第18章:断られるための提案書
提案書は、思っていたより薄くなった。
最初の事業案は、何十枚ものスライドでできていた。明るい写真、成長市場のグラフ、都市の消費者に向けた販売導線、地方の商品を新しい形で届ける未来図。
けれど、今、星野紬の手元にある資料は、たった六枚だった。
表紙。
目的。
試験販売の範囲。
取引先と現場の負担。
返品・問い合わせ対応。
中止条件。
華やかな言葉はほとんど消えていた。
代わりに、以前なら目立たない場所へ追いやっていた項目が、中央に置かれている。
追加作業時間。
梱包負担。
問い合わせ窓口。
返品時の判断基準。
倉庫側の保管場所。
販売数量の上限。
途中で止める条件。
柚木は、助手席でその資料を何度も確認していた。
膝の上のタブレットには、同じ内容の修正版が表示されている。
「やっぱり、地味ですね」
ぽつりと柚木が言った。
運転席の加賀が、前を見たまま答える。
「地味でいいんだよ。派手な提案で現場を疲れさせるより、よっぽどましだ」
「分かってます」
柚木は苦笑した。
「でも、前の私なら、これを見せるのが怖かったと思います。夢が小さく見えるから」
後部座席に座る紬は、資料の端を指でなぞった。
「今も怖いです」
「星野さんもですか」
「はい。これでも、相手から見れば負担かもしれません」
柚木は、黙って頷いた。
車は都心を抜け、少しずつ低い建物の多い町へ入っていく。
最初に向かうのは、森本の食品メーカーだった。
小さな工場。
手作業で惣菜を詰め、地元の味を守り続けている場所。
森本は、新しい仕組みに興味は示してくれた。
だが同時に、怖いとも言っていた。
見栄えのいい商品だけが選ばれるのではないか。
EC対応や個別配送で現場の負担が増えるのではないか。
その不安を、今日の提案書は本当に受け止められているのだろうか。
紬には、まだ自信がなかった。
「社長」
加賀が言った。
「今日の目的、何だと思う」
「提案を通すこと……ではないですよね」
「違うな」
「断られても、理由を聞くことですか」
加賀は、少しだけ笑った。
「半分正解」
「半分ですか」
「提案ってのは、相手に受けてもらうために持っていくものだ。でも、今日は断られる準備もしていけ」
紬は、手元の資料を見た。
「断られる準備」
「そうだ。相手が嫌だと言ったら、何が嫌なのかを聞く。無理だと言ったら、どこが無理なのかを聞く。怖いと言ったら、何が怖いのかを聞く。そこを聞けないなら、提案なんか持っていくな」
その言葉は、厳しかった。
けれど、今の紬には必要だった。
「分かりました」
「あと、相手が迷っている時に、いい言葉で押すなよ」
「押す……」
「これは地方のためです。新しい挑戦です。若い人に届けましょう。そういう言葉は、気持ちよく聞こえる。でも、相手が断りづらくなる」
柚木の表情が少し変わった。
紬も胸が痛んだ。
自分たちは、善意の言葉で相手を追い込むことがあるのかもしれない。
「断っても関係は壊れない」
加賀は言った。
「まず、それを伝えろ」
森本の工場に着いたのは、午前十時少し前だった。
建物の前には、以前と同じ手書きの案内板が出ている。
中からは、味噌と醤油が混じったような香りが漂ってきた。
紬は車を降りる前に、資料をもう一度整えた。
「大丈夫ですか」
柚木が尋ねる。
「大丈夫ではないです」
紬は正直に答えた。
「でも、行きます」
工場の入口で、森本が出迎えてくれた。
「おはようございます。わざわざありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
紬と柚木は、深く頭を下げた。
森本は、加賀を見ると少し笑った。
「今日は見張り役ですか」
「まあ、そんなところです」
加賀は肩をすくめた。
応接用の小さな部屋に通される。
壁には、昔の商品パッケージや、地元の新聞に掲載された記事が貼られていた。
