↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/51

第16章:朝七時の約束

午前五時四十分。

星野紬は、社長室の机に突っ伏したまま目を覚ました。

窓の外は、まだ薄暗い。

夜と朝の境目のような青い光が、ビルの隙間から静かに差し込んでいた。

机の上には、書きかけの取引先向け説明文案、銀行提出用の資金繰り表、赤字だらけの新規事業案、社員向けの質問一覧が広がっている。

その端に、黒川から受け取った軍手が置かれていた。

紬は、ゆっくりと身体を起こした。

首が痛い。

肩も重い。

目の奥が熱い。

それでも、眠ってしまったことを悔やんでいる時間はなかった。

時計を見る。

午前五時四十二分。

倉庫には七時に行くと約束している。

遅れるわけにはいかない。

紬は、洗面台で顔を洗い、社長室の小さな鏡の前に立った。

目元には疲れが残っている。

それを完全に隠すことはできなかった。

でも、今日は綺麗に見せるために行くのではない。

逃げずに行くために行くのだ。

紬は、スーツではなく、動きやすい黒いパンツとシャツに着替えた。

上には薄いジャケットを羽織る。

足元には、まだ硬さの残る作業靴。

靴紐を結びながら、黒川の声が耳に戻ってきた。

「七時です」

「遅れたら、朝礼は始めます」

あの言葉には、余計な優しさがなかった。

だからこそ、信用できた。

紬は、バッグの中を確認した。

社員名簿。

取引先リスト。

資金繰り表。

古い封筒。

書きかけの説明文案。

そして、軍手。

それらを一つずつ確かめてから、社長室を出た。

廊下には、まだほとんど人がいない。

役員フロアの照明は一部だけが点き、空調の低い音だけが聞こえている。

いつもなら、ここは会社の中でも一番整った場所なのだろう。

けれど、今の紬には少し空々しく見えた。

整った廊下。

磨かれた床。

重い扉。

その下で、現場の人たちは朝早くから動き始めている。

紬はエレベーターに乗り、地下駐車場へ向かった。

そこには、加賀がすでに車を停めて待っていた。

「おはようございます」

紬が言うと、加賀は運転席からこちらを見た。

「顔、ひどいぞ」

「おはようの返事がそれですか」

「事実だからな。寝たのか」

「少しだけ」

「社長が倒れたら、現場はもっと不安になる。根性だけで動くなよ」

その言葉は厳しかったが、責めているだけではなかった。

紬は助手席に乗り込み、シートベルトを締める。

「分かっています。でも、今日は行かないといけません」

「それはそうだ」

加賀はエンジンをかけた。

「約束したからな」

車が本社を出る。

朝の街は、まだ完全には動き出していない。

コンビニの搬入口にトラックが停まり、駅へ向かう人たちが少しずつ増えていく。

紬は窓の外を見つめながら、バッグの中の資料を膝に置いた。

銀行向けの資金繰り表。

何度見ても、数字は冷たい。

だが、その冷たさから逃げることはできない。

「加賀さん」

「何だ」

「倉庫の朝礼で、何を話せばいいと思いますか」

「うまいことを話そうとするな」

即答だった。

「昨日も同じようなことを言われました」

「何度でも言う。現場は、立派な言葉に飽きてる。社長が来ました。皆さんの声を聞きます。頑張りましょう。そういうのは、耳に入っても腹に落ちねえ」

紬は、黙って聞いた。

「今日必要なのは、約束を守りに来たってことを見せることだ。あとは、邪魔しないこと」

「邪魔しないこと」

「現場の朝は忙しい。社長が来たからって、仕事は止まらねえ。むしろ止めたら嫌われる」

「分かりました」

「分かってないな」

加賀は前を見たまま言った。

「でも、行けば分かる」

倉庫に着いたのは、午前六時五十三分だった。

空は白み始めているが、倉庫の周囲はすでに動いていた。

トラックのエンジン音。

フォークリフトの警告音。

シャッターが開く音。

作業員たちが交わす短い挨拶。

昨日見た時よりも、朝の倉庫は鋭かった。

無駄な音が少なく、それぞれの動きに目的がある。

