第7章:ミッドナイトブルーの宣戦布告
ホテルの正面玄関を抜けた瞬間、空気の温度が変わった。
外の朝の冷たさとは違う。
磨き上げられた大理石の床、天井の高いエントランス、控えめな照明、静かに行き交うスタッフたち。
そのすべてが整いすぎていて、紬にはかえって息苦しく感じられた。
いつもの大学の廊下とも、駅の雑踏とも違う。
ここは、誰かが戦うために整えた場所ではない。
けれど今日、このホテルの奥にある大ホールは、紛れもなく戦場になる。
「星野さん」
美崎が、紬の斜め後ろから静かに声をかけた。
「歩幅を少し小さく。焦っているように見えます」
「あ……はい」
紬は足の運びを整えた。
ヒールの音が、大理石の床に小さく響く。
その音が、妙に大きく聞こえた。
進藤が前を歩き、受付へ向かう。
加賀は周囲の人の流れをさりげなく確認している。
一ノ瀬は無言で資料を抱え、柚木は緊張を隠しきれない表情でタブレットを握っていた。
五人がそばにいる。
それでも、紬の足元はまだ少し頼りなかった。
「藤堂物産株式会社、臨時株主総会の受付はこちらでございます」
案内板の文字を見た瞬間、紬の喉が鳴った。
臨時株主総会。
その言葉が、昨日まで資料の中にあったものから、現実のものへと変わっていく。
受付前には、すでに何人もの人間が集まっていた。
スーツ姿の株主。
弁護士らしき人物。
藤堂物産の役員。
報道関係者。
そして、社員らしき人たち。
紬は、その中の何人かと目が合った。
一瞬、相手の視線が紬の顔から濃紺のスーツへ、そして背後の五人へと移る。
誰だ。
なぜ、あの五人と一緒にいる。
そう問うような視線だった。
まだ彼らは、紬の名前を知らない。
けれど、何かが起きることだけは感じ取っているようだった。
受付を済ませると、進藤が小声で言った。
「控室へ向かいます。副社長派はすでに会場入りしています」
「貴之副社長もですか」
「はい。大河内常務も同席しています」
その名前を聞いた瞬間、紬の指先がわずかに冷えた。
藤堂貴之。
藤堂会長の実の息子。
そして、今日、藤堂物産を切り離そうとしている人物。
まだ会ったことはない。
だが、資料の中で何度もその名前を見た。
派閥。
根回し。
ファンドへの接触。
会社分割。
文字だけで見ていた敵が、もう同じ建物の中にいる。
控室に入ると、美崎がすぐに扉を閉めた。
室内には長机と椅子、姿見、壁掛け時計があるだけだった。
窓はなく、白い照明がやけに明るい。
「開会まで二十五分です」
進藤が時計を確認する。
「最終確認をします」
長机の上に資料が並べられた。
総会進行表。
議案一覧。
想定問答。
会長の委任状。
代表取締役選任に関する書類。
紬は、その一つ一つを見つめた。
紙の上では、すべてが整っている。
法律上の手続きも、進行の順番も、誰が何を言うかも、想定される反論も。
けれど、胸の奥にある不安は消えない。
紙の上で完璧でも、人は予定通りには動かない。
「星野さん」
一ノ瀬が、低い声で言った。
「再度確認します。会社分割案を承認する発言の後、株主から必ず質問が飛びます。特に、残存会社の資金繰りと再建計画についてです」
「はい」
「曖昧な希望を語らないでください。数字で答えられる部分は数字で。答えられない部分は、検討中とはっきり言う。虚勢を張れば、その場では乗り切れても、後で信用を失います」
「分かりました」
「それから」
一ノ瀬は少し間を置いた。
「副社長派があなたの経歴を攻撃してきた場合、反論しすぎないことです。あなたに社会人経験がないのは事実です。そこを取り繕えば、余計に幼く見えます」
紬は、小さく頷いた。
「経験がないことは、認めます」
「その上で、何を背負うのかを言ってください」
その言葉は、一ノ瀬にしては少しだけ温かかった。
紬は彼の顔を見た。
一ノ瀬はすぐに資料へ視線を落とした。
「誤解しないでください。感情論を勧めているわけではありません」
