第14章:銀行の椅子は、冷たい
銀行の応接室は、静かすぎた。
厚い絨毯が足音を吸い込み、白い壁には抽象画が一枚だけ飾られている。大きな窓からは都心のビル群が見えたが、ガラス越しの景色はどこか遠く、音のない世界のようだった。
星野紬は、革張りの椅子に腰を下ろし、膝の上で手を重ねていた。
椅子は柔らかい。
けれど、座っているだけで背筋が冷える。
正面には、藤堂物産のメインバンクである東都中央銀行の担当者が三人並んでいた。
法人営業部の部長、融資課長、そして審査部から来たという男性。
全員が丁寧な表情をしている。
丁寧すぎて、かえって心の距離が見えた。
紬の隣には一ノ瀬が座っている。
いつも通り表情は崩さず、手元には資金繰り表、再建計画の初期案、会社分割後の残存事業一覧が整えられている。
進藤も同席していた。
法務面や会長の委任に関する説明を求められた時のためだ。
美崎は別室で報道対応を続け、加賀と柚木は社内に残り、現場ヒアリングと事業案の修正準備に回っている。
紬は、机の上の資料に視線を落とした。
数字が並んでいる。
来月の給与。
仕入先への支払い。
短期借入の返済期限。
会社分割後の売上見通し。
繊維・ライフスタイル第一本部が抜けた後の損益。
赤字の可能性。
追加融資の必要額。
朝、市場で見た野菜の箱とはまるで違う。
倉庫の手書き管理表とも違う。
ここにある数字は、乾いていた。
けれど、この数字が動かなければ、社員の給料は払えない。
取引先への支払いも止まる。
どれほど現場の信頼を大切にしたくても、資金が尽きれば会社は終わる。
「星野様」
銀行の部長が、静かに口を開いた。
「本日はご足労いただきありがとうございます。まず、臨時株主総会後の状況について、当行としても大変注視しております」
言葉は柔らかい。
だが、その奥にある警戒は隠れていなかった。
「突然の会社分割、経営体制の変更、報道による影響。いずれも、藤堂物産様の信用に大きく関わる事項です」
「はい」
紬は頷いた。
「ご心配をおかけしております」
「率直に申し上げます」
部長は、手元の資料を一枚めくった。
「現時点では、不確実性が非常に高いと判断しています」
その一言で、応接室の空気がさらに冷えた気がした。
一ノ瀬は表情を変えない。
紬は、膝の上で手を握った。
「会社分割後、主力であった繊維・ライフスタイル第一本部が本体から離れます。残存する食品流通部、倉庫事業部、地方取引先ネットワークを活用した再建構想については、資料上確認しております。しかし、現時点では具体的な売上見通し、投資額、回収期間、損益分岐点が十分とは言えません」
融資課長が続けた。
「追加融資をご相談いただく場合、より具体的な再建計画が必要です。特に、半年以内の資金繰り、主要取引先の継続意思、コスト削減策について、明確な根拠を示していただきたい」
紬は、何度も確認したはずの資料を見た。
それでも、銀行の言葉で突きつけられると、数字の重さが違って感じられた。
「主要取引先については、順次説明を進めています」
一ノ瀬が答えた。
声は落ち着いている。
「食品流通部および倉庫事業部の継続取引先については、現場担当者と連携し、離脱リスクの高い先から優先的に接触しています。現時点で即時取引停止の申し入れはありません」
「現時点では、ですね」
審査部の男性が言った。
「報道がさらに広がれば、状況は変わります。取引先は、藤堂物産様の再建可能性を見ています。御社が本当に継続できるのか。不安が残れば、支払い条件の変更や取引縮小が起こる可能性があります」
「承知しています」
一ノ瀬は、淡々と返した。
紬は、黙ってそのやり取りを聞いていた。
一ノ瀬の声は冷静だ。
数字にも強い。
銀行の言葉にも揺れない。
今の紬には、それが頼もしくもあり、少し遠くもあった。
部長が、紬へ視線を向けた。
「星野様にお伺いします」
紬の背筋が、自然と伸びた。
「はい」
「御社は、今後どのような会社として再建を目指されるのでしょうか」
用意していた答えはあった。
地方の生産者と都市の消費者をつなぐ。
食品流通部と倉庫事業部を活かす。
在庫に依存しない新しい販売モデルを作る。
社員と取引先の信頼を土台にする。
だが、その言葉をそのまま口にすることに、紬は少し躊躇した。
