第15章:信頼は、まだ遠い
会議室には、予定より多くの社員が集まっていた。
本社七階の大会議室。
広すぎないその部屋に、倉庫事業部、食品流通部、総務、財務、営業支援、システム担当など、さまざまな部署の社員が並んで座っている。
椅子が足りず、壁際に立つ者もいた。
誰も騒いではいない。
けれど、静かだからこそ、空気は重かった。
不安。
警戒。
疲労。
怒り。
そして、ほんの少しの好奇心。
それらが混ざり合い、部屋全体を低く覆っている。
星野紬は、会議室の入口近くで、一度だけ深く息を吸った。
手には、美崎が整えてくれた社員向け説明原稿がある。
言葉は丁寧で、無駄がなく、失言の危険も少ない。
現在の状況。
会社分割後の方針。
資金繰りの見通し。
現場ヒアリングの継続。
新規事業案の再検討。
対外説明の進め方。
どれも必要な内容だった。
けれど、その原稿を読むだけでは、今日ここに集まった人たちには届かない気がしていた。
美崎が、紬の隣に立つ。
「星野さん」
「はい」
「原稿通りに読む必要はありません。ただし、曖昧な約束はしないでください」
「分かっています」
「安心させようとして、言いすぎないこと」
「はい」
「でも、逃げた言葉にも聞こえないように」
紬は小さく笑った。
「難しいですね」
「難しいです」
美崎は、少しだけ表情を和らげた。
「だから、社長の言葉が必要なんです」
社長の言葉。
その言葉は、まだ自分には大きすぎる。
けれど、いつまでも大きすぎると言って逃げることはできない。
会議室の前方には、進藤が立っている。
一ノ瀬は資料を揃え、数字の質問に備えていた。
加賀は後方の壁際で腕を組み、社員たちの表情を見ている。
柚木はタブレットを抱え、少し緊張した顔で席に座っていた。
新しい事業案は、まだ赤字と付箋だらけのままだ。
それでも、彼女は逃げずにこの場にいる。
紬は、机の上に置いたバッグにそっと手を触れた。
中には、社員名簿、藤堂会長から受け取った古い封筒、倉庫でもらった軍手、食品流通部の取引先リスト、最悪シナリオの資金繰り表が入っている。
どれも紙や布にすぎない。
けれど、その一つ一つが、紬にとっては逃げないための重さだった。
進藤が、会議室を見渡した。
「お忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。本日は、会社分割後の現状と、今後の方針について、星野より直接お話しします」
その瞬間、社員たちの視線が紬へ集まった。
紬は、前へ出た。
靴音が、床に小さく響く。
今日はスーツを着ている。
けれど、足元には作業靴を履いていた。
黒川に言われて買った、まだ完全には馴染んでいない作業靴。
会議室の何人かが、それに気づいたようだった。
黒川は、最前列ではなく、少し後ろの席に座っている。
松永と相沢は、食品流通部の社員たちと並んでいた。
彼らの表情は、まだ硬い。
紬は、用意された席には座らず、前方に立ったまま頭を下げた。
「星野紬です」
会議室は静まり返っている。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
紬は、原稿に視線を落とした。
最初の一文は、こう書かれている。
『会社分割後の新体制について、現時点で確認できている事項をご説明いたします。』
正しい。
必要な言葉だ。
けれど、今の自分の最初の言葉ではないと思った。
紬は、原稿を静かに閉じた。
美崎が、わずかに目を伏せた。
止めはしなかった。
「まず、お詫びをさせてください」
紬は言った。
「総会での判断によって、皆さんに大きな不安を与えました。部署がどうなるのか、仕事が続くのか、取引先に何を説明すればいいのか、来月以降も会社が本当に大丈夫なのか。そうした不安を、私は皆さんに背負わせました」
会議室に、小さなざわめきが起きた。
紬は続けた。
「私は、会社を権力争いの中で壊したくないと思い、会社分割案を承認しました。勝つためには必要な判断だったと、今も思っています」
黒川が、腕を組んだまま紬を見ている。
松永は、資料から顔を上げた。
「でも、それが皆さんにとって救いになったかどうかは、まだ分かりません」
紬の声が、少しだけ揺れた。
それでも、止めなかった。
