白い。
すると、隣でヴィルヘルムがふと口を開いた。
「……そういえば、この地域では熟成中の酒の減少量を、特別な名称で呼ぶそうですね。」
責任者が嬉しそうに頷いた。
「はい。『湯の精の取り分』と申します。樽へ入れた酒は、熟成の間に少しずつ量が減ってしまいますので、それを昔から湯の精が飲んでいるのだと言い伝えているのでございます。」
「素敵な呼び方ですね。」
前世でいう、いわゆる天使の取り分のようなものだろう。何とも風情がある。
「ちなみに、その減少率は年間どの程度なのでしょう?」
私の質問に、責任者が再び言葉に詰まった。
ヴィルヘルムも、また笑い始めた。
「……レベッカ。」
「はい?」
「……今は旅行ですよ?」
「分かっています!」
私は思わず声を上げた。
「ものすごく楽しんでいます!」
ヴィルヘルムはとうとう声を立てて笑った。
何故だ。私は本当に楽しんでいるのに。
ただし、その数分後には彼自身も、樽材の調達経路や熟成庫の温度管理について責任者へ質問を始めていたので、あまり人のことは言えないと思う。
「……ヴィルヘルム。」
「はい?」
「あなたも随分楽しそうですね。」
「ええ。思っていた以上に興味深い施設です。」
「でしょう?」
「……ただ、確かに旅行中でしたね。」
彼は少しだけ困ったように笑った。
私はそれに満足して頷いた。
やはり、この人も同類なのである。
◇
「……お父様、お母様。」
そんな私たちへ、少し不満そうな声が掛かった。
振り返ると、リアムがこちらを見上げていた。小さな顔には、何とも言えない表情が浮かんでいる。
「どうしました、リアム?」
私が尋ねると、息子は少し首を傾げた。
「……まだ、お仕事?」
私は固まった。
ヴィルヘルムも止まった。
しまった。これはまずい。私は慌てて笑顔を作った。
「い、いえ。これはお仕事ではありません。お母様は今大変楽しんでいますよ。」
「お父様も?」
リアムがヴィルヘルムを見る。
彼も誤魔化すように微笑んだ。
「……ええ。もちろん。」
しかし、どう見ても仕事の顔である。
リアムは暫く私たちを見比べていたが、やがて何か思いついたように顔を輝かせた。
「じゃあ、ぼくもあそびたい!」
なるほど。それはそうだ。
四歳児に蒸留器の構造や熟成庫の温度管理が面白いはずもない。
私は深く反省した。
「ごめんなさいね、リアム。お母様、少し夢中になってしまいました。」
すると、工房の責任者が慌てて口を開いた。
「それでしたら、ちょうど隣の建物に、お子様向けの体験場所がございます。林檎を搾る道具や、樽材を使った木製玩具などを見ていただけるのですが、いかがでしょうか?」
リアムの目が輝いた。
「おもちゃ?」
「はい。今日は収穫祭の期間中ですので、職人たちの子供も何人か来ております。よろしければ、そちらで一緒に遊んでいただけますよ。」
「おともだち?」
「ええ。」
リアムはぱっと私たちを見上げた。
「行きたい!」
即答だった。
「では、行ってみましょうか。」
「やった!」
見学通路を戻り、隣の建物へ移動する。
そこには小さな体験用の作業場が設けられており、木製の卓や椅子が並び、壁には子供たちが作ったらしい玩具が幾つも飾られていた。
入口の近くには、林檎を搾るための小さな手回し式の道具が置かれている。別の卓には樽材の端材を利用して作った木製玩具が並び、鹿や鳥、馬などの形をした小さな人形へ、好きな色を塗れるようになっていた。
ちょうど何人かの子供たちが遊んでおり、職人の家族らしい女性が近くで見守っている。
高温の設備や作業場からは離れた場所なので、リアムが遊ぶには申し分なさそうだった。もちろん護衛や侍女も近くへ控えているので、私たちも安心である。
するとリアムは、早速一番近くの卓へ向かった。
「こんにちは!」
突然の挨拶に、子供たちが顔を上げる。
年齢は四歳から七歳ほどだろうか。男の子が二人、女の子が一人、木製の鹿へ色を塗っていた。
リアムはにこにこと笑いながら、卓の上を覗き込んだ。
「これ、なに?」
「……鹿だよ。」
少し年上らしい男の子が答えた。
「ぼくも、しか持ってる!」
「ほんと?」
