第52章:人を増やす決断
翌朝、藤堂物産の大会議室には、いつもより早い時間から人が集まっていた。
ホワイトボードには、前日のうちに進藤が書いた三つの文字が残っている。
『倉庫』
『問い合わせ』
『取引先』
その下に、一ノ瀬が赤いペンで小さく書き足していた。
『人』
星野紬は、その一文字を見つめていた。
倉庫を整える。
問い合わせ窓口を作る。
取引先への声を返す。
暮らしの森マーケットへ二店舗比較検証の具体案を出す。
銀行へ事業計画を提出する。
そのどれも、最後は人に行き着く。
誰が見るのか。
誰が運ぶのか。
誰が答えるのか。
誰が記録するのか。
誰が返すのか。
誰が判断するのか。
これまで、そこを既存の部署と五人の力で何とかしてきた。
一店舗だから、できた。
短期間だから、できた。
誰かが少しずつ無理を飲み込んだから、できた。
けれど、二店舗、三店舗、その先へ進むなら、もう「何とかする」では済まない。
紬は、会議室の入口に立つ黒川を見た。
黒川は相変わらず硬い表情で、倉庫側の作業時間表を持っている。
松永は取引先対応の一覧を抱え、相沢は問い合わせ分類表を開いている。
五人の騎士も席についていた。
進藤は全体計画。
加賀は現場調整。
一ノ瀬は費用。
美崎は言葉と発信。
柚木は売場と仕組み。
それぞれが資料を持っている。
紬は、ゆっくり椅子に座った。
「今日は、人員体制を決めます」
その言葉を口にすると、会議室の空気が少し重くなった。
人員体制。
それは、表にすれば簡単な言葉だった。
しかし、実際には、人を雇うということだった。
給与を払う。
教育する。
責任を持つ。
仕事を作る。
そして、会社が苦しくなった時にも、その人の生活を背負う。
紬は、その重さを前よりもずっと強く感じていた。
一ノ瀬が、最初に資料を開いた。
「地域共創物流ユニットを最低限動かす場合、役割として必要なのは五つです」
画面に項目が映る。
一、倉庫内専任作業担当。
二、問い合わせ一次対応担当。
三、取引先フォロー担当。
四、食品表示・商品情報確認担当。
五、声の集計・返却補助担当。
柚木が小さく息を呑む。
「五人……」
一ノ瀬は首を横に振った。
「役割が五つです。最初から五人を新規採用するという意味ではありません」
「兼務ですか」
「一部は兼務、一部は既存社員の配置転換、一部は短時間雇用や契約社員も検討できます。ただし、役割が存在することを消してはいけません」
加賀が頷く。
「人を入れない計画は、今いる誰かの背中に荷物を積む計画だ」
その言葉に、相沢が少しだけ苦笑した。
「本当にそうです」
紬は、相沢の方を見た。
「相沢さん、今の食品流通部で問い合わせ対応を増やすのは、どのくらい難しいですか」
相沢は少し考えた。
「一店舗なら、何とか見えました。二店舗でも、商品が同じで、期間が短く、問い合わせ項目が整理されていれば、ぎりぎり対応できるかもしれません」
「ぎりぎり」
「はい。でも、新規取引先の商品が加わるなら無理です。商品ごとの保存方法、アレルギー、賞味期限、次回販売未定時の案内、声の返却方法。全部確認が必要です」
松永が続けた。
「取引先側も同じです。森本さんだけでなく、新規の事業者が入るなら、初回説明、条件確認、販売後の声の返却、次回意向確認が必要になります。これを通常業務の合間にやると、取引先への返答が遅れます」
黒川も資料を開いた。
「倉庫側は、二店舗比較検証なら仮対応できます。ただし、専任の作業担当がいない状態で三店舗以上は受けません」
「受けません」
紬は、その言葉を繰り返した。
黒川は頷いた。
「はい。倉庫の通常業務を守るためです」
その声に迷いはなかった。
紬は、黒川の強さを頼もしいと思った。
以前なら、冷たく聞こえたかもしれない。
今は違う。
守るべきものを知っている人の言葉だった。
一ノ瀬が、費用表を映した。
