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女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


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第12章:数字に載らない手

朝の市場は、会社の会議室とはまったく違う音で満ちていた。

トラックのバック音。

台車の車輪が床を走る音。

発泡スチロールの箱が積み上げられる音。

魚の匂い、土の匂い、濡れた段ボールの匂い。

威勢のいい声があちこちで飛び交い、その中を作業着姿の人たちが迷いなく動いている。

星野紬は、少しだけ肩をすくめながら、その景色の中に立っていた。

足元には、倉庫で履いたものと同じ作業靴。

昨日よりは少しだけ足に馴染んだ気がする。

けれど、歩き方はまだぎこちなかった。

「社長、そこに立っていると邪魔になります」

食品流通部の松永が、振り返りもせずに言った。

四十代後半。

総会後の待機スペースで、紬に最初に厳しい言葉をぶつけた男だった。

その時と同じく、今日も表情は硬い。

ただ、スーツ姿ではなく、動きやすいジャンパーに軍手という格好をしているせいか、社内で見た時よりもずっと現場の人間に見えた。

「すみません」

紬は慌てて横へずれた。

その瞬間、後ろから台車が通り過ぎる。

「市場で立ち止まる時は、まず後ろを見てください」

松永は淡々と言った。

「はい」

「返事より、動きで覚えてください」

横にいた相沢が、小さく苦笑した。

食品流通部の若手社員。

新しいプラットフォームの話に対して、「また現場に無理をさせる話ではないのか」と問いかけた人物だった。

彼もまだ、紬に対して柔らかい態度ではない。

ただ、松永よりは少しだけ表情が読みやすかった。

「松永課長、市場に初めて来る人には、もう少し説明してあげてもいいんじゃないですか」

「説明する前に、自分がどこに立っているか見てほしいんだ」

松永は、台車を押す作業員に軽く会釈しながら言った。

「現場では、悪気がなくても邪魔になる。邪魔になる人間は、信用されません」

その言葉に、紬は唇を引き結んだ。

邪魔になる人間。

それは、社長にも当てはまるのだと思った。

松永は、市場の一角に積まれた野菜の箱の前で足を止めた。

箱には、小さな農園の名前が書かれている。

紬は資料でその名前を見たことがあった。

地方の小規模農家。

食品流通部が長年取引を続けている先のひとつ。

「ここは、うちが十五年付き合っている農家です」

松永が言った。

「売上規模だけ見れば小さい。利益率も高くない。大手スーパー向けの大量流通にも乗りにくい」

「でも、取引を続けているんですね」

「続けています」

松永は、箱の中の野菜を一つ手に取った。

形は少しいびつだった。

けれど、色は濃く、ずっしりと重い。

「この農家は、天候の影響を受けやすい。出荷量も安定しません。ですが、味はいい。固定客もいる。だから、うちは飲食店や小さな専門店に回してきました」

「資料には、そこまで書かれていませんでした」

紬が言うと、松永は少しだけ皮肉な顔をした。

「資料には、売上と利益率しか載りませんから」

紬は、メモ帳を開いた。

売上と利益率しか載らない。

その言葉を書き留める。

市場を歩くうちに、松永の歩幅が少しだけ分かってきた。

彼は、ただ商品を見るのではない。

箱の積み方を見る。

納品時間を見る。

取引先の担当者の顔色を見る。

誰に先に声をかけるか、どこで立ち止まるか、どの箱を手に取るか。

そのすべてに理由があるようだった。

「松永さん、おはよう」

年配の男性が声をかけてきた。

作業着の袖をまくり、日に焼けた顔をしている。

「おはようございます。田宮さん。今日は早いですね」

「昨日の雨で少し心配でな。こっちの箱は傷みが出やすいから、先に確認してくれ」

「分かりました」

松永は、すぐに箱を開け、中身を確認した。

紬も覗き込もうとしたが、相沢が小声で言った。

「近づきすぎると邪魔です」

「すみません」

田宮と呼ばれた男性は、紬を見た。

「この子は?」

松永の手が、一瞬だけ止まった。

「藤堂物産の星野です」

紬は、すぐに頭を下げた。

「星野紬です。本日は食品流通部の現場を見せていただいています」

田宮は、目を細めた。

「星野……ああ、ニュースに出てた若い社長さんか」

その声に、周囲の数人がちらりとこちらを見た。

紬の背筋が少し強張る。

「社長と呼ばれるには、まだ何もできていません」

紬は正直に言った。

田宮は、ふっと笑った。

「そうかい。なら、今日は邪魔しないように見ることだね」

「はい」

「松永さんは口が悪いが、嘘はつかない。よく見ておくといい」

松永が、少しだけ渋い顔をした。

「田宮さん、余計なことを」

「余計じゃないだろ」

田宮は笑ったあと、紬へ向き直った。

「藤堂さんだから取引してるわけじゃないんだよ」

紬は顔を上げた。

「え?」

「会社の看板も大事だ。でも、うちみたいな小さいところは、最後は人を見る。松永さんが、うちの事情を分かってくれてるから続けてるんだ」

松永は、黙って箱の中身を確認している。

「雨が続けば出荷が読めない。人手が足りなければ納品が遅れる。形が悪い野菜も出る。大きい会社なら、すぐ別の仕入先に替える。でも松永さんは、うちの事情を見て、行き先を考えてくれる」