「だから今日、ここで『安心してください』とは言えません」
会議室の空気が、わずかに重くなる。
その言葉は、社員が一番聞きたい言葉ではなかっただろう。
でも、嘘はつけなかった。
「来月の給与については、現時点の資金繰り上、支払い可能です」
紬は、一ノ瀬が用意した資料を手に取った。
「ただし、取引先の離脱、銀行の融資条件、売上の落ち込みによって、その先の状況は厳しくなります。長期的に問題ありませんとは、今の段階では言えません」
財務部の社員が、静かに頷いた。
倉庫事業部の誰かが、低く息を吐いた。
「銀行からも、より具体的な再建計画を求められています。人件費を含む固定費の見直しについても、選択肢として問われました」
その言葉で、会議室の空気が一気に張り詰めた。
「人件費って……」
「リストラの話か?」
「やっぱりか」
小さな声があちこちから漏れる。
紬は、そのざわめきから逃げずに立っていた。
「現時点で、人員整理を決定している事実はありません」
一ノ瀬が補足しようと身を動かしたが、紬は小さく手で制した。
ここは、自分の言葉で言わなければならない。
「けれど、選択肢として検討する可能性まで、ないとは言えません」
会議室がさらに揺れた。
美崎の表情が、少しだけ緊張する。
加賀が壁際で腕を組み直した。
黒川は、目を細めた。
「そんなことまで言うのか」
誰かが呟いた。
紬は、深く息を吸った。
「言わない方が、今日は楽だと思います」
声は大きくない。
けれど、会議室の奥まで届いた。
「人を守ります。全員大丈夫です。心配しないでください。そう言えば、今この瞬間は少し安心していただけるかもしれません。でも、それが嘘になった時、皆さんはもっと傷つくと思います」
視線が集まる。
怒りの視線もある。
怖さもある。
けれど、紬は続けた。
「私は、皆さんをすぐに安心させられる社長ではありません」
その言葉は、自分で言っていて痛かった。
「でも、皆さんを数字だけで見る社長にはなりたくありません」
一ノ瀬が、静かに紬を見た。
紬は、その視線を受け止めた。
「だから、数字からも逃げません。人の顔からも逃げません。その両方を見ながら、判断します」
会議室のざわめきが、少しだけ引いた。
紬は、バッグから軍手を取り出した。
古く、少し汚れた軍手。
それを見た黒川の表情が、わずかに変わった。
「倉庫で、この軍手をいただきました」
紬は、会議室の全員に見えるように、そっと机の上に置いた。
「倉庫では、滑りやすい床がありました。手書きの管理表がありました。十年前にいたパートの方が作り始めた、ミスを減らすための工夫が今も残っていました。休憩室には、社員のお子さんが描いた絵が貼られていました」
倉庫事業部の数人が、互いに顔を見合わせた。
「資料には、老朽化、低収益、再活用余地と書かれていました。その言葉は間違いではないと思います。でも、それだけではありませんでした。そこには、仕事を止めないために積み重ねられた工夫と、そこで働いてきた人たちの時間がありました」
黒川は、何も言わなかった。
ただ、紬から目を逸らさなかった。
次に、紬は食品流通部の取引先リストを手に取った。
「食品流通部では、市場と取引先を回りました」
松永が、わずかに姿勢を正す。
相沢は、資料の端を指で押さえている。
「田宮さんという農家の方に会いました。藤堂物産だから取引しているわけではない、松永さんが事情を分かってくれているから続けているのだと言われました」
松永の顔が、少しだけ険しくなる。
照れなのか、不快なのか、紬には分からなかった。
「森本さんという小さな食品メーカーの方からは、新しい販売の仕組みは面白いけれど怖い、と言われました。見栄えのいい商品だけが選ばれるのではないか。EC対応や個別配送で現場の負担が増えるのではないか。そういう不安を聞きました」
相沢が、静かに紬を見ている。
「私は、地方連携という言葉を、簡単に使っていたと思います。良いものを都市へ届ける。小さな生産者を支える。そう言うのは簡単です。でも、その言葉が、相手にとっては選ばれる不安や、負担を押しつけられる怖さになることを知りました」
紬は、柚木の方を見た。
柚木は、タブレットを抱えたまま、少しだけ頷いた。
「新規事業案も、一度作り直します」
