第10章:社長室に残った名札
藤堂物産の本社ビルは、都心の古いオフィス街にあった。
ガラス張りの高層ビルが並ぶ一角で、その建物だけは少し時代に取り残されたように見えた。重厚な石造りの外壁。控えめな社名プレート。磨かれてはいるが、ところどころに年季の入ったエントランス。
華やかではない。
けれど、長い年月を積み重ねてきた会社の重さがあった。
黒い車が正面玄関の前に停まる。
紬は、窓越しに社名プレートを見上げた。
『藤堂物産株式会社』
その文字が、朝まで資料の中にあったものとは違って見えた。
ここで、何百人もの社員が働いている。
ここから、地方の取引先へ商品が流れ、海外の工場と連絡が交わされ、倉庫が動き、請求書が発行され、誰かの給料が支払われてきた。
そして今日から、自分はこの建物に「社長」として入る。
その事実に、胃の奥が重くなった。
「降りるぞ」
加賀の声で、紬は我に返った。
車を降りると、湿った風がスーツの裾を揺らした。
雨は止んでいたが、歩道にはまだ細い水たまりが残っている。
正面玄関の自動ドアが開く。
中に入った瞬間、受付にいた女性社員が顔を上げた。
彼女は一瞬だけ目を見開き、すぐに立ち上がった。
「お、お疲れ様です」
声が少し上擦っている。
紬は、足を止めて頭を下げた。
「お疲れ様です。星野紬です」
自分の名前を口にしただけで、受付周りの空気が変わった。
奥の通路から、別の社員がこちらを見る。
エレベーター前にいた男性社員が、同僚に何かを小声で囁く。
総務らしき女性が、手にしていた書類を抱え直した。
視線が集まる。
好奇心。
警戒。
戸惑い。
怒り。
そのどれもが、歓迎ではなかった。
紬は、その視線を受けながら歩いた。
ホテルの総会会場よりも、ずっと生々しかった。
あそこでは、カメラや株主や役員の視線に晒された。
ここにあるのは、毎日この会社で働いてきた人たちの視線だった。
この建物の机で仕事をし、この建物の電話を取り、この会社の名刺を持って取引先を回ってきた人たち。
その人たちから見れば、紬は突然現れた外の人間にすぎない。
五人がそばにいても、その事実は変わらなかった。
エレベーターに乗る。
扉が閉まる直前、受付の女性と目が合った。
彼女はすぐに視線を逸らした。
紬は、胸の奥が少し痛んだ。
「気にするな」
加賀が言った。
「気にします」
紬は小さく答えた。
加賀は少し笑った。
「なら、そのまま覚えとけ。あれが今の現実だ」
エレベーターが上がっていく。
進藤は、腕時計を確認しながら言った。
「この後、まず臨時の幹部説明。その後、残留予定部署の代表者を集めた説明会です。銀行との面談まで時間は限られています」
「はい」
一ノ瀬が、資料を差し出した。
「この数字だけは頭に入れてください。来月の給与支払い見通し、主要取引先への支払い予定、短期借入の返済期限。社員から必ず聞かれます」
紬は資料を受け取った。
数字の列が、目に入る。
まだ完全には理解できない。
けれど、分からないでは済まされない数字だった。
「曖昧に答えないでください」
一ノ瀬が言った。
「できること、できないこと、確認中のことを分ける。安心させようとして不用意な約束をすれば、後で必ず信用を失います」
「分かりました」
美崎は、紬の横顔を見ていた。
「表情が硬いです」
「硬くもなります」
「硬くていいです。ただ、怯えた顔にはしないでください。社員の方々は、あなたが立派かどうかより、逃げないかどうかを見ています」
柚木は、タブレットを抱えたまま黙っていた。
いつもなら何か明るいことを言いそうなのに、今は口数が少ない。
「柚木さん、大丈夫ですか」
紬が尋ねると、柚木は小さく頷いた。
「はい。でも、さっきの社員の方の言葉が残ってて」
「新しい仕組みが、また現場に無理をさせる話じゃないのか、という言葉ですか」
「はい」
柚木は、タブレットを見下ろした。
「私、面白い仕組みを作ることばかり考えてました。現場の人がどう受け止めるか、ちゃんと考えられていなかったかもしれません」
紬は、何も言えなかった。
