第11章:作業靴の社長
作業靴は、思っていたよりも重かった。
朝の六時半。
星野紬は、自宅マンションの玄関で、買ったばかりの黒い作業靴の紐を結んでいた。
昨日まで履いていたパンプスとは、まるで違う。
つま先は硬く、底は厚い。足首まで包む形で、歩くだけでも少しぎこちない。
けれど、これを履いていくと決めたのは自分だった。
「スーツが汚れますよ」
倉庫事業部の黒川に言われた言葉が、まだ耳に残っている。
「なら、作業靴で来てください」
あの言葉は、歓迎ではなかった。
試されているのだと分かった。
本当に来るのか。
現場を見ますと言った言葉が、その場しのぎではなかったのか。
その答えを、今日見られる。
紬は、濃紺のスーツではなく、動きやすい黒のパンツと白いシャツ、その上に薄手のジャケットを羽織った。
美崎には「清潔感は保ちつつ、現場で浮きすぎない服装」と細かく指定されている。
バッグの中には、社員名簿のコピー、メモ帳、ペン、そして藤堂会長から受け取った古い封筒が入っていた。
封筒を持っていくかどうか、少し迷った。
けれど結局、バッグの奥に入れた。
勝った後に振り返るための重さ。
今日も、それが必要な気がした。
玄関を開けると、朝の空気は少し湿っていた。
マンションの前には、加賀が運転する黒い車が停まっている。
「おう」
運転席の窓が下がり、加賀がこちらを見た。
「ちゃんと作業靴で来たな」
「言われましたから」
「言われたことをやるだけなら、まだ学生だぞ」
朝から容赦がない。
紬は、少しだけ顔をしかめた。
「じゃあ、何をすればいいんですか」
加賀は、にやりと笑った。
「今日は、それを見つけに行くんだよ」
車に乗り込むと、後部座席には柚木もいた。
膝の上にタブレットを置き、少し緊張した顔をしている。
「柚木さんも来るんですか」
「はい。倉庫を小口配送拠点に活用する案を考えていたので、ちゃんと見ておきたくて」
言葉は前向きだったが、その声には昨日までの明るさが少し足りなかった。
現場から「また無理をさせる話ではないのか」と言われたことが、彼女の中にも残っているのだろう。
加賀が車を出した。
朝の道路はまだ空いている。
高層ビルの影を抜け、幹線道路を走り、少しずつ都心の華やかさが薄れていく。
やがて、物流倉庫や配送センターが並ぶ地域へ入った。
大きなトラック。
フォークリフトの音。
作業服姿の人たち。
コンビニの駐車場には、夜勤明けらしき人が缶コーヒーを飲んでいた。
紬は窓の外を見ながら、資料の中で見た「倉庫事業部」という文字を思い出した。
老朽化。
低収益。
人員高齢化。
再活用余地あり。
資料には、そんな言葉が並んでいた。
けれど、目の前にある倉庫街は、もっと湿っていて、もっと重く、もっと生々しかった。
車が、藤堂物産の倉庫前に停まる。
建物は、想像していたよりも古かった。
外壁には修繕の跡があり、シャッターの一部には擦れた傷が残っている。大きな社名看板も、少し色褪せていた。
それでも、朝から人は動いていた。
トラックが荷台を開け、作業員が荷物を下ろし、倉庫の中ではフォークリフトの警告音が鳴っている。
「行くぞ」
加賀に促され、紬は車を降りた。
作業靴の底が、濡れたアスファルトを踏む。
その感触だけで、ホテルの大理石の床とはまったく違った。
倉庫の入口に、黒川が立っていた。
五十代半ば。
作業服姿の彼は、会議室で見た時よりもずっと大きく見えた。
ここが彼の場所だからだ。
「おはようございます」
紬は頭を下げた。
「星野紬です。本日はよろしくお願いいたします」
黒川は、紬の足元を見た。
作業靴を確認してから、ゆっくりと顔を上げる。
「本当に来たんですね」
「来ると言いましたので」
「来たことは評価します」
黒川は、淡々と言った。
「でも、見学で何か分かった気になられるのが、一番困ります」
その言葉に、紬は背筋を伸ばした。
「分かった気にならないようにします」
「そう言う人ほど、だいたい半日で分かった顔をします」
黒川は、容赦なく返した。
「今日はまず、黙って見てください。質問はしても構いません。ただし、すぐに改善案を口にするのはやめてください」
「改善案を、ですか」
「現場を三十分見ただけの人が思いつく改善案は、たいてい十年前に誰かが考えています」
紬は、言葉に詰まった。
柚木も、隣で小さく息を呑んだ。
黒川は、二人の反応を見ても表情を変えない。
