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女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


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20/52

第20章:始める前に、止まる場所を決める

テスト販売の準備は、始める前から何度も止まった。

森本食品の商品説明文は、三度書き直された。

最初の文案では、まだ少し情緒に寄りすぎていた。

二度目の文案では、製造工程の説明が硬すぎた。

三度目でようやく、森本が赤ペンを入れながら言った。

「これなら、うちの仕事に近いです」

その言葉を聞いた時、柚木は深く息を吐いた。

「よかった……」

思わず漏れた声に、森本が笑った。

「まだ販売していませんよ」

「はい。分かっています」

柚木は慌てて姿勢を正した。

星野紬は、その横で資料を見つめていた。

『地元で長く愛されてきた味を、変えずに守るのではなく、続けるために少しずつ変えてきました。森本食品の惣菜は、懐かしさだけではなく、今の食卓に合わせた工夫とともに作られています。』

派手な文章ではない。

目を引く言葉も少ない。

けれど、森本の会社が自分たちをどう見せたいのか、その輪郭に近づいた気がした。

「この文章で進めてもよろしいですか」

紬が尋ねると、森本は頷いた。

「はい。ただし、写真は確認させてください」

「もちろんです」

「それから、従業員の顔を出す撮影は今回はなしでお願いします。まだ皆、慣れていません」

「分かりました」

柚木がすぐにメモを取る。

顔出しなし。

工場内撮影は手元のみ。

製造工程は事前確認。

表現は誇張しない。

たった一つの商品を売るだけなのに、決めることは山ほどある。

紬は改めて思った。

販売ページの向こうには、人がいる。

その人たちの仕事場がある。

言葉ひとつ、写真ひとつで、相手の誇りを守ることも、傷つけることもある。

森本食品を出たあとは、田宮農園へ向かった。

畑の土は乾き、空は高かった。

田宮は、収穫した野菜を木箱に並べながら待っていた。

「数はこれくらいです」

木箱の中には、少し曲がった大根や、形の不揃いな人参が並んでいる。

どれも土の匂いがした。

「思っていたより少ないですね」

柚木が言いかけて、すぐに口を閉じた。

田宮は、その様子を見て小さく笑った。

「いいんですよ。少ないと思ったでしょう」

「すみません」

「謝らなくていい。売る側は、もっと欲しいと思う。作る側は、出せる分しか出せない。それだけです」

紬は、木箱の中を見つめた。

販売ページを作る時、つい数量を増やしたくなる。

売上を作るため。

銀行に可能性を見せるため。

社員に希望を示すため。

けれど、田宮が出せる数は、田宮の畑と人手と天候で決まる。

藤堂物産の都合で増えるものではない。

「この数量で進めます」

紬は言った。

「売り切れても、追加はお願いしません」

田宮が、紬を見た。

「本当に?」

「はい」

「売れたら、増やしたくなるでしょう」

「なると思います」

紬は正直に答えた。

「でも、増やす時は、必ず田宮さんと松永さんに確認します。確認できないなら増やしません」

田宮は、しばらく紬を見ていた。

それから、木箱の上に手を置いた。

「なら、今回はこの数で」

「ありがとうございます」

「それから、値段を下げすぎないでください」

「はい」

「形が悪いから安い、ではなく、使いやすい量だからこの値段。そういう見せ方にしてください」

美崎ならどう言うだろう、と紬は考えた。

安さではなく、使い方を伝える。

お得さではなく、食卓に乗る姿を見せる。

「購入ページに、レシピ案を載せてもいいですか」

紬が尋ねると、田宮は少し考えた。

「いいですね。ただ、凝ったものではなく、普通に作れるものがいい」

「普通に作れるもの」

「そう。特別な人だけが買う野菜にしないでほしい」

柚木が、また素早くメモを取った。

『普通に作れるレシピ』

『特別扱いしすぎない』

『安売りではなく、使い方で価値を伝える』

田宮は、満足そうに頷いた。

「少しずつ、分かってきましたね」

その言葉は、柔らかかった。

けれど、紬は油断しなかった。

少しずつ。

それは、まだ十分ではないという意味でもある。

本社へ戻ると、倉庫での確認が待っていた。

黒川は、北側区画の棚の前で腕を組んでいた。

「ここです」

