第6章:決戦の朝、濃紺の戦闘服
朝は、まだ完全には明けていなかった。
窓の外には、薄い灰色の光が滲んでいる。ビルの隙間から差し込む空は、晴れているのか曇っているのか分からない曖昧な色をしていた。
星野紬は、ベッドの上で目を開けたまま、天井を見つめていた。
眠れなかった。
正確には、何度か眠りに落ちかけた。
けれどそのたびに、株主総会の会場が夢に出てきた。
壇上。
無数の視線。
副社長の藤堂貴之の嘲笑。
ざわつく株主たち。
カメラのフラッシュ。
そして、知らない社員たちの顔。
顔は見えないのに、その視線だけが妙に重かった。
紬はゆっくりと身体を起こした。
スマートフォンの画面を見る。
午前五時四十七分。
アラームが鳴るまで、まだ十三分あった。
「……早すぎる」
そう呟いて、少し笑おうとした。
けれど、笑えなかった。
今日、臨時株主総会が開かれる。
藤堂物産の運命が、大きく変わる日。
副社長派が勝利を確信している場所に、紬は突然現れる。
そして、会社分割案を承認する。
勝つために。
会社の主導権を取り戻すために。
でも、その判断は、誰かを傷つける。
藤堂会長の病室で受け取った古い封筒が、机の上に置かれていた。
黄ばんだ紙。
地方の縫製工場の工場長が、かつて藤堂会長へ送った手紙。
『最後に一度、社長の顔を見たかったです』
その一文が、紬の胸から離れなかった。
総会で勝つことは、最初の仕事にすぎない。
本当の仕事は、その後だ。
藤堂会長の声が、まだ耳の奥に残っている。
紬はベッドから下り、机の前に立った。
そこには、今日持っていくものがきちんと並べられていた。
総会進行表。
想定問答集。
美崎が作った記者対応メモ。
一ノ瀬がまとめた財務シミュレーション。
進藤の法務チェックリスト。
柚木の新規事業案の要約。
加賀の現場メモ。
そして、社員名簿のコピー。
紬は、社員名簿を手に取った。
何度もめくったせいで、紙の端が少し曲がっている。
覚えられた名前は、まだほんの一部だった。
顔を知っている人は、ほとんどいない。
けれど、今日の判断で不安にさせる人たちが、この紙の中にいる。
残る人。
去る人。
迷う人。
怒る人。
泣く人。
その誰の顔も、紬はまだ知らない。
だからこそ、忘れてはいけない。
紬は社員名簿を丁寧に折り、バッグの内ポケットに入れた。
お守りではない。
自分がまだ何も知らない人たちの重さを、忘れないための紙だった。
シャワーを浴び、髪を整え、洗面台の鏡の前に立つ。
鏡の中の自分は、いつもより少し顔色が悪かった。
目元には寝不足の影がある。
けれど、今日はそれを隠さなければならない。
紬は、美崎に教わった通り、薄く丁寧にメイクをした。
濃すぎず、幼く見えすぎず、疲れて見えすぎないように。
それだけでも、いつもの倍以上の時間がかかった。
クローゼットを開ける。
そこには、今日のために美崎が用意してくれた濃紺のスーツがかかっていた。
リクルートスーツとは違う。
黒ではない。
威圧的すぎず、けれど軽くも見えない深い紺色。
美崎はそれを見せた時、こう言った。
「黒は、あなたを就活生に戻してしまいます。白は、まだ軽すぎる。今日は濃紺です。誠実で、冷静で、逃げない色です」
紬はハンガーからスーツを外した。
袖を通す。
背筋を伸ばす。
ジャケットのボタンを留める。
鏡の前に立つ。
そこにいたのは、昨日までの自分とは少し違う人間だった。
けれど、社長には見えなかった。
少なくとも、紬自身にはそう見えなかった。
大人びたスーツを着た、寝不足の女子大生。
それが鏡の中にいる。
「……似合ってるのかな」
誰に聞くでもなく呟いた時、スマートフォンが小さく震えた。
画面を見る。
マイからだった。
『今日、ゼミ来る? 先生が発表順の確認したいって』
たったそれだけのメッセージだった。
けれど、その短い文章を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
