第13章:柚木の未来図と、現場の沈黙
藤堂物産本社、七階の中会議室。
長机には、食品流通部、倉庫事業部、総務、財務、新規事業開発の社員が向かい合うように座っている。
空気は重かった。
誰も大きな声を出していない。
それでも、紙をめくる音、椅子を引く音、咳払いの小さな響きの中に、緊張が滲んでいた。
星野紬は、会議室の後方に立っていた。
正面には、柚木がいる。
タブレットをプロジェクターにつなぎ、スクリーンには新しい事業案の表紙が映し出されていた。
『地域共創型ライフスタイル流通プラットフォーム案』
その文字は、整っていて、未来を感じさせた。
柚木らしい資料だった。
色使いは明るく、図も分かりやすい。市場規模、想定顧客、販売導線、倉庫拠点の活用、ライブ配信、EC、実店舗イベントまで、一枚一枚に熱量がある。
ただ、その熱量が、今日の会議室では少し浮いて見えた。
松永は腕を組んでいる。
相沢は、資料をじっと見ているが、表情は読めない。
黒川は背筋を伸ばして座り、スクリーンではなく柚木の顔を見ている。
一ノ瀬は、壁際でノートパソコンを開き、数字の整合性を確認している。
加賀は、現場側の反応を見ていた。
美崎は、発言の空気が荒れないよう、全体を静かに観察している。
進藤は、何も言わずに資料へ目を落としていた。
「では、始めます」
柚木の声は、いつもより少し硬かった。
「本案は、藤堂物産に残る食品流通部、倉庫事業部、地方取引先ネットワークを活用し、都市部の消費者と地方の生産者、小規模メーカーを直接つなぐ新しい販売モデルです」
画面が切り替わる。
地方の農産品。
小規模食品メーカーの商品。
都市部の若い女性がスマートフォンで商品を見ているイメージ。
実店舗で試食イベントを行う図。
倉庫から小口配送される流れ。
柚木は、懸命に説明を続けた。
「これまで食品流通部が守ってきた取引先には、大手流通には乗りにくいけれど、品質や物語性の高い商品が多くあります。それらを、EC、ライブ配信、期間限定店舗、SNS発信を組み合わせて届けることで、新しい売上を作ります」
スクリーンには、販売導線が表示される。
生産者紹介。
商品ストーリー。
予約販売。
少量在庫。
倉庫拠点からの小口配送。
店舗イベント。
リピート購入。
図だけを見れば、とても美しい流れだった。
紬は、素直に可能性を感じた。
田宮の野菜。
森本の惣菜。
市場で見た箱。
食堂で飲んだ味噌汁。
あれらが、都市の誰かに届く未来は、確かに見てみたい。
けれど同時に、心の奥に小さな不安もあった。
この図の中で、現場の人たちはどれだけ動かなければならないのだろう。
柚木は、次のスライドへ進めた。
「倉庫事業部については、既存拠点を小口配送対応型に段階的に改修します。初期段階では、大規模投資ではなく、既存スペースの一部をテスト拠点として活用します」
黒川の眉が、ほんのわずかに動いた。
「食品流通部については、既存取引先の中から、まず十社程度を候補として選定します。商品力、供給量、ストーリー性、EC対応可能性を評価し、試験販売を実施します」
松永の表情が硬くなる。
相沢が、資料の端を指で押さえた。
柚木は、その反応に気づいたのか、一瞬言葉を詰まらせた。
しかし、すぐに続けた。
「もちろん、現場への負担を避けるため、初期段階では少人数で運用し、外部パートナーの活用も検討します。ライブ配信やSNS運用は本社側で担当し、取引先には最小限の協力に留める想定です」
一ノ瀬が、小さく息を吐いた。
その音は、柚木にも聞こえたようだった。
「収益計画については、初年度は小規模テストとして、売上よりも検証を重視します。二年目以降に、取扱商品数と販売チャネルを拡大し――」
「すみません」
最初に手を挙げたのは、相沢だった。
柚木の声が止まる。
会議室の視線が、相沢へ集まった。
「はい。お願いします」
柚木は、タブレットを胸に抱えるように持った。
相沢は、資料を見下ろしたまま言った。
「これ、誰が運用するんですか」
短い問いだった。
けれど、会議室の空気が一段重くなった。
「初期段階では、新規事業開発チームが中心となり、食品流通部と連携して――」
「連携、というのは具体的に誰ですか」
相沢は顔を上げた。
「松永課長ですか。私ですか。各担当者ですか。通常業務に加えて、候補商品の選定、取引先との説明、出荷数量の調整、問い合わせ対応、配送変更の確認までやるんですか」
