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女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


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第50章:勝負の一手

黒川の手書き図面は、社長室の机の上で、他のどの資料よりも強い存在感を放っていた。

銀行の資料は整っている。

暮らしの森マーケットの提案書は丁寧だった。

一ノ瀬の費用表は正確で、進藤の選択肢は分かりやすい。

柚木の売場案には未来があり、美崎の文案には言葉の細やかさがある。

それでも、紬の目は何度も黒川の図面へ戻った。

倉庫の棚。

通路。

店頭用梱包台。

返品確認場所。

店舗別の同梱物保管箱。

食品表示確認済み商品の置き場。

未確認商品の置き場。

その一本一本の線は、華やかではない。

けれど、現実そのものだった。

この線を無視して、二店舗も三店舗もない。

新規取引先もない。

銀行融資もない。

暮らしの森マーケットの次の提案もない。

紬は、図面の端に書かれた黒川の文字を見つめた。

『検討はできます。できます、ではない。』

その違いを間違えないために、今日の会議を開いた。

大会議室には、五人の騎士がそろっていた。

進藤。

加賀。

一ノ瀬。

美崎。

柚木。

さらに、黒川、松永、相沢も同席している。

黒川は倉庫側の条件表を持ち、松永は取引先確認項目を、相沢は問い合わせ対応表を持っていた。

紬は、全員の前に立った。

「今日は、二店舗比較検証を受けるかどうかだけを決める場にはしません」

会議室の空気が静かになる。

「銀行から事業計画を求められました。暮らしの森マーケットからは、青山台店での再検証、二店舗比較検証、条件付き三店舗展開の準備協議という提案をいただいています。新規取引先からの問い合わせも増えています」

紬は、黒川の図面に視線を落とした。

「でも、昨日、倉庫で確認しました。今のままではできません」

黒川は黙っていた。

「だから、できるふりをするのではなく、できる形を作るための案を考えたいです」

進藤が頷き、画面に資料を映した。

表紙には、まだ仮のタイトルがついていた。

『地域共創物流ユニット構想』

柚木が小さく息を呑んだ。

美崎は、その言葉を静かに見つめている。

一ノ瀬は、すでに費用表を開いていた。

加賀は腕を組んだまま、少しだけ目を細めた。

「地域共創物流ユニット」

紬は、ゆっくり口にした。

まだ馴染まない言葉だった。

でも、今の藤堂物産に必要なものが、そこに詰まっている気がした。

進藤が説明を始めた。

「目的は、地域食品の店頭販売を、通常業務に無理に乗せるのではなく、専用の小さな仕組みとして切り出すことです」

画面に項目が並ぶ。

倉庫内専用区画。

店頭用梱包ライン。

返品確認スペース。

店舗別同梱物管理。

食品表示確認。

問い合わせ一次対応。

販売後の声の集計と返却。

取引先選定基準。

店舗スタッフ向け資料作成。

販売終了後の振り返り。

「これは、新しい大規模事業部を作る案ではありません」

進藤は続けた。

「まずは小さなユニットです。二店舗比較検証に対応し、将来的に三店舗、五店舗へ進むかどうかを判断するための土台です」

黒川がすぐに言った。

「小さなユニットでも、場所は必要です」

「はい」

進藤は、黒川の図面を映した。

「倉庫内の北側区画を整理し、専用棚と梱包台を設ける案です。返品確認スペースも仮設ではなく、常設に近い形で設ける必要があります」

一ノ瀬が続けた。

「費用はまだ概算ですが、設備費、人員費、研修費、システム管理費を入れると、当初想定より大きくなります」

画面に数字が映る。

紬は、その金額を見た。

胸が重くなる。

小さな棚から始まったはずなのに、必要なお金は小さくない。

「この金額は、銀行に出せる数字ですか」

紬が尋ねると、一ノ瀬は首を横に振った。

「このままでは出せません。もっと詰める必要があります。見積もり、稼働時間、人員配置、返済原資、売上予測、撤退ライン。すべて必要です」

「はい」

「ただし、方向としては必要な費用です。これを入れない計画は、現場負荷を隠した計画になります」

黒川が、静かに頷いた。

「入れてください」

その一言に、紬は強く頷いた。

「入れます」

加賀が腕を組んだまま言った。

「名前をつけるのはいい。でも、名前だけ立派にして、中身が通常業務の寄せ集めなら意味ねえぞ」

「はい」

柚木が顔を上げた。

「私、最初に“地域共創物流ユニット”って聞いた時、少しかっこいいと思ってしまいました」

「正直だな」

加賀が言うと、柚木は苦笑した。

「でも、昨日の倉庫を見た後だと、かっこいい名前だけでは駄目だと分かります。箱を置く場所、カードを分ける箱、返品を見る台、問い合わせを受ける人。そういうものがないと、名前だけになります」

