第19章:小さく始める勇気
社長室の机に広げられた提案書は、朝とは別のものになっていた。
たった六枚の資料。
そのはずなのに、余白はほとんど残っていない。
森本の言葉。
田宮の条件。
柚木の赤字。
紬のメモ。
加賀が走り書きした現場確認事項。
そこに一ノ瀬が加えた数字と、美崎が直した表現が重なり、資料は何度も書き換えられていた。
最初にあった華やかな図は、さらに小さくなった。
販売対象は二社。
森本の惣菜商品、一種類。
田宮農園の規格外野菜、少量。
販売期間は二週間ではなく、まずは十日間。
販売数には上限を設ける。
配送地域も絞る。
問い合わせ窓口は本社側。
返品判断は事前に基準を作る。
倉庫では専用スペースを小さく確保するが、通常業務の導線を妨げないことを最優先にする。
売上目標よりも、負担の見える化を目的にする。
そして、資料の最後には、これまでの提案書にはなかった一文が入っていた。
『この試験販売は、拡大を前提としません。現場、取引先、購入者の声を確認し、継続可否を判断します。』
紬は、その一文をじっと見つめた。
拡大を前提としない。
事業案としては、弱く見えるかもしれない。
銀行に出す資料としても、派手な成長性は示しにくい。
けれど、今の藤堂物産に必要なのは、無理に大きく見せることではない。
壊れない小ささで始めることだった。
「星野さん」
柚木が、タブレットを抱えて立っていた。
目の下には少し疲れがある。
それでも、表情は昨日より落ち着いていた。
「このまま、現場確認に出しても大丈夫でしょうか」
紬は、資料から顔を上げた。
「私一人では判断できません」
柚木が、少しだけ頷いた。
「ですよね」
「松永さん、相沢さん、黒川さんに見てもらいましょう。そこで駄目なら、また直します」
「はい」
その返事に、以前のような焦りはなかった。
柚木も、ようやく分かり始めていたのだと思う。
提案書は、通すための武器ではない。
相手と向き合うための紙なのだ。
午後三時。
本社七階の中会議室には、再び現場の中心メンバーが集まった。
食品流通部から松永と相沢。
倉庫事業部から黒川。
財務から一ノ瀬。
広報と社内説明のために美崎。
現場調整役として加賀。
全体を見るために進藤。
そして、紬と柚木。
大人数ではない。
だが、この小さな会議の重さは、これまでのどの説明会にも劣らなかった。
机の上に置かれた資料を、松永が最初に手に取った。
「ずいぶん薄くなりましたね」
「はい」
柚木が答えた。
「一度に大きく始めるのはやめました」
黒川も資料をめくる。
「販売数上限あり。配送地域限定。倉庫作業時間の上限も入っていますね」
「はい。黒川さんからいただいた返品処理の課題も入れました」
黒川は、少しだけ目を細めた。
「返品が発生した場合の一時保管場所は、北側区画の棚一段だけですか」
「はい。ただ、それで足りますか」
柚木が尋ねると、黒川はすぐには答えなかった。
資料に書かれた数量を確認し、手元の倉庫図面と照らし合わせる。
「この数なら、ぎりぎりいけるかもしれません。ただし、曜日を絞る必要があります。通常出荷が多い月曜と金曜は避けてください」
柚木はすぐにメモを取る。
「火曜から木曜中心ですね」
「それから、返品判断を現場に丸投げしないこと。食品の期限に関わるものは、問い合わせ窓口で一次判断し、必要な場合だけ倉庫に回してください」
「分かりました」
相沢が、資料の別のページを指差した。
「問い合わせ窓口、本社側とありますが、誰が担当するんですか」
柚木が一ノ瀬を見る。
一ノ瀬は、淡々と答えた。
「初回は新規事業開発と広報で一次対応。食品に関する専門的な確認のみ、食品流通部へ回す想定です。ただし、問い合わせ件数が一日十件を超えた場合は、その時点で販売を止める基準に入れます」
相沢の眉が上がった。