大きな会社の応接室とは違う。
椅子も机も少し古い。
けれど、空気は温かかった。
森本がお茶を出してくれる。
「それで、今日は新しい販売のご提案でしたね」
紬は、すぐに資料を出しかけて、手を止めた。
まず、伝えるべきことがあった。
「森本さん」
「はい」
「最初にお伝えしたいことがあります」
森本は、静かに紬を見た。
「今日の提案は、必ず受けてくださいというものではありません。断っていただいても、これまでのお取引や関係に影響はありません」
森本の表情が、少しだけ変わった。
紬は続けた。
「むしろ、難しいと思われた場合は、どこが難しいのか教えていただきたいです。私たちはまだ、現場や取引先の負担を十分に見切れていません。だから、無理に進めるより、断られる理由を知ることも大事だと思っています」
森本は、しばらく黙っていた。
その沈黙の間、柚木の手がタブレットの端を握りしめているのが見えた。
やがて、森本は小さく息を吐いた。
「そう言っていただけると、少し話しやすいです」
紬の胸の奥が、ほんの少し緩んだ。
「ありがとうございます」
「正直に言うと、大きな会社から提案を受ける時は、断りづらいんです。こちらが小さいので」
森本は苦笑した。
「それが良い話であればあるほど、断るこちらが後ろ向きみたいに見える」
柚木が、目を伏せた。
「すみません。そういう見え方を考えられていませんでした」
「謝らなくていいですよ。だから、先にそう言ってくださったのは助かります」
森本は資料に目を向けた。
「では、聞かせてください」
柚木が説明を始めた。
声は少し緊張していたが、以前よりも落ち着いていた。
「今回は、大規模な販売ではなく、二週間の試験販売として考えています。対象商品は一種類、または二種類まで。販売数量には上限を設けます。注文受付、問い合わせ対応、顧客対応は藤堂物産側で一次対応します」
資料の画面には、以前のような華やかな成長グラフはない。
代わりに、森本側に発生する作業が表にまとめられていた。
商品写真の確認。
商品説明文の確認。
出荷可能数の確認。
追加梱包の有無。
問い合わせ時の確認先。
返品時の対応可否。
森本は、その表をじっと見ていた。
「ここまで書いてある提案書は、あまり見たことがありません」
「足りないところも多いと思います」
柚木が言った。
「足りないところを教えていただけると助かります」
森本は、資料を一枚めくった。
「この商品説明文ですが」
「はい」
「“昔ながらの手仕事が生んだ、母の味”とありますね」
柚木の顔が一瞬でこわばった。
美崎が見れば赤字を入れそうな表現だったが、ひとまず仮置きとして残していた部分だ。
森本は、静かに言った。
「悪い言葉ではないです。でも、少し違います」
「違う、ですか」
「うちは母の味を売っているわけではありません。工場で働いているのは女性だけではありませんし、昔ながらだけで続けているわけでもありません。衛生管理も、機械の導入も、かなり努力してきました」
柚木は、すぐにペンを取った。
「すみません。情緒的に見せすぎていました」
「いえ、よくある表現です。でも、私たちは懐かしさだけで商売しているわけではありません」
森本の声は穏やかだった。
けれど、そこには確かな誇りがあった。
「地元の味を守るために、かなり現代的な努力もしています。そこを見てもらえるなら、うれしいです」
紬は、胸を突かれた。
地方の商品を紹介する時、つい懐かしさや温かさへ寄せてしまう。
でも、それは相手の努力の一部だけを切り取ることになる。
森本の工場は、ただ昔を守っているのではない。
続けるために変わってきたのだ。
「表現を変えます」
紬は言った。
「昔ながら、ではなく、守るために変えてきた味として書かせてください。もちろん、森本さんに確認していただいてから使います」
森本は、少しだけ笑った。
「それなら、近いです」