柚木は、すぐに答えられなかった。
「その点は、現場の方々の負担を確認しながら」
「確認した後、負担があると分かったら、誰が減らしてくれるんですか」
相沢の声は、怒鳴っているわけではない。
だからこそ、余計に重かった。
「今の食品流通部は、通常業務だけでぎりぎりです。新しいことをやるなら、今やっている仕事を減らすか、人を増やすかしないと無理です」
松永が、静かに口を開いた。
「相沢の言う通りです」
柚木は、唇を結んだ。
松永は、資料を一枚めくった。
「候補取引先十社とありますが、その十社を選ぶ基準が気になります。商品力、供給量、ストーリー性、EC対応可能性。言葉としては分かります。でも、この基準だと、見栄えが良く、発信しやすく、ある程度体力のある取引先が選ばれやすい」
紬は、森本の言葉を思い出した。
選ばれる商品と、選ばれない商品。
取り残される恐怖。
松永は続けた。
「長年付き合ってきた小さな取引先ほど、EC対応は難しい。供給量も安定しない。写真映えもしない。そういうところを後回しにするなら、この案は地方支援ではなく、地方の中から売りやすいものを選ぶ仕組みになります」
柚木の顔が、はっきりと青ざめた。
「そのつもりはありません」
「つもりの話ではありません」
松永の声は厳しかった。
「仕組みがそう見える、という話です」
会議室が静まり返った。
美崎が、柚木の表情を見て少しだけ身を乗り出したが、口は挟まなかった。
ここで誰かが守りに入れば、現場の言葉が止まる。
紬にもそれが分かった。
黒川が、低い声で言った。
「倉庫の話も聞かせてください」
柚木は、少し緊張したまま頷いた。
「はい」
「既存スペースの一部をテスト拠点として活用、とあります。どのスペースですか」
柚木は、画面を切り替えた。
倉庫の簡易図面が表示される。
「こちらの東側区画を想定しています。現在、稼働率が比較的低いと伺っているため」
黒川の表情が固まった。
「そこは雨の日に搬入口の導線を変えるための逃げ場です」
柚木が、息を呑む。
「え……」
「図面上では空いているように見えるでしょう。でも、繁忙期と雨天時には必要です。そこを小口配送の作業場にすると、通常出荷に支障が出ます」
柚木は、慌てて資料を確認した。
「すみません。そこまでは」
「図面には出ません」
黒川は言った。
「現場に立たなければ分からない。でも、その分からない場所に、計画は簡単に線を引く」
その言葉に、紬の胸も痛んだ。
計画は簡単に線を引く。
会社分割案を承認した時の自分にも返ってくる言葉だった。
黒川は、さらに続けた。
「小口配送は、通常の出荷より手間がかかります。梱包も違う。ラベルも違う。問い合わせも増える。返品対応も出る。今の人員でやるなら、どこかを削らなければ無理です」
「外部パートナーを活用する案も」
柚木が言いかけると、黒川は首を横に振った。
「外部を入れるなら、教育が必要です。うちの商品や取引先の癖を知らない人間が入れば、最初は必ずミスが出ます。そのミスのフォローは、結局現場がやります」
柚木は、何も言えなくなった。
タブレットを持つ手が、少し震えている。
紬は、声をかけたい衝動を抑えた。
今は慰める場ではない。
柚木の案を守ることより、現場の声を聞き切ることの方が大事だった。
一ノ瀬が、淡々と口を開いた。
「財務面からも確認します」
柚木の肩が、わずかに強張る。
「初年度は検証重視とありますが、検証にも資金はかかります。人件費、システム改修、配送費、販促費、外部委託費。現状の資金繰りを考えると、売上見通しの弱い検証を長く続ける余裕はありません」
柚木は、小さく頷いた。
「分かっています」
「分かっているなら、初年度の赤字許容額を明記してください。どこまで失敗できるのか。撤退ラインはどこか。現場を巻き込むなら、そこが必要です」
柚木の目が揺れた。
「撤退ライン……」
「必要です」
一ノ瀬は容赦しなかった。
「夢を見るなと言っているわけではありません。夢にいくら使えるのかを決めろと言っています」
その言葉は、柚木だけでなく紬にも刺さった。
新しい未来を語ること。
人を守ること。
地方と都市をつなぐこと。
そのどれもに、お金がかかる。
時間も、人手も、失敗の余裕も必要になる。
思いだけでは、現場も会社も守れない。
「一ノ瀬さん」
加賀が低く言った。
「言い方」
「言い方を柔らかくしても、資金は増えません」
一ノ瀬は、視線を資料に戻した。
