第21章:販売開始の朝
販売開始日の朝、星野紬は社長室ではなく、倉庫にいた。
午前八時二十分。
藤堂物産の倉庫には、いつものようにトラックの音が響いている。
荷物を下ろす音。
台車が床を走る音。
フォークリフトの警告音。
作業員たちが交わす短い声。
その中に、今日だけ少し違う緊張が混じっていた。
北側区画の棚一段。
そこに、森本食品の惣菜セットと、田宮農園の野菜が並べられていた。
数は多くない。
森本食品の商品は三十セット。
田宮農園の野菜は二十五セット。
大企業の新規事業として見れば、あまりにも小さな数だった。
けれど、その小さな棚の前に、紬はなかなか近づけなかった。
森本が確認した商品説明文。
田宮が了承した販売数量。
松永と相沢が何度も見直した取引先情報。
黒川が許可した倉庫の導線。
柚木が作り直した販売ページ。
一ノ瀬が計算した赤字許容額。
美崎が整えた言葉。
加賀がつないだ現場確認。
進藤がまとめた責任範囲。
そのすべてが、この棚一段に乗っている。
小さい。
けれど、軽くはなかった。
「社長、そこに立っていると邪魔です」
黒川の声が飛ぶ。
紬は慌てて黄色いラインの外側へ下がった。
「すみません」
「見守るのと、通路を塞ぐのは違います」
「はい」
黒川は、北側区画の棚を確認しながら、作業員に指示を出している。
「森本食品の箱は右。田宮農園は左。ラベルの色を間違えないでください。返品用の一時保管箱は下段。通常出荷品とは混ぜないように」
作業員たちは、いつもの業務の合間に、テスト販売分の準備を進めている。
その動きは無駄がない。
しかし、いつもとは違う作業がひとつ増えるだけで、現場の空気が変わることを紬は感じていた。
ほんの少しの確認。
ほんの少しの移動。
ほんの少しの注意。
その「ほんの少し」が、積み重なれば負担になる。
「星野さん」
隣で柚木が、タブレットを両手で抱えていた。
顔色は悪くない。
けれど、唇は少し固く結ばれている。
「販売ページ、九時半に最終確認。公開は十時予定です」
「はい」
「森本さんと田宮さんには、公開直前に最終ページを送ります」
「お願いします」
「問い合わせ窓口の準備もできています。想定質問集も共有済みです」
柚木は、そう言いながらも何度も画面を見ていた。
落ち着かないのだろう。
自分が作った案が、今日初めて現実になる。
嬉しさよりも怖さの方が勝っているように見えた。
「柚木さん」
「はい」
「怖いですか」
柚木は、少しだけ笑った。
「はい。ものすごく」
「私もです」
「星野さんもですか」
「はい」
紬は、北側区画の棚を見た。
「売れなかったら怖いです。でも、売れすぎても怖いです。問い合わせが増えても怖いし、現場に負担が出ても怖いです」
柚木は、小さく頷いた。
「怖いことだらけですね」
「はい」
「でも、怖いまま始めるんですね」
「止まる場所は決めました」
紬は、資料の最後にあった中止条件を思い出した。
返品率。
問い合わせ件数。
倉庫作業時間。
取引先の負担。
品質確認。
どこかに無理が出たら、止まる。
その約束があるから、始められる。
九時。
美崎から連絡が入った。
販売ページの最終確認に入るという。
紬と柚木は、倉庫の小さな事務室に入った。
机の上にノートパソコンを置き、販売ページを表示する。
画面には、森本食品の商品写真が映っていた。
白い器に盛られた惣菜。
過度に飾り立ててはいない。
工場の手元の写真も、顔は写していない。
説明文には、森本が赤を入れた言葉が反映されている。
続いて、田宮農園の野菜ページ。
曲がった大根や不揃いの人参が、土の匂いを残すような写真で並んでいる。
安売りでも、かわいそうな商品でもない。
料理に使える野菜として、できるだけ普通に紹介されていた。
紬は、少しだけ息を吐いた。
「いいと思います」
柚木も頷いた。
「はい。美崎さんにも確認してもらっています」
その時、事務室のドアが開いた。
黒川だった。
「ラベルを見てください」
「ラベルですか」
「田宮農園の箱のラベル色が、通常出荷品と近いです」
紬と柚木は、すぐに倉庫へ戻った。
北側区画の棚には、田宮農園用のラベルが貼られた箱が並んでいる。
淡い緑色のラベル。
一見、やわらかくて商品には合っている。
しかし、少し離れた場所にある通常出荷品にも、似たような緑色のラベルが貼られていた。
「見た目はきれいです」
黒川は言った。
「でも、現場では紛らわしい」
柚木の顔が青ざめる。
「すみません。すぐに変えます」
「公開まであと四十五分です」
一ノ瀬が、いつの間にか倉庫へ到着していた。
手には資料とタブレットを持っている。