柚木は、資料に大きく赤字を入れた。
次に、森本は梱包の欄で手を止めた。
「個別配送用の箱は、そちらで用意していただけますか」
「はい。藤堂物産側で用意します」
「商品を詰める作業は?」
柚木が答える。
「初回は、こちらから人を出して一緒に作業する想定です。森本さんの現場だけに追加作業をお願いする形にはしません」
森本は、少し驚いたようだった。
「そこまで考えているんですね」
「考えました。まだ足りないかもしれませんが」
「足りないところはあります」
森本は、率直に言った。
「食品表示の確認、温度管理、賞味期限の説明、アレルギー表示。個人向けに売るなら、問い合わせは増えると思います。特に、食べ方や保存方法の質問は来るかもしれません」
柚木は、急いでメモを取る。
「問い合わせ想定に追加します」
「それから、二週間でも、工場の繁忙期に重なると厳しいです。時期はこちらで相談させてください」
「もちろんです」
説明は、予定よりも長くなった。
けれど、森本は最後まで席を立たなかった。
何度も資料に目を通し、時には厳しい指摘をし、時には自社の事情を細かく話してくれた。
紬は、その一つ一つを聞きながら思った。
提案するとは、相手を説得することではない。
相手の事情で、提案書を傷つけてもらうことなのかもしれない。
その傷を嫌がらずに受け入れた時、ようやく使えるものに近づく。
最後に、森本は資料を閉じた。
「正直、まだ不安はあります」
「はい」
紬は頷いた。
「それで当然だと思います」
「でも、この規模なら、検討はできます」
柚木が、息を止めた。
「本当ですか」
「はい。ただし、条件があります」
森本は、指を三本立てた。
「一つ目。販売数量は、こちらが無理なく出せる範囲にしてください。売れそうだから増やしましょう、は困ります」
「はい」
「二つ目。商品説明文は、必ず確認させてください。かわいそうな地方企業、みたいな見せ方は嫌です」
「はい」
「三つ目。試験販売後、結果が良くても悪くても、こちらの負担を含めて振り返りをしてください。売れた、売れなかっただけで終わらせないでほしいです」
紬は、深く頷いた。
「必ず行います」
「では、社内で確認してください。こちらも従業員に相談します。私一人で決める話ではありません」
その言葉に、紬はまた一つ気づかされた。
森本もまた、社長として従業員を背負っている。
藤堂物産の都合だけで、相手の会社を動かすことはできない。
「ありがとうございます」
紬と柚木は、深く頭を下げた。
工場を出ると、柚木はしばらく何も言わなかった。
駐車場に向かう途中、加賀が声をかける。
「どうだった」
柚木は、資料を胸に抱えたまま答えた。
「削られました」
「いいことだ」
「はい」
柚木は、少し笑った。
「でも、削られて、前より良くなった気がします」
紬も頷いた。
「私もそう思います」
午後は、田宮農園へ向かった。
車窓の外には、住宅街が途切れ、畑が広がり始める。
田宮の農園は、広い道から少し入った場所にあった。
畑の脇には、曲がった野菜や規格外品を分けるための小さな作業場がある。
田宮は、帽子を被り、軍手をしたまま出迎えてくれた。
「来ましたね」
「お時間をいただきありがとうございます」
紬が頭を下げると、田宮は軽く手を振った。
「畑で話しましょう。会議室より、その方が早い」
畑の土は、少し湿っていた。
紬の作業靴に、土がつく。
田宮は、畑の一角で曲がった野菜を手に取った。
「これ、味は変わりません」
少し曲がった大根だった。
形はまっすぐではない。
けれど、手に持つと重く、しっかりしていた。
「でも、普通の流通では値が落ちます。見た目が悪いから」
紬は、大根を見つめた。
「これを売る時に、かわいそうな商品にはしないでほしいんですね」
「そうです」
田宮は頷いた。
「フードロス削減とか、農家を助けようとか、そういう言葉は悪くない。でも、そればかり前に出ると、買う人が良いことをしている気分になるでしょう」