紬が車を降りると、黒川が入口に立っていた。

腕時計を見る。

「六時五十五分」

「おはようございます」

紬は頭を下げた。

「遅れませんでした」

「遅れなかっただけです」

黒川はそう言ったが、表情は昨日ほど硬くなかった。

「朝礼は七時半です。その前に、荷受けの流れを見てもらいます」

「はい」

「ただし、邪魔をしないでください」

「はい」

「質問は、作業の切れ目で」

「はい」

「返事だけはいいですね」

加賀が小さく笑った。

紬は苦笑しそうになったが、すぐに引き締めた。

倉庫の中に入ると、昨日よりもずっと空気が張っていた。

荷物が次々に届き、担当者が伝票を確認し、作業員が所定の場所へ運んでいく。

誰も紬に構っていない。

ちらりと見る人はいる。

けれど、すぐに自分の仕事へ戻る。

それが、かえってありがたかった。

見物されるために来たのではない。

仕事の中に入らせてもらうために来たのだ。

黒川は、紬を荷受けエリアの端に立たせた。

「ここから先には出ないでください」

「はい」

「この時間帯は、荷物も人も動きます。慣れていない人が一歩間違えると事故になります」

「分かりました」

「分かったかどうかではなく、守ってください」

「守ります」

紬は、黄色いラインの外側に立った。

目の前では、荷物が流れるように動いている。

作業員たちは、口数こそ少ないが、互いの位置をよく見ていた。

「後ろ通ります」

「それ、先に東側」

「田宮さんの分、傷み確認」

「森本さんの便、ラベル違い注意」

聞き覚えのある名前が出て、紬は反射的に顔を上げた。

田宮の農園。

森本の食品メーカー。

市場や工場で見た人たちの商品が、ここを通っている。

取引先の信頼は、松永たち食品流通部だけで守られているのではない。

倉庫の人たちも、その信頼を運んでいる。

紬は、メモを取りたくなった。

けれど、手を動かす前に、まず目で追った。

田宮の箱は、他の荷物とは別の場所に置かれた。

傷みがないか、年配の作業員が丁寧に確認している。

森本の商品のラベルは、若い作業員が二度見してから貼り直していた。

それらは、資料には載らない小さな作業だった。

だが、その一つが間違えば、取引先の信用に傷がつく。

「社長」

黒川が声をかけた。

「はい」

「今、何を見ていますか」

紬は少し考えた。

「商品が流れているところ、ではなくて」

黒川は黙って待っている。

「取引先の事情が、荷物の扱い方に出ているところです」

黒川の眉がわずかに動いた。

「続けて」

「田宮さんの箱は、傷みに注意して確認されていました。森本さんの商品は、ラベルを二度確認していました。食品流通部で聞いた事情が、倉庫の作業にもつながっているんだと思いました」

黒川は、数秒黙った。

そして、短く言った。

「見学者よりは、少し見ています」

加賀が、後ろで笑いを噛み殺した。

紬は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

褒められたわけではない。

けれど、完全に外れてはいなかったのだと思えた。

七時二十五分。

作業員たちが、倉庫の一角に集まり始めた。

朝礼の時間だった。

紬は、少し後ろに立とうとした。

しかし黒川が言った。

「前へ」

「え?」

「来ると言ったのは社長です。隠れないでください」

紬は小さく頷き、朝礼の輪の前へ出た。

集まった社員やパートの人たちは、二十人ほど。

年齢も性別もばらばらだった。

腕を組む人。

無表情の人。

興味なさそうに床を見る人。

明らかに警戒している人。

歓迎の空気はない。

それでも、全員がそこに立っていた。

黒川が朝礼を始める。

「おはようございます」

「おはようございます」

低く揃った声が倉庫に響く。

「本日の入荷量は通常より一割多め。雨の影響で東側搬入口が滑りやすくなっています。フォークリフトの導線確認を徹底してください。森本さんの便はラベル変更あり。田宮さんの箱は傷み確認を二重にします」

