第8章:承認という名の傷
木槌の音が消えたあとも、会場にはしばらく乾いた余韻が残っていた。
藤堂物産株式会社、臨時株主総会。
その場に集まった誰もが、予定されていた議事の流れを知っていたはずだった。
副社長・藤堂貴之による会社分割案。
繊維・ライフスタイル第一本部を切り離し、新会社として独立させる計画。
その裏に、ファンド票の根回しがあることも、役員たちは薄々気づいていただろう。
けれど、その流れを止められる者はいない。
そう思われていた。
少なくとも、壇上に濃紺のスーツを着た若い女性が立つまでは。
「まず、本日の議長権限について、法務担当より確認結果を報告いたします」
紬の声が、会場に静かに響いた。
隣に控えていた法務担当者が立ち上がり、緊張した面持ちでマイクの前に進む。
「ただいま確認いたしました藤堂厳会長の委任状、および代表取締役選任に関する関連書類は、いずれも真正なものと確認いたしました。本臨時株主総会における議事進行については、藤堂厳会長の委任に基づき、星野紬氏が代理人として進行することに法的な問題はございません」
その瞬間、会場が大きく揺れた。
「どういうことだ」
「会長の委任?」
「あの女性が?」
「聞いていないぞ」
ざわめきが、波のように広がる。
報道席では、一斉にシャッター音が鳴り始めた。
貴之は、椅子の肘掛けを握りしめていた。
その表情には、先ほどまでの余裕がほとんど残っていない。
「待て」
貴之が立ち上がった。
マイクを使わずとも、その声は会場全体に届いた。
「このような重要事項を、私に一切知らせず進めるなど、到底認められない。父は病床にある。判断能力に疑問がある状態で、このような委任状が作成された可能性もある」
会場の空気が、さらにざわついた。
紬は、すぐには答えなかった。
一拍置く。
美崎に教わった通り、呼吸を整える。
挑発に乗らない。
けれど、逃げない。
「藤堂副社長」
紬は、貴之を見た。
「その点についても、医師の診断書および顧問弁護士の確認書が添付されています。必要であれば、法務担当より開示いたします」
進藤が、静かに封筒を掲げる。
貴之の顔が、わずかに歪んだ。
「進藤。君は、いつから父の側でこんな茶番を仕組んでいた」
「私は、会長のご意思に従っているだけです」
進藤の声は、乱れなかった。
大河内常務が、椅子からゆっくりと立ち上がった。
「進藤君。形式は整っているのかもしれん。だが、問題はそこではないだろう」
太く、低い声だった。
「我々がこれから議論しようとしているのは、藤堂物産の将来を左右する会社分割案だ。その議事進行を、社会人経験もない若い女性に任せる。株主の皆さまは、それを本当に納得されるのか」
会場の一部から、同意するような声が上がった。
「そうだ」
「説明が必要だ」
「学生に何が分かる」
その言葉は、紬の胸を刺した。
けれど、予想していた言葉でもあった。
若いから。
女性だから。
学生だから。
その視線は、すでに何度も想像していた。
それでも実際に向けられると、喉の奥がきゅっと狭くなる。
紬は、社員席へ視線を向けた。
不安そうな顔。
冷めた顔。
怒りを隠さない顔。
そこには、自分を信じている人などほとんどいない。
当然だ。
自分はまだ、彼らのために何もしていない。
「ご懸念は、当然だと思います」
紬は、静かに言った。
会場が少し静まる。
「私は、社会人経験のない大学生です。経営の実務も、まだ学び始めたばかりです。藤堂物産の社員の皆さまの顔も、ほとんど知りません」
大河内が、薄く笑った。
「ならば、なぜこの場に立つ」
「逃げるわけにはいかないからです」
紬は答えた。
声は大きくなかった。
けれど、会場の奥まで届いた。
「藤堂厳会長は、この会社を数字の箱として見ていませんでした。社員の生活、取引先との信頼、積み重ねてきた歴史。そのすべてを含めて、藤堂物産だと考えていました」
貴之の顔に、苛立ちが浮かぶ。
「父の言葉を借りれば、何でも正当化できると思うな」
「借りているだけではありません」
紬は、貴之から視線を逸らさなかった。
「受け取ったのです」
会場が、再びざわついた。
そのざわめきの中で、美崎が報道席の反応を冷静に見ていた。
一ノ瀬は手元の資料に視線を落とし、必要な数字をいつでも差し出せるようにしている。
加賀は社員席を見ている。
進藤は法務担当者の横に立ち、貴之側の動きを警戒している。
柚木は、少し青ざめた顔で紬を見つめていた。
紬は、議案書を手に取った。
指先に、紙の感触がある。
薄い。
けれど、この数枚が会社を割る。
誰かの職場を変え、誰かの未来を不安にする。
「それでは、第一号議案、会社分割案について審議に入ります」
会場の空気が、さらに硬くなった。
貴之は、すぐに立ち上がった。
「本議案については、私から説明させていただく」
紬は頷いた。
「お願いします」
貴之は、用意された資料を手に、マイクの前に立った。
