↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/52

第17章:破れた未来図を縫い直す

本社に戻ると、社長室の机はすでに紙で埋まりかけていた。

銀行向けの資金繰り表。

食品流通部の取引先リスト。

取引先への説明文案。

柚木が作り直している新規事業案。

倉庫の導線図。

そして、今朝、女性作業員から受け取った返品処理のメモ。

星野紬は、机の前に立ったまま、その一枚を見つめていた。

紙には、細かい字で現場の困りごとが並んでいる。

返品理由の分類が分かりにくい。

問い合わせ先が部署によって違う。

食品の期限判断が現場任せになっている。

個別配送が増えるなら、専用の保管場所が必要。

書かれているのは、どれも小さなことのように見える。

けれど、その一つ一つを放置したまま新しい販売を始めれば、現場に負担が積み上がる。

その負担は、最初は小さな違和感として現れるのだろう。

誰かの残業。

誰かの確認漏れ。

誰かのため息。

やがてそれは、誤配送やクレームになり、取引先への不信になり、会社の信用を削る。

売る前の未来図ばかり見ていた自分には、売った後の重さが見えていなかった。

「星野さん」

扉がノックされ、柚木が顔を出した。

腕にはタブレットと分厚い資料を抱えている。

いつもの明るい表情ではない。

それでも、目だけは逃げていなかった。

「お時間、大丈夫ですか」

「はい。ちょうど柚木さんに見てもらいたいものがありました」

紬は、返品処理のメモを差し出した。

柚木はそれを受け取り、立ったまま読み始めた。

最初は普通に目を通していたが、途中から表情が変わっていく。

「……これ、かなり具体的ですね」

「今朝、倉庫の作業員の方が渡してくれました」

「現場から直接?」

「はい。期待しているわけじゃないけれど、先に困るところを見ておいてほしい、と言われました」

柚木は、紙から顔を上げなかった。

「返品対応……完全に薄かったです」

「私もそう思いました」

紬は、机の上の事業案を開いた。

柚木が作った最初の資料では、商品が都市の消費者へ届くまでの流れは美しく描かれていた。

けれど、届かなかった場合。

壊れていた場合。

不在だった場合。

期限が迫った食品が戻ってきた場合。

その先の流れは、ほとんど空白だった。

「柚木さん」

「はい」

「この案、小さくしましょう」

柚木は、紬を見た。

「小さく、ですか」

「はい。最初から十社で始めるのは無理だと思います。取引先も、倉庫も、食品流通部も、対応しきれないかもしれません」

柚木は、少し黙った。

それから、静かに頷いた。

「私も、そう思います」

以前の柚木なら、悔しそうに反論したかもしれない。

けれど、今の彼女は違った。

「まず一社。商品も二種類まで。配送先も限定。販売期間も短くして、返品対応と問い合わせ対応を確認できる形にした方がいいと思っています」

「一社だけ」

紬は、その言葉を繰り返した。

「はい」

柚木はタブレットを開き、修正版の資料を表示した。

表紙のタイトルは変わっていた。

『地域共創型テスト販売案』

以前の華やかな名前よりも、ずっと地味だった。

けれど、紬にはその方が誠実に見えた。

「候補は森本さんの食品メーカーです。ただし、まだ決定ではありません。食品流通部の松永さんと相沢さんに確認が必要です。森本さん側の負担も確認します」

画面が切り替わる。

そこには、販売導線だけでなく、問い合わせ窓口、返品条件、配送トラブル時の担当部署、倉庫側の一時保管場所、食品期限の判断基準まで書き込まれていた。

まだ粗い。

空欄も多い。

けれど、以前の案にはなかったものが増えている。

足元の泥。

現場の声。

売った後の責任。

「柚木さん、かなり変わりましたね」

紬が言うと、柚木は苦笑した。

「派手さはなくなりました」

「でも、前より会社の仕事に近づいた気がします」

柚木は、その言葉に少しだけ目を伏せた。

「私、前は事業案を作る時、どう見せるかばかり考えていた気がします。投資家に響くか。メディアに拾われるか。若いお客様に刺さるか」

「大事なことだと思います」

「はい。でも、それだけじゃありませんでした」

柚木は、返品処理のメモをもう一度見た。

「誰が受けるのか。誰が梱包するのか。誰が謝るのか。誰が残業するのか。そこまで書いて、初めて事業案なんですね」

その声には、悔しさがあった。

だが、その悔しさは前へ向いていた。

紬は頷いた。

「一緒に、現場に見せられる形にしましょう」

「はい」

二人が資料を見直し始めたところで、扉が再びノックされた。

入ってきたのは一ノ瀬だった。

手には銀行提出用の修正版資料を持っている。

「新規事業案の確認中ですか」

「はい」

柚木が少し身構えた。

一ノ瀬はその反応に気づいたが、特に表情を変えなかった。

「見せてください」

柚木は、タブレットを一ノ瀬へ向けた。

一ノ瀬は無言で画面を確認していく。

一社限定。

二商品。

販売期間二週間。

販売数量上限あり。

配送エリア限定。

返品条件明記。

問い合わせ窓口は本社側で一次対応。

倉庫での作業負担見込み。

必要人員。

想定コスト。

売上見込み。

赤字許容額。

撤退ライン。

一ノ瀬の指が、撤退ラインの項目で止まった。

「撤退ラインを入れたんですね」

「はい」

柚木は緊張した声で答えた。

「販売数量が目標の三割未満、返品率が一定以上、倉庫側の作業時間が想定の二倍を超えた場合は、拡大せずに一度停止します」

「悪くありません」

一ノ瀬が言った。

柚木の目が、一瞬だけ大きくなった。

褒められるとは思っていなかったのだろう。

だが、一ノ瀬はすぐに続けた。

「ただし、問い合わせ対応の人件費が甘いです。一次対応を本社側で持つなら、誰が何時間対応するのかを数字にしてください。既存業務のどこから時間を捻出するのかも必要です」

