第49章:今の倉庫ではできない
銀行から戻った翌朝、紬は作業靴を履いて倉庫へ向かった。
社長室の机には、銀行向け事業計画の資料が積まれている。
暮らしの森マーケットからの二店舗比較検証の提案もある。
新規取引先の問い合わせ一覧もある。
どれも、紙の上では未来に見えた。
だが、その未来が本当に立てるかどうかは、紙の上では分からない。
倉庫の入口で、黒川が待っていた。
いつもの作業着姿。
腕には、古びたバインダー。
表情は、最初に紬がここへ来た日と同じくらい硬かった。
「おはようございます」
紬が頭を下げると、黒川は短く頷いた。
「おはようございます」
「今日は、よろしくお願いします」
「よろしくされても、いい返事はできませんよ」
黒川は、そう言って倉庫の奥へ歩き出した。
その声に、遠慮はなかった。
紬は黙って後を追った。
加賀も一緒に来ていた。
柚木は大きな図面筒を抱えている。
一ノ瀬は倉庫改修費の概算表を持っていた。
進藤は全体の確認項目を整理し、美崎は現場説明用のメモを取っている。
松永と相沢は、食品流通部から後で合流する予定だった。
倉庫の中は、朝の作業で動き始めていた。
トラックが搬入口につき、荷物が下ろされる。
作業員が手際よく箱を運ぶ。
フォークリフトが低い音を立てて通り過ぎる。
棚には、通常商品の段ボールが隙間なく並んでいた。
ここに、二店舗分、三店舗分、さらに新規取引先の商品を受け入れる。
そう考えただけで、紬の胸は重くなった。
黒川は、北側の一角で立ち止まった。
前回、一店舗検証用に使った棚がある場所だった。
「青山台店の検証は、ここで何とかしました」
「はい」
「何とかしただけです」
黒川は、紬を見た。
「最初にそれを言っておきます」
紬は、静かに頷いた。
「分かりました」
「一店舗分の商品。数量上限あり。商品種類も限定。販売期間も短い。返品も想定内。声のカードや店頭用梱包も、今回は事前に時間を取れました」
黒川は、棚を指差す。
「それでも、通常業務に影響は出ました」
柚木の表情が少し曇った。
「どのくらいですか」
黒川は、バインダーを開いた。
「店頭用梱包の準備で、通常出荷の作業開始が二回遅れています。大きな遅れではありません。ただ、他の出荷が少ない時間帯に調整したから吸収できただけです」
一ノ瀬がすぐにメモを取る。
黒川は続けた。
「案内カードの差し替え。声のカード同梱確認。ラベル位置確認。店舗別仕分け。今回は一店舗だから目視で追えました」
紬は棚を見る。
一店舗だから、目視で追えた。
その言葉は重かった。
「二店舗なら」
柚木が聞くと、黒川は即答した。
「今のやり方では危ないです」
会話が止まった。
「危ない、ですか」
「はい」
黒川は、倉庫の通路を歩きながら説明を続けた。
「青山台店と郊外型店舗で、商品構成が同じでも、店舗別の梱包、納品日、POP、声のカード、FAQが変わる可能性があります。店舗名を間違えたら、現場は混乱します。商品は同じでも、売場の説明が違えば、同梱物も変わります」
柚木は、図面筒を抱える手に力を込めた。
「同じ商品でも、店舗ごとに違う」
「そうです」
黒川は、段ボールの山の前で立ち止まった。
「ここは通常商品の置き場です。今でも余裕はありません。検証商品を置くために少し場所を空けると、別の荷物が押し出されます」
加賀が言った。
「押し出された荷物は、どこへ行く」
「一時置き場です」
「一時置き場は」
「本来、長く置く場所ではありません」
黒川の声が低くなる。
「そこに置くと、通路が狭くなります。作業員が回り込みます。フォークリフトの動線が変わります。小さな手間に見えますが、積み重なると事故につながります」
紬は、以前見た光景を思い出した。
床に落ちたビニール。
少し傾いた荷物。
小さな見落としが、現場では危険になる。
「三店舗なら」
進藤が尋ねると、黒川は首を横に振った。
「今の倉庫ではできません」
その言葉は、会議室で聞くよりずっと重かった。
倉庫の音の中で聞くと、逃げ場がない。
できない。
それは否定ではなく、現実だった。
柚木が、少しだけ声を落として言った。
「工夫しても、ですか」
黒川は柚木を見た。
「工夫で乗り切る段階は、一店舗で使いました」
柚木は、言葉を失った。
黒川は続けた。
「二店舗を一度だけなら、かなり条件を絞れば検討できます。同じ商品、同じ梱包、同じカード。納品日をずらす。作業時間を確保する。返品も限定する。それなら、現場と相談の余地はあります」
「三店舗は」
「専用区画なしでは無理です」
黒川は迷わず言った。
「五店舗は」
加賀が聞くと、黒川は少しだけ笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「今のままなら、事故を起こします」
その言葉に、全員が黙った。
事故。
数字ではない。
売上でもない。
人が怪我をするかもしれないという現実。