「仮に、最小体制で始める場合の人件費です」
数字が並ぶ。
紬は、胸の奥が重くなるのを感じた。
一人分、二人分、契約時間、社会保険、教育費、採用費、管理費。
人を増やすということが、金額になって目の前に出る。
それは、ただの費用ではなかった。
毎月、必ず出ていくお金。
売上が伸びても伸びなくても、支払わなければならないお金。
「これを入れると、収支はかなり厳しくなります」
一ノ瀬は淡々と言った。
「二店舗比較検証では、利益は出ません。三店舗でも、立ち上げ期は赤字の可能性が高いです。五店舗まで行って、ようやく採算ラインを検討できるかどうかです」
柚木の表情が曇った。
「そんなに遠いんですね」
「はい」
一ノ瀬は容赦なく答えた。
「人を増やすと、固定費が増えます。固定費は、希望では減りません」
紬は、資料の数字を見つめた。
固定費。
それは、会社を支える力でもあり、会社を圧迫する重さでもある。
人を増やせば、現場は守れるかもしれない。
でも、会社の資金繰りは重くなる。
借入が必要になるかもしれない。
返済も始まる。
「人を増やさない場合は」
紬が尋ねると、一ノ瀬は別の表を出した。
そこには、人を増やさない場合の試算があった。
費用は低い。
一見、赤字幅も小さい。
しかし、横に赤字で注記が並んでいる。
『倉庫通常業務への影響大』
『食品流通部への問い合わせ集中』
『店舗スタッフへの回答遅延リスク』
『取引先への声返却遅延』
『作業ミス・同梱物ミスリスク増』
『継続不可の可能性高』
一ノ瀬は言った。
「数字だけを見ると、人を増やさない方がよく見えます」
「はい」
「でも、それは負担を費用として計上していないだけです」
紬は、その言葉を胸に受けた。
負担を費用として計上していないだけ。
それは、とても怖い言葉だった。
誰かの疲れが、表の数字には出ない。
誰かの残業が、事業の赤字を小さく見せる。
誰かの我慢が、計画をきれいに見せる。
そんな数字で銀行へ行くことはできない。
そんな数字で暮らしの森マーケットに提案することもできない。
「人を増やす方向で考えます」
紬は、静かに言った。
会議室が少しだけ動いた。
柚木が顔を上げる。
黒川は黙ったまま紬を見ている。
一ノ瀬は表情を変えなかった。
「ただし」
紬は続けた。
「一気に大きな採用はしません。まず、二店舗比較検証に必要な最小体制を作ります。既存部署への負荷を明確にし、必要な役割を分けます。三店舗以上へ進む場合は、専任体制を増やす条件を決めます」
進藤がすぐに確認する。
「段階的な人員計画ですね」
「はい」
「二店舗比較検証では、臨時または短時間の問い合わせ補助、倉庫内作業補助、声の集計補助を置く。三店舗へ進む場合は、問い合わせ一次対応と倉庫作業担当を専任化。五店舗以上では、取引先フォロー担当も専任化する」
一ノ瀬が数字を書き換え始める。
「その形なら、初期費用を抑えつつ、負担を見える化できます」
黒川が言った。
「二店舗比較検証でも、倉庫の作業補助は必要です」
「はい」
紬は頷いた。
「そこは入れます」
相沢も手を挙げた。
「問い合わせ補助を入れるなら、誰でもいいわけではありません。食品表示や保存方法について、勝手に答えられると危険です」
「研修が必要ですね」
「はい。回答できる範囲と、確認が必要な範囲を明確にする必要があります」
美崎が言った。
「言葉の研修も必要です。次回未定、追加販売未定、声への対応範囲。この言い方を間違えると期待が膨らみます」
松永が続ける。
「取引先への連絡も、担当者によって温度が変わると困ります。受ける前提ではなく、確認中であることを統一しないといけません」
柚木が、ノートに大きく書いた。
『採用して終わりではない。教える必要がある。』
加賀がそれを見て言った。
「いいメモだ」
柚木は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「でも、書いて終わるなよ」
