第20章:始める前に、止まる場所を決める
テスト販売の準備は、始める前から何度も止まった。
森本食品の商品説明文は、三度書き直された。
最初の文案では、まだ少し情緒に寄りすぎていた。
二度目の文案では、製造工程の説明が硬すぎた。
三度目でようやく、森本が赤ペンを入れながら言った。
「これなら、うちの仕事に近いです」
その言葉を聞いた時、柚木は深く息を吐いた。
「よかった……」
思わず漏れた声に、森本が笑った。
「まだ販売していませんよ」
「はい。分かっています」
柚木は慌てて姿勢を正した。
星野紬は、その横で資料を見つめていた。
『地元で長く愛されてきた味を、変えずに守るのではなく、続けるために少しずつ変えてきました。森本食品の惣菜は、懐かしさだけではなく、今の食卓に合わせた工夫とともに作られています。』
派手な文章ではない。
目を引く言葉も少ない。
けれど、森本の会社が自分たちをどう見せたいのか、その輪郭に近づいた気がした。
「この文章で進めてもよろしいですか」
紬が尋ねると、森本は頷いた。
「はい。ただし、写真は確認させてください」
「もちろんです」
「それから、従業員の顔を出す撮影は今回はなしでお願いします。まだ皆、慣れていません」
「分かりました」
柚木がすぐにメモを取る。
顔出しなし。
工場内撮影は手元のみ。
製造工程は事前確認。
表現は誇張しない。
たった一つの商品を売るだけなのに、決めることは山ほどある。
紬は改めて思った。
販売ページの向こうには、人がいる。
その人たちの仕事場がある。
言葉ひとつ、写真ひとつで、相手の誇りを守ることも、傷つけることもある。
森本食品を出たあとは、田宮農園へ向かった。
畑の土は乾き、空は高かった。
田宮は、収穫した野菜を木箱に並べながら待っていた。
「数はこれくらいです」
木箱の中には、少し曲がった大根や、形の不揃いな人参が並んでいる。
どれも土の匂いがした。
「思っていたより少ないですね」
柚木が言いかけて、すぐに口を閉じた。
田宮は、その様子を見て小さく笑った。
「いいんですよ。少ないと思ったでしょう」
「すみません」
「謝らなくていい。売る側は、もっと欲しいと思う。作る側は、出せる分しか出せない。それだけです」
紬は、木箱の中を見つめた。
販売ページを作る時、つい数量を増やしたくなる。
売上を作るため。
銀行に可能性を見せるため。
社員に希望を示すため。
けれど、田宮が出せる数は、田宮の畑と人手と天候で決まる。
藤堂物産の都合で増えるものではない。
「この数量で進めます」
紬は言った。
「売り切れても、追加はお願いしません」
田宮が、紬を見た。
「本当に?」
「はい」
「売れたら、増やしたくなるでしょう」
「なると思います」
紬は正直に答えた。
「でも、増やす時は、必ず田宮さんと松永さんに確認します。確認できないなら増やしません」
田宮は、しばらく紬を見ていた。
それから、木箱の上に手を置いた。
「なら、今回はこの数で」
「ありがとうございます」
「それから、値段を下げすぎないでください」
「はい」
「形が悪いから安い、ではなく、使いやすい量だからこの値段。そういう見せ方にしてください」
美崎ならどう言うだろう、と紬は考えた。
安さではなく、使い方を伝える。
お得さではなく、食卓に乗る姿を見せる。
「購入ページに、レシピ案を載せてもいいですか」
紬が尋ねると、田宮は少し考えた。
「いいですね。ただ、凝ったものではなく、普通に作れるものがいい」
「普通に作れるもの」
「そう。特別な人だけが買う野菜にしないでほしい」
柚木が、また素早くメモを取った。
『普通に作れるレシピ』
『特別扱いしすぎない』
『安売りではなく、使い方で価値を伝える』
田宮は、満足そうに頷いた。
「少しずつ、分かってきましたね」
その言葉は、柔らかかった。
けれど、紬は油断しなかった。
少しずつ。
それは、まだ十分ではないという意味でもある。
本社へ戻ると、倉庫での確認が待っていた。
黒川は、北側区画の棚の前で腕を組んでいた。
「ここです」
棚一段。
思っていたよりも狭い。
柚木が、思わず画面の図面と見比べる。
「これだけ、ですか」
「これだけです」
黒川は即答した。
「通常業務を邪魔しない範囲なら、今使えるのはここだけです」