「はい」
「ですが、今日のあなたには、数字だけでは足りません」
それだけ言うと、一ノ瀬は口を閉じた。
美崎が、紬の前に立った。
「星野さん、鏡の前へ」
紬は言われるままに姿見の前に立つ。
濃紺のスーツ。
整えられた髪。
薄く引いた口紅。
姿だけ見れば、昨日までの就活生ではない。
けれど、鏡の中の自分の目には、まだ迷いがある。
美崎は、後ろからジャケットの肩を軽く整えた。
「口角を上げすぎないでください。笑顔は不要です。今日は愛想ではなく、誠実さを見せる日です」
「はい」
「視線は正面。声は少し低めに。早口にならない。相手を言い負かそうとしない」
「はい」
「それから、挑発された時は、一拍置いてください。すぐに返すと、感情で動いたように見えます」
紬は鏡の中の自分を見た。
一拍置く。
逃げない。
強く見せようとしすぎない。
「大丈夫です」
美崎は静かに言った。
「怖い顔にはなっていません。逃げない顔には、なっています」
その言葉に、紬の胸が少しだけ温かくなった。
加賀は壁にもたれながら、腕を組んでいた。
「星野さん」
「はい」
「会場には、繊維部門の社員も何人か来てる。貴之側につく人間もいれば、まだ迷ってる人間もいる」
紬は振り返った。
「社員も、総会を見ているんですね」
「全員じゃねえけどな。役職者や関係者は入ってる。あいつらは株主より厳しい目で見るぞ」
「厳しい目……」
「株主は損得を見る。社員は、自分たちの明日を見る」
その言葉は重かった。
加賀は、珍しく軽口を言わなかった。
「うまいことを言おうとするな。格好つけても見抜かれる。分からねえことは分からねえでいい。ただ、逃げたら終わりだ」
「はい」
「あと、貴之が何を言っても、あいつだけを見るな」
「え?」
「会場の後ろも見ろ。社員席だ。怒ってる奴、不安そうな奴、下向いてる奴。そいつらを見落とすな」
紬は、胸の奥で何かが沈むのを感じた。
敵を見るのではない。
社員を見る。
それを忘れてはいけない。
柚木が、タブレットを胸に抱えたまま近づいてきた。
「星野さん」
「はい」
「私、さっきロビーで社員らしき人たちの会話を聞いちゃいました」
柚木の表情は、いつもの明るさを失っていた。
「何て言ってたんですか」
「……『また上の人間が勝手に決めるんだろ』って」
紬は息を止めた。
「それから、『若い社長候補が来るって噂、本当なのか。会長も最後にとんでもないことをしたな』って」
柚木は唇を噛んだ。
「悔しかったです。でも、何も言い返せませんでした」
紬は、すぐには答えられなかった。
社員からすれば、その言葉は当然なのかもしれない。
突然現れた二十一歳の女子大生。
会長の指名。
会社分割。
新社長候補。
そんなものを、簡単に信じられるはずがない。
「言い返さなくてよかったと思います」
紬は静かに言った。
柚木が顔を上げる。
「今日、言い返すために壇上に立つわけじゃないので」
自分で言った言葉に、紬自身が少し驚いた。
けれど、それは本心だった。
敵を黙らせたい。
副社長派の計算を崩したい。
その気持ちはある。
でも、それだけではいけない。
社員の不安を無視して、勝利だけを取りにいけば、自分は藤堂会長が後悔した道をまた歩くことになる。
進藤が書類を閉じた。
「時間です」
控室の空気が、静かに張り詰めた。
紬はバッグの内ポケットに手を入れた。
社員名簿のコピー。
古い封筒。
二つの紙に、指先が触れる。
数字ではない名前。
顔を見られなかった後悔。
その両方を胸に、紬は立ち上がった。
「行きましょう」
声は小さかった。
けれど、五人は確かに聞いていた。
進藤が扉を開ける。
廊下には、すでに総会会場へ向かう人の流れができていた。
紬たちはその中を進む。
すれ違う人々の視線が、次第に集まってくる。
進藤。
加賀。
一ノ瀬。
美崎。
柚木。
藤堂物産の中で名の知れた五人が、一人の若い女性を囲むように歩いている。