「十件で止めるんですか」
「止めます」
一ノ瀬は迷わず言った。
「問い合わせが増えるということは、説明不足か運用負荷の増加を意味します。現場で吸収しないための基準です」
相沢は、少し意外そうに一ノ瀬を見た。
「財務の人が、現場負担を理由に止めるんですね」
「現場負担が増えれば、最終的にコストとして跳ね返ります」
一ノ瀬は平然と答えた。
「数字に出る前に止めた方が安い」
加賀が、低く笑った。
「一ノ瀬らしいな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてるよ」
ほんの少し、会議室の空気が緩んだ。
松永は、森本の商品の説明文を読んでいた。
そこには、昨日までの「昔ながらの母の味」という表現はない。
代わりに、こう書かれている。
『地域の味を守るために、衛生管理や製造工程を見直しながら続けてきた、森本食品の惣菜。懐かしさだけではなく、変わり続けてきた工夫ごと届けます。』
松永は、何度か読み返した。
「森本さんは、これを確認済みですか」
「まだです」
紬は答えた。
「今日、社内で確認した後、必ず森本さんに見ていただきます。許可が出るまでは使いません」
「それならいいです」
松永は、資料を置いた。
「前より、かなり近いと思います」
柚木の表情が、少しだけ明るくなった。
「ありがとうございます」
「ただし」
松永は、すぐに続けた。
「森本さんのところは、繁忙期に入る前でないと厳しいです。販売時期は、先方の製造スケジュールを最優先にしてください。こちらの都合で日程を決めないこと」
「はい」
「それから、田宮さんの野菜について」
松永は次のページを開いた。
そこには、田宮農園の曲がった野菜についての説明文があった。
『形はまっすぐではありませんが、味や鮮度に問題はありません。規格から外れたものを安く売るのではなく、料理に合わせて選べる野菜としてご紹介します。』
松永は、少しだけ頷いた。
「かわいそうな商品にはなっていませんね」
美崎が言った。
「“救う”や“助ける”という言葉は外しました。購入者が善意で買うのではなく、食材として選べる表現にしています」
相沢が、画面を見ながら言った。
「でも、写真の撮り方で印象が変わります。曲がっていて面白い、みたいに寄せると安っぽくなります」
美崎はすぐにメモを取った。
「撮影指示に入れます。面白さより、調理後の使いやすさを見せる方向ですね」
「はい。あと、田宮さんは安売りされるのを嫌がると思います」
「価格設定は、食品流通部と相談します」
柚木が答えた。
「規格外だから安い、ではなく、量や用途に合わせた価格にします」
黒川が、倉庫側のページへ戻した。
「梱包資材は藤堂物産側で用意するとありますが、保管場所はどうしますか」
柚木が少し詰まる。
「本社で一部保管し、必要分だけ倉庫へ」
「本社から倉庫へ運ぶのは誰ですか」
その一言で、柚木の手が止まった。
紬も、思わず資料を見た。
そこは抜けていた。
本社で保管する。
倉庫へ運ぶ。
その間を、誰が動かすのか。
小さな空白だった。
けれど、現場ではその空白が誰かの仕事になる。
「抜けていました」
柚木は、悔しそうに言った。
「すみません」
「謝るより、決めてください」
黒川は淡々と返した。
加賀が手を挙げた。
「初回は俺が運ぶ。だが、継続するならそれじゃ駄目だ。物流の流れに組み込む必要がある」
一ノ瀬が言った。
「運搬コストとして入れます」
美崎も頷く。
「問い合わせ対応の時間だけでなく、こうした見えない移動時間も記録しましょう」
紬は、胸の中で何度も頷いていた。
見えない時間。
見えない手間。
これまでの企画書は、そこを簡単に飛び越えていた。
松永が、資料全体を閉じた。
「大きな反対はありません」
柚木の顔に安堵が浮かびかける。
だが、松永はすぐに続けた。