「でも、森本さんの商品と田宮さんの野菜を一緒に置くと」
「だから数量を絞るんです」
黒川の声は厳しい。
「最初から広い場所を用意すると、広い分だけ使いたくなる。使えば、導線が崩れる」
紬は、棚の前にしゃがんだ。
床には、少し擦れた跡がある。
近くをフォークリフトが通る音がした。
「ここに置くなら、ラベルは見やすくしないといけませんね」
「はい」
黒川が頷く。
「それから、通常出荷品と混ざらないよう、色分けしてください」
「色分け」
「現場で一瞬で分かることが大事です。説明を読まなければ分からないものは、忙しい時間帯には機能しません」
柚木が大きく頷いた。
「ラベルの色、箱の向き、保管期限、担当者名を入れます」
「担当者名だけでは駄目です」
黒川はすぐに言った。
「担当者が不在の時、誰が判断するのかも必要です」
「あ……はい」
また、抜けが見つかる。
柚木は悔しそうに唇を結んだが、以前のように落ち込むだけではなかった。
すぐに資料へ書き込んでいく。
「代替判断者。問い合わせ窓口。返品時の保管期限」
黒川は、その様子を見て少しだけ頷いた。
「箱を持ってみてください」
「え?」
紬が顔を上げると、黒川は森本食品の試作品が入った箱を指差した。
「実際に持たないと、作業時間は分かりません」
紬は、軍手をはめた。
黒川から受け取った、少し汚れた軍手。
箱の底に手を入れ、持ち上げる。
思っていたより重い。
腕に力が入る。
「腰を曲げない」
黒川の声が飛ぶ。
「膝を使ってください」
「はい」
紬は慌てて持ち直した。
加賀が横で笑いを堪えている。
「笑わないでください」
「いや、笑ってねえよ」
「笑っています」
「まあ、少しはな」
柚木も、少しだけ笑った。
緊張していた空気が、ほんのわずかに緩む。
しかし、黒川は真顔のままだった。
「この箱を一日に何十回も動かす人がいます。資料に作業時間五分と書く時、その五分は誰かの身体を使う五分です」
紬は、箱を棚に戻した。
腕が少し重い。
「はい」
「売る側は、販売数で考えます。現場は、箱の数で考えます」
黒川の言葉が、胸に残った。
販売数。
箱の数。
同じものを見ていても、立場によって見える単位が違う。
紬は、すぐにメモを取った。
『販売数ではなく、箱の数でも考える』
倉庫確認のあと、会議室で最終の運用確認が行われた。
松永と相沢が食品流通部の視点で確認し、黒川が倉庫側の流れを確認する。
一ノ瀬はコストを計算し、美崎は販売ページと社内外への説明文を整える。
進藤は契約面と責任範囲を確認し、加賀は現場間の連絡の流れを詰めていた。
柚木の資料は、さらに赤字で埋まっていく。
それでも、誰も「もう無理だ」とは言わなかった。
むしろ、赤字が増えるほど、案は少しずつ現実に近づいていた。
「販売開始日は、来週火曜」
進藤が確認する。
「森本食品と田宮農園の最終承認が取れた場合に限ります」
「販売数の上限は、森本食品が三十セット。田宮農園が二十五セット」
一ノ瀬が数字を読み上げる。
「売上としては小さいですが、検証としては妥当です」
「問い合わせ対応は本社側で一次対応」
美崎が続ける。
「想定質問集は、森本さんと田宮さんに確認していただきます。回答できないものは、その場で無理に答えず、持ち帰る」
「倉庫作業は火曜から木曜の午前中中心」
黒川が言った。
「通常出荷が詰まった場合は、テスト販売分を後回しにします」
柚木が顔を上げる。
「後回し、ですか」
「通常業務を止めないという約束です」
黒川は、まっすぐに柚木を見た。
「テスト販売は大事かもしれません。でも、毎日出ていく荷物も同じくらい大事です」
柚木は、深く頷いた。
「分かりました」
相沢が、問い合わせ表を確認しながら言った。
「購入者への説明文に、発送日が前後する可能性を入れてください。現場都合ではなく、品質確認を優先するため、と正確に」
美崎がすぐに修正する。
「入れます」
松永は、最後まで資料を読み込んでいた。
「森本さんと田宮さんには、販売開始前に最終ページを見せてください。特に価格と紹介文」
「はい」
「売れた後の購入者の声も、必ず返すこと」
「はい」
「売れなかった場合も、理由を分析して共有すること。売れませんでした、で終わらせない」
「分かりました」