田宮は、野菜の箱に手を置いた。

「だから続いてる。数字だけなら、とっくに切られてるよ」

紬は、何も言えなかった。

会社の信用。

藤堂物産の取引先。

資料の中では、そんな大きな言葉でまとめられていた。

けれど実際には、松永が雨の日に箱を開け、田宮の事情を聞き、行き先を調整してきた積み重ねだった。

看板ではなく、人が信用を作っている。

その事実が、紬の胸に静かに落ちた。

「ありがとうございます」

紬が頭を下げると、田宮は少し照れたように手を振った。

「礼を言われることじゃないよ。むしろ、これから変わるんだろ。うちみたいな小さいところが切られないか、そっちの方が心配だ」

「切るつもりはありません」

紬はすぐに言った。

しかし、言った瞬間、自分の言葉が軽いことに気づいた。

切るつもりはない。

そう思っている。

でも、資金繰りが厳しくなれば。

効率化を迫られれば。

銀行から収益性を問われれば。

本当に守れるのか。

その問いが、喉の奥に残った。

田宮は、紬の迷いを見抜いたように言った。

「守れない約束はしない方がいい」

紬は、息を呑んだ。

「はい」

「でも、守りたいなら、話は聞くよ」

その言葉は、優しかった。

けれど、重かった。

市場を出たあと、三人は食品流通部が長年取引している地方の小さな食品メーカーへ向かった。

車を運転するのは相沢だった。

助手席に松永。

紬は後部座席に座り、膝の上でメモ帳を開いている。

窓の外では、都心の建物が少しずつ低くなり、やがて住宅街と畑が混じる風景へ変わっていった。

「眠いですか」

相沢がバックミラー越しに尋ねた。

「いえ、大丈夫です」

「朝の市場、初めてだと疲れるでしょう」

「はい。でも、見られてよかったです」

「まだ入口です」

松永が言った。

「食品流通は、商品を右から左へ流す仕事ではありません。相手の事情を聞いて、どこにどう届けるかを考える仕事です」

「それは、資料だけでは分かりませんでした」

「資料だけで分かった気になられると困ります」

松永の言葉は厳しい。

けれど、朝より少しだけ棘が減ったように感じた。

食品メーカーは、古い町工場のような建物だった。

大きな看板もなく、入口には手書きの案内板が置かれている。

中に入ると、味噌と醤油が混じったような、懐かしい香りがした。

迎えてくれたのは、五十代の女性社長だった。

名前は、森本。

代々続く小さな惣菜メーカーを継いだ人だという。

「松永さん、相沢さん、いつもお世話になっています」

森本は、二人を見ると自然に笑った。

そして紬に視線を移す。

「あなたが、星野さんですね」

「はい。星野紬です」

「ニュースで見ました。ずいぶん大変なことになっていますね」

その言葉は、責めるでもなく、面白がるでもなく、率直だった。

「はい。ご心配をおかけしています」

紬は頭を下げた。

森本は、工場の奥へ案内してくれた。

中では数人の従業員が、惣菜を手作業で詰めている。

機械化されている部分もあるが、最後の確認や細かい調整は人の手に頼っているようだった。

「うちは大手みたいに大量生産はできません」

森本は言った。

「でも、味は守ってきました。松永さんは、そこを分かってくれている」

また、松永の名前が出た。

紬は、隣を歩く松永を見た。

松永は、特に誇らしげな顔をするでもなく、淡々と工場の様子を確認している。

「藤堂物産の食品流通部は、社内では大きな売上を持っていないと聞いています」

森本は続けた。

「でも、うちのような会社にとっては、なくなると困るんです。大手の販路には乗れない。自分たちだけでECをやるほどの人手もない。かといって、地元だけでは先が細る」

森本は、包装された惣菜のパックを手に取った。

「松永さんたちは、うちみたいなところを、細々とでも外へつないでくれていた」

細々とでも、外へつなぐ。

その言葉が、紬の中に残った。

派手ではない。

急成長もしない。

でも、誰かの仕事を外へつなぎ、続けさせてきた。

それが食品流通部の仕事なのだ。

「星野さんは、新しい販売の仕組みを考えているんですよね」

森本が言った。

紬は、少し身構えた。

「はい。ただ、まだ現場の方々の話を聞いている段階です」

「都市の若い人に、地方の商品を届ける。動画やECを使う。そういう話ですか」

「はい」

「面白いとは思います」

森本は、正直に言った。

「でも、怖くもあります」

「怖い、ですか」

「はい」

森本は、工場の奥で働く従業員たちを見た。

「うちは、宣伝が得意ではありません。写真映えする商品ばかりでもありません。動画に出て話すのが得意な人もいない。もし新しい仕組みが始まって、選ばれる商品と選ばれない商品が出た時、うちは取り残されるのではないかと不安です」

紬は、言葉を失った。

都市と地方をつなぐ。

小さな生産者を支える。

その言葉は、紬の中では前向きなものだった。

けれど、地方側から見れば、それは新しい選別の場になるかもしれない。

都会向けに見栄えのいい商品。

物語として語りやすい生産者。

SNSで拡散されやすいもの。

そういうものだけが選ばれれば、今まで松永たちが地道につないできた相手は、また取り残される。

「それに」

森本は、少し言いにくそうに続けた。

「EC対応や個別配送が増えると、うちの事務作業も増えます。今の人数では、正直きついです。新しいことは必要だと思います。でも、急に変われと言われても、現場は追いつけません」

倉庫で黒川に言われたことと重なる。

現場の平均年齢。

人手。

設備。

紙の管理表。

導入すれば解決、ではない。

紬は、メモ帳を閉じた。

書くだけでは、追いつかない気がした。

「森本さん」

「はい」

「私は、地方連携という言葉を、少し簡単に使っていたかもしれません」

森本は、紬を見た。

「地方の良いものを都市へ届ける。そう言うのは簡単です。でも、そのために現場の負担が増えたり、見栄えのいいものだけが選ばれたりするなら、それは支援ではなく、別の形の押しつけになるかもしれないと思いました」