相沢が頷いた。

「問い合わせ対応も同じです。窓口と呼ぶなら、誰が、何を、どこまで答えるかを決める必要があります」

松永も続ける。

「取引先との間も同じです。声を返すと言うなら、どう返すか。全部に応えなくていいとどう伝えるか。次回販売を期待させすぎないための手順も必要です」

美崎が資料を見ながら言った。

「“共創”という言葉は、使い方に注意が必要です。きれいな言葉ですが、責任の所在を曖昧にしやすい」

「責任の所在」

紬が繰り返す。

「はい。誰と共に作るのか。どこまで藤堂物産が責任を持つのか。取引先に何をお願いするのか。店舗スタッフに何をお願いしないのか。それが曖昧なまま“共創”と言うと、負担を共有という名前で分散させるだけになります」

会議室が静かになった。

紬は、美崎の言葉を胸に入れた。

共創。

一見、優しい言葉。

しかし、優しい言葉ほど、負担を隠すことがある。

「では、名前も含めて慎重にしましょう」

紬は言った。

「地域共創物流ユニットという言葉を使うなら、責任の範囲も一緒に書きます」

進藤がメモを取る。

「目的定義に入れます」

一ノ瀬が資料を切り替えた。

「次に、人員です」

画面に、必要な役割が並ぶ。

倉庫専任作業担当。

食品表示確認担当。

問い合わせ一次対応担当。

取引先フォロー担当。

販売後の声集計担当。

店舗スタッフ向け資料作成担当。

柚木が目を見開いた。

「こんなに必要なんですか」

「最初から全員を新規採用するという意味ではありません」

一ノ瀬は言った。

「兼務、外部委託、既存人員の一部配置も含めて検討します。ただし、役割を曖昧にしてはいけません。誰かの余力に乗せる計画は、余力がなくなった瞬間に崩れます」

相沢が、少し疲れたように笑った。

「余力って、だいたい最初からないですから」

その言葉に、会議室の数人が小さく笑った。

けれど、笑いの後には現実が残る。

余力という言葉ほど、危ういものはない。

「では、役割を先に定義します」

紬は言った。

「誰が担当するかを決める前に、必要な仕事を全部出してください」

「全部出すと、かなり多くなります」

一ノ瀬が言う。

「隠すよりいいです」

紬は答えた。

一ノ瀬は、少しだけ紬を見た。

それから、静かに頷いた。

「承知しました」

黒川が、倉庫側の役割を読み上げた。

「入荷確認、店頭用梱包、店舗別仕分け、同梱物確認、出荷前最終確認、返品受け、状態確認、廃棄判断、在庫管理、通常業務との調整」

相沢が続ける。

「問い合わせ一次対応、商品情報確認、保存方法、アレルギー、次回販売未定時の案内、店舗スタッフからの質問、回答できない内容の振り分け」

松永が言う。

「取引先への販売前説明、販売後の声返却、次回意向確認、供給量確認、商品改善要望への整理、無理な拡大を避ける説明」

美崎が続ける。

「販促表現確認、外部発信、購入者コメント利用可否、取引先の言葉の扱い、完売・売り切れ後の表現」

柚木が言った。

「売場設計、声の回収方法、店舗スタッフ向け資料、購入者導線、改善案の反映、次回棚の仮説作成」

進藤がまとめる。

「全体工程、判断条件、撤退ライン、暮らしの森マーケットとの調整、銀行向け計画との整合」

最後に一ノ瀬が言った。

「収支、投資、返済、採算、費用配賦、失敗時の影響」

紬は、ホワイトボードいっぱいに並んだ役割を見た。

多い。

あまりにも多い。

小さな棚の裏には、これだけの仕事があったのだ。

見えていなかっただけで。

柚木も、少し呆然としている。

「これを全部、今の人数でやっていたんですね」

相沢が静かに答えた。

「全部はできていません。だから、ところどころで詰まっていました」

黒川も言った。

「一店舗だから、詰まっても見えた。増えたら、見える前に事故になります」

紬は、拳を握った。

「だから、ユニットが必要なんですね」

「必要です」

黒川が初めて、はっきり言った。

その言葉に、会議室の空気が変わった。

今の倉庫ではできない。

しかし、やるなら必要な形がある。

それを黒川が認めた。

「ただし」

黒川は続けた。

「作るなら、中途半端にはしないでください」

「はい」

「棚を少し空けるだけで、専用区画と言わないでください。作業台を一つ置くだけで、梱包ラインと言わないでください。担当者名を決めるだけで、体制を作ったことにしないでください」