「はい」
会議は、採用の具体へ進んだ。
一ノ瀬が、雇用形態ごとの費用を示す。
正社員。
契約社員。
パートタイム。
派遣。
業務委託。
それぞれの利点とリスク。
一ノ瀬は、特に短期的な安さだけで選ばないように注意した。
「安く見える雇用形態でも、教育コストがかかります。責任範囲が曖昧だと、結局既存社員が確認することになります」
相沢が頷いた。
「問い合わせ一次対応は、誰が最終確認するかを決めないと回りません」
黒川も言った。
「倉庫作業は、安全教育が必要です。短期で入れて、すぐ任せるのは無理です」
加賀が腕を組む。
「現場を知らねえ人間を、いきなりラインに入れるな」
「はい」
紬は答えた。
「採用計画には研修期間を入れます」
進藤がホワイトボードに書く。
『採用』
『研修』
『責任範囲』
『停止条件』
「人員計画にも停止条件を入れましょう」
進藤が言った。
「停止条件?」
柚木が聞く。
「はい。事業が想定通り進まない場合、新規採用を増やさない判断、契約更新を見直す判断、配置転換を検討する判断が必要になります」
会議室の空気が重くなった。
人を増やす話の中で、増やさない判断、更新しない判断に触れることは、誰にとっても気持ちのいいものではない。
紬も胸が痛んだ。
だが、一ノ瀬が静かに言った。
「そこを見ない採用は危険です」
「はい」
紬は頷いた。
「人を増やすなら、増やした後に責任を持つ必要があります。だから、事業がどこまで進めば何人必要なのか、どこで止まるなら増やさないのかを決めます」
美崎が、少し慎重に言った。
「社内への伝え方も必要です。新しいユニットに人を入れると、ほかの部署から“なぜそこだけ”という声が出る可能性があります」
「そうですね」
松永も頷いた。
「食品流通部からすれば、通常業務も人が足りているわけではありません。新しい取り組みだけに人がつくように見えると、不満が出るかもしれません」
黒川も言った。
「倉庫も同じです」
紬は、二人の言葉を受け止めた。
新しいことを始める時、そこだけに光が当たる。
でも、会社は新しい事業だけで回っているわけではない。
通常業務がある。
既存の取引先がある。
毎日の出荷がある。
そこを軽く扱えば、新しい取り組みは社内から信頼を失う。
「社内説明を行います」
紬は言った。
「地域共創物流ユニットは、新しい取り組みを優遇するためではなく、既存業務に負担を押しつけないために作る。そのことを伝えます」
美崎が頷いた。
「その言い方なら、社内向け文書にできます」
「お願いします」
「ただし、文書だけでは足りません。倉庫、食品流通部、営業、それぞれに直接説明した方がいいです」
「行きます」
紬はすぐに答えた。
加賀が少し笑った。
「また作業靴だな」
「はい」
紬も笑った。
「履いて行きます」
午後、具体的な役割分担が決まっていった。
二店舗比較検証に向けた最小体制。
倉庫作業補助として、まずは社内から一名を短期間配置転換できないか検討する。
不足する時間帯にはパートタイムの補助を入れる。
問い合わせ一次対応は、食品流通部に専任補助を置き、相沢が監修する。
声の集計は、柚木の新規事業チームが担当するが、入力補助をつける。
取引先フォローは松永を中心に、対応項目を標準化する。
食品表示確認は既存の担当者に依頼するが、確認依頼のフォーマットを統一する。
すべてに、担当者と責任範囲をつける。
曖昧な「みんなで」は使わない。
柚木がホワイトボードを見ながら言った。
「“みんなで”って、優しい言葉のようで、誰かに寄ることがありますね」
美崎が頷いた。
「はい。責任を曖昧にすることがあります」
加賀が言った。
「みんなでやるなら、まず誰が何をやるか決めろってことだ」
「はい」
紬は、その言葉を聞きながら、社長になってから何度も思ったことを改めて感じていた。