昨日までなら、迷わず語っていたかもしれない。
未来の絵を、まっすぐに。
けれど今は、その絵の足元に何があるのかを少しだけ知ってしまった。
滑りやすい倉庫の床。
手書きの管理表。
田宮の農園。
森本の不安。
相沢の怒り。
柚木の赤字だらけの資料。
それらを見たあとで、軽い言葉を出すことはできなかった。
「藤堂物産は」
紬は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「これまで大きな売上を支えてきた部門を失いました。残るのは、利益率が高いとは言えない食品流通部と、老朽化した倉庫事業部です」
銀行の三人が、黙って聞いている。
「ですが、そこには長く続いてきた取引先との関係と、現場の工夫があります。私は、それを単なる残りものとは考えていません」
審査部の男性の眉が、わずかに動いた。
「残りものではない、ですか」
「はい」
紬は頷いた。
「地方の小さな取引先は、大きな流通には乗りにくい商品を持っています。倉庫には古い設備もありますが、現場の人たちが仕事を止めないために積み上げてきた知恵があります。それらを土台に、都市部の消費者と地方の商品をつなぐ仕組みを作りたいと考えています」
部長は、静かに聞いていた。
「理念としては理解できます」
その言い方に、紬は胸の奥が少し冷えた。
理念としては。
つまり、銀行が見たいものはその先にある。
「ただし」
部長は資料に目を落とした。
「金融機関として確認したいのは、その仕組みがいつ、どの程度の売上を生み、どの費用を吸収できるのかです」
紬は、頷くしかなかった。
「はい」
融資課長が言った。
「現時点の資料では、新規事業による売上寄与は不透明です。一方で、既存事業の収益力は弱い。追加融資を検討するには、コスト構造の見直しが避けられないと考えます」
コスト構造の見直し。
その言葉は、柔らかく包まれていた。
だが、紬にも意味は分かった。
「人件費も含めて、ということでしょうか」
紬が尋ねると、応接室が一瞬静かになった。
一ノ瀬が、わずかに紬を見る。
部長は、表情を崩さずに答えた。
「可能性としては、検討対象に入ると考えます」
心臓が、ひとつ強く打った。
「人員整理を、ということですか」
「当行が具体的に人員整理を求めているわけではありません」
部長は、丁寧に言った。
「ただ、再建計画として、固定費削減の選択肢をどこまで検討されているのかは重要です」
審査部の男性が続ける。
「人を守りたいというお考えは理解します。しかし、会社が継続できなければ、結果的により多くの雇用が失われます。再建においては、厳しい判断が必要になる場合もあります」
紬の手が、膝の上で強く握られた。
社員の顔が浮かんだ。
黒川。
松永。
相沢。
受付で視線を逸らした女性社員。
総会会場で不安そうにこちらを見ていた人たち。
その人たちを、固定費という言葉の中に入れなければならないのか。
人を守るために、誰かを切ることを考えなければならないのか。
「星野様」
部長の声が戻ってくる。
「追加融資をご希望されるのであれば、具体的な返済原資を示していただく必要があります。理念や意欲だけでは、審査は通せません」
「はい」
紬は、喉の奥から声を出した。
「分かっています」
本当に分かっているのかは、自信がなかった。
けれど、分からないままではいられないことだけは分かった。
一ノ瀬が、資料を差し出した。
「現時点でのコスト削減案は、三段階で整理しています。第一段階は役員報酬の削減、不要資産の売却、外部委託費の見直し。第二段階は不採算取引の再交渉、拠点運営費の圧縮。第三段階として、人員配置の見直しを含む固定費削減策を検討項目に入れています」
紬は、一ノ瀬の横顔を見た。
人員配置の見直し。
その言葉が資料に入っていることは知っていた。
だが、今初めて、それが現実の選択肢として目の前に置かれた気がした。
融資課長が資料を確認する。
「人員配置の見直しについて、具体的な時期と規模は」
「現時点では未定です」
一ノ瀬が答える。
「ただし、資金繰り状況が想定より悪化した場合、検討を先送りできない可能性があります」
「その判断は、どなたが」
審査部の男性が尋ねた。
一ノ瀬は、ほんの一瞬だけ紬を見た。