「ただし、これは成功させるための案ではなく、壊さずに試すための案です。そこを間違えないでください」
「壊さずに試す……」
紬は、言葉を繰り返した。
「はい」
松永は紬を見た。
「売上が少し良かったからといって、すぐに数を増やすのはやめてください。メディアが取り上げたからといって、追加販売を急ぐのもやめてください。最初に決めた上限を守ること。それができないなら、食品流通部は協力できません」
柚木が、すぐに答えた。
「守ります」
松永は、柚木ではなく紬を見た。
「最終的に、それを決めるのは社長です」
紬は、まっすぐ松永を見返した。
「守ります」
「売れそうでも?」
「はい」
「銀行に成長性を見せたい時でも?」
一ノ瀬が、わずかに視線を上げる。
紬は、少しだけ息を吸った。
銀行の冷たい椅子が背中に戻ってくる。
数字は必要だ。
成長性も必要だ。
けれど、ここで上限を破れば、現場と取引先をまた傷つける。
「それでも、守ります」
紬は答えた。
「上限を超えて売りたい時は、必ず現場と取引先に確認します。確認できないなら、売りません」
会議室が静かになった。
一ノ瀬は反論しなかった。
ただ、手元の資料に何かを書き込んだ。
後で数字を詰め直すつもりなのだろう。
黒川が、資料を机に置いた。
「倉庫側も、条件付きで協力します」
柚木が、息を呑む。
「ありがとうございます」
「ただし、通常業務を止めることはできません。安全導線を崩すなら、その時点で中止です」
「はい」
相沢も続けた。
「食品流通部も、条件付きです。森本さんと田宮さんの確認が取れて、先方の負担が明確になった場合のみです」
「はい」
松永が最後に言った。
「現場に無理をさせないという言葉が本当かどうかは、始めてから分かります」
その言葉は、承認よりも重かった。
紬は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず、記録を取りながら進めます」
柚木も一緒に頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
会議が終わったあと、松永たちはすぐには席を立たなかった。
細かい確認が続いた。
販売ページに載せる言葉。
取引先への確認順。
倉庫での一時保管棚。
梱包資材の数量。
問い合わせ対応表。
返品判断の流れ。
購入者への説明文。
どれも派手ではない。
だが、その一つひとつがなければ、小さな試みでさえ壊れる。
紬はメモを取りながら、これが会社の仕事なのだと思った。
大きな理念を掲げることではない。
美しい未来図を見せることでもない。
誰が、いつ、どこで、何をするのか。
困った時、誰に聞くのか。
やめる時、誰が判断するのか。
そういう細部にこそ、信頼は宿るのかもしれない。
会議室を出る前、相沢が柚木に声をかけた。
「柚木さん」
「はい」
「前の案より、ずっと現場に近くなったと思います」
柚木の目が、わずかに揺れた。
「本当ですか」
「はい。でも、まだ近づいただけです」
「分かっています」
「始まったら、たぶんもっと穴が出ます」
「その時は、教えてください」
相沢は、少しだけ笑った。
「教えるだけで済めばいいですけど」
その言葉は厳しかったが、以前のような拒絶ではなかった。
黒川は、紬に向かって短く言った。
「販売前に、倉庫の動線確認に来てください」
「はい」
「その時は、実際に箱を動かしてもらいます」
「私が、ですか」
「見るだけでは分かりません」
加賀が笑った。
「いいじゃねえか、社長。腰入れて持てよ」
紬は少し不安になりながらも頷いた。
「分かりました」
松永は、資料を鞄にしまいながら言った。
「森本さんと田宮さんへの再確認には、私も同席します。相沢も連れて行きます」
「ありがとうございます」