「はい」

「倉庫側の作業時間も、黒川さんに再確認してください。机上の見積もりでは足りません」

「分かりました」

「森本さんを候補にするなら、先方の追加作業時間も入れてください。こちらだけが回っても、取引先が疲弊すれば続きません」

紬は、一ノ瀬を見た。

彼の言葉は厳しい。

けれど、ただ数字だけを見ているのではない。

取引先の負担まで数字に入れようとしている。

その変化に、紬は少し驚いた。

一ノ瀬は視線に気づいたのか、静かに言った。

「数字に入れなければ、負担は存在しないことにされます」

その言葉に、紬は胸を突かれた。

数字は冷たい。

けれど、数字に入れないものは、もっと簡単に消されてしまう。

「一ノ瀬さん」

「何ですか」

「その考え方、資料に入れてもいいですか」

一ノ瀬は、わずかに眉を寄せた。

「そのまま入れる必要はありません。項目として入れてください」

「はい」

柚木が、急いでメモを取る。

『取引先側の追加作業時間』

『本社側問い合わせ対応時間』

『倉庫側作業時間』

『返品対応コスト』

『停止基準』

資料は、さらに地味になっていく。

だが、地味になるほど、現実に近づいているように見えた。

そこへ、美崎が入ってきた。

「失礼します。社員向け共有ページの初版ができました。確認をお願いします」

彼女は、紙の資料を机に置いた。

社内向けの情報共有ページ。

確認済み情報。

未確認情報。

よくある質問。

問い合わせ窓口。

回答期限。

担当部署。

整然としていた。

美崎らしい仕事だった。

「総務の方から、かなり具体的な質問が来ています。給与、部署再編、取引先対応、報道への対応、家族に何と説明すればいいかという相談もありました」

「家族に……」

紬は言葉を失った。

社員にとって会社の不安は、社内だけで終わらない。

家に持ち帰るものなのだ。

夕食の席で、家族に聞かれる。

会社は大丈夫なのか。

給料は出るのか。

転職した方がいいのか。

その時、社員が何を話せばいいのか。

そこまで考えられていなかった。

美崎は、紬の表情を見て静かに言った。

「社員向けの言葉は、社員本人だけに届くものではありません。その家族にも届きます」

紬は頷いた。

「家族向けにも説明できる形にしましょう」

「はい。専門用語を減らし、現時点で言えることと言えないことを分けます」

美崎は、新規事業案の画面にも目を向けた。

「テスト販売案、かなり変わりましたね」

「地味になりました」

柚木が言う。

美崎は少し微笑んだ。

「伝える側としては、地味な方が信頼できます。大きく見せすぎると、失敗した時に反動が大きいので」

「広報的にもそうなんですね」

「はい。今は華やかさより、正確さです」

その言葉に、柚木は深く頷いた。

やがて加賀も社長室へ入ってきた。

「倉庫の導線確認、黒川さんから連絡来たぞ」

彼はスマートフォンを見ながら言った。

「東側区画はやっぱり使えない。代わりに、北側の一部なら小規模テストで使える可能性がある。ただし、棚の移動と足元の補修が必要だ」

「費用は?」

一ノ瀬がすぐに尋ねる。

「概算はこれから。黒川さんは、補修なしなら反対だそうだ」

「当然です」

紬は言った。

全員が紬を見る。

紬は、今朝の床に落ちたビニールと、傾いた台車を思い出した。

「売上を急いで安全を後回しにしたら、現場を壊します。小さく試すとしても、安全に関わる補修は必要です」

一ノ瀬は、少しだけ目を細めた。

「では、その費用をどこから出すかを決めましょう」