今日、ゼミに行く自分もいたのかもしれない。
いつもの教室で、マイやカナと就活の愚痴を言いながら、先生の話を聞いて、帰りにコンビニでアイスを買って、普通に一日を終える自分。
そちらの自分の方が、ずっと自然だった。
ずっと安全だった。
紬は、しばらく画面を見つめた。
返信欄に指を置く。
『今日は行けない。ごめん』
それだけ打った。
送信する。
すると、すぐに既読がつき、マイから返事が来た。
『大丈夫? 無理しないでね』
紬は、その言葉を見つめたまま、しばらく動けなかった。
無理しないで。
今の自分には、一番難しい言葉だった。
「ごめん、マイ」
小さく呟き、スマートフォンをバッグに入れた。
午前七時半。
マンションの前には、黒い車が停まっていた。
運転席には加賀。
助手席には美崎。
後部座席には進藤と一ノ瀬、そして柚木が座っている。
「おはようございます」
紬が近づくと、美崎が車を降りて、すぐに全身を確認した。
「おはようございます、星野さん。姿勢、目線、表情」
「はい」
紬は背筋を伸ばした。
美崎はジャケットの襟元を整え、髪の一筋をそっと直した。
「大丈夫です。濃紺、よく似合っています」
「社長に見えますか」
思わずそう聞いてしまった。
美崎は、少しだけ考えた後、微笑んだ。
「今はまだ、社長に見せるための服です」
紬は苦笑した。
「正直ですね」
「嘘をついても仕方ありません。でも、今日の終わりには、少し変わっているはずです。服に着られるか、服を自分のものにするかは、今日のあなた次第です」
その言葉は、厳しくも温かかった。
「乗れ、星野さん」
加賀が運転席から声をかけた。
「顔色悪いぞ。怖いなら怖いって言っとけ。無理に強がると、いざって時に足が止まる」
紬は後部座席に乗り込みながら、小さく答えた。
「怖いです」
車内が、一瞬だけ静かになった。
「ものすごく、怖いです」
加賀は、フロントガラス越しに紬を見て、にやりと笑った。
「よし。そんだけ言えりゃ上等だ」
「上等なんですか」
「怖くない奴は、だいたい状況が見えてねえ。怖いって分かってるなら、まだ戦える」
隣で柚木が頷いた。
「私も怖いです。昨日から胃が変です。でも、ちょっとワクワクもしてます」
「柚木さんらしいですね」
「すみません。でも、星野さんが壇上に立つところ、見たいんです。古い人たちがどんな顔するのかも、正直ちょっと見たいです」
「柚木さん」
進藤が静かにたしなめた。
柚木は慌てて口を閉じた。
「すみません」
進藤は紬へ視線を向けた。
「星野さん。今日、壇上では言葉を削ってください」
「削る?」
「はい。焦ると、人は余計な言葉を足します。説明しすぎる。感情を乗せすぎる。相手を説得しようとして、かえって隙を作る」
進藤は、膝の上のファイルを開いた。
「あなたが今日伝えるべきことは三つです。会長の正式な指名を受けていること。会社分割案を承認すること。そして、残された藤堂物産を再生させる意志があること」
紬は頷いた。
「はい」
「挑発されても、相手の土俵に乗らないでください。副社長派は必ずあなたを侮辱します。学生、女、素人、操り人形。言葉はいくつも想定できます」
美崎が静かに補足した。
「そこで感情的に反応すれば、報道はその一瞬を切り取ります。あなたがどれだけ正しいことを言っても、“感情的な若い女性社長”という見出しにされる可能性があります」
紬は、膝の上で手を握った。
「分かりました」
「分かっていないでしょうね」
一ノ瀬が言った。
車内の空気が少し冷たくなる。
「一ノ瀬さん」
美崎が制しようとしたが、一ノ瀬は続けた。
「今日の判断で、資金繰りは地獄になります。株価は下がる。銀行は疑う。取引先は様子を見る。残る社員の中にも、あなたを歓迎する人間はほとんどいないでしょう」
一ノ瀬は、紬をまっすぐ見た。
「総会で少し格好良いことを言えたとしても、それは始まりにもなりません。むしろ今日から、会社の信用は一度大きく傷つきます」