「うん!」
リアムは得意そうに笑うと、小さな鞄から、あの木彫りの鹿を取り出した。
それを見た男の子が、突然声を上げた。
「あ!それ、うちのお父さんのお店の!」
私は目を瞬かせた。
どうやらこの男の子は、あの樽職人の息子らしい。
「お父さん?」
「うん!樽のお店でしょ?」
「うん!お酒のおうち作ってた!」
「そうそう!」
二人は一瞬で意気投合した。
リアムは早速椅子へ座ると、男の子から木製玩具の作り方を教わり始めた。最初は少し戸惑っていた周囲の子供たちも、リアムが楽しそうに質問を始めると、すぐに笑顔になった。
「これ、何色にする?」
「赤!」
「赤い鹿なんていないよ!」
「いるかもしれないよ!」
「いないって!」
微笑ましい限りである。
その後、私たちは子供たちの遊ぶ区画から目の届く範囲で、工房の土産物の展示を見ながら、製品の説明を聞くことになった。
責任者から製品の種類や熟成年数の違いについて説明を受け、ヴィルヘルムと一緒に樽材の特徴について話していたところで、ふとリアムの方へ目を向けた。
すると、子供が増えていた。
先ほどは三人だったはずだ。
なのに今は、リアムの周囲へ五人ほど集まっている。
私は少し不思議に思ったが、まあ、収穫祭の期間中なのだから、他の子供が加わることもあるだろう。そう考えて再び説明へ耳を傾けた。
ところが、暫くしてもう一度目を向けると、さらに増えていた。
なんとその数や、十人。
私は夫の腕へそっと触れた。
「……ヴィルヘルム。」
「はい?」
「……リアムの周り、人が増えていません?」
夫が目を向けた。
そして、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……本当ですね。」
「先ほどは、三人ではありませんでした?」
「ええ。そのはずですが……。」
私たちは暫く黙って眺めた。
リアムは楽しそうに笑いながら、皆へ何かを説明している。手には色を塗り終えたばかりの木製の鹿があり、周囲の子供たちも嬉しそうに笑っていた。
そして、どうやら今度は林檎を搾る体験へ移るらしい。
リアムが立ち上がると、他の子供たちも一斉に立ち上がり、ぞろぞろとその後について歩き始めた。
私は閉口した。
「……恐ろしい人望ですね。」
ヴィルヘルムが真顔で言った。
私も真顔で頷いた。
「……恐ろしい外交力です。」
二人で顔を見合わせる。
その時、リアムがぱっとこちらを振り返った。
「お父様!お母様!」
小さな手が大きく振られる。
「おともだち、いっぱいだよ!」
私たちは思わず笑ってしまった。
◇
工房見学を終えた頃には、すっかり昼を過ぎていた。
結局、私は最後まで蒸留所の設備や製造工程へ夢中になってしまい、責任者からは製品の説明だけでなく、熟成庫の管理や原料の調達についてまで随分詳しく話を聞かせてもらった。
ヴィルヘルムも途中からすっかり議論へ加わっていたため、最後には二人揃って、旅行中であることを忘れかけてしまった。
何とも恐ろしいことである。
リアムは私たち以上に充実した時間を過ごしていたらしい。
子供たちと一緒に林檎を搾り、木製玩具へ色を塗り、最後には皆で小さな鹿を並べて遊んでいた。気づけば随分と仲良くなったようで、別れ際には何人もの子供たちがリアムへ手を振ってくれた。
改めて感心しながら工房を出たところで、私はふと、リアムが大切そうに抱えている小さな袋に気づいた。
「……リアム。それは何です?」
息子がぱっと顔を輝かせた。
「お母様!これ、つくったの!」
袋の中には、小さな木製の鹿が二頭入っていた。
一頭は赤い模様が描かれ、もう一頭には青い線が入っている。丁寧に色が塗られており、子供らしい素朴な愛らしさがあった。
「わあ、可愛い!」
私が声を上げると、リアムは得意そうに胸を張った。
「これ、お母様に!」
赤い鹿を差し出してくる。
「お母様にですか?」
「うん!」
「ありがとうございます。大切にしますね。」
私は嬉しくなり、息子の頭を撫でた。
するとリアムは、今度は青い鹿をヴィルヘルムへ差し出した。
「こっちは、お父様に!」
ヴィルヘルムが目を瞬かせた。