「ラベル変更にどのくらいかかりますか」
黒川が作業員へ確認する。
「貼り替えだけなら十五分。ただ、すでに一部記録に色を入れています」
「記録も修正が必要です」
柚木が慌ててタブレットを操作する。
「ラベル色を赤にしますか」
黒川は首を横に振った。
「赤は返品注意品と近い。青にしてください。通常業務で使っていない色です」
「青ですね」
柚木はすぐに修正を始めた。
紬は、胸の奥がざわつくのを感じた。
たかがラベル色。
そう思ってしまえば、予定通りに進めることもできた。
販売ページの公開と直接関係があるわけではない。
購入者には見えない。
SNSにも出ない。
しかし、現場では違う。
その小さな色の違いが、誤出荷を防ぐ。
黒川は、それを見逃さなかった。
「公開を遅らせます」
紬は言った。
柚木が顔を上げた。
「星野さん」
一ノ瀬も紬を見る。
「どの程度ですか」
「ラベルと記録が修正され、黒川さんが確認するまでです」
紬は、黒川を見た。
「十五分で足りますか」
黒川は少し考えた。
「二十分ください」
「では、十時二十分公開に変更します」
柚木がすぐに頷いた。
「販売ページ側も公開時間を変更します。森本さんと田宮さんにも連絡します」
一ノ瀬が、時計を確認した。
「公開遅延の理由は、記録に残してください」
「はい」
美崎にも連絡が入る。
電話の向こうで、美崎は落ち着いていた。
『分かりました。公開時間を十時二十分に変更します。外部告知はまだ出していないので問題ありません。取引先への連絡文はこちらで整えます』
「お願いします」
『星野さん』
「はい」
『この判断でいいと思います。見えないところを雑にすると、見えるところで崩れます』
その言葉に、紬は小さく頷いた。
「はい」
電話を切ると、黒川が紬を見ていた。
「二十分遅らせるんですね」
「はい」
「販売開始の朝に、予定を変えるのは嫌でしょう」
「嫌です」
紬は正直に答えた。
「でも、ここで見逃したら、最初の約束を軽くすることになります」
黒川は、少しだけ目を細めた。
「なら、急いで直します」
倉庫の空気が、少しだけ動いた。
作業員がラベルを貼り替え、柚木が記録表を修正し、黒川がひとつずつ確認する。
加賀も倉庫に到着し、作業員の邪魔にならない場所から導線を確認した。
「田宮さん側、連絡つきました」
柚木が言った。
「『現場が間違えないことを優先してください』とのことです」
続いて、美崎からメッセージが届く。
森本からも了承の返事があった。
『確認してから始める方が安心です』
その一文を見た時、紬の胸の奥にあった焦りが少しだけ静まった。
遅らせることは、後退ではない。
確認して始めることだ。
十時十五分。
ラベルの貼り替えと記録修正が終わった。
黒川が、北側区画の棚を確認する。
箱の色。
記録表。
返品用の一時保管箱。
導線。
作業員への共有。
すべてを見終えてから、黒川は短く言った。
「始められます」
その言葉に、倉庫にいた全員の視線が紬へ集まった。
紬は、柚木を見た。
柚木はタブレットを握りしめている。
一ノ瀬は数字の管理画面を開いている。
加賀は腕を組み、黒川は棚の横に立っている。
美崎は本社で販売ページを見ている。
松永と相沢は、食品流通部から森本と田宮への連絡を続けているはずだ。
進藤は本社で全体の進行を確認している。
それぞれが、それぞれの場所でこの小さな販売を支えている。
紬は、深く息を吸った。
「柚木さん」
「はい」
「公開してください」
柚木の指が、画面に触れた。
ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬が、やけに長く感じられた。
「公開しました」
柚木の声が、倉庫の中に静かに落ちた。
午前十時二十分。
藤堂物産の地域共創型テスト販売が始まった。
拍手はなかった。
歓声もない。
倉庫の通常業務は、変わらず続いている。
フォークリフトが動き、台車が走り、作業員たちが声をかけ合う。
その中で、小さな販売ページが、外の世界へ開かれた。
最初の一分。
注文は入らない。
三分。
まだ入らない。
柚木は画面を見つめたまま、ほとんど瞬きをしていなかった。
紬も、販売管理画面から目を離せない。
一ノ瀬は、数字のシートを開いたまま待っている。
加賀は、何も言わずに腕を組んでいる。
黒川は、棚の前で作業員の動きを見ていた。
五分。
六分。
そして、七分後。
画面に、小さな通知が表示された。
『注文が入りました』
柚木が息を呑んだ。
「入りました……」
紬も、胸の奥が熱くなるのを感じた。
森本食品の商品、一件。
たった一件。