その姿は堂々としていた。
口調も滑らかで、言葉も整っている。
「藤堂物産は、長年にわたり、繊維・ライフスタイル事業を中心に成長してまいりました。しかし近年、本体には収益性の低い事業が残り、意思決定の速度も落ちています。そこで、成長性の高い繊維・ライフスタイル第一本部を分割し、新会社として独立させることで、事業価値を最大化いたします」
投資家向けの言葉だった。
無駄がなく、聞こえが良い。
「この分割により、株主の皆さまには将来的なリターンの拡大が期待できます。新会社は外部資本も受け入れ、早期の上場を目指します。古い体制に縛られず、より機動的な経営を実現する。それが、本議案の目的です」
いくつかの株主が頷いている。
ファンド関係者らしき男たちは、表情を変えずに資料を見ている。
紬は、その様子を見ながら、貴之の言葉の中に抜け落ちているものを感じていた。
社員の顔がない。
取引先の顔がない。
残される会社の痛みがない。
けれど、言葉だけは美しい。
説明が終わると、貴之は紬を見た。
「以上です。議長、速やかに採決を」
勝ちを確信している声だった。
このまま採決に入れば、自分たちの根回しが通る。
そう信じている。
紬は、議案書を置いた。
「採決の前に、議長として申し上げます」
貴之の眉が動いた。
「本議案について、私は承認する方針です」
その言葉が落ちた瞬間、会場の時間が止まったようになった。
最初に反応したのは、副社長派の役員たちだった。
彼らは一瞬、何を言われたのか理解できない顔をした。
次に、ファンド関係者たちが顔を見合わせる。
報道席の記者たちは、一斉にペンを走らせた。
社員席からは、低いどよめきが起きた。
貴之は、数秒遅れて笑った。
「……承認する?」
その声には、警戒と嘲笑が混じっていた。
「君は、自分が何を言っているのか理解しているのか。今、君は父が守ってきた藤堂物産の心臓部を、私に渡すと言ったんだぞ」
「はい」
紬は答えた。
短く。
「繊維・ライフスタイル第一本部の分割を、承認します」
会場のざわめきが大きくなる。
「何を考えているんだ」
「会長側なのに承認?」
「あの子は副社長側なのか?」
「いや、進藤たちがついている」
「意味が分からない」
紬は、そのすべてを受けながら立っていた。
足元が揺れているように感じた。
でも、声だけは揺らさないようにした。
「藤堂副社長がおっしゃる通り、繊維・ライフスタイル第一本部は藤堂物産の心臓部です。売上の多くを支え、多くの社員と取引先が関わってきました」
紬は、社員席へ視線を向けた。
「だからこそ、その部門に関わる方々の不安や痛みを、軽く扱うつもりはありません」
後方で、一人の男性社員が顔を上げた。
繊維部門の関係者だろうか。
紬はその人の名前を知らない。
それでも、視線を逸らさなかった。
「ですが、このまま藤堂物産の中に、権力争いの火種を残し続ければ、会社全体が壊れます。今日この場で無理に否決し、泥仕合になれば、社員も取引先も、さらに深い不安に晒されます」
貴之が低く笑った。
「随分と分かったようなことを言う」
「分かっていないことの方が多いです」
紬は即座に答えた。
その言葉に、会場が少し静まった。
「私は、この会社のすべてをまだ知りません。社員の皆さまの顔も、現場の痛みも、取引先との歴史も、まだ知り尽くしていません」
紬は、机の下で社員名簿の感触を確かめた。
「だから、今日の判断で、この会社を傷つけることも分かっています」
社員席の一角で、誰かが小さく息を呑んだ。
「私は、今日ここで藤堂物産を一度、傷つけます」
会場が静まり返った。
その言葉は、勝利宣言ではなかった。
株主向けの美しい説明でもなかった。
紬自身の痛みを、そのまま差し出す言葉だった。
「けれど、その傷をなかったことにはしません。切り離される方々を、敵とは呼びません。残ってくださる方々を、駒として扱いません」
貴之の表情から、笑みが消えていた。
「私は、残された藤堂物産を、残ってくれる人たちと立て直します。古い利権を守るためではなく、この会社にまだ残っている信頼と可能性を、次の形へつなぐために」
株主席の一部がざわついた。
一ノ瀬が、すぐに資料を用意する。
紬は続けた。
「本体に残る食品流通部、倉庫事業部、地方取引先とのネットワーク。これらは、これまで社内で十分に評価されてきたとは言えません。ですが、そこには藤堂物産が積み重ねてきた現場の信頼があります」
柚木が、息を止めるように紬を見ていた。
「私たちは、その信頼を土台に、新しい流通の仕組みを作ります。都市の消費者と地方の生産者を直接つなぐ、在庫に依存しない販売モデル。倉庫拠点を活かした小口配送網。実店舗を、単なる販売の場ではなく、体験と発信の場へ変える仕組み」
貴之が鼻で笑う。
「夢物語だ」
「そうかもしれません」
紬は言った。
「でも、今の藤堂物産に必要なのは、過去の売上にしがみつくことではありません。残った人たちと、新しい売上を作ることです」