「はい」

加賀が、腕を組んだ。

「よく言った、と言いたいところだが、金の話は逃げるなよ」

「逃げません」

紬は答えた。

「安全補修にいくら必要か。テスト販売でどれだけ使えるか。売上見込みがどれくらいか。全部並べます」

進藤も、いつの間にか扉の前に立っていた。

「全員、揃っていますね」

その声で、社長室の空気が少し引き締まった。

進藤は机の上の資料を見た。

軍手。

取引先リスト。

資金繰り表。

現場メモ。

赤字だらけの事業案。

銀行向け資料。

社員向け共有ページ。

社長室の机は、もう整っているとは言えなかった。

だが、そこには今の藤堂物産が抱えているものが、そのまま広がっていた。

「星野さん」

進藤が言った。

「このテスト販売案を、今日中に現場側へ再提示しますか」

紬は、少し考えた。

早く見せたい気持ちはある。

銀行にも、社員にも、前へ進んでいることを示したい。

けれど、急げばまた、現場の声を聞いたつもりになる危険がある。

「いえ」

紬は首を横に振った。

「今日中に現場へ投げるのはやめます」

柚木が顔を上げる。

「まず、松永さん、相沢さん、黒川さんに個別に確認します。取引先側の負担は、森本さんにも直接聞きます。その上で、明日の夕方に小さな打ち合わせを開きたいです」

進藤は頷いた。

「妥当です」

一ノ瀬も反対しなかった。

美崎が予定表を開く。

「では、今日の午後に森本さんへ連絡。明日午前中に食品流通部と倉庫事業部の確認。夕方に小規模テスト案の打ち合わせですね」

「はい」

柚木は、資料を抱え直した。

「私、森本さんに話す文章を作ります」

「私も確認します」

紬は言った。

「説明する時に、都会向けの夢だけを語らないようにしましょう。先方の負担も、先に聞きます」

柚木は頷いた。

「はい」

その時、社長室の内線が鳴った。

美崎が取る。

短く応答したあと、表情が変わった。

「星野さん。受付からです」

「受付?」

「田宮農園の田宮さんから、お電話です」

紬は驚いて立ち上がった。

「田宮さんが?」

松永から連絡が入ったのだろうか。

それとも、報道を見て不安になったのか。

紬は受話器を受け取った。

「お電話代わりました。星野です」

少し雑音の混じった声が聞こえた。

『ああ、田宮です。この前はどうも』

「こちらこそ、ありがとうございました」

『松永さんから、藤堂物産さんが新しい販売の仕組みを考えているって、少し聞きましてね』

紬は、背筋を伸ばした。

「はい。ただ、まだ検討段階です。現場や取引先の方々にご負担をかけない形を探しているところです」

田宮は、少し間を置いた。

『負担は、かかるでしょう』

その一言は、あまりにも率直だった。

『新しいことをするなら、負担はかかる。そこをゼロにすると言われる方が、私は信用できない』

紬は、受話器を握り直した。

「……はい」

『でも、負担のかけ方というものはあると思うんです。先に相談してくれるのか。無理な量を求めないのか。駄目だった時に責めないのか。そこが大事でね』

紬は、すぐにメモを取った。

先に相談。

無理な量を求めない。

駄目だった時に責めない。

『それで、もし小さく試すなら、うちも話くらいは聞きます』

「田宮さんのところも、ですか」

『話だけです。やるとは言ってませんよ』

「はい」

紬は、思わず背筋を正した。

「ありがとうございます。必ず、松永さんとも相談したうえで、無理のない形でお話しします」