「感謝するのは、まだ早いです」
松永は淡々と言った。
「断られるかもしれませんから」
「はい」
「断られても、落ち込むだけで終わらないでください。理由を聞いて、また直してください」
「分かりました」
松永は、それ以上何も言わずに会議室を出ていった。
扉が閉まると、柚木が椅子に座り込んだ。
「通った……んですかね」
「条件付きです」
一ノ瀬が即座に言った。
「通ったとは言いません」
柚木は苦笑した。
「ですよね」
美崎が資料を整えながら言った。
「でも、現場が同じ資料に赤字を入れてくれる段階には来ました。それは前進です」
進藤も頷いた。
「小さく始める準備は整いつつあります。ただし、ここからが難しい」
紬は、資料の最後にある中止条件を見た。
返品率。
問い合わせ件数。
倉庫作業時間。
取引先の負担。
販売数。
赤字許容額。
どれか一つでも基準を超えれば、拡大せずに止める。
始めるための資料に、止める条件がはっきり書かれている。
それが、今の紬には必要なことだと思えた。
「小さく始めるのって、勇気がいりますね」
紬は呟いた。
柚木が顔を上げる。
「大きく始める方が、勇気がいると思っていました」
「私もです」
紬は、資料を閉じた。
「でも、大きく始めるのは、勢いでできることもあるのかもしれません。小さく始めるには、期待されすぎない覚悟も、止める覚悟も必要なんだと思います」
一ノ瀬が、わずかに頷いた。
「その感覚は大事です」
加賀が腕を組む。
「派手に打ち上げるのは簡単だ。後片付けをするのは現場だからな」
柚木は、タブレットを胸に抱えた。
「今回は、後片付けまで設計します」
「そうしてください」
黒川がいないのに、一ノ瀬の声が黒川のように聞こえて、紬は少しだけ笑いそうになった。
社長室へ戻ると、窓の外は夕方の色に変わり始めていた。
紬は、机の上に修正版の提案書を置いた。
その横には、軍手、取引先リスト、資金繰り表、返品メモがある。
どれも最初は別々のものだった。
けれど、今は一本の細い糸でつながり始めている。
森本の惣菜。
田宮の野菜。
松永と相沢の取引先への目。
黒川の倉庫。
柚木の未来図。
一ノ瀬の数字。
美崎の言葉。
加賀の現場感覚。
進藤の全体設計。
そして、紬が守ると決めた上限。
すべてが揃っても、成功するとは限らない。
むしろ、失敗する可能性の方が高いのかもしれない。
だが、今度は失敗した時に、誰がどこで痛むのかを少しは見られる。
それだけで、以前の自分たちとは違う。
美崎が、社長室の入口から声をかけた。
「星野さん、取引先への再確認文案、今日中に出せますか」
「出します」
一ノ瀬が続ける。
「銀行向け資料には、このテスト販売案を小規模検証として入れます。ただし、売上見込みを盛らないでください」
「分かっています」
加賀が笑う。
「黒川さんに箱を持たされる日程も空けとけよ」
「はい」
柚木は、少し疲れた顔で、それでもまっすぐ立っていた。
「私、もう一度資料を直します」
紬は頷いた。
「お願いします」
社長室が、また動き始める。
派手な成功は、まだどこにもない。
ニュースになるような成果もない。
銀行を安心させるほどの数字もない。
社員全員が信じてくれたわけでもない。
それでも、紬は机の上の提案書を見つめながら思った。
会社は、大きな一手だけで変わるのではないのかもしれない。
断られてもいいように持っていった六枚の紙。
そこに加えられた赤字。
現場から出た条件。
取引先の不安。
止めるための基準。
そういう小さなものを積み重ねて、ようやく少しだけ前に進む。
紬は、提案書の表紙に手を置いた。
『地域共創型テスト販売案』
名前は、まだ硬い。
でも、その中には確かに、人の声が入っている。
この声を消さずに始めること。
それが、紬にとって初めての事業判断になるのだと思った。




