第9章:コンクリートの夜、泥濘からの船出
総会が閉会した瞬間、会場の空気は一気に崩れた。
張り詰めていた糸が切れたように、株主たちが席を立ち、役員たちが低い声で言葉を交わし、報道陣が一斉に前方へ押し寄せる。
「星野さん、こちらをお願いします!」
「藤堂会長の正式な後継者という認識でよろしいですか!」
「会社分割案を承認した理由を、改めてお聞かせください!」
「藤堂副社長とは対立関係にあるということでしょうか!」
フラッシュが、何度も紬の視界を白く焼いた。
会場の照明よりも、カメラの光の方が眩しかった。
議長席から降りたばかりの紬は、一瞬、足を止めそうになった。
体の奥にあった緊張が、まだ抜けていない。
喉は乾き、手のひらには汗が滲んでいる。
それでも、記者たちは待ってくれない。
誰も、紬が二十一歳の大学生であることなど考慮しない。
今この瞬間、彼らにとって紬は「突然現れた若き社長候補」であり、「老舗商社の内紛の中心人物」であり、「記事になる見出し」だった。
「申し訳ございません」
美崎が、紬の一歩前に出た。
その声は柔らかいが、簡単には押し切れない強さがあった。
「詳細な説明につきましては、正式な記者説明の場を設けます。本日はまず、株主および社員、取引先への説明を優先させていただきます」
「星野さん本人から一言だけ!」
「女子大生が年商四百億企業を率いることについて、不安はありませんか!」
「藤堂副社長に対して、何か言いたいことは!」
美崎は微笑みを崩さない。
「繰り返しになりますが、正式な説明の場を設けます」
その間に、進藤が紬の背後につき、加賀が報道陣との間にさりげなく身体を入れた。
一ノ瀬は、すでにスマートフォンで何かを確認している。
柚木は青ざめた顔で、飛び交う質問の速さに圧倒されていた。
「星野さん、こちらへ」
進藤の声に従い、紬は会場脇の通路へ誘導された。
背中に、何十もの視線が刺さる。
記者の声。
株主のざわめき。
役員たちの低い囁き。
それらが混ざり合い、耳の奥で濁った音になって響いていた。
扉が閉まり、控室へ戻った瞬間、紬はようやく息を吐いた。
足元から力が抜けそうになる。
「座ってください」
美崎がすぐに椅子を引いた。
紬はその椅子に腰を下ろした。
背中に、どっと汗が滲んでいる。
「終わった……んですか」
思わず呟いた。
その声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
「総会は終わりました」
進藤が答えた。
「ですが、何も終わってはいません」
その言葉は、静かに控室へ落ちた。
紬は顔を上げた。
進藤の表情には、勝利の色はなかった。
「会社分割案は可決。副社長派は繊維・ライフスタイル第一本部を持っていく。こちらは残存会社を引き受ける。ここまでは、想定通りです」
一ノ瀬がノートパソコンを開いた。
「想定通りですが、状況はかなり悪いです」
彼の声もまた、淡々としていた。
「総会中に、主要取引先二社から問い合わせが入っています。銀行からも、午後の面談要請が来ました。株主向け掲示板では、すでに混乱が始まっています」
「もうですか」
「市場は待ってくれません」
一ノ瀬は画面を紬へ向けた。
そこには、ニュース速報の見出しが並んでいた。
『藤堂物産、会社分割案を可決』
『病床の会長が女子大生を後継指名か』
『老舗商社に異例の若き女性議長』
『副社長派との対立鮮明』
紬は、その文字を見つめた。
自分の名前はまだ大きく出ていない。
けれど、時間の問題だった。
柚木が、震える指でスマートフォンを操作していた。
「SNS、もう流れてます……」
彼女の声は、少し掠れていた。
画面には、短い言葉が次々に流れている。
『女子大生社長って何?』
『ドラマみたい』
『老舗商社終わったな』
『会長の最後の悪ふざけでは』
『いや、逆に面白い』
『操り人形でしょ』
『若い女の子を矢面に立たせる大人たち、怖い』
『藤堂物産、株主総会が荒れたらしい』
文字は速すぎて、すべてを追うことはできなかった。
けれど、ひとつひとつが小さな針のように刺さった。
見知らぬ人たちが、自分のことを勝手に語っている。
面白がり、笑い、疑い、怒っている。
美崎が、柚木のスマートフォンをそっと下げさせた。