そして答えた。
「最終判断は、星野が行います」
その言葉が、紬の胸に重く落ちた。
自分が判断する。
誰かの配置を変えるのか。
誰かの仕事をなくすのか。
誰かに辞めてもらうのか。
その可能性を、自分の名前で引き受けなければならない。
銀行との面談は、その後も続いた。
追加資料の提出期限。
取引先説明の進捗。
月次の資金繰り報告。
銀行側の条件。
担保となる資産。
売却可能な不動産。
聞けば聞くほど、会社の再建は狭い橋を渡るようなものに思えた。
右にも左にも落ちる可能性がある。
しかも、その橋の上には社員も取引先も乗っている。
面談が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
銀行の部長は、最後まで丁寧だった。
「星野様」
応接室を出る前、彼は静かに言った。
「当行としても、藤堂物産様との長いお付き合いがあります。可能な限り支援の道は探ります。ただし、当行も預金者からお預かりした資金を扱っています。情だけで融資はできません」
「はい」
「次回までに、より具体的な再建計画をお持ちください」
「必ず、お持ちします」
紬は頭を下げた。
銀行を出ると、夜の空気は冷たかった。
ビルの前の歩道には、雨上がりの湿り気が残っている。
タクシー乗り場へ向かう途中、一ノ瀬は一言も話さなかった。
進藤は、少し後ろを歩いている。
紬は、手にしていた資料の重さを感じながら、ようやく口を開いた。
「一ノ瀬さん」
「はい」
「人員整理を、考えているんですか」
一ノ瀬は立ち止まらなかった。
「選択肢としては、検討しています」
その答えは、予想していた。
それでも、実際に聞くと胸が痛んだ。
「私は、人員整理を前提にしたくありません」
紬は言った。
一ノ瀬が、ようやく足を止めた。
街灯の下で、彼の横顔が白く照らされる。
「前提にしたくない気持ちは分かります」
声は、いつも通り静かだった。
「ですが、選択肢として検討しない社長は無責任です」
その言葉に、紬の胸が熱くなった。
「無責任、ですか」
「はい」
一ノ瀬は、紬をまっすぐ見た。
「人を守りたいと言うのは簡単です。ですが、そのためのお金はどこから出るのですか。売上が戻らず、銀行からの支援も受けられず、資金が尽きれば、全員を守るどころか会社ごと失います」
「分かっています」
「分かっているなら、選択肢を閉じないでください」
一ノ瀬の声は、少しだけ強くなった。
「人員整理をしたいと言っているわけではありません。むしろ、したくありません。ですが、最悪の可能性を見ないまま、人を守ると言うのは、現場にとって優しさではない」
紬は、言い返したかった。
でも、言葉が見つからなかった。
一ノ瀬は続けた。
「給与を払えなくなった時、社員はどうなりますか。仕入先への支払いが止まった時、取引先はどうなりますか。銀行から見放された時、再建案はどうなりますか」
ひとつひとつの問いが、紬を追い詰める。
「人を数字で見るなと言うのは正しいです。でも、数字を見ない社長は、人を守れません」
紬は、唇を噛んだ。
「私は……」
声が詰まる。
「私は、人を切るために社長になったわけではありません」
「では、何のために社長になったのですか」
一ノ瀬の問いは、冷たかった。
けれど、逃げ道を与えない誠実さがあった。
「守るためです」
紬は答えた。
「藤堂物産を。社員を。取引先を」
「ならば、守る順番を考えてください」
一ノ瀬は言った。
「全員を同時に、同じ形で守れるとは限りません。何を守るために、何を変えるのか。誰にどんな痛みを引き受けてもらうのか。それを決めるのが社長です」
「そんなの……」
紬の声が震えた。
「そんなの、簡単に決められるわけがありません」
「簡単に決めるなと言っています」
一ノ瀬の声も、初めてわずかに揺れた。
「でも、決めることから逃げないでください」
紬は、言葉を失った。
進藤が、少し離れた場所で二人を見ている。
止めには入らない。
この衝突が必要だと分かっているのだろう。
一ノ瀬は、手にしていた資料を紬に差し出した。
「これは、最悪シナリオの資金繰り表です」
紬は、ゆっくりと受け取った。
「見たくない数字ほど、先に見てください」
一ノ瀬は言った。