優しい言葉ほど、具体が必要だ。
共に進む。
みんなで支える。
声を返す。
地域とつながる。
どれも美しい。
けれど、誰が何をするかを決めなければ、誰かの負担に変わる。
夕方、採用計画の初稿ができた。
一ノ瀬が数字を確認する。
「この計画なら、二店舗比較検証の段階では赤字幅は管理可能です。ただし、三店舗へ進む場合、追加人員を入れないと現場負荷が限界を超えます」
「三店舗へ進む条件に、人員確保を入れましょう」
紬が言うと、進藤が頷いた。
「入れます」
「銀行向けにも」
「もちろんです」
黒川が言った。
「倉庫側の専任が確保できないなら、三店舗は不可と明記してください」
「明記します」
相沢も言った。
「問い合わせ一次対応が置けない場合も、三店舗は不可にしてください」
「はい」
松永が続ける。
「取引先フォローの担当が曖昧なら、新規商品追加は不可です」
「分かりました」
三人の条件が、事業計画に組み込まれていく。
できる条件ではなく、できない条件も同じ紙に書く。
それが、紬たちの計画になっていく。
会議の終わりに、紬は全員に向き直った。
「人を増やすことは、前に進むために必要だと思います」
会議室が静かになる。
「でも、人を増やせば解決するわけではありません。採用するなら、その人に何を任せるのか、誰が教えるのか、どこまで責任を持つのか、事業が止まった時にどうするのか。そこまで決めます」
紬は、一ノ瀬の費用表を見た。
「人件費は怖いです。毎月出ていくお金です。会社が苦しくなっても、簡単には削っていいものではありません」
一ノ瀬が、静かに紬を見ている。
「だからこそ、誰かの負担を見えないままにしないために、人を増やす判断をします」
加賀が頷いた。
黒川も、松永も、相沢も、黙って聞いていた。
「二店舗比較検証に向けて、最小体制の人員計画を進めます。三店舗以上へ進む場合は、専任体制が整うことを条件にします。条件が整わなければ、進みません」
進藤が、資料にその言葉を打ち込む。
紬は続けた。
「この方針で、暮らしの森マーケットと銀行に出す計画を作ります」
誰も反対しなかった。
静かな承認が、会議室に広がった。
夜、社長室に戻ると、紬は一ノ瀬から渡された人員計画表を机に置いた。
そこには、役割と費用が並んでいる。
数字は重い。
人の名前はまだ入っていない。
それでも、そこには未来の誰かの仕事がある。
その人に給与を払う。
その人に仕事を教える。
その人が安心して働けるようにする。
そして、その人に無理を押しつけない。
人を増やすということは、会社の未来に誰かを招き入れることなのだと、紬は思った。
簡単に決めてはいけない。
でも、怖がって決めないまま、今いる誰かに負担を背負わせてもいけない。
紬はノートを開いた。
『人を増やすことは、費用を増やすこと。けれど、人を増やさないことが、誰かの負担を見えなくすることもある。』
続けて書く。
『“みんなで”という言葉で、責任を曖昧にしない。役割、研修、責任範囲、停止条件を決める。』
さらに、ゆっくり一文を書いた。
『人件費は怖い。でも、人を軽く扱う会社にはしたくない。』
ペンを置くと、胸の奥に静かな重さが残った。
お金。
人。
倉庫。
取引先。
店舗。
声。
すべてがつながっている。
どれか一つだけを見て、前には進めない。
紬は、人員計画表の上に手を置いた。
まだ名前のない誰かの仕事。
その空欄に、会社の責任が見えた。
次に進むためには、人を迎える覚悟がいる。
その覚悟を持たないまま、売場を広げてはいけない。
紬は、深く息を吸った。
怖い。
けれど、必要な怖さだった。
この怖さから逃げずに、明日、社内へ伝える。
地域共創物流ユニットは、特別扱いのためではない。
誰かの我慢で新しい売場を作らないために必要なのだと。
その言葉を、自分の声で伝えなければならない。