それだけで、周囲は異変に気づく。
「誰だ、あの子」
「会長側の人間か?」
「まさか、噂の……」
小さなざわめきが、廊下の壁に反射する。
紬は、前だけを見て歩いた。
怖い。
今すぐ踵を返して逃げ出したい。
けれど、足は止めなかった。
大ホールの扉の前に立つ。
中から、すでに多くの人の気配がする。
進藤が紬を見た。
「この扉の向こうから、すべてが始まります」
「はい」
「最後に、会長の言葉を思い出してください」
紬は頷いた。
勝つことと、救うことは違う。
逃げない社長でありなさい。
扉が開いた。
ざわめきが、一気に耳へ流れ込んでくる。
大ホールの中には、何百もの椅子が並べられていた。
前方には株主席。
中央には役員席。
後方には関係者席と報道席。
壁際にはカメラが並び、記者たちが小さな声で情報を確認している。
壇上には、議長席と役員用の長机が設けられていた。
その中央に、藤堂貴之がいた。
写真で見たよりも、ずっと整った顔立ちだった。
五十代前半。
高級そうなスーツに身を包み、余裕のある笑みを浮かべている。
隣には、大河内常務。
大柄で、威圧感のある男だった。
二人は何かを話していたが、進藤たちの入場に気づいた瞬間、表情を変えた。
最初に、進藤を見た。
次に、加賀、一ノ瀬、美崎、柚木。
そして最後に、紬へ視線を止めた。
藤堂貴之の眉が、わずかに上がった。
「……誰だ、あれは」
その声は離れていても、紬の耳に届いた気がした。
会場のざわめきが広がっていく。
「進藤さんたちが一緒にいるぞ」
「会長側か?」
「あの若い女性は誰だ」
「学生に見えるが……」
「まさか」
視線が、次々に紬へ突き刺さる。
就活の面接官の視線とは比べものにならない。
好奇心。
侮り。
警戒。
嘲笑。
怒り。
それらが一斉に向けられる。
紬は一瞬、呼吸を忘れた。
足が止まりかける。
その時、内ポケットの社員名簿の硬い感触が、指先に触れた。
紙の向こうに、まだ知らない人たちがいる。
自分を見て笑う人がいてもいい。
でも、この会社で働く人たちの未来まで、誰かの権力争いの道具にさせてはいけない。
紬は、もう一度息を吸った。
そして、歩いた。
壇上へ向かう通路は、思ったより長かった。
左右から向けられる視線が、濃紺のスーツに絡みつくようだった。
前方で、藤堂貴之が立ち上がる。
「進藤君」
彼の声は、よく通った。
会場のざわめきが少し静まる。
「これはどういうことかな。その女性は?」
進藤は、静かに一礼した。
「本日の議事進行に関わる重要な方です」
「重要な方?」
貴之は、紬を見て、薄く笑った。
その笑みは、カフェで藤堂会長が見せたものとはまったく違っていた。
相手を人として見ていない笑み。
価値を測り、不要なら捨てる目。
「随分とお若い。秘書の方かな。それとも、会長が最後に連れてきた学生インターンか何かか」
会場の一部で、小さな笑いが起きた。
紬の頬が、かすかに熱くなる。
言い返したい。
自分はインターンではない。
見下さないでほしい。
そう叫びたくなる。
けれど、美崎の言葉が頭に浮かんだ。
一拍置く。
相手の土俵に乗らない。
紬は、すぐには返さなかった。
一秒。
二秒。
会場の視線がさらに集まる。
紬は、静かに貴之を見た。
「星野紬と申します」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「本日は、藤堂厳会長の正式な委任と指名を受け、この場に参りました」
会場が揺れた。
ざわめきが、一気に膨れ上がる。
「指名?」
「会長の?」
「何の話だ」
貴之の笑みが、少しだけ消えた。
「委任? 指名? 君、自分が何を言っているのか分かっているのかな」
「分かっています」
紬は答えた。
短く。
余計な言葉を足さずに。
進藤が、法務担当者へ書類を渡す。
会場の前方にいた弁護士たちが慌ただしく内容を確認し始めた。