「今は見すぎないでください。必要な情報はこちらで整理します」
「でも……」
「全部を受け止めようとしたら、立てなくなります」
美崎は、紬にも言い聞かせるように言った。
「世間の声は重要です。でも、今最初に向き合うべき相手は、画面の向こうではありません」
その言葉に、加賀が頷いた。
「社員だ」
控室の空気が変わった。
加賀の表情は険しかった。
「会場の後ろ、見ただろ」
「はい」
「誰も笑ってなかった」
紬は、社員席の光景を思い出した。
不安そうな女性社員。
腕を組んだ中年男性。
視線を伏せた若手社員。
拍手はなかった。
紬の言葉が少し届いたように見えた瞬間もあった。
けれど、信頼を得たわけではない。
むしろ、彼らにとっては不安が現実になっただけだった。
「社長」
加賀が、初めてはっきりとそう呼んだ。
けれど、その声に甘さはない。
「今から社員に会うぞ」
「今から、ですか」
「今からだ。逃げないって言っただろ」
紬は、思わずバッグに手を伸ばした。
内ポケットにある社員名簿と、古い封筒の感触を確かめる。
逃げない。
そう決めた。
けれど、こんなにも早く、その言葉を試されるとは思っていなかった。
進藤が時計を確認する。
「正式な社員説明会は本社で行う必要があります。ただ、総会会場に来ている役職者と一部社員には、先に短く挨拶をすべきです」
一ノ瀬が続けた。
「銀行面談は午後三時。主要取引先への一次説明は、その前に文書を出します。時間はありません」
美崎は手帳を開いた。
「報道陣には十分だけ待っていただきます。その後、私から一次コメントを出します。星野さんは、社員対応を優先してください」
柚木が不安そうに紬を見た。
「私も行きます」
加賀が首を振った。
「いや、最初は社長が一人で言葉を出すべきだ。俺たちはそばにいる。でも、代わりに喋ったら意味がねえ」
「でも、星野さん一人じゃ」
「だから、そばにいる」
加賀は短く言った。
紬は、ゆっくりと立ち上がった。
膝に力が入らない。
それでも立った。
「行きます」
声は小さかったが、控室の全員に届いた。
「何を言えばいいのか、まだ分かりません。でも、逃げないと言ったので」
加賀が、少しだけ目を細めた。
「それでいい」
控室を出ると、廊下にはまだ人の流れが残っていた。
総会を終えた株主たちが、あちこちで声を潜めて話している。
報道陣はスタッフに制止されながらも、こちらを窺っていた。
その視線を避けるように進むと、会場の脇にある小さな待機スペースに、十数人の社員が集まっていた。
役職者らしき年配の男性。
総務の女性。
食品流通部の若手社員。
倉庫事業部の管理職。
繊維部門に残るのか、新会社へ行くのか迷っているのだろう、中堅社員の姿もあった。
彼らは紬を見ると、一斉に黙った。
その沈黙は、総会の壇上よりも重かった。
記者の質問よりも、貴之の嘲笑よりも、ずっと胸に刺さった。
進藤も、美崎も、加賀も、一ノ瀬も、柚木も、紬の後ろに控えた。
誰も前には出ない。
ここで言葉を出すのは、紬自身だった。
「星野紬です」
紬は、頭を下げた。
美崎に教わった通りの角度。
けれど、今は形式よりも、自分が頭を下げなければならないという気持ちの方が強かった。
「本日は突然のことで、皆さんに大きな不安を与えました。申し訳ありません」
社員たちは、黙っている。
誰も「そんなことありません」とは言わない。
当然だった。
紬は続けた。
「先ほどの総会で、会社分割案は可決されました。これにより、藤堂物産は大きく変わります。皆さんの部署、仕事、取引先との関係にも影響が出ます」
言いながら、自分の言葉がどれほど頼りないか分かった。
影響が出ます。
そんな一言で済む話ではない。
明日から上司が変わる人もいる。
職場が分かれる人もいる。
自分の仕事が残るのか不安な人もいる。
家族に何と説明すればいいか分からない人もいる。
「私は、まだ皆さんの仕事を十分に知りません」
紬は正直に言った。
「だから、今日ここで、何もかも安心してくださいとは言えません」
その瞬間、社員の一人が小さく笑った。
嘲笑に近い、乾いた笑いだった。
「正直ですね」
声を上げたのは、四十代ほどの男性だった。
ネームプレートには、食品流通部の課長職らしき肩書きがある。
「でも、正直に言われても困るんですよ」