「社長が目を逸らせば、その数字は現場に降ってきます」
紬は、資料を握りしめた。
紙の端が少し曲がる。
「一ノ瀬さんは、怖くないんですか」
思わず聞いていた。
一ノ瀬は、少しだけ目を伏せた。
「怖いです」
その答えは、意外だった。
「怖いから、数字を見ます」
紬は、一ノ瀬を見つめた。
「数字を見ていれば、怖くないわけではありません。でも、見なければもっと怖い。気づいた時には、もう選択肢が残っていない。それが一番怖い」
一ノ瀬の声には、冷たさだけではない何かがあった。
過去に何かを見た人間の声だった。
「星野さん」
一ノ瀬は、静かに言った。
「人を守りたいなら、まず会社を潰さないでください」
紬は、何も言い返せなかった。
夜の風が、二人の間を通り過ぎる。
遠くで、車のクラクションが短く鳴った。
街はいつも通り動いている。
その中で、紬は自分の手元の資料を見下ろした。
倉庫の軍手。
取引先リスト。
柚木の赤字だらけの未来図。
そして、最悪シナリオの資金繰り表。
守りたいものが増えるたびに、数字の重さも増えていく。
その重さから目を逸らしてはいけない。
でも、数字だけを見れば、守りたい顔を忘れてしまう。
その間で、社長は立たなければならないのだ。
「一ノ瀬さん」
紬は、ようやく声を出した。
「私に、数字を教えてください」
一ノ瀬は、わずかに眉を動かした。
「今までも教えています」
「もっとです」
紬は、資料を胸に抱えた。
「逃げられないくらい、教えてください。私が都合のいい理想に逃げそうになったら、止めてください。でも」
一ノ瀬は、黙って聞いている。
「数字だけで人を切りそうになった時も、止めてください」
一ノ瀬の表情が、ほんの少しだけ変わった。
紬は続けた。
「私は、たぶん何度も間違えます。人を守りたいと言いながら、数字から逃げるかもしれません。逆に、会社を守るためだと言って、人の顔を見ない判断をしそうになるかもしれません」
紬は、一ノ瀬から目を逸らさなかった。
「その時は、止めてください」
一ノ瀬は、しばらく何も言わなかった。
夜の街灯が、彼の眼鏡に白く映る。
やがて、彼は静かに息を吐いた。
「分かりました」
その声は、いつもより少し低かった。
「ただし、止める時は厳しく止めます」
「はい」
「泣いても、怒っても、止めます」
「はい」
「それでも、数字から逃げないでください」
「逃げません」
一ノ瀬は、ほんのわずかに頷いた。
進藤が、そこで初めて近づいてきた。
「では、本社へ戻りましょう。明日の朝までに、銀行提出用の修正版を作る必要があります」
紬は、思わず進藤を見た。
「明日の朝まで、ですか」
「銀行は待ってくれません」
進藤は静かに言った。
その言葉に、一ノ瀬が少しだけ口元を緩めた。
「同感です」
紬は、深く息を吸った。
疲れていた。
足も重い。
頭も痛い。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
いや、逃げたい気持ちはある。
でも、それ以上に、知らなければならないと思った。
数字を。
人を。
現場を。
銀行を。
痛みを。
そのすべてを知らないまま、守るとは言えない。
タクシーに乗り込むと、窓の外に銀行の建物が遠ざかっていった。
応接室の冷たい椅子。
丁寧な言葉。
人員整理という選択肢。
一ノ瀬の厳しい声。
そのすべてが、胸の中でまだ重く残っている。
紬は、バッグを開けた。
社員名簿。
古い封筒。
倉庫の軍手。
食品流通部の取引先リスト。
赤字だらけの事業案。
そして、最悪シナリオの資金繰り表。
そこにあるものは、どれも違う重さを持っていた。
紙の上に数字がある。
数字の向こうに人がいる。
人の向こうに、また数字がある。
そのどちらか片方だけを見れば、きっと会社は壊れる。
紬は、資金繰り表の一番上に、小さくメモを書いた。
「数字から逃げない。人の顔も忘れない」
窓の外では、夜の街が流れていく。
ビルの明かりは冷たく、綺麗だった。
その光の中に、誰かの仕事がある。
誰かの給料がある。
誰かの明日がある。
紬は、冷たい資料を両手で握りしめた。
銀行の椅子は、まだ背中に残っている。
その冷たさを、忘れてはいけないと思った。
人を守るという言葉を、甘い理想で終わらせないために。