貴之が、進藤を睨む。
「進藤君。これは君の差し金か」
「いいえ」
進藤の声は穏やかだった。
「すべて、藤堂厳会長のご意思です」
貴之の顔色が、初めてはっきりと変わった。
大河内常務が低い声で何かを囁く。
一ノ瀬は無言で財務資料を抱え、美崎は報道席の反応を観察している。
加賀は社員席を見ていた。
柚木は唇を結び、タブレットを握りしめている。
紬は、壇上へ上がった。
一段。
また一段。
たった数段の階段が、信じられないほど重かった。
議長席の前に立つ。
目の前には、株主、役員、報道陣、社員。
数えきれないほどの視線。
その中に、嘲笑もある。
疑いもある。
怒りもある。
期待は、まだほとんど見えない。
紬は、議長席の机に手を置いた。
指先が少しだけ震えている。
でも、その震えは机の下に隠した。
強いから震えないのではない。
震えている暇がないだけだった。
進藤が隣に立ち、静かに頷く。
準備は整っている。
けれど、ここから先は、紬自身の声で進めなければならない。
紬は、会場全体を見渡した。
前方の株主。
中央の役員。
後方の社員席。
加賀に言われた通り、後ろも見た。
不安そうに顔を曇らせる女性社員がいた。
腕を組み、納得できない表情でこちらを見ている中年男性がいた。
視線を伏せた若手社員がいた。
その人たちを見た瞬間、紬の胸に痛みが走った。
この人たちは、まだ自分を信じていない。
当然だ。
自分はまだ、何もしていない。
紬は、ゆっくりと息を吸った。
そして、開会を告げるために口を開いた。
「ただいまより、藤堂物産株式会社、臨時株主総会を開会いたします」
声は、会場の奥まで届いた。
大きすぎず、弱すぎず。
その一言で、ざわめきが少しだけ引いた。
紬は、続けた。
「本日、この場に立つ資格については、ただいま提出された藤堂厳会長の正式な委任状および関連書類に基づき、法務確認を進めていただいております」
会場の空気が、さらに張り詰める。
貴之は、怒りを隠しきれない目で紬を見ていた。
大河内常務は、椅子に深く座り直しながら、唇を歪めている。
報道席では、記者たちが一斉にペンを走らせ始めた。
カメラのレンズが、紬へ向く。
美崎の予告通りだった。
世間は、この瞬間を面白がる。
二十一歳の女子大生。
老舗商社。
会長の指名。
父子の対立。
会社分割。
物語として消費されるには、あまりにも分かりやすい構図だった。
けれど、紬はその見出しの中に収まりに来たのではない。
ここには、社員の明日がある。
藤堂会長の後悔がある。
自分がまだ知らない人たちの生活がある。
紬は、背筋を伸ばした。
「議事に入る前に、一点だけ申し上げます」
進藤が一瞬、紬を見た。
予定にはない言葉だった。
だが、止めなかった。
紬は、会場を見渡した。
特に、後方の社員席へ視線を置いた。
「私は、藤堂物産の社員の皆さまの顔を、まだほとんど知りません」
会場が、またざわめいた。
それは、強い社長の言葉ではなかった。
だが、紬は続けた。
「だからこそ、今日ここで、皆さまの不安を分かったふりはしません。これから行う判断が、誰かを傷つけることも、会社に大きな痛みを残すことも、理解しています」
貴之が鼻で笑った。
「理解している、ね。学生らしい綺麗な言葉だ」
その声は、マイクを通していないのに、周囲へ届いた。
だが、紬はそちらを見なかった。
「それでも、この会社を権力争いの道具にしたまま終わらせることはできません」
会場の空気が、少し変わった。
紬は、机の下で社員名簿の感触を確かめた。
「本日の議事を始めます」
その言葉とともに、紬は木槌に手を伸ばした。
軽いはずの木槌は、驚くほど重く感じられた。
この音が、何かを始める。
同時に、何かを傷つける。
紬は、その重さを手のひらに感じながら、静かに木槌を鳴らした。
コン、と乾いた音が、会場に響いた。
藤堂物産の長い一日が、始まった。




