第22章:売れた数より、増えた手間
注文数は、午後になっても少しずつ増えていた。
一件。
二件。
しばらく止まったかと思えば、また一件。
爆発的な売れ方ではない。
けれど、管理画面に新しい注文通知が表示されるたびに、倉庫の北側区画に小さな緊張が走った。
森本食品の惣菜セット。
田宮農園の野菜セット。
青いラベルの箱が、ひとつずつ棚から動いていく。
星野紬は、黄色いラインの外からその流れを見ていた。
午前中よりも、現場の動きは少し慣れてきたように見える。
それでも、通常出荷の合間に入るテスト販売分の作業は、やはり余分な確認を必要としていた。
「森本食品、三番。賞味期限確認」
「田宮農園、野菜の組み合わせ確認」
「青ラベル、記録表つけて」
作業員たちの声が、いつもの業務の中に新しい言葉を混ぜていく。
そのたびに、黒川は動線を確認し、作業時間を記録した。
一ノ瀬は、事務室の端でノートパソコンを開き、販売数と作業時間を表に入力している。
柚木は、タブレットで注文状況と問い合わせ一覧を見比べていた。
最初の注文が入った時のような喜びは、もう顔に出ていない。
代わりに、目の前の一件をどう無事に届けるかという緊張が浮かんでいた。
「現在、注文数は十二件です」
柚木が言った。
「森本食品が七件、田宮農園が五件」
「問い合わせは?」
一ノ瀬が尋ねる。
「本社側で受けたものが六件です」
紬は、思わず柚木を見た。
「もう六件ですか」
「はい。内容は、調理方法、賞味期限、保存方法、ギフト対応、野菜の形が選べるか、発送日の指定ができるか、です」
黒川が、手を止めずに言った。
「想定質問には入っていましたか」
「一部は入っています。でも、野菜の形が選べるかという質問は入れていませんでした」
柚木の声に、悔しさが滲む。
「ギフト対応も、今回は対応しないと記載していますが、見落とした方から問い合わせが来ています」
「記載場所が分かりにくいのかもしれません」
美崎の声が、電話越しに聞こえた。
本社の広報チームで問い合わせ文面を確認しているのだろう。
「購入ボタンの近くに、対応できないことを明記しましょう。否定的に見えないように、今回は試験販売のため対応範囲を限定している、と説明します」
柚木がすぐにメモを取る。
「修正します」
紬は、問い合わせ一覧を見た。
どれも悪意あるものではない。
むしろ、商品に興味を持ってくれたからこその質問だった。
どう食べればいいのか。
保存はどうすればいいのか。
贈り物にできるのか。
自分に合うものを選べるのか。
その一つ一つに答えることも、販売の一部なのだと思った。
売れた後にも、手は動く。
売る前よりも、むしろ売れた後の方が細かい仕事が増えていく。
午後二時過ぎ。
本社にいる相沢から、柚木へ連絡が入った。
柚木の表情が少し強張る。
「はい。すみません。今、確認します」
電話を切ったあと、柚木は紬を見た。
「相沢さんからです。食品の保存方法に関する問い合わせが、一次対応で止まらず食品流通部へ三件回っています」
紬の胸が少し重くなった。
「一次対応で止める約束でしたね」
「はい。ただ、私たちのFAQが曖昧で、結局確認が必要になりました」
加賀が、倉庫の入口近くで腕を組んだ。
「相沢は通常業務中だぞ」
「分かっています」
柚木の声が小さくなる。
「すぐにFAQを修正します。相沢さんには、こちらで回答文を作って確認だけお願いする形にします」
「確認だけ、も仕事です」
一ノ瀬が言った。
柚木の指が止まる。
一ノ瀬は画面を見ながら続けた。
「食品流通部に回った確認件数と、対応時間を記録してください。想定外の負荷です」
「はい」
柚木は、静かに答えた。
その顔には、明らかな痛みがあった。
自分の案が動いた。
注文も入った。
それは嬉しいはずなのに、同時に誰かの通常業務へ割り込んでいる。
相沢の苛立ちは、きっと正しい。
紬は、柚木の横に立った。
「柚木さん。相沢さんに、私からも連絡します」
「いえ、私が」
「一緒にしましょう」
柚木は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
電話をかけると、相沢はすぐに出た。
背景には、電話の呼び出し音や人の声が混じっている。
食品流通部も忙しいのだと分かった。
『はい、相沢です』
「星野です。通常業務中に確認が増えてしまい、申し訳ありません」
少し間が空いた。
『いえ。必要な確認なので』
その声には、抑えた疲れがあった。
紬は、言葉を選んだ。