会議室が少しざわつく。
「中止ではありません。けれど、今のまま進めれば、現場にまた無理をさせます。誰が運用するのか。何を減らすのか。どの取引先にどう説明するのか。倉庫のどの導線を使うのか。そこを決めないまま、未来だけを語ることはしません」
柚木が立ち上がった。
予定にはなかった動きだった。
紬が驚いて見ると、柚木は社員たちへ頭を下げた。
「新規事業開発の柚木です」
声は震えていた。
「先日の案では、現場の負担を十分に見られていませんでした。申し訳ありません。作り直します。食品流通部、倉庫事業部、取引先の方々の声を聞きながら、これなら小さく試してもいいと思ってもらえる形にします」
相沢が、柚木をじっと見ていた。
黒川は腕を組んだまま動かない。
松永は、何も言わなかった。
拍手は起きない。
それでも、柚木は頭を上げた。
その顔は赤くなっていたが、逃げてはいなかった。
紬は、再び社員たちへ向き直った。
「銀行からは、数字を求められています。売上見通し、コスト削減、返済原資。どれも避けられません」
一ノ瀬が、資料を手に取る。
「財務部と連携して、今週中に資金繰りと再建計画の説明資料を作成します。部門ごとの数字も共有します」
紬は頷いた。
「数字を見ます。現場も見ます。そのどちらか一方だけで判断しないために、皆さんの力を貸してください」
そこで、会議室の奥から声が上がった。
「力を貸してくださいって、都合よすぎませんか」
若い男性社員だった。
部署は分からない。
けれど、その声にははっきりとした怒りがあった。
「勝手に会社分割を承認して、現場に不安を押しつけて、今度は力を貸してくださいって。順番が逆じゃないですか」
会議室が静まる。
その言葉は、紬の胸に刺さった。
加賀が、わずかに身を起こす。
だが紬は、すぐに答えた。
「逆だと思います」
男性社員が、少し驚いたように眉を動かした。
「本来なら、もっと早く皆さんの声を聞くべきでした。会社の未来に関わる判断をする前に、現場の痛みを知るべきでした。でも、私はそれができていませんでした」
紬は、深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
長い沈黙が落ちた。
頭を下げたまま、紬は会議室の空気を感じていた。
許されるとは思っていない。
この一礼で、何かが帳消しになるはずもない。
それでも、頭を下げずに前へ進むことはできなかった。
「謝られても、困ります」
男性社員の声がした。
「はい」
紬は顔を上げた。
「困らせていることも、分かっています」
男性社員は、それ以上言わなかった。
その代わり、別の場所から声が上がった。
「質問してもいいですか」
総務の女性だった。
総会後、受付近くで紬から目を逸らした人に似ていた。
「はい」
「社員向けの説明窓口を作ると聞きました。部署によって情報が違うと、不安が広がります。どこに聞けば正式な情報が分かるのか、はっきりさせてほしいです」
美崎がすぐに立ち上がった。
「本日中に、社内向けの専用窓口と共有ページを設置します。未確認情報は未確認として表示し、確認済みの情報と分けます。問い合わせは総務に集中させず、広報と経営企画で受ける形にします」
総務の女性は、少しだけ安心したように頷いた。
「それなら、助かります」
その短い言葉だけで、美崎の表情がほんの少し柔らかくなった。
次に、黒川が手を挙げた。
紬は、背筋を伸ばした。
「黒川さん」
「明日の倉庫の朝礼に来ると言っていましたね」
「はい。行きます」
「朝礼は七時半です。現場の一日は、その前から始まっています」
「では、何時に伺えばいいですか」
黒川は、少しだけ考えた。
「七時でいいでしょう」
「分かりました。七時に伺います」
「スーツでは来ないでください」
「はい」
「作業靴で」
「はい」
黒川は、そこで一度言葉を切った。
そして、低い声で言った。
「現場の者には、社長が来ると伝えておきます。歓迎は期待しないでください」
「分かっています」
「でも、来るなら見せます」
その言葉は、会議室に静かに落ちた。
歓迎ではない。
信頼でもない。
けれど、拒絶でもなかった。
紬の胸に、小さな熱が灯る。
松永が、続いて口を開いた。
「食品流通部の取引先リストですが」