「それでもできなかった理由があります。金がない。人がいない。システムが古い。取引先の都合がある。現場の年齢層が合わない。理由は、ひとつではありません」
加賀が、少しだけ笑った。
「黒川さん、朝から飛ばすな」
「加賀さんが連れてきたんでしょう」
「まあな」
黒川は、紬にヘルメットを差し出した。
「被ってください。中では、私の指示に従ってください」
「はい」
紬はヘルメットを被った。
鏡はない。
自分がどんな姿なのか分からない。
けれど、少なくとも社長室に置かれた紙の名札よりは、今の自分の方が少し現実に近い気がした。
倉庫の中へ入ると、ひんやりとした空気と、段ボールの匂いが押し寄せてきた。
高い天井。
蛍光灯。
積み上げられた荷物。
床に引かれた黄色いライン。
奥ではフォークリフトが動き、作業員たちが慣れた手つきで荷物を仕分けている。
思っていたよりも、音が多い。
機械音。
足音。
段ボールを置く音。
誰かが声をかける音。
無線から流れる短い連絡。
紬は、そのすべてに圧倒された。
「まず、入荷から見てもらいます」
黒川が歩き始める。
紬と柚木は、その後ろをついていった。
トラックから下ろされた荷物は、伝票と照合され、検品され、保管場所へ運ばれる。
流れだけ聞けば単純に思える。
けれど、実際にはひとつひとつの作業に人の判断が入っていた。
箱の角が潰れていないか。
数量は合っているか。
納品時間に遅れはないか。
保管温度に注意が必要なものはないか。
古い取引先の荷物には、手書きのメモが貼られているものもあった。
「このメモは何ですか」
紬が尋ねると、黒川は振り返った。
「質問は構いませんが、歩きながら聞いてください」
「すみません」
「これは、取引先ごとの注意点です。システムにも登録していますが、現場では紙の方が早い場合もある」
「紙の方が早いんですか」
柚木が思わず口を挟んだ。
黒川の視線が、柚木へ向く。
「現場では、早いです。特に、普段システムを触らないパートさんや、年配の作業員には」
柚木は、タブレットを抱え直した。
「でも、デジタル化すれば検索も共有も」
「できますね」
黒川は、静かに言った。
「その端末を全員が同じ速度で使えるなら。手袋をしたまま操作できるなら。荷物を持ったまま画面を見ても事故が起きないなら。Wi-Fiが倉庫の奥まで安定して届くなら」
柚木は黙った。
黒川は責めるような口調ではなかった。
ただ、現実を並べているだけだった。
「デジタル化が悪いとは言っていません。必要です。ただ、導入すれば解決するという話ではありません」
紬は、その言葉をメモ帳に書いた。
導入すれば解決、ではない。
倉庫の奥へ進むと、床の一部に注意書きが貼られていた。
『雨天時、滑りやすい』
「ここ、少し傾いています」
黒川が言った。
「建物が古いので、完全には直せていません。修繕要望は何度も出していますが、優先順位は低いままでした」
「危なくないんですか」
「危ないですよ」
あまりにもあっさりとした答えに、紬は息を呑んだ。
「でも、止められません。荷物は毎日来ますから」
その言葉に、紬は床を見下ろした。
資料には「老朽化」とだけ書かれていた。
けれど、その四文字の下で、誰かが毎日この床を歩いている。
滑らないように気をつけながら。
怪我をしないように声をかけながら。
止められない仕事を、止めないように続けている。
「こっちです」
黒川は、倉庫の一角へ案内した。
そこには、古いホワイトボードと、手書きの管理表が並んでいた。
日付。
担当者。
注意品目。
ミス発生件数。
改善メモ。
きれいな資料ではない。
文字も人によって癖があり、赤ペンで書き足された部分も多い。
けれど、そのボードには、現場の人たちが自分たちで仕事を守ろうとしてきた跡があった。
「これは……」
「出荷ミスを減らすために、現場で作ったものです」
黒川の声が、少しだけ柔らかくなった。
「システム上の管理だけでは拾いきれない癖があります。取引先ごとの梱包指定、ドライバーの到着時間の傾向、繁忙期のミス。そういうものを、ここで共有しています」
紬は、ボードに近づいた。
『佐伯さん、腰痛のため重い荷物は午前中に偏らせない』
『雨の日は東側搬入口を優先』
『小野寺さん担当分、ダブルチェック不要。本人確認で十分』
そこには、ただの作業指示ではなく、人を知っている現場の言葉があった。
「この表、誰が作ったんですか」
「最初は、十年前にいたパートの女性です」
「パートの方が?」