「一次対応で止める約束でした。FAQが足りず、食品流通部へ負担をかけています。今後は、こちらで回答文案を作り、確認だけお願いする形にします。それでも負担が大きい場合は、すぐに販売を止める基準に入れます」
電話の向こうで、相沢が小さく息を吐いた。
『正直、通常の取引先対応と並行するときついです』
「はい」
『質問の内容自体は悪くありません。むしろ、ちゃんと興味を持ってくれているんだと思います。ただ、こちらに回るたびに作業が止まります』
「止めてしまっているんですね」
『はい』
相沢は、少し言いにくそうに続けた。
『これ、一次対応で止めるって話でしたよね』
その言葉は、予想していた。
けれど、実際に聞くと胸に刺さった。
「はい。その約束でした。守りきれていません」
柚木が、隣で唇を噛んでいる。
紬は続けた。
「今日中にFAQを修正します。相沢さんへ回す質問は、食品の安全や品質に関わるものだけに絞ります。件数も記録します」
『分かりました』
相沢の声は、少しだけ柔らかくなった。
『ただ、これは悪いことばかりではないと思います』
「え?」
『お客様が、保存方法や調理方法をちゃんと聞いてくれているということです。雑に買われているわけではない。それは、田宮さんや森本さんに返せる情報かもしれません』
紬は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「購入者の声として、整理します」
『お願いします。ただ、現場の手間も一緒に整理してください』
「はい」
電話を切ったあと、柚木は深く頭を下げた。
「星野さん、すみません」
「私に謝ることではありません」
紬は、静かに言った。
「でも、相沢さんには一緒に謝りに行きましょう。今日の業務が終わったあとに」
柚木は、少し驚いたように顔を上げた。
それから、しっかり頷いた。
「はい」
午後三時。
倉庫の通常出荷が一段落し、テスト販売分の梱包作業が再開された。
黒川の指示で、作業員二人が森本食品の商品を確認し、田宮農園の野菜を箱に詰めていく。
梱包材。
ラベル。
納品書。
保存方法の紙。
購入者への案内文。
通常の法人向け出荷とは違い、個人向けの梱包には細かい気配りが必要だった。
「この案内文、商品と一緒に入れるんですね」
作業員の女性が言った。
午前中に返品処理のメモをくれた人だった。
「はい」
柚木が答える。
「保存方法と、問い合わせ先を書いています」
女性は、紙を一枚手に取って読んだ。
「文字が少し小さいです」
柚木の手が止まる。
「小さいですか」
「年配の人には読みにくいかもしれません」
紬も覗き込んだ。
確かに、情報を詰め込んだせいで文字が小さくなっている。
「大きくします」
柚木がすぐに言った。
「でも、紙のサイズが」
「情報を減らせばいい」
黒川が言った。
「全部書こうとすると、読まれません」
美崎にも電話をつなぎ、案内文を修正することになった。
保存方法。
問い合わせ先。
返品条件。
その三つを大きく。
詳しい説明はQRコードで。
ただし、QRコードだけに頼らない。
決めることが、また増える。
梱包作業は一時止まった。
一ノ瀬が作業時間を記録する。
「案内文修正による停止、十二分」
柚木が、苦い顔をした。
「十二分……」
「記録するためです」
一ノ瀬は淡々と言った。
「責めるためではありません」
黒川が続ける。
「こういう停止が何度起きるかを見るのがテストです」
紬は、頷いた。
止まることは失敗ではない。
見つけるために、止まる。
その考え方を、何度も自分に言い聞かせた。
夕方になる頃には、注文数は十八件になっていた。
森本食品が十件。
田宮農園が八件。
販売上限にはまだ達していない。
けれど、問い合わせは十三件。
当初想定より多い。
梱包作業時間も、予定より三割ほど長くなっていた。
黒川は、作業記録表を見ながら言った。
「初日としては、大きな事故はありません」
柚木の顔が少し明るくなる。
だが、黒川は続けた。
「ただし、楽ではありません」
柚木の表情が引き締まる。
「はい」
「作業時間は想定を三割超えています。問い合わせも多い。案内文の修正で作業が止まりました。ラベルの確認も通常より多い」
黒川は、紬を見た。
「売れた数ではなく、増えた手間を見てください」
その言葉は、倉庫の音の中でまっすぐ届いた。
紬は頷いた。
「はい」
「今日の数字だけ見れば、悪くないように見えるかもしれません。でも、現場負荷まで見なければ判断を間違えます」
「分かりました」
紬は、作業記録表を受け取った。