黒川の声は簡潔だった。

必要なことだけを、余計な言葉を足さずに伝えていく。

その後、黒川は紬を見た。

「星野社長から、一言あります」

その瞬間、視線が一斉に紬へ向いた。

喉が乾いた。

昨日の会議室とも、総会の壇上とも違う。

ここには、椅子もマイクもない。

資料もない。

目の前にいるのは、今から体を動かして仕事をする人たちだった。

紬は、深く頭を下げた。

「おはようございます。星野紬です」

誰も返事をしない。

それでいいと思った。

「昨日、ここに来て、私はこの倉庫のことをほとんど何も知らなかったのだと分かりました」

自分の声が、倉庫の高い天井に少し反響する。

「今日も、まだ何も分かっていません。だから、分かったふりをしないために来ました」

数人が、わずかに顔を上げる。

「皆さんの仕事を止めるつもりはありません。邪魔にならない場所で見ます。質問も、作業の切れ目にします」

紬は、一度言葉を切った。

「会社の状況は厳しいです。倉庫事業部にも、今後いろいろなお願いをすることになると思います。でも、現場の負担を見ないまま決めることはしたくありません」

黒川が、黙って聞いている。

「今日ここに来たからといって、皆さんに信じてくださいとは言えません。ただ、言った時間に来ることから始めます」

倉庫の中が静まり返った。

紬は、もう一度頭を下げた。

「本日も、よろしくお願いいたします」

拍手はなかった。

返事もなかった。

それでも、誰かが小さく「お願いします」と呟いた。

たった一人だった。

誰の声かも分からないほど小さかった。

けれど、紬にははっきり聞こえた。

朝礼が終わると、作業員たちはすぐに持ち場へ戻った。

黒川も、何も感想を言わなかった。

ただ、歩き出しながら言った。

「次は返品処理を見ます」

「はい」

返品処理の場所は、倉庫の奥にあった。

商品が戻ってくる理由はさまざまだった。

ラベル違い。

箱潰れ。

数量違い。

受け取り先の都合。

配送中の破損。

その一つ一つに確認と記録が必要になる。

「新規事業で個別配送が増えると、返品も増えます」

黒川が言った。

「返品は、売った後の話です。でも現場では、売った後の方が手間になることもあります」

紬はメモを取った。

売った後の方が手間になる。

「今の案では、返品対応が薄いと思います」

紬が言うと、黒川は頷いた。

「薄いですね」

容赦がなかった。

「配送先が個人になれば、不在、住所間違い、受け取り拒否、破損連絡が増えます。食品なら期限もあります。問い合わせに誰が答えるのか。再送するのか返金するのか。現場判断にされると混乱します」