『それと、若い人に売るなら、形のきれいな野菜だけじゃなくて、曲がった野菜のこともちゃんと話してください』

田宮の声が、少し柔らかくなった。

『味は変わらない。でも、市場では値が落ちる。そういうものを、かわいそうな商品としてではなく、ちゃんと食べるものとして扱ってくれるなら、少し興味があります』

紬の胸に、静かに火が灯った。

曲がった野菜を、かわいそうな商品として扱わない。

美談にしない。

消費される物語にしない。

「田宮さん」

紬は言った。

「その言葉、企画に入れてもいいですか」

『言葉を使うなら、先に見せてください』

「もちろんです」

『なら、いいです』

電話が切れたあと、紬はしばらく受話器を置けなかった。

社長室の全員が、紬を見ている。

「田宮さんも、話は聞いてくださるそうです」

柚木の目が明るくなる。

だが、紬はすぐに続けた。

「でも、やるとは言っていません。負担はゼロにならないとも言われました。大事なのは、負担のかけ方だと」

松永が言いそうな言葉だ、と紬は思った。

現場も、取引先も、新しいことをすべて拒んでいるわけではない。

ただ、勝手に決められることに疲れている。

美しい言葉で包まれた負担を押しつけられることに、傷ついている。

「柚木さん」

「はい」

「森本さんだけでなく、田宮さんの案も候補に残しましょう。ただし、どちらかを選ぶ前に、松永さんと相沢さんに必ず確認します」

「分かりました」

「曲がった野菜を、かわいそうな商品として扱わない。これもメモしてください」

柚木は、すぐにタブレットへ打ち込んだ。

美崎が静かに言った。

「広報上も重要です。地方の生産者を感動物語として消費する見せ方は避けるべきです」

「はい」

進藤が頷く。

「少しずつ、言葉が整ってきましたね」

紬は、机の上を見た。

破れた未来図。

そこに、現場のメモが縫い込まれていく。

返品処理。

安全導線。

問い合わせ対応。

取引先の負担。

曲がった野菜。

森本の不安。

田宮の条件。

一ノ瀬の撤退ライン。

美崎の正確な言葉。

加賀の現場感覚。

進藤の全体設計。

柚木の悔しさ。

どれか一つでも欠ければ、また軽い計画になる。

「今日中に、最初の修正版を作りましょう」

紬は言った。

「ただし、完成版ではなく、現場に確認してもらうための案として」

柚木が頷く。

「はい」

一ノ瀬がすぐに言った。

「赤字許容額を忘れずに」

加賀が続ける。

「安全補修も忘れるな」

美崎が言う。

「取引先に見せる言葉も整えます」

進藤が、最後に締めた。

「では、役割を分けましょう」

その瞬間、社長室が動き出した。

柚木はタブレットに向かい、一ノ瀬は数字を入れ直し、美崎は説明文案を整え、加賀は黒川へ電話をかけ、進藤は全体の進行表を作る。

紬は、その中心で、机に広げられた紙を一枚ずつ見た。

社長室は、静かではなくなった。

誰かが話し、誰かが確認し、誰かが反論し、誰かが赤字を入れる。

整ってはいない。

けれど、ようやく会社が動いているように見えた。

紬は、メモ帳を開き、田宮の言葉を書いた。

『負担はゼロにはならない。大事なのは、負担のかけ方』

その下に、もう一文を書き足す。

『未来図は、現場の手で縫い直す』

ペンを置いた時、窓の外には昼の光が差していた。

まだ、道は見えない。

けれど、真っ白だった紙の上に、ようやく歩けるだけの線が引かれ始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。