注文数。
梱包数。
確認回数。
作業時間。
停止時間。
問い合わせ件数。
食品流通部への確認件数。
どの数字も、売上ではない。
けれど、この数字を見なければ、売上の裏で誰がどれだけ動いたのか分からない。
一ノ瀬が、ノートパソコンを閉じた。
「初日の速報値です」
彼は、いつもの落ち着いた声で言った。
「売上だけ見れば、想定より良い。問い合わせ件数と作業時間まで含めると、まだ成功とは言えません」
柚木が、静かに頷いた。
「はい」
「ただし、失敗とも言えません。課題が見えています」
「課題が見えることも、成果ですか」
紬が尋ねると、一ノ瀬は少しだけ考えた。
「今回の目的が検証なら、成果です」
その言葉に、紬は少しだけ救われた気がした。
成功か失敗か。
売れたか売れなかったか。
そう単純に分けるのではなく、何が見えたかを見る。
それが、この小さな販売の意味なのだ。
本社へ戻る頃には、外は暗くなり始めていた。
倉庫での作業を終えたあと、紬と柚木は食品流通部へ向かった。
相沢は、まだ自席で仕事をしていた。
机の上には通常業務の資料と、テスト販売に関する問い合わせメモが重なっている。
「相沢さん」
紬が声をかけると、相沢は顔を上げた。
疲れた表情だった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日は、確認が増えてしまい申し訳ありませんでした」
紬が頭を下げると、柚木も隣で頭を下げた。
「FAQの作り込みが足りませんでした。明日までに修正します」
相沢は、しばらく二人を見ていた。
「正直、少し大変でした」
「はい」
「でも、質問内容は参考になります」
相沢は、問い合わせメモを差し出した。
「購入者が何を不安に思うのか、少し分かりました。保存方法、調理方法、ギフト対応。こちらが当たり前だと思っていることも、お客様には分からない」
紬はメモを受け取った。
「森本さんと田宮さんにも共有していいですか」
「整理してからなら」
「ありがとうございます」
相沢は、少しだけ柚木を見た。
「明日は、食品流通部へ回す質問を半分に減らしてください」
柚木は、すぐに答えた。
「減らします」
「言い切りましたね」
「減らすために、今日中にFAQを直します」
相沢は、少しだけ笑った。
「分かりました。見ます」
その笑みは小さかった。
けれど、柚木の顔に安堵が浮かんだ。
社長室へ戻ると、机の上には美崎がまとめた問い合わせ分析の初版が置かれていた。
一ノ瀬の作業負荷表。
黒川の倉庫記録。
相沢の問い合わせメモ。
柚木の修正案。
すべてが重なっている。
紬は椅子に座り、今日の販売数を見た。
十八件。
小さな数字。
しかし、その十八件のために、どれほど多くの手が動いたのかを、今日は知った。
販売ページの向こうには、購入者がいる。
購入者の向こうには、問い合わせがある。
問い合わせの向こうには、本社の対応がある。
本社の向こうには、食品流通部の確認がある。
その向こうには、森本や田宮の仕事がある。
そして、倉庫の箱を動かす手がある。
紬は、メモ帳を開いた。
『売れた数より、増えた手間を見る』
そう書いた。
そして、その下にもう一文加える。
『手間が見えない売上は、誰かの我慢でできている』
ペンを置いた時、スマートフォンが震えた。
柚木からだった。
『FAQ、今日中に直します。相沢さんに明日の朝確認してもらいます』
続いて、美崎からもメッセージが届く。
『販売ページの案内文を修正しました。ギフト不可、発送日指定不可、保存方法を購入前に見える位置へ移動しています』
一ノ瀬からも、短いメッセージが来る。
『作業負荷を含めた初日実績を更新しました。明朝確認してください』
紬は、画面を見つめた。
小さな販売は、もう紬一人のものではない。
柚木の案でもない。
現場の作業であり、食品流通部の確認であり、広報の言葉であり、財務の数字であり、取引先の不安であり、購入者の声でもある。
だからこそ、簡単に成功とは言えない。
紬は、窓の外を見た。
夜の街に、ビルの明かりが点いている。
その一つ一つの奥で、誰かが今日も仕事をしている。
藤堂物産の中にも、まだ灯りが残っていた。
売れた。
でも、手間も増えた。
喜びと負担は、同じ画面の中に並んでいる。
紬は、販売管理画面を閉じなかった。
数字だけで喜ばないために。
その数字の裏にある手を、見落とさないために。
明日もまた、販売は続く。
その前に、今日増えた手間を、ひとつずつ見える場所に置かなければならなかった。