棚一段。

思っていたよりも狭い。

柚木が、思わず画面の図面と見比べる。

「これだけ、ですか」

「これだけです」

黒川は即答した。

「通常業務を邪魔しない範囲なら、今使えるのはここだけです」

「でも、森本さんの商品と田宮さんの野菜を一緒に置くと」

「だから数量を絞るんです」

黒川の声は厳しい。

「最初から広い場所を用意すると、広い分だけ使いたくなる。使えば、導線が崩れる」

紬は、棚の前にしゃがんだ。

床には、少し擦れた跡がある。

近くをフォークリフトが通る音がした。

「ここに置くなら、ラベルは見やすくしないといけませんね」

「はい」

黒川が頷く。

「それから、通常出荷品と混ざらないよう、色分けしてください」

「色分け」

「現場で一瞬で分かることが大事です。説明を読まなければ分からないものは、忙しい時間帯には機能しません」

柚木が大きく頷いた。

「ラベルの色、箱の向き、保管期限、担当者名を入れます」

「担当者名だけでは駄目です」

黒川はすぐに言った。

「担当者が不在の時、誰が判断するのかも必要です」

「あ……はい」

また、抜けが見つかる。

柚木は悔しそうに唇を結んだが、以前のように落ち込むだけではなかった。

すぐに資料へ書き込んでいく。

「代替判断者。問い合わせ窓口。返品時の保管期限」

黒川は、その様子を見て少しだけ頷いた。

「箱を持ってみてください」

「え?」

紬が顔を上げると、黒川は森本食品の試作品が入った箱を指差した。

「実際に持たないと、作業時間は分かりません」

紬は、軍手をはめた。

黒川から受け取った、少し汚れた軍手。

箱の底に手を入れ、持ち上げる。

思っていたより重い。

腕に力が入る。

「腰を曲げない」

黒川の声が飛ぶ。

「膝を使ってください」

「はい」

紬は慌てて持ち直した。

加賀が横で笑いを堪えている。

「笑わないでください」

「いや、笑ってねえよ」

「笑っています」

「まあ、少しはな」

柚木も、少しだけ笑った。

緊張していた空気が、ほんのわずかに緩む。

しかし、黒川は真顔のままだった。

「この箱を一日に何十回も動かす人がいます。資料に作業時間五分と書く時、その五分は誰かの身体を使う五分です」

紬は、箱を棚に戻した。

腕が少し重い。

「はい」

「売る側は、販売数で考えます。現場は、箱の数で考えます」

黒川の言葉が、胸に残った。

販売数。

箱の数。

同じものを見ていても、立場によって見える単位が違う。

紬は、すぐにメモを取った。

『販売数ではなく、箱の数でも考える』

倉庫確認のあと、会議室で最終の運用確認が行われた。

松永と相沢が食品流通部の視点で確認し、黒川が倉庫側の流れを確認する。

一ノ瀬はコストを計算し、美崎は販売ページと社内外への説明文を整える。

進藤は契約面と責任範囲を確認し、加賀は現場間の連絡の流れを詰めていた。

柚木の資料は、さらに赤字で埋まっていく。

それでも、誰も「もう無理だ」とは言わなかった。

むしろ、赤字が増えるほど、案は少しずつ現実に近づいていた。

「販売開始日は、来週火曜」

進藤が確認する。

「森本食品と田宮農園の最終承認が取れた場合に限ります」

「販売数の上限は、森本食品が三十セット。田宮農園が二十五セット」

一ノ瀬が数字を読み上げる。

「売上としては小さいですが、検証としては妥当です」

「問い合わせ対応は本社側で一次対応」

美崎が続ける。

「想定質問集は、森本さんと田宮さんに確認していただきます。回答できないものは、その場で無理に答えず、持ち帰る」

「倉庫作業は火曜から木曜の午前中中心」

黒川が言った。

「通常出荷が詰まった場合は、テスト販売分を後回しにします」

柚木が顔を上げる。

「後回し、ですか」

「通常業務を止めないという約束です」

黒川は、まっすぐに柚木を見た。

「テスト販売は大事かもしれません。でも、毎日出ていく荷物も同じくらい大事です」

柚木は、深く頷いた。

「分かりました」

相沢が、問い合わせ表を確認しながら言った。

「購入者への説明文に、発送日が前後する可能性を入れてください。現場都合ではなく、品質確認を優先するため、と正確に」

美崎がすぐに修正する。

「入れます」

松永は、最後まで資料を読み込んでいた。

「森本さんと田宮さんには、販売開始前に最終ページを見せてください。特に価格と紹介文」

「はい」

「売れた後の購入者の声も、必ず返すこと」

「はい」

「売れなかった場合も、理由を分析して共有すること。売れませんでした、で終わらせない」