「今、曖昧にすれば、後で現場が苦しみます」
加賀はそれ以上言い返さなかった。
その沈黙には、別の緊張があった。
現場を守りたい加賀。
数字で守ろうとする一ノ瀬。
どちらも間違っていない。
だからこそ、ぶつかる。
柚木は、画面を見つめたまま立っていた。
スクリーンには、明るい未来図が映っている。
都市の消費者が笑顔で商品を受け取り、地方の生産者が誇らしげに並ぶイメージ。
それは嘘ではない。
でも、そこへ至る道の足元に、現場の負担が描かれていなかった。
紬は、ゆっくりと立ち上がった。
会議室の視線が、紬へ移る。
「柚木さん」
紬は、正面の柚木を見た。
柚木は、悔しさを堪えるように唇を噛んでいる。
「この案には、可能性があると思います」
柚木の目が、ほんの少しだけ上がった。
「田宮さんの野菜や、森本さんの商品が、今まで届かなかった人に届く未来は、私も見たいです。倉庫の現場にある工夫を、次の形へ残すことも必要だと思います」
紬は、松永、相沢、黒川へ視線を向けた。
「でも、この案はまだ、現場の言葉になっていません」
会議室が静まる。
「誰が運用するのか。何を減らすのか。どの取引先をどう選ぶのか。選ばれなかった取引先に何を伝えるのか。倉庫のどの導線を使い、どこに負担が出るのか。そこが見えていないまま進めれば、また現場に無理をさせることになります」
柚木の顔が、痛みを堪えるように歪んだ。
「だから」
紬は、言葉を続けた。
「この案は、一度持ち帰ります」
柚木が、息を呑んだ。
「中止、ですか」
「中止ではありません。作り直します」
紬は、はっきりと言った。
「現場の声を聞いたつもりになっていた部分を、もう一度見直します。食品流通部、倉庫事業部、取引先、それぞれに確認してから、最初のテスト案を小さく作り直します」
松永は、黙って紬を見ていた。
黒川も、表情を変えない。
相沢は、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
柚木は、タブレットを持ったまま、深く息を吸った。
「すみません」
小さな声だった。
紬は首を横に振った。
「謝ることではありません」
「でも、私、また現場の負担を見落としていました」
「私もです」
紬は言った。
「この案に可能性を感じて、早く形にしたいと思いました。銀行にも、社員にも、取引先にも、未来を見せたいと思っていました。でも、それを急げば、また誰かに無理をさせます」
柚木は、目を伏せた。
「作り直します」
その声は震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
「最初から。いえ、最初よりもっと前から。誰に何を頼むのか、何を減らすのか、どこまでなら現場が耐えられるのか、そこから考えます」
黒川が、初めて柚木に向かって言った。
「倉庫の導線なら、現場を見ながら説明します」
柚木が顔を上げた。
「いいんですか」
「作るなら、勝手に作られるより、最初から言った方がましです」
黒川らしい言い方だった。
柚木は、少しだけ笑いそうになり、すぐに頭を下げた。
「ありがとうございます」
松永も、資料を閉じた。
「取引先の選定基準は、食品流通部で一度整理します。ただし、売りやすい商品だけを選ぶなら協力しません」
「はい」
柚木が答える。
相沢が続けた。
「運用するなら、通常業務を減らす案もセットで出してください。新しい仕事だけ積まれるのは困ります」
「分かりました」
「あと、問い合わせ対応を現場に丸投げしないでください」
「はい」
「返品対応も」
「はい」
「撮影や取材で取引先を疲れさせないでください」
「はい」
「返事だけで終わらせないでください」
柚木は、一瞬詰まり、それから深く頷いた。
「終わらせません」
その言葉に、相沢はようやく少しだけ表情を緩めた。
会議は、予定よりも長引いた。
スライドの多くは、検討中の印をつけて戻されることになった。
明るい未来図は、そのまま採用されなかった。
取引先候補も白紙に近い状態へ戻った。
倉庫の活用スペースも再確認。
運用人員も再試算。
撤退ラインも設定。
柚木の資料は、赤字と付箋だらけになった。
それでも、会議室の空気は、始まった時より少しだけ違っていた。
現場がただ拒絶したわけではない。
未来案がただ否定されたわけでもない。
ようやく同じ机の上に、夢と負担が並べられた。
会議が終わると、社員たちは疲れた表情で部屋を出ていった。