それは、自分自身にも返ってくる言葉だった。
エレベーターの扉が開く。
役員フロアだった。
廊下は静かだった。
厚いカーペットが足音を吸い込み、壁には歴代の社長や創業期の写真が飾られている。
古い白黒写真の中で、若い頃の藤堂厳が、工場らしき場所で社員たちと並んで笑っていた。
紬は、その写真の前で足を止めた。
作業着姿の人たち。
笑っている人。
少し照れたように下を向いている人。
藤堂会長は、中央に立ちながらも、どこか社員たちの一員のように見えた。
「その写真は、創業初期の地方工場です」
進藤が静かに言った。
「会長が、まだ四十代の頃ですね」
地方工場。
その言葉に、紬はバッグの中の古い封筒を思い出した。
最後に一度、社長の顔を見たかった。
藤堂会長にも、逃げた記憶がある。
その後悔を、自分に託した。
紬は写真に小さく頭を下げた。
そして、会議室へ向かった。
最初の幹部説明は、空気が重かった。
長い会議テーブルの向こうに、各部門の部長や課長クラスの社員が並んでいる。
誰も笑っていない。
資料に目を落としている者。
腕を組んでいる者。
あからさまに紬を値踏みする者。
一方で、疲れ切った顔の社員もいた。
一夜で会社の未来が揺らいだわけではない。
きっと彼らは、もっと前からこの会社の不穏な空気を感じていたのだ。
進藤が会議の目的を説明し、美崎が今後の対外発信の方針を伝える。
一ノ瀬が資金繰りの概要を話し、加賀が現場ヒアリングの実施予定を告げた。
柚木は新規事業案の説明を求められたが、最小限に留めた。
「具体案については、現場の方々の状況を確認したうえで、改めて検討します」
その言葉に、数人の社員が少しだけ顔を上げた。
以前の柚木なら、まず可能性を熱く語っていたかもしれない。
しかし今は、現場を先に見ると言った。
紬は、その変化を静かに受け止めた。
やがて、進藤が紬へ視線を向けた。
「星野さんから、一言お願いします」
会議室の視線が、一斉に紬へ集まった。
紬は立ち上がった。
手元には、用意していた原稿がある。
美崎が整えてくれた、失言の少ない、分かりやすい挨拶文だった。
けれど、紬はその原稿をすぐには読めなかった。
目の前の社員たちは、綺麗な言葉を聞きたいわけではない。
たぶん、そうではない。
紬は、原稿を一度テーブルに置いた。
美崎がわずかに眉を動かしたが、止めなかった。
「星野紬です」
紬は、ゆっくり頭を下げた。
「今日から、藤堂物産の再建に関わらせていただきます」
“社長です”とは言えなかった。
まだ、その言葉を胸を張って名乗れるほどの信頼は得ていない。
「先ほどの総会で、会社分割案が可決されました。これにより、皆さんには大きな不安と負担をおかけします」
会議室の空気は、冷たいままだった。
「私は、まだこの会社のことを十分に知りません。皆さんの仕事も、取引先との関係も、現場の苦労も、ほとんど知りません」
そこで、会議室の奥から声が上がった。
「だったら、なぜ承認したんですか」
年配の男性だった。
倉庫事業部の管理職だと、資料で見た記憶がある。
たしか、名前は――。
紬は、手元の名簿に視線を落とした。
「倉庫事業部の、黒川さんでしょうか」
男性の表情が少し変わった。
「……そうです」
紬は、まっすぐ黒川を見た。
「黒川さん。ご質問にすぐ答えます。承認した理由は、会社の中に副社長派との権力争いを残したままでは、藤堂物産全体が壊れると判断したからです」
「その判断で、私たちが不安になっているわけです」
「はい」
紬は頷いた。
「その通りです」
黒川は、眉をひそめた。
紬は続けた。
「だから、承認した判断が正しかったと、今ここで言い切るつもりはありません。勝つためには必要な一手だったと思っています。でも、それが皆さんを救う一手になるかどうかは、これからの私たちの行動にかかっています」
「きれいな言葉は分かりました」
黒川の声は低かった。
「でも、私たちが知りたいのは、来月も給料が出るのかどうかです」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