「分かりました」

紬は、一つずつ答えた。

そして、資料の最後のページを見た。

『中止条件』

返品率が想定を超えた場合。

問い合わせ件数が一定数を超えた場合。

倉庫作業時間が想定の二倍を超えた場合。

取引先側の追加負担が一定以上になった場合。

品質確認に不安が出た場合。

いずれかに該当する場合、販売を拡大せず、一時停止する。

そこに、美崎が書き加えた一文があった。

『中止は失敗ではなく、次に続けるための判断とする。』

紬は、その一文を見つめた。

始める前に、止まる場所を決める。

それは、勢いを削ぐことではない。

むしろ、本当に始めるために必要なことなのだ。

「星野さん」

進藤が声をかけた。

「最終判断をお願いします」

会議室が静まり返った。

視線が紬へ集まる。

以前なら、この瞬間に高揚していたかもしれない。

自分の判断で、新しい事業が始まる。

会社が変わる。

未来が動く。

そう思っていたかもしれない。

けれど、今は違った。

紬の目の前には、森本の従業員がいる。

田宮の畑がある。

倉庫の北側棚がある。

返品メモを書いてくれた女性作業員がいる。

松永と相沢が守ってきた取引先がある。

黒川が守る通常業務がある。

柚木の悔しさがある。

一ノ瀬の数字がある。

美崎の言葉がある。

加賀の現場感覚がある。

進藤の静かな確認がある。

そして、失敗した時に痛む場所が、少しだけ見えている。

だからこそ、簡単には言えなかった。

それでも、決めなければならない。

紬は、資料に手を置いた。

「始めます」

声は大きくなかった。

「ただし、上限を守ります。中止条件も守ります。売れそうだから増やす、注目されたから広げる、銀行に見せたいから数字を盛る。そういう進め方はしません」

一ノ瀬が、静かに頷いた。

「そして」

紬は続けた。

「森本さん、田宮さん、倉庫、食品流通部、本社側のどこかに無理が出たら、必ず止まります。止まることも、今回の判断に含めます」

会議室には、しばらく沈黙があった。

最初に口を開いたのは、黒川だった。

「分かりました」

次に松永が頷いた。

「食品流通部も、その条件なら進めます」

相沢が、少しだけ息を吐いた。

「始まるんですね」

柚木は、タブレットを握りしめたまま、目を潤ませていた。

「はい」

紬は、柚木を見た。

「小さく、始めます」

その言葉に、柚木は深く頷いた。

会議が終わると、すぐに各部署が動き始めた。

美崎は販売ページの最終確認に入り、一ノ瀬は銀行向け資料に小規模テストの位置づけを加える。

加賀は黒川と倉庫導線の確認へ向かい、松永と相沢は森本と田宮へ最終確認の連絡を入れた。

柚木は、何度も資料を見直しながら、販売ページの文言を整えている。

紬は、その様子を会議室の端から見ていた。

ようやく動き出した。

けれど、胸の中にあるのは華やかな期待ではなかった。

むしろ、怖さの方が大きい。

売れなかったらどうするのか。

問い合わせが増えたらどうするのか。

倉庫で混乱が起きたらどうするのか。

森本や田宮に迷惑をかけたらどうするのか。

社員から、やはり無理だったと言われたらどうするのか。

その不安は消えない。

でも、不安があるからこそ、止まる場所を決めた。

逃げるためではなく、壊さないために。

社長室へ戻ると、机の上の紙の名札が目に入った。

『星野 紬』

その横に、軍手と取引先リストと資金繰り表が並んでいる。

紬は、新しい資料をその隣に置いた。

『地域共創型テスト販売案』

まだ小さい。

売上としては、会社を救うにはほど遠い。

銀行を納得させるにも足りない。

社員の不安を消すには、あまりにも頼りない。

それでも、この小さな一歩には、いくつもの声が入っている。

紬は、資料の最後のページをもう一度開いた。

中止条件。

その文字を、指でなぞる。

始める責任は、止まる責任と同じ場所にある。

そのことを忘れないために。

窓の外には、夕暮れの街が広がっていた。

ビルの隙間に沈む光は弱く、けれど確かに残っている。

紬は、ゆっくりと息を吸った。

来週火曜。

藤堂物産は、小さなテスト販売を始める。

それは、ニュースになるほどの挑戦ではない。

会社を一気に救う奇跡でもない。

ただ、現場と取引先と社員の声を消さずに始める、最初の試みだった。

その小ささを、紬は今、誇りたいと思った。


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