「……私に?」
「うん!」
「……ありがとう、リアム。」
彼は心から嬉しそうに微笑み、小さな鹿を受け取った。
それからリアムは、自分の鞄から先日もらった木彫りの鹿を取り出した。
「これは、ぼくだよ!」
なるほど。
三頭の鹿。
父親と母親と、自分。
私は一瞬、言葉を失った。
この子は、なんて可愛いのだろう。
私は思わず息子を抱きしめた。
「……ありがとう、リアム。とても嬉しいです。」
「お母様、うれしい?」
「ええ。ものすごく。」
リアムは嬉しそうに笑った。
ヴィルヘルムも、そっと息子の頭を撫でた。
「私もとても嬉しいです。帰ったら、三頭並べて飾りましょうね。」
「うん!」
リアムは元気よく頷いた。
私はそんな二人を眺めながら、胸がいっぱいになっていた。
ああ、もう。
何と幸せな旅行だろう。
◇
午後は約束どおり収穫祭の屋台を覗いて回り、それから土産物屋へ立ち寄って、王宮へ持ち帰る品を選ぶことになった。
まず、地元の林檎酒。
それから、香草を使った保存食。
王宮の料理人たちへの土産には、この地域で作られている香辛料と蜂蜜を選んだ。侍従や侍女たちには焼き菓子の詰め合わせを購入し、リアムには小さな木製玩具を幾つか追加する。
さらに、私は蒸留所で気に入った酒を数本、研究用として購入することにした。
ヴィルヘルムがそれを見て、少しだけ頬を赤くした。
私はもちろん見逃さなかった。
「……ヴィルヘルム。」
「はい?」
「どうしました?」
「……いえ。」
「お酒がお嫌いになりました?」
夫は複雑そうな顔をした。
「……別に、嫌いになったわけではありませんが。」
「そうですか。」
私はにっこり笑った。
「では、今度は猫にならずに楽しみましょうね。」
ヴィルヘルムが固まった。
私はとうとう噴き出してしまった。
もっとも、あまり調子に乗ると今夜の狼がさらに手強くなりそうなので、ほどほどにしておくべきだろう。
私はそんなことを考えながら、購入した土産物を侍従へ預けた。
ところが、そこまでしてようやく荷物の量を確認したところで、ちょっとした問題に気づいた。
初日から少しずつ購入していた土産物が、いつの間にか相当な量になっている。
林檎酒、蒸留酒、菓子、香辛料、蜂蜜、木製玩具、石鹸、香草を使った入浴用品。
私は言葉もなく荷物の山を眺めた。
いや、しかし、これは仕方ない。
◇
翌朝、私たちはベインバルクを発った。
白鹿宮の庭園には朝霧が立ち込め、紅葉した木々の枝には細かな露がついていた。街の屋根の間からは白い湯煙が立ち上り、谷底を流れるベルン川の上には淡い霧が漂っている。
出発の準備を整えた馬車の前で、リアムは最後まで名残惜しそうに街の方を眺めていた。
「……お父様。」
「はい?」
「また、ここ来る?」
ヴィルヘルムは小さく笑った。
「ええ。また来ましょうね。」
「おともだちもいる?」
「きっと、また会えますよ。」
「ほんと?」
「ええ。」
リアムは少し考えた後、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、またね!」
街へ向かって大きく手を振る。
私はその姿を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
何と素敵なことだろう。
この子にとって、ベインバルクはもう、ただの知らない街ではないのだ。
友達がいて、美味しいものがあって、楽しい思い出がある場所。
だから、また来たいと思う。
それは私たちにとっても同じだった。
馬車がゆっくり動き始める。
石畳を車輪が進む音が響き、ベインバルクの街並みが少しずつ遠ざかっていく。
赤い林檎を積んだ店先、白い湯煙の立ち上る水路、石造りの鐘楼、そして山肌いっぱいに広がる紅葉。
初めて見た時には、あれほど新鮮だった景色が、今ではもう懐かしく感じられた。
私は窓の外を眺めながら、そっと息を吐いた。
本当に、楽しい旅行だった。
馬車が峠へ差し掛かる頃には、リアムはすっかり眠くなっていた。
これまで連日遊んだ疲れが出たのかもしれない。父親の隣へ移動すると、すぐにその膝へ頭を預け、小さな手で木彫りの鹿を握ったまま、静かな寝息を立て始めた。