紬は、一つずつ答えた。
そして、資料の最後のページを見た。
『中止条件』
返品率が想定を超えた場合。
問い合わせ件数が一定数を超えた場合。
倉庫作業時間が想定の二倍を超えた場合。
取引先側の追加負担が一定以上になった場合。
品質確認に不安が出た場合。
いずれかに該当する場合、販売を拡大せず、一時停止する。
そこに、美崎が書き加えた一文があった。
『中止は失敗ではなく、次に続けるための判断とする。』
紬は、その一文を見つめた。
始める前に、止まる場所を決める。
それは、勢いを削ぐことではない。
むしろ、本当に始めるために必要なことなのだ。
「星野さん」
進藤が声をかけた。
「最終判断をお願いします」
会議室が静まり返った。
視線が紬へ集まる。
以前なら、この瞬間に高揚していたかもしれない。
自分の判断で、新しい事業が始まる。
会社が変わる。
未来が動く。
そう思っていたかもしれない。
けれど、今は違った。
紬の目の前には、森本の従業員がいる。
田宮の畑がある。
倉庫の北側棚がある。
返品メモを書いてくれた女性作業員がいる。
松永と相沢が守ってきた取引先がある。
黒川が守る通常業務がある。
柚木の悔しさがある。
一ノ瀬の数字がある。
美崎の言葉がある。
加賀の現場感覚がある。
進藤の静かな確認がある。
そして、失敗した時に痛む場所が、少しだけ見えている。
だからこそ、簡単には言えなかった。
それでも、決めなければならない。
紬は、資料に手を置いた。
「始めます」
声は大きくなかった。
「ただし、上限を守ります。中止条件も守ります。売れそうだから増やす、注目されたから広げる、銀行に見せたいから数字を盛る。そういう進め方はしません」
一ノ瀬が、静かに頷いた。
「そして」
紬は続けた。
「森本さん、田宮さん、倉庫、食品流通部、本社側のどこかに無理が出たら、必ず止まります。止まることも、今回の判断に含めます」
会議室には、しばらく沈黙があった。
最初に口を開いたのは、黒川だった。
「分かりました」
次に松永が頷いた。
「食品流通部も、その条件なら進めます」
相沢が、少しだけ息を吐いた。
「始まるんですね」
柚木は、タブレットを握りしめたまま、目を潤ませていた。
「はい」
紬は、柚木を見た。
「小さく、始めます」
その言葉に、柚木は深く頷いた。
会議が終わると、すぐに各部署が動き始めた。
美崎は販売ページの最終確認に入り、一ノ瀬は銀行向け資料に小規模テストの位置づけを加える。
加賀は黒川と倉庫導線の確認へ向かい、松永と相沢は森本と田宮へ最終確認の連絡を入れた。
柚木は、何度も資料を見直しながら、販売ページの文言を整えている。
紬は、その様子を会議室の端から見ていた。
ようやく動き出した。
けれど、胸の中にあるのは華やかな期待ではなかった。
むしろ、怖さの方が大きい。
売れなかったらどうするのか。
問い合わせが増えたらどうするのか。
倉庫で混乱が起きたらどうするのか。
森本や田宮に迷惑をかけたらどうするのか。
社員から、やはり無理だったと言われたらどうするのか。
その不安は消えない。
でも、不安があるからこそ、止まる場所を決めた。
逃げるためではなく、壊さないために。
社長室へ戻ると、机の上の紙の名札が目に入った。
『星野 紬』
その横に、軍手と取引先リストと資金繰り表が並んでいる。
紬は、新しい資料をその隣に置いた。
『地域共創型テスト販売案』
まだ小さい。
売上としては、会社を救うにはほど遠い。
銀行を納得させるにも足りない。
社員の不安を消すには、あまりにも頼りない。
それでも、この小さな一歩には、いくつもの声が入っている。
紬は、資料の最後のページをもう一度開いた。
中止条件。
その文字を、指でなぞる。
始める責任は、止まる責任と同じ場所にある。
そのことを忘れないために。
窓の外には、夕暮れの街が広がっていた。
ビルの隙間に沈む光は弱く、けれど確かに残っている。
紬は、ゆっくりと息を吸った。
来週火曜。
藤堂物産は、小さなテスト販売を始める。
それは、ニュースになるほどの挑戦ではない。
会社を一気に救う奇跡でもない。
ただ、現場と取引先と社員の声を消さずに始める、最初の試みだった。
その小ささを、紬は今、誇りたいと思った。