紬は、胸の奥が冷えるのを感じた。
銀行の資料にあった「倉庫改修費」という文字が、急に生々しいものになった。
ただの費用項目ではない。
誰かが安全に働くための場所。
商品を間違えず、壊さず、無理なく運ぶための場所。
「黒川さん」
紬は言った。
「もし、やるなら、何が必要ですか」
黒川は、バインダーから一枚の紙を出した。
そこには、手書きの図があった。
倉庫内の一角。
現在の棚。
通路。
搬入口。
返品確認場所。
新しく必要な区画。
店頭用梱包台。
声のカード、POP、店舗別資料の保管場所。
ラベル確認スペース。
返品品の一時確認スペース。
食品表示確認済み商品の置き場。
未確認商品の置き場。
紬は、その図を見た。
細かい。
でも、分かりやすい。
黒川は、すでに考えていたのだ。
「これを、いつ」
紬が尋ねると、黒川は少し目をそらした。
「銀行の話が出る前からです」
「前から」
「青山台店の検証中に、次が来るなら必要になると思いました」
紬は、胸が熱くなった。
黒川は、反対するためだけにいるのではない。
できないと言うためだけでもない。
やるならどうするかを、現場で考えてくれていた。
黒川は、少し気まずそうに続けた。
「ただし、これは最低限です」
「最低限」
「はい。これでも三店舗までです。五店舗を考えるなら、人も増やさなければ無理です」
一ノ瀬が、すぐに数字を確認した。
「専用区画を作る場合、既存業務に影響する面積はどの程度ですか」
黒川は別紙を出した。
「この棚二列分を整理する必要があります。古い在庫の処理、棚位置変更、作業導線の見直しが必要です」
「費用は」
「設備だけなら、そこまで大きくはありません。ただ、作業の組み替えに時間がかかります。人を増やさないなら、結局どこかに負担が出ます」
一ノ瀬は頷いた。
「人件費を入れます」
黒川が、少しだけ一ノ瀬を見た。
「入れてください。入れない計画なら、私は反対します」
「入れます」
そのやり取りに、紬は一ノ瀬の言葉を思い出した。
人件費を入れないなら、負荷がどこかに隠れるだけ。
まさに、その通りだった。
「店頭用梱包台は、二台必要です」
黒川が続ける。
「一台では、通常業務とぶつかります。カードやPOPを扱う作業は、食品の近くで雑にできません。確認ミスを防ぐために、店舗別に色分けした保管箱も必要です」
柚木が、すぐに聞いた。
「色分けは、店舗ごとですか」
「はい。青山台店、郊外型店舗、予備。三店舗になるなら、さらに増えます」
「POPや声のカードも、店舗ごとに分ける」
「当然です」
柚木は、図面に書き込んだ。
その手は少し震えていたが、逃げてはいなかった。
黒川は、さらに返品確認場所へ案内した。
「返品が出た場合、ここで状態確認します」
その場所は、倉庫の端にある狭い台だった。
今でも書類や一時保管品で埋まりかけている。
「ここでは足りません」
黒川は言った。
「食品の場合、状態確認、温度、破損、ラベル、同梱物の有無を見ます。返品理由も記録します。店舗が増えれば、戻ってくるものも増える可能性があります」
「返品は少ない前提では」
柚木が言いかけて、途中で止まった。
加賀が横から言った。
「少ない前提で場所を作らないのが一番危ない」
柚木は、すぐに頷いた。
「はい」
黒川は、紬を見た。
「売れれば嬉しい。完売すればもっと嬉しい。けれど、売れ残ることも、返品されることも、間違って届くこともあります。そこを見ない計画は、現場では計画とは言いません」
紬は、深く頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
黒川の声は厳しかった。
一ノ瀬と同じ言い方だった。
紬は、少しだけ苦笑しそうになったが、すぐに真顔に戻った。
「まだ完全には分かっていません。だから、今日は見に来ました」
黒川は、少しだけ目を細めた。
その答えなら、今は許す。
そんな表情だった。
倉庫を一回りした後、紬たちは小さな会議スペースへ移動した。
折りたたみテーブルの上に、黒川の手書き図面と、一ノ瀬の費用表、柚木の売場案、進藤の条件整理が並ぶ。
そこへ松永と相沢も合流した。
松永は、黒川の図面を見てすぐに頷いた。
「取引先ごとの商品確認場所が必要ですね」
「はい」
黒川が答える。
「森本食品だけならまだしも、新規取引先が増えるなら、商品ごとに扱いが変わります」
相沢は、問い合わせ対応表を広げた。
「食品流通部側も同じです。今は相沢と松永さんで何とか見ていますが、二店舗以上、新規商品追加となると、一次対応窓口が必要です」
柚木が言った。
「一次対応の専任を置くなら、どんな情報が必要ですか」
相沢は、すぐに答えた。
「商品情報、保存方法、アレルギー、次回販売未定時の案内、声のカードの説明、返品時の流れ。あと、答えられない質問を誰に回すか」
「全部、商品ごとに違いますよね」
「違います」
「それを、私たちが準備する」