森本の表情が、少しだけ和らいだ。

「そこまで考えてくれるなら、話はできます」

「まだ考え始めたばかりです」

「それで十分です。最初から分かった顔をされるより、ずっといい」

紬は、深く頭を下げた。

工場を出る頃には、昼を過ぎていた。

近くの小さな食堂で、松永と相沢が昼食を取ると言う。

紬も同行することになった。

店内は狭く、テーブルも年季が入っている。

出てきたのは、焼き魚と小鉢、味噌汁の定食だった。

特別なものではない。

けれど、朝から歩き続けた身体には、驚くほど沁みた。

「おいしいです」

紬が言うと、相沢が少しだけ笑った。

「ここの味噌、森本さんのところのです」

「そうなんですか」

「はい。こういう小さいつながりが、食品流通部には多いんです」

相沢は、味噌汁を一口飲んだ。

「売上だけ見たら、切った方が効率いい取引もあります。でも、それを切ると、別の小さなつながりも一緒に切れることがある」

松永が静かに頷いた。

「もちろん、情だけで全部残すわけにはいきません。商売ですから。でも、数字に出ない関係を無視すると、あとで数字も壊れます」

紬は、箸を置いた。

「数字に出ない関係を無視すると、あとで数字も壊れる」

「綺麗にメモしなくていいですよ」

松永が言った。

紬は少しだけ笑った。

「すみません。大事だと思ったので」

相沢が、少し真面目な顔になった。

「社長」

その呼び方に、紬は一瞬だけ背筋を伸ばした。

相沢が紬をそう呼んだのは、初めてだった。

ただし、その声にはまだ距離がある。

「社長の言っていることが全部間違っているとは思いません」

紬は、黙って相沢を見た。

「新しい仕組みは必要です。今のままでは、食品流通部も先がない。若い人に届いていない商品も多いし、取引先も高齢化しています。変わらないといけないのは、現場も分かっています」

相沢は、少し言葉を探すように間を置いた。

「でも、急がれると、現場は壊れます」

その一言は、重かった。

「上の人が作った計画を、現場がどうにかして回す。それを何度もやってきました。最初は何とかなるんです。みんな無理しますから。でも、そのうち誰かが倒れる。ミスが増える。取引先に迷惑がかかる。それで、現場が悪いと言われる」