「はい。彼女はもう退職しましたが、形を変えながら残っています。便利だからです」
柚木が、小さく呟いた。
「現場の人が、自分たちで作った仕組み……」
黒川は頷いた。
「古いでしょう」
「いえ」
紬は首を振った。
「古いとは思いません」
黒川が、少しだけ目を細めた。
紬は、ボードを見つめながら言った。
「ここにあるのは、現場の人たちが仕事を止めないために積み重ねてきた工夫だと思います」
黒川は、しばらく何も言わなかった。
加賀が、腕を組んだまま小さく笑っている。
「ただ」
紬は続けた。
「これが一部の人の記憶や手書きに頼りすぎているなら、危ないとも思います。誰かが辞めたら消えてしまうものもあるかもしれません」
黒川の表情が、少し変わった。
「それで、すぐにシステム化しましょうと言うんですか」
以前の紬なら、そう言っていたかもしれない。
便利なアプリを作る。
タブレットで共有する。
現場情報をデータベース化する。
言葉だけなら、すぐに出てくる。
でも、今日はその言葉を飲み込んだ。
「まだ言えません」
紬は答えた。
「今日見ただけでは、何を残して、何を変えるべきか分からないので」
黒川は、少しだけ黙った。
「分からない、ですか」
「はい」
「社長が、分からないと」
「はい。分かりません」
紬は、まっすぐ黒川を見た。
「でも、分かりたいです。だから、また来てもいいですか」
その言葉に、倉庫の空気がわずかに変わった。
黒川の後ろにいた作業員の一人が、こちらを見た。
年配の男性だった。
彼は、何か言いたげにしたが、すぐに荷物へ視線を戻した。
黒川は、腕時計を確認した。
「まだ半分も見ていません」
「はい」
「途中で帰りたいと言われても困ります」
「言いません」
「足、痛くなっているでしょう」
紬は、思わず足元を見た。
作業靴はまだ馴染まず、足首に違和感がある。
「少し」
「正直ですね」
「嘘をついても、歩き方で分かりそうなので」
加賀が吹き出した。
黒川も、ほんのわずかに口元を動かした。
笑った、というほどではない。
けれど、最初より空気が少しだけ柔らかくなった気がした。
その後も、紬は倉庫内を歩いた。
出荷エリア。
返品処理。
温度管理が必要な保管場所。
古い端末が置かれた事務スペース。
社員の休憩室。
休憩室の壁には、子どもの描いた絵が貼られていた。
「これは?」
紬が尋ねると、近くにいた女性作業員が答えた。
「昔、夏休みに子ども見学会をやった時のものです」
「子ども見学会?」
「社員の子どもたちを呼んで、倉庫の仕事を見せたんです。もう何年もやっていませんけど」
その絵には、フォークリフトと、ヘルメットを被った人たちが描かれていた。
大きな文字で、『おとうさんのしごと』と書かれている。
紬は、その絵の前で立ち止まった。
資料には載らないものだった。
売上にも、利益率にも、資産価値にも出てこない。
けれど、ここで働く人にとっては、会社の記憶そのものだった。
「社長」
黒川の声がした。
紬は振り返った。
「その絵も、現場です」
紬は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「はい」
「古い設備も、手書きの管理表も、滑りやすい床も、休憩室の絵も、全部現場です。数字だけ見て切る人間には、見えないものです」
黒川は、淡々と言った。
「だからといって、全部残せばいいわけではありません。危ない床は直すべきです。古い端末も替えた方がいい。非効率な作業もある。変えなければ、現場は疲弊します」
「はい」
「でも、変えるなら、何を守るために変えるのかを間違えないでください」
その言葉は、紬の胸に深く沈んだ。
変えることが目的ではない。
守るために変える。
その順番を間違えてはいけない。
昼前。
倉庫見学が一段落した頃、黒川は事務室の小さな机に紬を案内した。
出されたのは、紙コップに入った温かいお茶だった。
高級ホテルのカモミールティーでも、社長室の来客用の煎茶でもない。
けれど、今日飲んだどんな飲み物よりも、喉にしみた。
「ありがとうございました」
紬は、紙コップを両手で持ちながら頭を下げた。
黒川は、向かいに座った。
「今日見たことで、何か分かりましたか」
紬は少し考えた。
すぐに答えるのが怖かった。
分かった気になってはいけない。
「分かったことは、ほとんどありません」
黒川は、黙って聞いている。
「でも、資料に書いてあった“老朽化した倉庫事業”という言葉が、すごく雑だったことは分かりました」