「そこも決めます」

「決めるだけでは足りません」

黒川は、返品棚に置かれた箱を指差した。

「実際に回るかどうかです」

紬は頷いた。

昨日までなら、決めれば進むと思っていたかもしれない。

だが、現場では決めたことを人が動かす。

その人たちが回せなければ、計画は紙の上でしか存在しない。

その時、入口側で短い声が上がった。

「危ない!」

紬が振り向くと、若い作業員が台車を止めようとしていた。

床に落ちていた薄いビニールに車輪が乗り、荷物が少し傾いている。

大きな事故ではない。

けれど、数箱が床へ落ちた。

周囲の作業員がすぐに駆け寄る。

黒川の顔が険しくなった。

「怪我は?」

「大丈夫です!」

若い作業員が答える。

紬も反射的に一歩踏み出しかけた。

しかし、すぐに黒川の言葉を思い出して止まった。

慣れていない人間が入れば、かえって邪魔になる。

紬は黄色いラインの外で止まり、周囲の動きを見た。

落ちた箱を確認する人。

床のビニールを拾う人。

破損がないか見る人。

すべてが早かった。

黒川が戻ってくると、紬は尋ねた。

「今のビニールは、どこから出たんですか」

「梱包材の端ですね。忙しい時に落ちることがあります」

「よくあるんですか」

「たまにあります」

「対策は?」

黒川は紬を見た。

「あります。でも、徹底しきれていません」

その言葉には、悔しさがあった。

「忙しい時ほど、細かい片付けが後回しになる。人も足りない。分かっていても、全てを完璧にはできません」

紬は、床を見つめた。

たった一枚のビニール。

それだけで、荷物は傾く。

人も怪我をするかもしれない。

現場の危うさは、大きな事故として現れる前に、小さな見落としとして転がっている。

「新しいことを増やすなら」

紬は、静かに言った。

「こういう小さな危険も増えるかもしれないんですね」

黒川は頷いた。

「そうです」

「だったら、新規事業の前に、まず今の安全と導線を見直す必要があります」

「それを言うと、売上はすぐには増えません」

「でも、事故が起きたら、もっと失います」

黒川は、紬をじっと見た。

その目には、昨日とは違う何かがあった。

試すような視線ではある。

でも、少しだけ深くなっている。

「社長」

黒川が言った。

「今の言葉、覚えておいてください」

「はい」

「売上を急ぐ時、人は安全を後回しにします。現場は、そのしわ寄せを何度も受けてきました」

紬は、深く頷いた。

朝の見学が終わる頃には、紬の作業靴は薄く汚れていた。

袖口にも少し埃がついている。

黒川は、事務室で紙コップのお茶を出してくれた。

紬は、両手で受け取る。

「ありがとうございます」

「今日の朝礼、どうでしたか」

黒川が尋ねた。

「怖かったです」

紬は正直に答えた。

「誰も、歓迎していないのが分かりました」

「当たり前です」

「はい」

「でも、来たことは見ています」

その言葉に、紬は顔を上げた。

黒川は、窓の外の倉庫を見ていた。

「現場の人間は、言葉より時間を見ます。来ると言って本当に来るか。朝だけ来て終わりか。忙しい時間を見て帰るのか。面倒な話も聞くのか」

「見られているんですね」

「見ています」

黒川は、紙コップを机に置いた。

「だから、嘘をつかないでください。来られない時は来られないと言えばいい。できないことはできないと言えばいい。ただ、来ると言った日は来てください」

「はい」

紬は、その言葉を胸に刻んだ。

「黒川さん」

「何ですか」

「新規事業の前に、倉庫の安全と導線の確認を優先したいです」

黒川は、少しだけ眉を上げた。

「銀行は、それを待ってくれますか」

「待ってくれません」

「では、どうするんですか」

紬は、バッグから資金繰り表を取り出した。

「売上を作るためのテストは必要です。でも、その前に大きな改修はできなくても、事故につながる導線や作業の危険だけは洗い出したいです。費用が大きいものと、すぐにできるものに分けます」