一つひとつの言葉が重い。

紬は、まっすぐ受け止めた。

「約束します」

黒川は、紬を見た。

「約束だけでは足りません」

「計画に入れます。費用にも入れます。銀行にも、暮らしの森マーケットにも、社内にも、条件として出します」

黒川は、少しだけ黙った。

それから、小さく頷いた。

「なら、現場は協力します」

その言葉に、柚木が小さく息を吸った。

美崎の表情も少し緩んだ。

加賀は、何も言わなかったが、腕を組む力が少しだけ抜けた。

紬は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

現場が協力すると言ってくれた。

それは、簡単な承認ではない。

条件を出し、無理を拒み、それでも一緒に考えるという言葉だった。

「ありがとうございます」

紬は、深く頭を下げた。

会議は、午後まで続いた。

地域共創物流ユニットのたたき台は、少しずつ形になっていった。

第一段階。

青山台店の結果をもとに、倉庫内に仮専用区画を設け、二店舗比較検証に必要な最低限の作業分離を行う。

第二段階。

二店舗比較検証の結果を見て、三店舗へ進む条件を確認する。

第三段階。

三店舗以上を検討する場合、専用区画を正式化し、人員を増やし、問い合わせ一次対応を独立させる。

第四段階。

五店舗以上へ進む場合は、銀行融資を前提に、倉庫改修と専任チームを整える。

ただし、各段階で止まる条件も明記する。

返品率が基準を超えた場合。

店舗スタッフ負荷が想定を超えた場合。

倉庫作業時間が通常業務を圧迫した場合。

取引先が継続を望まない場合。

収支改善の見込みがない場合。

声の返却が追いつかない場合。

その場合は、次の段階へ進まない。

進まないことも、計画に入れる。

紬は、その一文を見て、深く頷いた。

進むための計画は、止まる場所を決めることで初めて現実になる。

夕方、暮らしの森マーケットへの返信文案ができた。

『二店舗比較検証について、前向きに検討いたします。ただし、今回の検証結果を踏まえ、当社内では地域食品売場を継続的に運営するための専用体制を整える必要があると判断しております。倉庫内作業区画、店舗別梱包、返品確認、問い合わせ一次対応、取引先への声の返却体制について条件を整理したうえで、改めてご提案いたします。三店舗以上の展開については、専用区画および人員体制が整うことを前提とし、現時点では即時対応はできません。』

美崎が最後の文を見て言った。

「“できません”を入れますか」

紬は頷いた。

「入れます」

進藤も頷いた。

「必要です」

一ノ瀬が言った。

「銀行向け計画とも整合します」

加賀が短く言う。

「よし」

柚木は、少しだけ悔しそうだった。

「強く見せたい気持ちは、まだあります」

「私もあります」

紬は答えた。

「でも、できないことを言える方が、今は強いと思います」

柚木は、その言葉を受け止め、ゆっくり頷いた。

銀行向け事業計画の表紙案もできた。

『地域共創物流ユニット設置計画

――地域食品売場の段階的拡大に向けた体制整備案』

美崎が副題を少し直した。

『段階的拡大』の横に、『撤退条件を含む』という注記を入れる。

一ノ瀬は、それを見て頷いた。

「良いと思います。銀行は、撤退条件がある方を評価します」

「夢がないですね」

柚木が言うと、一ノ瀬は淡々と答えた。

「返済には夢より条件が必要です」

柚木は苦笑した。

「はい」

夜になり、会議が終わった後も、紬は一人で大会議室に残っていた。

ホワイトボードには、今日出た役割がまだ消されずに残っている。

倉庫。

問い合わせ。

取引先。

言葉。

売場。

数字。

全体工程。

それらが線でつながり、地域共創物流ユニットという形になろうとしている。

小さな棚は、もうただの棚ではなくなっていた。

人と物と金と声を結ぶ仕組みに変わろうとしている。

けれど、それは同時に、責任が大きくなるということでもあった。

社長室に戻ると、机の上に黒川の図面と、新しいユニット構想案を並べた。

見比べると、よく分かる。

今日作った資料の元は、黒川の現場の線だった。

きれいな計画は、現場の埃の上に立っている。

紬はノートを開いた。

『勝負の一手は、大きく売ることではない。壊さず広げるための仕組みを作ること。』

続けて書く。

『地域共創物流ユニット。名前に負けない中身が必要。共創という言葉で、負担を曖昧にしない。』

さらに、もう一文。

『進む計画には、止まる条件も入れる。』

ペンを置くと、胸の中に静かな重さが残った。

銀行に出す資料は、これからもっと厳しくなる。

暮らしの森マーケットとの協議も続く。

新規取引先への返信も始まる。

人を増やすかもしれない。

お金を借りるかもしれない。

倉庫を変えるかもしれない。

どれも簡単ではない。

でも、今日、初めて次の形が見えた。

小さな棚の声を、誰かの我慢で終わらせないための形。

紬は、地域共創物流ユニットの表紙に手を置いた。

怖い。

けれど、逃げたくない。

この怖さを、五人と現場と数字と言葉で形にする。

それが、今の藤堂物産にとっての勝負の一手だった。


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