相沢の声には、抑えた怒りがあった。

「そういうことを、もう繰り返したくありません」

紬は、すぐには答えられなかった。

自分の中にも、早く形にしたい気持ちはある。

注目されているうちに、新しい方向を見せたい。

銀行にも、取引先にも、社員にも、未来があることを示したい。

でも、その速さが現場を壊すなら。

それは、誰を救うための再建なのだろう。

「相沢さん」

紬は、静かに言った。

「私は、きっと急ぎたくなります」

松永と相沢が、紬を見る。

「会社の状況は悪いです。銀行も待ってくれません。取引先も不安になっています。だから、早く結果を出したいと思うはずです」

紬は、自分の弱さをそのまま言葉にした。

「でも、その時に、今日の言葉を思い出します。急がれると現場は壊れる。もし私がそれを忘れそうになったら、止めてください」

相沢は、少し困ったような顔をした。

「簡単に止めてくださいって言いますね」

「止められるのは怖いです。でも、止められないまま進む方が、もっと怖いので」

松永が、箸を置いた。

「止める方も、楽じゃないんですよ」

「はい」

「上に逆らうのは、現場にとってリスクです」

「分かります」

「たぶん、まだ分かっていません」

松永の言葉に、紬は小さく頷いた。

「はい。まだ分かっていないと思います」

松永は、しばらく黙っていた。

そして、鞄から薄いファイルを取り出した。

「これは、食品流通部の主要取引先リストです」

紬は、驚いて顔を上げた。

「見せていただけるんですか」

「一部だけです」

松永は、すぐに釘を刺した。

「外に出す前に、必ず現場に確認してください。取引先ごとの事情があります。数字だけで判断しないでください」

「はい」

紬は、両手でファイルを受け取った。

紙は薄かった。

けれど、そこには松永たちが守ってきた関係が詰まっている。

田宮の農園。

森本の食品メーカー。

小さな専門店。

地方の飲食店。

資料上の取引先ではなく、人と人のつながりとして、そこに名前が並んでいた。

食堂を出ると、午後の空は少し明るくなっていた。

駐車場へ向かう途中、相沢が紬の横に並んだ。

「社長」

「はい」

「今日見たものだけで、食品流通部を分かった気にはならないでください」

「なりません」

「本当に?」

「はい」

紬は、少し考えてから言った。

「今日分かったのは、食品流通部が何をしているかではなく、私が何を見落としていたかです」

相沢は、意外そうに紬を見た。

「そうですか」

「はい。会社の信用は、看板じゃなくて、松永さんや相沢さんが積み重ねてきたものなんだと思いました」

相沢は、少しだけ視線を逸らした。

「そういうことを言われると、疑いづらくなるので困ります」

「疑っていてください」

紬は言った。

「まだ、信じてもらえるようなことはしていないので」

相沢は、今度ははっきりと苦笑した。

「本当に正直ですね」

「それくらいしか、今はできません」

車に戻ると、松永が運転席に乗り込む前に、紬へ振り返った。

「明日以降、取引先への説明文案を作るなら、必ず私に見せてください」

「はい」

「森本さんのような小さな会社に、都会向けの夢だけを語っても逆効果です」