紬は、その男性を見た。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
男性は、少し意外そうな顔をした。
「……松永です。食品流通部の松永」
「松永さん」
紬は名前を繰り返した。
「はい」
「今、困ると仰った理由を、聞かせていただけますか」
松永は、しばらく紬を見ていた。
周囲の社員たちも、彼の言葉を待っている。
「私たちは、ずっと繊維部門の陰で働いてきました」
松永は低い声で言った。
「売上の中心は繊維。社内で評価されるのも繊維。私たち食品流通部は、地方の取引先を回って、薄い利益で何とか続けてきた。赤字だ、非効率だ、古いと言われながらです」
加賀が黙って聞いている。
進藤も表情を変えない。
「そこへ突然、繊維部門が抜ける。これからは残った部署で会社を立て直す。新しい流通の仕組みを作る。そう言われても、私たちからすれば、都合よく残されたようにしか見えません」
その言葉は、紬の胸にまっすぐ刺さった。
都合よく残された。
自分たちの希望として見るつもりだった部署が、当事者からはそう見えている。
紬は、すぐに言葉を返せなかった。
松永は続けた。
「社長って呼べばいいんですか」
その一言に、周囲の空気がさらに重くなった。
「でも、今日あなたが決めたことで、うちの部署は明日からどうなるんですか」
紬の喉が詰まった。
答えなければならない。
けれど、簡単な答えはなかった。
来月も大丈夫です。
必ず守ります。
安心してください。
そう言えば、きれいだった。
でも、それは嘘になる。
今の紬には、まだ食品流通部の現場も、取引先も、課題も、何も見えていない。
分かっていないまま安心を配ることは、きっと一番してはいけないことだった。
「今すぐ、明確な答えは出せません」
紬は、ようやく言った。
松永の表情が険しくなる。
周囲の社員からも、失望に近い空気が漂った。
紬は、その空気から逃げずに続けた。
「でも、分からないまま進めることはしません。食品流通部が何を抱えているのか、どの取引先を守りたいのか、現場で何が限界なのか、私に聞かせてください」
「聞いて、どうするんですか」
松永の声は鋭かった。
「聞くだけなら、これまでの役員もしてきました。現場の声を聞くと言って、結局何も変わらなかった」
紬は、何も言えなかった。
その通りなのだろう。
「若い社長が来たから希望です。新しい事業をやります。地方と都市をつなぎます。聞こえはいい。でも、それはまた、現場に無理をさせる話じゃないんですか」
別の若手社員が言った。
二十代後半くらいの女性だった。
「ただでさえ人手が足りないんです。新しい仕組みを作ると言われても、それを運用するのは誰ですか。私たちですか。また、現場が頑張れば何とかなるって話ですか」
柚木の顔が、はっきりと強張った。
新規事業案を作った彼女にとって、その言葉は痛かったはずだ。
紬も同じだった。
商店街のプロジェクトで、売上だけを見て、現場の負担を見落とした自分。
あの時の痛みが、今ここで形を変えて戻ってきている。
「……その不安は、当然だと思います」
紬は言った。
「当然、ですか」
若手社員の声には、怒りが滲んでいた。
「当然だと思うなら、なぜ今日、あの場で承認したんですか」
その問いに、紬は胸の奥を掴まれたような気がした。
逃げ道のない問いだった。
勝つため。
会社の主導権を取り戻すため。
副社長派の計算を崩すため。
理由はいくつもある。
けれど、目の前の社員にとって、それは納得できる答えではない。
紬は、ゆっくりと息を吸った。
「会社を、権力争いの中で壊されるままにしたくなかったからです」
声は震えそうだった。
「でも、そのために皆さんを不安にさせたことも事実です。私は今日、勝つための判断をしました。でも、それが皆さんにとって救いになるかどうかは、まだ分かりません」
社員たちが、黙った。
紬は、続けた。
「だから、これから確かめに行きます。皆さんのところへ」
「現場に、ですか」
松永が問い返す。
「はい」
「いつですか」
紬は一瞬詰まった。
予定は詰まっている。
銀行。
取引先。
報道対応。
資料作成。
やるべきことは山ほどある。
けれど、ここで曖昧にしてはいけないと思った。
紬は後ろを振り返った。
進藤が、ほんのわずかに頷いた。