松永は、柚木の横を通る時に一言だけ言った。
「次は、取引先に見せられる言葉で持ってきてください」
柚木は、すぐに頭を下げた。
「はい」
黒川は、紬に向かって言った。
「倉庫に来る日程、後で加賀さんに送ります」
「ありがとうございます」
「社長も来るんですか」
「行きます」
「では、作業靴で」
「はい」
黒川は、それだけ言って出ていった。
相沢は扉の前で少し立ち止まり、柚木を見た。
「案そのものが悪いとは思っていません」
柚木が顔を上げる。
「でも、現場にとって良い案にしてください」
「はい」
相沢は頷き、会議室を出ていった。
扉が閉まる。
会議室には、紬と五人だけが残った。
スクリーンには、まだ事業案の表紙が映っている。
『地域共創型ライフスタイル流通プラットフォーム案』
その明るい文字が、今は少し遠く見えた。
柚木は、タブレットを机の上に置いた。
「悔しいです」
ぽつりと漏れた声だった。
誰もすぐには答えなかった。
柚木は、目元を拭うように指で押さえた。
「私、現場の声を聞いたつもりでした。倉庫にも行って、食品流通部の話も聞いて、前よりずっと考えたつもりでした。でも、全然足りていませんでした」
加賀が、静かに言った。
「足りてないって分かったなら、進んでる」
「でも、あんなに穴だらけで」
「穴を見つけるための会議だろ」
柚木は、唇を噛んだ。
一ノ瀬が、ノートパソコンを閉じた。
「悔しがるのは構いませんが、次は撤退ラインを入れてください」
「一ノ瀬さん」
美崎が少しだけたしなめる。
一ノ瀬は、表情を変えない。
「必要なことです。現場を巻き込む以上、失敗できる範囲を決めるのは責任です」
柚木は、深く頷いた。
「入れます」
その声には、先ほどより少しだけ芯があった。
進藤が、静かに口を開いた。
「柚木さん。あなたの案は、まだ未完成です。ですが、藤堂物産が残された資産をどう活かすかという方向性自体は、間違っていないと思います」
柚木が、進藤を見る。
「問題は、未来の絵に、足元の泥が描かれていなかったことです」
紬は、その言葉を胸の中で繰り返した。
未来の絵に、足元の泥が描かれていなかった。
それは、柚木の案だけではない。
自分の言葉にも、何度も欠けていたものだ。
紬は、柚木の隣に立った。
「一緒に作り直しましょう」
柚木は、紬を見た。
「はい」
「今度は、現場の人に怒られながら」
柚木は、少しだけ笑った。
「怖いですね」
「怖いです」
紬も小さく笑った。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
怖いからこそ、必要なのだ。
怖がらずに作った未来図は、きっと誰かの負担を見落とす。
会議室の片付けが終わる頃、外はすっかり暗くなっていた。
柚木は一人、スクリーンを消した後も、しばらく立ち尽くしていた。
紬は声をかけようとして、少し迷った。
その時、柚木が先に口を開いた。
「星野さん」
「はい」
「私、アイデアで会社を変えられると思っていました」
その声は、いつもの明るさを失っていた。
「今も、変えたいとは思っています。でも、アイデアって、誰かの仕事を増やすものでもあるんですね」
紬は、静かに頷いた。
「私も、それを何度も見落としていました」
「だから、今度は見落とさないようにします」
柚木は、タブレットを胸に抱えた。
「この案、必ず作り直します。現場の人たちに、これならやってみてもいいと言ってもらえる形にします」
「はい」
紬は頷いた。
「私も、一緒に考えます」
柚木は、少しだけ笑った。
けれど、その目は赤かった。
会議室を出ると、廊下の照明が白く光っていた。
社内はもう人が少なく、遠くの部署からキーボードを打つ音だけが聞こえる。
紬は、バッグの中の軍手と取引先リストを思い出した。
そこに、今日の赤字だらけの資料も加わる。
紙は増えていく。
重さも増えていく。
けれど、その重さがなければ、未来は軽すぎる。
紬は、廊下の窓から夜の街を見下ろした。
都市の光は、今日も眩しい。
その光の向こうに、田宮の農園がある。
森本の工場がある。
黒川の倉庫がある。
松永と相沢が守ってきた取引先がある。
そして、そのすべてをつなごうとするなら、きれいな線だけでは足りない。
泥のついた足元まで描かなければならない。
紬は、静かに息を吸った。
未来図は、一度破れた。
けれど、破れたことで初めて、誰の手で縫い直すべきかが見え始めていた。