「君にできるとでも?」
貴之の声が鋭くなった。
「学生の思いつきで、会社経営ができると思っているのか」
その瞬間、一ノ瀬が静かに立ち上がった。
「議長、補足をよろしいでしょうか」
紬は頷いた。
「お願いします」
一ノ瀬は、マイクの前に立った。
「本体残存後の資金繰りについて、最悪シナリオを含めた試算を行っています。上場廃止後の信用低下、取引先離脱リスク、銀行融資条件の見直しを織り込んでも、一定期間の運転資金を確保する計画は存在します」
会場が再びざわめく。
「もちろん、容易ではありません」
一ノ瀬は、感情を一切乗せずに言った。
「しかし、不可能ではありません。少なくとも、副社長派による分割後に残存会社が即座に破綻するという見方は、数字上は正確ではありません」
貴之が一ノ瀬を睨む。
「一ノ瀬、君まで」
「僕は数字に従っているだけです」
一ノ瀬は淡々と答えた。
続いて、美崎が報道席へ向けて一礼した。
「詳細な再建計画については、総会後、正式に説明の場を設けます。現時点で不確定な情報を過度に発信することは、社員および取引先の混乱を招きますので、正確な資料に基づいて順次開示いたします」
その言葉に、記者たちのペンが走る。
加賀は、社員席へ向けて低く声を出した。
「現場への説明は、今日中に始めます。逃げません」
短い言葉だった。
だが、社員席の数人が顔を上げた。
柚木はタブレットを握りしめたまま、深く頭を下げた。
「新しい事業案についても、現場の方々に話を聞かずに進めることはしません。必ず、負担と不安を確認します」
紬は、五人の声を聞いた。
それぞれが、自分の持ち場から支えてくれている。
けれど、それは勝利を飾るためではない。
紬の判断が、ただの無謀で終わらないようにするためだった。
貴之は、ゆっくりと拍手をした。
乾いた音が、会場に響く。
「素晴らしい芝居だ。若い議長に、優秀な側近たち。まるで物語だな」
その言葉に、紬の胸が少しだけ冷えた。
物語。
世間はそう見るだろう。
女子大生社長。
五人の騎士。
老舗商社の内紛。
けれど、ここにいる社員たちにとって、これは物語ではない。
明日の仕事であり、来月の給料であり、家族の生活だ。
紬は、貴之の拍手が止まるのを待った。
そして、静かに言った。
「物語にするつもりはありません」
貴之の手が止まる。
「これは、仕事です」
会場が静まり返った。
「私は今日、格好良く勝ちに来たわけではありません。藤堂物産を一度、壊れた状態から引き受けに来ました」
紬は、社員席を見た。
「だから、社員の皆さまに今ここで、私を信じてくださいとは言いません。信じられなくて当然です。怒りも、不安も、疑いも、当然だと思います」
声が少しだけ震えそうになる。
けれど、紬は続けた。
「それでも、逃げません。総会が終わったあと、必ず皆さまの前に立ちます。切り離される方にも、残る方にも、説明します。怒られることからも、責められることからも逃げません」
その言葉に、社員席の一角で、年配の男性が目を伏せた。
若い女性社員が、膝の上で握っていた手を少し緩めた。
まだ信頼ではない。
それでも、紬の言葉は、ほんのわずかに届いたのかもしれなかった。
「では、採決に移ります」
紬は、議長席に置かれた資料を確認した。
手順通りに進める。
会社分割案。
賛成票。
反対票。
委任状。
会場の空気は、重かった。
投票結果が集計される間、誰も大きな声を出さなかった。
貴之は、まだ勝ち誇るように座っていた。
大河内常務は腕を組み、こちらを睨んでいる。
進藤は集計担当者の動きを確認し、一ノ瀬は数字を見ている。
美崎は報道陣の反応を追い、加賀は社員席の表情を見続け、柚木は唇を結んだまま祈るようにタブレットを抱えていた。
やがて、集計結果が紬の手元に届いた。
紙を受け取る。
そこに書かれた数字を見る。
会社分割案は、可決。
分かっていた結果だった。
それでも、目の前に数字として示されると、胸の奥に鈍い痛みが走った。
可決。
その二文字で、会社は割れる。
紬は、ゆっくりと顔を上げた。
「第一号議案、会社分割案は、賛成多数により可決されました」
会場のあちこちで、息を呑む音がした。
貴之の口元に、再び笑みが浮かぶ。
だが、その笑みは完全な勝利のものではなかった。
彼はまだ、紬がなぜ承認したのかを測りかねている。
「続いて」
紬は、木槌に手を伸ばした。
指先が震えた。
この音が、藤堂物産に傷を刻む。
藤堂会長が守ってきた会社に、自分の手で線を引く。
けれど、その傷から目を逸らさないと決めた。
紬は、静かに木槌を鳴らした。
コン、と乾いた音が響いた。
それは、敵の計算を狂わせる音であると同時に、藤堂物産に最初の傷を刻む音でもあった。
その音が消える前に、紬は胸の奥で誓った。
この傷を、なかったことにはしない。
この痛みから、逃げない。
そして、残された場所から、もう一度始める。