ヴィルヘルムは息子の髪を優しく撫で、薄い毛布を掛けてやる。
私はその隣へ身体を寄せた。
「……楽しかったですね。」
ヴィルヘルムが微笑む。
彼は少しだけ間を置き、眠るリアムの頭を撫でた。
「……これからも、色々なところへ行ってみたいですね。」
私は顔を上げた。
ヴィルヘルムは窓の外へ目を向けている。
「リアムがもう少し大きくなったら、海へも行けますし、湖や山も良いでしょう。冬の雪景色も綺麗でしょうね。」
その言葉を聞いて、私は思わず微笑んだ。
「良いですね。私も行きたいです。」
ヴィルヘルムは私の返答に嬉しそうに笑った。
そして、私の手をそっと握る。
「……あなたとリアムが一緒なら、きっとどこへ行っても楽しいです。」
私はそっと夫の手を握り返した。
ヴィルヘルムは私を見て、ひどく穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見ながら、私は胸の奥が満たされていくのを感じた。
私達は、もうどこへでも行ける。人目を忍ばなくても、何の恐れも不安も抱くことなく。
私はそっと身体を寄せ、彼の肩へ頬を預けた。
ヴィルヘルムは眠っているリアムを支えながら、空いている腕で私を優しく抱き寄せてくれた。
穏やかで、幸せな時間だった。
◇
帰り道も、行きと同じように四日ほど掛かった。
私はやはり少しも退屈しなかった。
リアムは旅の間に見つけたものを次々と教えてくれたし、ヴィルヘルムは街道沿いの景色を眺めながら、今度はどこへ行こうかと楽しそうに話していた。
宿駅へ立ち寄れば、その土地ならではの料理を少しだけ味わい、気になる店があれば足を止めた。
そして、そんな日々を過ごすうちに、王都の見慣れた街並みが近づいてきた。
久しぶりに見る王宮の建物は、相変わらず堂々としていて、どこか懐かしかった。石造りの壁へ夕陽が差し込み、庭園の木々が柔らかな風に揺れている。
馬車が止まると、リアムは真っ先に顔を輝かせた。
「おうち!」
私は笑った。
「ええ。帰ってきましたね。」
「お父様、おうちだよ!」
「ええ。そうですね。」
ヴィルヘルムも嬉しそうに微笑んだ。
私たちは馬車から降り、迎えに出てきた侍従たちへ挨拶を済ませると、久しぶりの王宮へ足を踏み入れた。
廊下には見慣れた絵画が並び、窓からは庭園の景色が見える。遠くでは侍女たちが忙しそうに行き交い、執務室の方からは書類を運ぶ足音が聞こえてきた。
帰ってきた。
何とも不思議な気分だった。
約二週間離れていただけなのに、王宮の廊下も庭園も、どこか新鮮に見える。
私は隣の夫を見た。
ヴィルヘルムも、少しだけ感慨深そうに周囲を眺めている。
「……帰ってきましたね。」
私が言うと、彼は柔らかく微笑んだ。
「ええ。」
そして、そっと私の手を取る。
「……お帰りなさい、レベッカ。」
私は目を瞬かせた。
胸に沁みるような、優しい声だった。
私は思わず笑った。
「……あなたも、お帰りなさい。」
彼も嬉しそうに微笑む。
その隣では、リアムが早速侍女たちへ旅行の報告を始めていた。
「おんせん行った!」
「まあ、殿下。楽しかったですか?」
「うん!おともだちもできた!」
「それは素晴らしいですね。」
「しか、つくった!」
帰宅しても大変忙しそうである。
この子は本当に、どこへ行っても楽しそうだ。
ひとしきりはしゃぐと、リアムは少し眠たげに目を擦り始めた。
私はリアムを抱き上げると、ヴィルヘルムと並んで寝室へ向かった。
今夜は、久しぶりの自分たちの寝台で眠ることになる。
きっと、よく眠れるだろう。
私はそっと夫を見上げた。
ヴィルヘルムは私と目が合うと、また穏やかに微笑んだ。
十年前には、どこへも行けなかった。
けれど今は、こうして一緒に遠くへ出掛けることも、また帰ってくることもできる。
それだけで、もう十分に幸せだった。
いや。
十分などと、言ってはいけないのかもしれない。
何しろ、これから先も、まだまだ幸せになる予定なのだから。
私は心の中でまた拳を握り頷くと、愛する夫と息子と一緒に、王宮の奥へ歩き始めた。