「……はい」
「だから、勘違いしないでください。今日、あなたが勝ったように見える瞬間があったとしても、それは勝利ではありません。単に、最悪の状態で再出発する権利を得るだけです」
厳しい言葉だった。
けれど、今の紬には必要な言葉でもあった。
藤堂会長の手紙と同じだ。
勝利に酔いそうになる自分を、現実へ引き戻してくれる重石。
「分かりました」
紬は、一ノ瀬の目を見て言った。
「今日、勝ったつもりにならないようにします」
一ノ瀬は、ほんのわずかに目を細めた。
「その言葉、忘れないでください」
車が走り出した。
朝の東京は、まだ完全には目覚めていない。
スーツ姿の会社員が駅へ向かい、コンビニの前では配送トラックが荷物を下ろしている。
誰も、自分たちがこれから向かう場所で何が起きるのか知らない。
紬は窓の外を見つめた。
街はいつも通り動いている。
大学も、会社も、店も、駅も。
世界は、紬の恐怖など知らないまま、平然と朝を始めている。
バッグの内ポケットに手を入れる。
社員名簿の紙に触れた。
その横には、藤堂会長から受け取った古い封筒も入っている。
社員名簿と、古い手紙。
未来を変えるための紙と、過去の後悔を刻んだ紙。
その二つが、今日の紬の中に同時にあった。
「星野さん」
進藤が、静かに呼んだ。
「はい」
「会場に着いたら、もう引き返せません」
「分かっています」
「最後に確認します。壇上に立ちますか」
紬は、窓の外から視線を戻した。
怖い。
逃げたい。
普通の大学生に戻りたい。
その気持ちは、まだ確かにある。
けれど、逃げた先に藤堂物産の社員たちが救われる未来はない。
藤堂会長が守ろうとした会社も、残らない。
自分が選んだ一手の痛みからも、逃げてはいけない。
「立ちます」
紬は言った。
声は小さかった。
けれど、震えてはいなかった。
加賀がアクセルを踏み込む。
「よし。じゃあ行くぞ、社長候補」
「まだ候補ですか」
「今日の働き次第だな」
加賀の軽口に、柚木が小さく笑った。
美崎も、ほんの少しだけ表情を和らげた。
一ノ瀬は書類に目を落とし、進藤は静かに前を見ていた。
五人は、紬のそばにいる。
けれどその視線は、優しさだけでできているわけではなかった。
彼らが守るのは、藤堂物産。
紬が間違えれば、彼らはきっと止める。
その緊張感が、今はむしろ心強かった。
車は都心の大通りへ入った。
目的地である総会会場のホテルが、遠くに見え始める。
高く、冷たく、朝の光を受けて静かに立っている。
その建物の中で、藤堂物産の未来が決まる。
その建物の中で、紬は初めて、自分の名前で誰かの人生に傷をつける判断をする。
車が正面玄関に近づくと、すでに数人の報道関係者らしき人影が見えた。
まだ彼らは、車の中にいる紬のことを知らない。
けれど数時間後には、そのカメラが自分へ向けられる。
美崎が、最後に紬の方へ向き直った。
「星野さん。壇上に上がる前に、ひとつだけ」
「はい」
「強く見せようとしすぎないでください。あなたはまだ強くありません。でも、逃げない人間には見せられます」
その言葉が、胸にまっすぐ届いた。
強い社長になろうとしなくていい。
最初から正しい社長でなくてもいい。
ただ、逃げない社長でありなさい。
藤堂会長の言葉と、美崎の言葉が重なる。
車が停まった。
ドアが開く。
朝の空気が、車内へ流れ込んできた。
紬はバッグを手に取り、内ポケットの社員名簿と古い封筒にもう一度触れた。
そして、ゆっくりと車を降りた。
濃紺のスーツの裾が、朝の風にわずかに揺れる。
ホテルの正面玄関。
磨き上げられたガラス扉。
その向こうに、戦場がある。
紬は一度だけ深く息を吸った。
声はまだ出していない。
宣言もしていない。
誰にも認められていない。
それでも、一歩を踏み出した。
その一歩は、堂々としていたわけではない。
怖さを押し殺した、ぎこちない一歩だった。
けれど、逃げなかった。
それだけが、今の紬にできる最初の強さだった。