一ノ瀬は険しい表情のままだったが、止めなかった。
「明日からです」
紬は言った。
「明日の午前中、まず食品流通部に行きます。午後は倉庫事業部へ。繊維部門の方々にも、話を聞かせていただけるなら伺います」
「そんな簡単に」
松永が眉をひそめる。
「簡単ではないと思います。でも、行きます」
加賀が口を開いた。
「俺が段取りする。松永さん、現場の人間を何人か集めてくれ。取り繕った説明会じゃなくていい。本音が聞ける場にしてくれ」
松永は、加賀を見た。
「加賀さん、本気ですか」
「ああ」
「この子を現場に連れてくるんですか」
「社長だ」
加賀は短く言った。
松永は少し黙った。
そして、紬へ視線を戻した。
「社長なら、都合の悪い話も聞くんですね」
「はい」
「怒鳴る人間がいても?」
「はい」
「あなたの判断を責める人間がいても?」
「はい」
「泣く人がいても?」
紬の胸が詰まった。
藤堂会長の病室で聞いた話が、胸の奥によみがえる。
最後に一度、社長の顔を見たかった。
紬は、逃げずに答えた。
「会います」
松永は、何かを言いかけて、やめた。
彼の表情に信頼はなかった。
けれど、完全な拒絶でもなかった。
「分かりました」
それだけ言って、松永は視線を逸らした。
若手社員の女性も、まだ納得していない顔をしている。
総務の女性は、不安そうに手元の資料を握っていた。
誰も拍手しなかった。
誰も笑わなかった。
それでも、紬はその沈黙を受け止めた。
今は、それで十分だった。
待機スペースを離れたあと、紬は廊下の端で立ち止まった。
足が震えていた。
総会の壇上よりも、ずっと疲れていた。
「大丈夫ですか」
柚木が小さく聞いた。
紬は首を横に振った。
「大丈夫じゃないです」
正直に答えた。
「でも、言ってよかったと思います」
加賀が、隣で短く笑った。
「上出来とは言わねえけど、逃げなかったな」
一ノ瀬は、腕時計を見た。
「感傷に浸っている時間はありません。銀行面談までに、資金繰り表を頭に入れてください。社員に会うと言った以上、給与支払いの見通しも説明できなければ話になりません」
「はい」
美崎がスマートフォンを確認する。
「報道対応も待っています。SNSの反応は荒れていますが、一部では星野さんの『傷をなかったことにしない』という言葉が拾われています」
「良いことなんですか」
「今は良いとも悪いとも言えません。ただ、言葉は届き始めています。だからこそ、次に嘘をついたら一気に崩れます」
進藤が静かに言った。
「今日、あなたは三つの約束をしました。社員の前に立つこと。現場へ行くこと。逃げないこと。この三つは、必ず守ってください」
紬は頷いた。
「守ります」
「では、次へ行きましょう」
ホテルの裏口へ向かう廊下を歩く。
窓の外には、朝から続いていた曇り空が少しずつ暗くなり始めていた。
雨が降ったのだろうか。
外のコンクリートは濡れていた。
報道陣を避けるため、紬たちは正面玄関ではなく、搬入口に近い裏口から外へ出た。
湿った空気が頬に触れる。
黒い車が待っていた。
紬は乗り込む前に、ふと足元を見た。
濡れたコンクリートに、濃紺のスーツの裾がわずかに映っている。
勝ったはずだった。
会社分割案は、想定通り可決された。
副社長派の計算は狂い始めている。
報道も動いた。
作戦は成功した。
それなのに、胸の中には高揚よりも、重い泥のようなものが残っていた。
松永の声。
若手社員の問い。
社員席の沈黙。
SNSの嘲笑。
銀行からの面談要請。
取引先の不安。
そのすべてが、紬の足元に絡みついている。
泥舟は沈まなかった。
けれど、船底にはもう、水が入り始めていた。
紬はバッグの内ポケットに手を入れ、社員名簿と古い封筒に触れた。
紙は、そこにあった。
逃げないための重さとして。
「行きましょう」
紬は言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
五人に向けたのか。
自分自身に向けたのか。
それとも、まだ顔を知らない社員たちに向けたのか。
車のドアが閉まる。
窓の外で、濡れたコンクリートの街がゆっくりと後ろへ流れていく。
藤堂物産の長い戦いは、勝利の歓声ではなく、社員の不安と、銀行からの呼び出しと、湿った灰色の空の下で始まった。