紬は、何も言わずに聞いた。
「それより、ちゃんとおいしいものとして売ってほしい。形が曲がっている理由も、味に問題がないことも、どう食べればいいかも、普通に伝えてほしい」
柚木が、真剣にメモを取る。
「良い話にしすぎない、ということですね」
「そう」
田宮は、紬を見た。
「物語にするなとは言いません。農作物には、育つまでの事情がある。でも、作り手を飾りにしないでほしい」
その言葉は、森本の指摘ともつながっていた。
昔ながらの母の味。
かわいそうな地方企業。
助けるべき農家。
そうした言葉は、簡単に人の目を引く。
けれど、相手の仕事を小さくする危険がある。
「田宮さん」
紬は言った。
「私たちは、売るために相手の物語を借りようとしていたのかもしれません」
田宮は、少し目を細めた。
「借りるなら、返し方も考えてください」
「返し方」
「売れた数字だけではなく、誰が買って、どう食べて、どんな反応があったのか。そういうものが返ってくるなら、作る側も次を考えられます」
柚木が、すぐに項目を追加した。
『販売後の購入者反応を生産者へ返す』
『数字だけでなく、使われ方を共有』
田宮は、それを見て少し笑った。
「今はすぐメモにするんですね」
「忘れたくないので」
紬が答えると、田宮は頷いた。
「それはいいことです」
田宮農園でも、提案は簡単には進まなかった。
販売数量は少なく。
収穫量に合わせる。
形の悪さを面白がりすぎない。
価格を安くしすぎない。
農園側の作業時間を増やしすぎない。
梱包資材は藤堂物産側で用意する。
売れ残った場合の扱いを先に決める。
田宮は、ひとつひとつ条件を出した。
紬たちは、それをすべて書き留めた。
最後に田宮は言った。
「話は聞きます。森本さんのところと一緒に、小さく試すなら考えてもいい」
柚木が、今度はすぐに喜ばなかった。
「ありがとうございます。ただ、無理がないか、松永さんと相沢さんにも確認します」
田宮は、満足そうに頷いた。
「それでいい」
夕方。
本社へ戻る車の中で、柚木は資料を見つめていた。
朝よりも、さらに赤字が増えている。
提案書は、また傷だらけになった。
けれど、紬にはその傷が頼もしく見えた。
「星野さん」
柚木が言った。
「今日、少し分かりました」
「何がですか」
「提案書って、完成させて持っていくものじゃないんですね」
紬は、窓の外から柚木へ視線を移した。
「相手に直してもらうために持っていくものなんだと思いました」
加賀が、運転しながら口元を緩めた。
「いいこと言うじゃねえか」
柚木は少し照れたように笑った。
「でも、まだ怖いです。断られるかもしれないし、やってみても失敗するかもしれない」
「怖くない提案は、たぶん軽いんだと思います」
紬は言った。
「相手の仕事に触れるなら、怖くて当然なのかもしれません」
車は夕方の道を進んでいく。
窓の外では、街の灯りが少しずつ増えていた。
紬は、膝の上の提案書を見た。
六枚だった資料は、森本と田宮の言葉で余白がほとんどなくなっている。
昔ながらではなく、守るために変えてきた味。
かわいそうな商品ではなく、ちゃんとおいしい野菜。
負担はゼロにはならない。
大事なのは、負担のかけ方。
売れた数字だけでなく、食べた人の声を返す。
それらの言葉が、提案書の中に縫い込まれていく。
会社へ戻れば、一ノ瀬の数字が待っている。
美崎の言葉の調整が待っている。
黒川の倉庫導線確認が待っている。
松永と相沢の厳しい確認も待っている。
まだ、何も始まっていない。
けれど、始めてもいいかもしれない場所に、ようやく立ち始めている。
紬は、提案書の表紙をそっと閉じた。
断られるために持っていった資料は、断られずに済んだわけではない。
ただ、断られる前に、相手の言葉で形を変え始めた。
それが、今日得られた一番大きな前進だった。