紬は、息を呑んだ。
その問いは、あまりにも現実的だった。
誰かの夢や理想ではない。
生活そのものだった。
紬は、一ノ瀬から渡された資料を開いた。
指先が少し震えたが、紙をめくる手は止めなかった。
「来月の給与については、現時点の資金繰り上、支払い可能です」
一ノ瀬が、わずかに頷いた。
紬は続けた。
「ただし、取引先の離脱や銀行の融資条件変更によって、翌月以降の状況は厳しくなります。今日の時点で、長期的に安心してくださいとは言えません」
社員たちの表情が硬くなる。
紬は、逃げずに言った。
「そのため、今週中に主要取引先への説明、銀行との面談、残存事業の優先順位整理を進めます。給与と仕入先への支払いを最優先に、数字を確認しながら進めます」
一ノ瀬が補足する。
「資金繰りの詳細は、部門長以上に共有します。現場への説明資料も作成します」
黒川は腕を組んだ。
「つまり、今後は分からないということですね」
「はい」
紬は答えた。
「分からない部分があります」
会議室が、さらに冷えた。
けれど、紬は言葉を重ねた。
「分からないことを、分かっているふりはしません。その代わり、分からないまま勝手に進めることもしません。明日から、各部署を回らせてください」
今度は、食品流通部の若手社員が口を開いた。
「現場を回って、どうするんですか」
彼はまだ三十歳前後に見えた。
資料にあった名前を思い出す。
「食品流通部の、相沢さんですか」
「……はい」
相沢は、少し驚いたように返事をした。
「新しいプラットフォームとか、地方連携とか、そういう話が出ていると聞きました。でも、結局また現場に無理をさせる話じゃないんですか」
柚木の指が、タブレットの端を強く握った。
紬は、相沢の言葉を受け止めた。
「その不安は、当然だと思います」
「当然と言われても、困ります」
「はい。だから、聞きに行きます」
「聞くだけなら、これまで何度もありました」
「聞いたあと、何を変えるかまで、皆さんの前に出します」
紬は言った。
「新しい事業案を進めるとしても、現場の負担を見ないまま始めることはしません。人員、配送、倉庫、取引先対応。どこに無理が出るのか、先に確認します」
相沢は、簡単には納得しなかった。
「それで間に合うんですか」
紬は、すぐには答えられなかった。
間に合う。
そう言えれば、どれほど楽だろう。
けれど、根拠のない約束はできない。
「間に合わせる方法を、これから一緒に探させてください」
相沢の表情に、失望が浮かんだ。
「頼りないですね」
その言葉に、紬の胸が痛んだ。
でも、その通りだった。
「はい」
紬は頷いた。
「頼りないと思います」
会議室の数人が、意外そうに紬を見た。
「でも、頼りないまま逃げるつもりはありません。皆さんに叱られながらでも、現場を見ます。数字を覚えます。分からないことを減らします」
黒川が、低く息を吐いた。
「それを、社長になる人間が言うんですか」
「今の私には、それしか言えません」
紬は、正面から答えた。
「強い言葉で安心させることはできます。でも、それが嘘になるなら、言いたくありません」
会議室は静まり返った。
拍手はない。
賛同もない。
ただ、先ほどまでの一方的な冷たさとは少し違う沈黙があった。
加賀が、社員たちへ向けて言った。
「明日から、各部署のヒアリングを始める。取り繕った説明はいらねえ。現場の不満も、無理な点も、全部出してくれ」
美崎が続けた。
「社員向けの説明窓口を本日中に設置します。不確かな情報や噂が広がらないよう、確認できたことから共有します」
一ノ瀬は資料を整えながら言った。
「給与、仕入先支払い、銀行対応については、財務から順次説明します。憶測ではなく、数字で共有します」
柚木は、少し緊張した声で言った。
「新規事業案については、現場の方々の声を聞いたうえで作り直します。最初から完成案として押しつけることはしません」
進藤は最後に、静かに締めた。
「本日の説明は以上です。詳細は各部門ごとに改めて行います」
会議が終わっても、社員たちはすぐには立ち上がらなかった。