「分かりました」

「田宮さんの農園には、天候リスクがあります。安定供給を前提にした計画は組まないでください」

「はい」

「あと、食品流通部の人員は足りていません。新しいことをするなら、今の仕事を減らすか、人を増やすか、そのどちらかを考えてください」

「はい」

「返事ばかりですね」

「今は、返事をして覚えることで精一杯です」

松永は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「なら、忘れないでください」

「忘れません」

「忘れないように、また現場に来てください」

その言葉に、紬は胸の奥が熱くなった。

倉庫で黒川に言われた言葉と重なる。

また来てください、ではない。

また来るなら、という条件付きの言葉。

でも、それは拒絶ではなかった。

「来ます」

紬は答えた。

「次は、朝の納品ルートに同行させてください」

相沢が目を丸くした。

「朝、早いですよ」

「何時ですか」

「五時半集合です」

紬は一瞬だけ固まった。

松永が、すかさず言う。

「無理なら無理で」

「行きます」

紬は言った。

「五時半に来ます」

相沢が、思わず笑った。

「本当に来そうですね」

「来ます」

車が走り出す。

窓の外に、森本の工場が遠ざかっていく。

紬は、膝の上に置いた取引先リストへ手を添えた。

その紙の向こうに、田宮の野菜がある。

森本の味噌がある。

市場の声がある。

食堂の味噌汁がある。

松永が積み重ねてきた時間がある。

相沢が抱えてきた怒りがある。

数字に載らない手が、いくつもこの会社を支えていた。

それを知らないまま、未来を語ろうとしていた自分が恥ずかしかった。

けれど、知ることはできる。

遅くても。

足りなくても。

もう一度、現場へ来ることで。

紬は、メモ帳を開いた。

白いページに、ゆっくりと書く。

「地方連携は、選ぶことではなく、続けるための形にする」

その言葉が正しいのかは、まだ分からない。

でも、今日の紬には、それが一番近い言葉だった。

車内で、松永と相沢は次の取引先について話し始めていた。

納品時間。

数量変更。

先方の人手不足。

小さな問題が、途切れずに出てくる。

食品流通部の仕事は、派手ではなかった。

大きな数字にも見えにくかった。

けれど、その小さな問題を毎日ひとつずつ受け止めることで、誰かの商売が続いている。

藤堂物産が本当に守るべきものは、もしかすると、こういう見えにくい場所にこそあるのかもしれない。

紬は、窓の外を見た。

夕方の光が、低い建物の屋根を淡く照らしている。

倉庫で受け取った軍手。

食品流通部の取引先リスト。

藤堂会長の古い封筒。

バッグの中に増えていくものは、どれも軽い。

けれど、その一つ一つが、紬の足元を少しずつ重くしていた。

その重さが、今は必要だった。

軽い言葉で未来を語らないために。

誰かの手を見落とさないために。

そして、社長という言葉を、少しずつ自分のものにしていくために。


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