「はい」
「外部に出す資料を作る前に、必ず部内で確認します。取引先ごとの事情を無視した言葉は使わないでください」
「分かりました」
「それから、森本さんのような小さなメーカーを前面に出すなら、先方の負担も考えてください。取材や撮影を入れれば宣伝にはなりますが、現場の手が止まります」
「はい」
「田宮さんの農園は、天候で出荷が変わります。安定供給を前提にした販売企画には向きません」
「はい」
「返事ばかりですね」
松永が、少しだけ眉を上げた。
その言葉は、前にも聞いた。
紬は、少しだけ息を吐いてから答えた。
「今は、皆さんの言葉を覚えることで精一杯です。でも、返事で終わらせません」
松永は、じっと紬を見た。
「なら、取引先への説明文案を明日までに見せてください」
「明日まで、ですか」
「銀行は待ってくれないのでしょう」
一ノ瀬が、わずかに反応した。
松永は続けた。
「なら、取引先も待たせない方がいい」
紬は頷いた。
「明日までに作ります」
「食品流通部で確認します」
「お願いします」
相沢が、松永の隣で小さく息を吐いた。
「無茶振りする側に回るの、珍しいですね」
松永は表情を変えない。
「上が現場に無茶を言うなら、現場も上に無茶を言っていいだろう」
会議室の一部で、小さな笑いが起きた。
大きな笑いではない。
張り詰めた空気が、ほんの少しだけ緩んだ程度だった。
それでも、紬には十分だった。
会議は、その後も続いた。
給与支払いの見通し。
取引先への説明。
部署別ヒアリング日程。
新規事業案の再提出時期。
銀行向け資料の作成。
社内問い合わせ窓口。
一ノ瀬が数字を説明し、進藤が法務面を補足し、美崎が情報共有の流れを整理した。
加賀は現場ヒアリングの段取りを決め、柚木は新規事業案の修正に必要な聞き取り項目を社員たちへ確認した。
社員たちは、まだ積極的とは言えない。
質問には棘があり、言葉の端には不信感が残っている。
それでも、最初の沈黙とは違っていた。
声が出始めている。
怒りも、不安も、疑問も、ようやく机の上に出てきている。
紬は、そのひとつひとつをメモした。
分からないことは、分からないと答えた。
確認が必要なことは、期限を決めた。
約束できないことは、約束しなかった。
できるだけ、逃げない言葉を選んだ。
会議が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
社員たちは、席を立ち始める。
拍手はなかった。
紬のもとへ駆け寄ってくる人もいない。
それぞれが疲れた顔で資料を抱え、部署へ戻っていく。
ただ、出口近くで総務の女性が小さく頭を下げた。
「窓口の件、お願いします」
「はい。今日中に美崎さんと進めます」
黒川は、紬の前で立ち止まった。
「明日、七時です」
「はい」
「遅れたら、朝礼は始めます」
「遅れません」
黒川は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「では」
それだけ言って出ていった。
松永は、資料を抱えながら言った。
「取引先への説明文案、明日の午前中には見せてください」
「はい」
「午後では遅いです」
「午前中にお送りします」
「相沢にも共有してください」
「分かりました」
相沢は、少し困ったように笑った。
「本当に仕事が増えましたね」
紬は、すぐに頭を下げた。
「すみません」
「冗談です」
相沢は言った。
「半分は」
そして、部屋を出ていった。
最後に柚木が、タブレットを胸に抱えたまま紬の隣に立った。
「星野さん」
「はい」
「怖かったです」
「私もです」
「でも、前より少しだけ、何を作ればいいのか見えてきた気がします」
「はい」
「現場の人たち、怒ってましたね」
「怒っていました」
「でも、何も言われないより、ずっといいですね」
紬は、柚木を見た。
その顔にはまだ疲れがある。
けれど、折れてはいなかった。
「一緒に作り直しましょう」
「はい」
会議室に残ったのは、紬と五人だけになった。
机の上には、使い終わった資料、メモ、赤字の入った事業案、資金繰り表が広がっている。
散らかっている。
けれど、不思議とその散らかり方が、少しだけ前へ進んだ証のように見えた。