黒川は、資金繰り表を見た。

「社長が、これを持って現場に来るんですね」

「一ノ瀬さんに、数字も持って行けと言われました」

「正しいですね」

「厳しいです」

「正しいことは、だいたい厳しいです」

黒川は、少しだけ口元を緩めた。

その時、事務室のドアがノックされた。

顔を出したのは、朝礼で一番後ろに立っていた年配の女性作業員だった。

「黒川さん、少しよろしいですか」

「どうしました」

女性は、紬をちらりと見た。

「社長さんがいるなら、これを」

彼女は、折りたたんだ紙を差し出した。

紬は戸惑いながら受け取った。

「これは?」

「返品処理の時に困っていることを書きました。前から言っているんですけど、なかなか上まで届かないので」

紙には、細かい字でいくつもの項目が書かれていた。

返品理由の分類が分かりにくい。

問い合わせ先が部署によって違う。

食品の期限判断が現場任せになっている。

個別配送が増えるなら、専用の保管場所が必要。

紬は、一つずつ目で追った。

「ありがとうございます」

「いえ」

女性は、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。

「別に、期待してるわけじゃありません。ただ、また新しいことを始めるなら、先に困るところを見ておいてほしいだけです」

「はい。必ず確認します」

「必ず、ですか」

女性の目が、少し鋭くなる。

紬は、言葉を選んだ。

「確認します。すぐに全部直せるとは言えません。でも、受け取ったままにはしません」

女性は、少しだけ頷いた。

「なら、お願いします」

彼女が出ていったあと、黒川は紬を見た。

「一枚もらいましたね」

「はい」

「現場の紙は重いですよ」

紬は、手の中の紙を見つめた。

確かに、薄い紙だった。

けれど、重かった。

軍手と同じように。

取引先リストと同じように。

その紙には、現場の我慢が詰まっている。

「黒川さん」

紬は言った。

「この紙、柚木さんと一ノ瀬さんにも見せます」

「見せてどうしますか」

「新規事業の返品対応と、倉庫側の負担見積もりに入れます。必要な費用も出します」

「売上より先に?」

「売上と一緒にです」

紬は、資金繰り表と現場メモを並べた。

「どちらか片方だけでは、また間違える気がします」

黒川は、しばらく黙っていた。

やがて、静かに言った。

「少しは、社長らしいことを言うようになりましたね」

紬は驚いて顔を上げた。

「今の、褒めていますか」

「少しだけです」

加賀が、事務室の外で笑った。

「よかったな、星野さん。黒川さんの少しは貴重だぞ」

紬は、思わず笑った。

緊張で固まっていた胸が、ほんの少しだけほどけた。

倉庫を出る時、黒川は入口まで見送ってくれた。

昨日と同じように手は振らない。

だが、今日は紬が歩き出す前に言った。

「次は、返品処理の時間に来てください」

「いつですか」

「午後三時以降が多いです」

「伺います」

「日程は加賀さんに送ります」

「ありがとうございます」

紬は頭を下げた。

車に戻ると、加賀が運転席で待っていた。

「どうだった」

紬は、バッグから女性作業員にもらった紙を取り出した。

「宿題が増えました」

「いいことだ」

「いいことなんですか」

「文句も不満も、言っても無駄だと思われたら出てこねえ。紙一枚出てきたなら、まだ話す余地があるってことだ」

紬は、その紙を丁寧にファイルへ挟んだ。

「話す余地……」

「信頼とは違うぞ」

「分かっています」

加賀は、少し満足そうに頷いた。

「分かってるならいい」

車が倉庫を離れる。

窓の外で、色褪せた看板が少しずつ遠ざかっていく。

紬の靴は汚れていた。

服にも埃がついている。

けれど、その汚れが、昨日よりも少しだけ自分に馴染んでいる気がした。

本社に戻れば、銀行向けの資料が待っている。

取引先への説明文案も作らなければならない。

柚木の事業案も、もう一度見直す必要がある。

やることは増える一方だった。

それでも、紬は昨日より少しだけ、何から始めるべきか見えていた。

売上を急ぐ。

資金を守る。

現場を見落とさない。

安全を後回しにしない。

取引先の不安を聞く。

そのすべてを同時に考えなければならない。

簡単ではない。

たぶん、何度も間違える。

けれど、今朝の朝礼で小さく聞こえた「お願いします」という声と、女性作業員から受け取った一枚の紙が、紬の中に残っていた。

それは信頼ではない。

期待でもない。

ただ、投げられた問いだった。

本当にやるのか。

本当に聞くのか。

本当に逃げないのか。

紬は、バッグに手を添えた。

中には、また一つ重さが増えている。

その重さを抱えたまま、車は本社へ向かって走っていった。

朝の光は、ようやく街のビルに届き始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。