それでも、画面に表示されたその文字が、信じられないほど大きく見えた。
「やった……」
柚木が、小さく呟いた。
その声は、喜びというより、安堵に近かった。
紬も思わず笑いそうになった。
だが、その時、黒川の声がした。
「喜ぶのは、無事に届いてからです」
倉庫の空気が、すっと現実に戻る。
柚木は、慌てて背筋を伸ばした。
「はい」
紬も頷いた。
「はい」
注文が入った。
それは始まりにすぎない。
ここから、確認し、梱包し、出荷し、届け、問い合わせに答え、食べてもらい、感想を受け取り、取引先へ返す。
そこまで終わって、ようやく一つの販売になる。
紬は、画面の注文通知を見つめた。
たった一件の注文。
けれど、その一件の向こうに、森本の工場がある。
倉庫の棚がある。
配送する人がいる。
食卓で受け取る誰かがいる。
そのつながりを、途中で切らないこと。
それが、今日の仕事だった。
十時三十五分。
二件目の注文が入った。
今度は田宮農園の野菜だった。
柚木は、もう声を上げなかった。
ただ静かに頷き、管理表に記録する。
一ノ瀬は作業時間の計測欄を確認する。
黒川は作業員に指示を出す。
「田宮農園、青ラベル二番。通常出荷と混ぜないように」
作業員が頷く。
紬は、黄色いラインの外からその様子を見ていた。
始まった。
けれど、走り出したわけではない。
一歩目を置いただけだ。
その一歩が、誰かの足を踏んでいないか。
誰かの仕事を増やしすぎていないか。
約束した上限を忘れていないか。
見続けなければならない。
十一時を過ぎる頃には、注文は五件になっていた。
少ない。
けれど、ゼロではない。
倉庫の作業も、今のところ大きな混乱はない。
ただ、梱包確認に想定より少し時間がかかっている。
黒川が記録表に数字を書き込んだ。
「初回なので遅いのは当然です。ただ、想定時間より長い」
一ノ瀬がすぐにメモを取る。
「作業時間、実測値で更新します」
柚木も頷いた。
「FAQにも、商品ごとの保管方法をもっと分かりやすく入れます」
紬は、そのやり取りを聞きながら、胸の中で思った。
注文が入るたびに、喜びと同時に仕事が増える。
売れるとは、数字が増えることではなく、手が動くことなのだ。
昼前、倉庫の休憩スペースで、紬はようやく紙コップのお茶を受け取った。
加賀が隣に立つ。
「どうだ、社長」
「ずっと緊張しています」
「いいことだ」
「いいことなんですか」
「慣れたら危ない」
加賀は、倉庫の方を見た。
「初めてのことは、現場にとって負担だ。上が慣れた顔をすると、現場は腹が立つ」
紬は、紙コップを両手で包んだ。
「私は、まだ慣れそうにありません」
「なら、しばらく大丈夫だな」
その言い方に、少しだけ笑ってしまった。
そこへ、黒川が近づいてきた。
「午後から通常出荷が増えます。テスト販売分の作業は一度止めます」
「注文が入っていても、ですか」
「はい。約束です」
黒川の声は揺れなかった。
通常業務を止めない。
テスト販売は、現場を壊さない範囲で行う。
紬は頷いた。
「分かりました。止めましょう」
その言葉を口にした瞬間、少しだけ不思議な感覚があった。
販売が始まったばかりなのに、止める判断をする。
以前なら、勢いを削ぐようで怖かったかもしれない。
けれど今は、その方が正しいと思えた。
始める責任は、止まる責任と同じ場所にある。
紬は、販売管理画面を見た。
注文数は六件。
まだ小さな数字だった。
それでも、その六件が無事に届くまで、喜ぶのは早い。
「柚木さん」
「はい」
「午後の作業停止を販売記録に入れてください。理由は、通常出荷優先のため」
「分かりました」
「美崎さんにも共有を。問い合わせが来た時に、発送予定を正確に答えられるように」
「はい」
柚木は、すぐに動いた。
慌ててはいる。
でも、前のように前だけを見て走ろうとはしていない。
紬は、その姿を見て少しだけ胸が温かくなった。
販売開始の朝は、華やかなものではなかった。
公開は二十分遅れた。
注文はまだ六件。
作業は想定より少し長い。
午後には一度止める。
成功と呼ぶには、あまりにも小さい。
けれど、誰かの言葉を無視して始めたわけではない。
小さなミスを見つけて止まった。
現場の確認を待った。
取引先に連絡した。
通常業務を優先した。
その一つ一つが、紬には大切に思えた。
倉庫の高い天井の下で、フォークリフトの音が響く。
北側区画の棚には、青いラベルの箱が静かに並んでいる。
紬は、その箱を見つめた。
たった一件の注文から始まった朝。
その小さな通知音を、忘れないようにしようと思った。
売れた喜びよりも先に、届ける責任を教えてくれた音として。