黒川の眉が、わずかに動く。
「古いものがあることも、危ない場所があることも、非効率な作業があることも、本当だと思います。でも、それだけじゃありませんでした」
紬は、メモ帳を開いた。
そこには、今日見たものが乱雑に書かれている。
滑る床。
手書きの管理表。
腰痛の佐伯さん。
子ども見学会の絵。
休憩室の古いポット。
東側搬入口。
小野寺さんのダブルチェック不要。
「ここには、現場の人たちが自分たちで仕事を守ってきた跡がありました」
紬は言った。
「だから、変えるなら、その跡を消すんじゃなくて、次に残せる形にしないといけないと思いました」
黒川は、すぐには何も言わなかった。
事務室の外で、誰かが荷物を運ぶ音がする。
遠くでフォークリフトの警告音が鳴った。
やがて黒川は、ゆっくりと口を開いた。
「今日のところは、それで十分です」
紬は、少しだけ息を吐いた。
認められたわけではない。
けれど、完全に突き返されたわけでもない。
それだけで、胸の奥の緊張が少し緩んだ。
「また来ます」
紬は言った。
「来るなら、朝礼から来てください」
「朝礼は何時ですか」
「七時半です」
「来ます」
黒川は、じっと紬を見た。
「簡単に言いますね」
「簡単ではないです。でも、来ます」
「では、明後日」
「はい」
黒川は立ち上がり、棚から何かを取り出した。
古い軍手だった。
使い込まれていて、指先に少し汚れが残っている。
「これを」
紬は戸惑った。
「私に、ですか」
「新品ではありません。現場に置いてある予備です。次に来るなら使ってください」
軍手は、きれいではなかった。
でも、それを渡された瞬間、紬は胸が詰まった。
歓迎ではない。
信頼でもない。
けれど、現場に入るならこれを使えという、小さな許可のように思えた。
「ありがとうございます」
紬は、両手で受け取った。
黒川は、照れたように視線を逸らした。
「勘違いしないでください。まだ認めたわけではありません」
「はい」
「現場は一回来たくらいで分かる場所ではありません」
「はい」
「作業靴も、まだ歩き方が危なっかしい」
「それは、自分でも少し分かります」
加賀が笑った。
柚木も、ようやく少しだけ表情を緩めた。
倉庫を出る頃には、空は薄く曇っていた。
朝よりも湿度が上がり、作業着の人たちの額には汗が滲んでいる。
紬の足は痛かった。
作業靴はまだ硬く、ふくらはぎも重い。
それでも、来てよかったと思った。
車に戻る前、紬はもう一度倉庫を振り返った。
古い建物。
色褪せた看板。
滑りやすい床。
手書きの管理表。
子どもの絵。
汚れた軍手。
資料の中では、老朽化した低収益事業だった場所。
けれど、そこには人がいた。
工夫があった。
誇りがあった。
「黒川さん」
紬は、倉庫の入口に立つ黒川へ声をかけた。
「何ですか」
「私、今日のことを忘れません」
黒川は、少しだけ眉を寄せた。
「忘れる人ほど、そう言います」
「では、忘れないようにまた来ます」
黒川は、今度こそわずかに笑った。
「明後日、七時半です」
「はい」
車に乗り込むと、紬はバッグの中に軍手を入れた。
社員名簿と、古い封筒の隣。
そこに、現場の匂いがする軍手が加わった。
紙の上の名前。
過去の後悔。
そして、今日触れた現場。
その三つが、紬の中で少しずつ繋がっていく。
加賀がエンジンをかけた。
「どうだった、社長」
紬は、倉庫を見つめたまま答えた。
「何も分かっていなかったことが、少し分かりました」
「上出来だ」
加賀は短く言った。
柚木が、タブレットを開きながら小さく呟いた。
「私の案、だいぶ作り直さないといけませんね」
「一緒に作り直しましょう」
紬が言うと、柚木は少し驚いた顔をした。
「一緒に、ですか」
「はい。現場の人たちに怒られながら」
柚木は、ようやく少し笑った。
「それ、けっこう怖いですね」
「私も怖いです」
二人は、小さく笑った。
車が倉庫を離れる。
バックミラーの中で、黒川の姿が小さくなっていく。
彼は最後まで手を振らなかった。
ただ、入口に立ったまま、車が見えなくなるまでこちらを見ていた。
紬は、膝の上に置いたバッグにそっと手を添えた。
社長室の椅子よりも、今日履いた作業靴の方が、社長という言葉に近い気がした。
信頼は、まだ遠い。
けれど、現場へ続く扉は、ほんの少しだけ開いた。
その隙間から見えたものを、紬はもう、見なかったことにはできなかった。