一ノ瀬が、資料を整えながら言った。
「明日の午前中までに、取引先向け説明文案。銀行向け再建計画の修正版は朝一番で確認します。倉庫朝礼が七時なら、その前に数字を見てください」
紬は、思わず一ノ瀬を見た。
「朝礼の前に、ですか」
「社長の朝は早いものです」
加賀が笑った。
「厳しいな、一ノ瀬」
「現場に行くなら、数字も持って行ってください」
一ノ瀬は平然と言った。
美崎が、会議室の扉を閉める。
「社員向け窓口は、私が今から総務と進めます。星野さんは、まず社長室で説明文案に入りましょう」
進藤が頷いた。
「今日の会議で出た質問は、すべて記録に残します。回答期限を決めて、社内に共有しましょう」
紬は、深く息を吐いた。
疲れていた。
身体も、頭も、胸も。
けれど、心のどこかに、わずかな温かさがあった。
信頼されたわけではない。
認められたわけでもない。
ただ、質問が出た。
怒りが出た。
明日来るように言われた。
説明文案を見せるように言われた。
それは、ほんの小さな入口だった。
社長室へ戻ると、机の上には白い紙の名札が置かれたままだった。
『星野 紬』
薄く、頼りない名札。
紬は、その横に軍手を置いた。
さらに、取引先リストを重ねる。
資金繰り表も置く。
赤字だらけの事業案も、その上に置いた。
机の上は、すぐにいっぱいになった。
社長室らしい整った机ではない。
けれど、今の紬にはその方がよかった。
この散らかった机こそ、自分が見なければならないものだった。
黒川から受け取った軍手。
松永から預かった取引先リスト。
柚木が作り直す未来図。
一ノ瀬が突きつけた冷たい数字。
美崎が守る言葉。
加賀がつなぐ現場。
進藤が支える全体。
そして、まだ顔を知らない社員たちの声。
紬は、紙の名札をそっと指で押さえた。
信頼は、まだ遠い。
社長と呼ばれるたびに、胸の奥が少し痛む。
それでも、今日は昨日より少しだけ、その痛みの意味が分かった気がした。
社長とは、強い言葉を言う人間ではない。
安心できる未来を簡単に約束する人間でもない。
怒りを受け、数字を見て、現場へ行き、約束した時間に遅れず、間違えた時に頭を下げる人間なのかもしれない。
まだ、そうなれたわけではない。
けれど、そうなりたいとは思った。
窓の外には、夜の街が広がっている。
いくつものビルの窓に明かりが灯り、その一つ一つの奥で、誰かがまだ働いている。
藤堂物産の中にも、残業している社員がいるだろう。
不安を抱えたまま帰宅する人もいるだろう。
家族に何を話せばいいか迷っている人もいるだろう。
その人たちに、今の自分ができることは多くない。
けれど、明日の朝七時、倉庫へ行くことはできる。
午前中に取引先への説明文案を出すことはできる。
銀行向けの数字から逃げないことはできる。
紬は、机に向かって椅子を引いた。
藤堂会長の椅子は、まだ大きすぎる。
それでも、今日は座った。
深く腰掛けるのではなく、背筋を伸ばし、すぐに立ち上がれる姿勢で。
美崎が持ってきた原稿用紙を開く。
一ノ瀬の資金繰り表を横に置く。
松永の取引先リストに目を通す。
柚木の赤字だらけの資料を開く。
窓の外の夜は深い。
明日の朝は早い。
けれど紬は、ペンを取った。
最初の一文を書く。
『このたびは、藤堂物産の会社分割により、多大なご不安をおかけしております。』
書いて、すぐに止まる。
堅い。
遠い。
取引先の顔が見えない。
紬は、その一文に線を引いた。
田宮の顔を思い出す。
森本の工場の匂いを思い出す。
松永の言葉を思い出す。
数字に出ない関係を無視すると、あとで数字も壊れる。
紬は、もう一度ペンを動かした。
『突然のご報告となり、不安なお気持ちにさせてしまったことを、まずお詫び申し上げます。』
まだ完璧ではない。
けれど、少しだけ近づいた気がした。
紬は、続きを書き始めた。
社長室の机の上で、薄い紙の名札の横に、汚れた軍手が置かれている。
その不釣り合いな光景が、今の藤堂物産そのもののようだった。
整っていない。
綺麗でもない。
けれど、そこから始めるしかない。
信頼は、まだ遠い。
でも、遠いと分かったからこそ、歩き始める場所が見えた。
紬は、ペンを握り直した。
明日の朝、作業靴で倉庫へ行く。
それが、社長としての次の仕事だった。