誰も紬に近づいてこない。
「よろしくお願いします」と頭を下げる人もいない。
やがて一人、また一人と、無言で会議室を出ていく。
黒川は扉の前で一度立ち止まり、紬を見た。
「明日、本当に倉庫に来るんですね」
「はい」
「スーツが汚れますよ」
「構いません」
黒川は、ほんの少しだけ目を細めた。
「なら、作業靴で来てください」
それだけ言って、会議室を出ていった。
紬は、その背中を見送った。
認められたわけではない。
ただ、門前払いはされなかった。
それだけだった。
会議室に残った五人は、しばらく黙っていた。
やがて加賀が口を開いた。
「作業靴、買いに行くぞ」
「今からですか」
「社長室に座る前に、そっちの方が先だ」
美崎が少しだけ笑った。
「その前に、社長室へご案内します。役員フロアの確認も必要です」
一ノ瀬は時計を見た。
「銀行面談まで三十分です。感傷的な時間はありません」
「一ノ瀬さんは、本当に余韻を許してくれませんね」
柚木が小さく呟いた。
「余韻で資金は増えません」
一ノ瀬の返答に、柚木が少しだけ苦笑した。
そのやり取りに、紬の肩の力がわずかに抜けた。
けれど、すぐにまた緊張が戻る。
社長室。
その言葉だけで、胸が重くなる。
進藤に案内され、紬は廊下の奥へ進んだ。
重厚な木製の扉。
その横には、金属製の名札があった。
『代表取締役会長 藤堂 厳』
紬は、その前で立ち止まった。
藤堂会長の名前。
この会社を作り、守り、迷い、後悔し、それでも最後に紬へ託した人の名前。
進藤が静かに言った。
「会長のご意向で、しばらくこの部屋をお使いいただきます」
「この名札は……」
「まだ外していません」
紬は、金属の名札を見つめた。
外せなかったのだろう。
誰も。
この会社にとって、藤堂厳という名前は、それほど大きい。
扉が開く。
社長室の中は、広かった。
大きな窓から、曇った街が見える。
重厚な机。
革張りの椅子。
本棚。
応接セット。
壁には、古い工場の写真や、海外取引先との記念写真が飾られていた。
机の上には、きれいに整理された書類と、一本の万年筆。
そして、隅に小さな紙の名札が置かれていた。
白い厚紙に、黒い文字で書かれている。
『星野 紬』
仮の名札だった。
藤堂厳の金属の名札とは違う。
軽く、薄く、少し頼りない。
紬は、その紙の名札を手に取った。
指先で触れると、簡単に曲がりそうだった。
「正式な表札は、後日用意します」
美崎が言った。
紬は首を横に振った。
「しばらく、これでいいです」
五人が紬を見る。
「今の私には、これくらいがちょうどいいと思います」
紬は、紙の名札を机の上に戻した。
社長室は手に入った。
けれど、社員の信頼は、まだ一つも手に入っていない。
藤堂会長の椅子に座る資格が、自分にあるとはまだ思えなかった。
だから紬は、椅子には座らなかった。
机の前に立ったまま、バッグから社員名簿と古い封筒を取り出す。
社員名簿を机の上に置く。
その上に、黄ばんだ封筒をそっと重ねた。
数字の前に、人を見る。
勝った後に、必ず振り返る。
逃げない。
それが、今の紬にある唯一の約束だった。
窓の外では、灰色の雲の隙間から、弱い光が差し始めていた。
強い光ではない。
けれど、完全な暗闇でもなかった。
紬は、紙の名札を見つめながら、小さく息を吐いた。
「明日、作業靴で倉庫に行きます」
加賀が、満足そうに笑った。
「それでいい」
一ノ瀬が即座に言う。
「その前に銀行です」
美崎が資料を整える。
「その後、社員向けコメントを確認します」
柚木がタブレットを開く。
「私は現場ヒアリング用に、事業案を白紙に戻します」
進藤が、静かに頷いた。
「では、始めましょう」
始まった。
社長室での華々しい第一歩ではなかった。
歓迎の拍手も、祝福の言葉もない。
あるのは、資金繰り表と、社員の不信と、作業靴の約束と、薄い紙の名札だけだった。
それでも紬は、そのすべてを前にして、逃げずに立っていた。
まだ本物の社長ではない。
けれど、本物になるための最初の一日は、ここから始まるのだと思った。