「準備しないなら、店舗スタッフや食品流通部に質問が流れてきます」
相沢の声は淡々としていた。
だが、その言葉の中に疲れがあることを、紬はもう少し分かるようになっていた。
「専任を置く場合の費用も必要ですね」
紬が言うと、一ノ瀬は頷いた。
「入れます。問い合わせ一次対応担当、商品情報管理、声の集計補助。最低でも一名、将来的には複数名が必要です」
加賀が言った。
「人を入れたら終わりじゃねえぞ。教える人もいる」
「研修費も入れます」
一ノ瀬はすぐに書き込む。
柚木は、黒川の図面と相沢の問い合わせ表を見ながら、小さく言った。
「売場を一つ増やすって、棚を増やすことじゃないんですね」
加賀が答える。
「今さらか」
「はい。今さらです」
柚木は、恥ずかしそうに、でも逃げずに言った。
「でも、今分かってよかったです」
黒川が、少しだけ柚木を見た。
「分かるだけでは足りません」
「はい。仕組みにします」
柚木のその言葉に、黒川は何も言わなかった。
けれど、否定もしなかった。
紬は、会議スペースの窓から倉庫の中を見た。
作業員たちが、通常業務を進めている。
商品が届き、仕分けられ、出荷されていく。
小さな棚の未来は、この日々の業務の上に乗ろうとしている。
それを忘れてはいけない。
「黒川さん」
紬は、図面に目を落とした。
「この条件が整わなければ、三店舗はできない。そう銀行向け計画にも、暮らしの森マーケットへの回答にも入れます」
黒川は、紬を見た。
「二店舗は?」
「二店舗は、条件付きで検討します。同じ商品、同じ梱包、納品日調整、店舗別資料の明確化、返品確認場所の仮設、問い合わせ一次対応の一時体制。この条件が整うかを確認します」
進藤が頷く。
「その線が現実的です」
一ノ瀬も言った。
「二店舗比較検証の費用には、仮設対応費と臨時工数を入れます」
加賀が、黒川を見た。
「どうだ」
黒川は、しばらく黙っていた。
そして、短く言った。
「検討はできます」
柚木が少しだけ顔を上げる。
黒川はすぐに続けた。
「できます、ではありません。検討できます、です」
「はい」
紬は頷いた。
「その違いを間違えません」
黒川は、ようやく少しだけ息を吐いた。
「なら、現場としても条件を出します」
「お願いします」
黒川は、バインダーに挟んでいたもう一枚の紙を出した。
『二店舗比較検証 倉庫側条件』
一、商品種類は最大二種類まで。
二、店舗別同梱物は色分け管理。
三、納品日はずらす。
四、店頭用梱包作業は通常出荷ピーク時間を避ける。
五、返品確認場所を仮設する。
六、販売終了後の戻り物対応期間を決める。
七、店舗別問い合わせ内容を食品流通部と共有する。
八、追加販売は事前承認なしに行わない。
九、作業時間を記録する。
十、通常業務に影響が出た場合は即時停止協議。
紬は、その十項目を見た。
どれも厳しい。
でも、どれも必要だった。
「この条件を、正式な資料に入れます」
紬が言うと、黒川は頷いた。
「お願いします」
その言葉には、最初の頃にはなかった響きがあった。
命令でも、拒絶でもない。
一緒に守るための言葉だった。
倉庫を出る頃には、夕方になっていた。
作業靴の底には、倉庫の細かな埃がついている。
柚木は、図面筒を抱えたまま、少し疲れた顔をしていた。
「柚木さん」
紬が声をかけると、柚木は顔を上げた。
「はい」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
柚木は頷いた。
「未来図が、また重くなりました」
紬は少し笑った。
「はい」
「でも、前より本物に近づいた気がします」
その言葉に、紬は静かに頷いた。
本物に近づくほど、重くなる。
それは、きっと悪いことではない。
本社へ戻る車の中で、進藤が資料を整理しながら言った。
「暮らしの森マーケットへの回答は、二店舗比較検証を前向きに検討。ただし、倉庫側条件、食品流通部条件、取引先確認、費用試算を前提とする。三店舗展開については、専用区画と人員体制が整わない限り不可」
「はい」
紬は頷いた。
「銀行向け計画にも、黒川さんの条件を入れます」
一ノ瀬が言った。
「費用が増えます」
「入れてください」
「数字が厳しくなります」
「それでも入れてください」
一ノ瀬は、少しだけ紬を見た。
そして、静かに頷いた。
「承知しました」
美崎が続けた。
「社内向けにも、広げる前提ではなく、条件確認中であることを伝えた方がよいです。期待だけが先に広がると危険です」
「お願いします」
加賀が、窓の外を見ながら言った。
「黒川が、検討はできるって言ったのは大きい」
「はい」
「でも、それを都合よく“できる”に変えるなよ」
「変えません」
紬は答えた。
その夜、社長室に戻った紬は、机の上に三つの資料を並べた。
銀行の事業計画メモ。
暮らしの森マーケットの二店舗比較検証案。
黒川の手書き図面と倉庫側条件。
未来に見えた紙の横に、現場の条件が置かれると、景色が変わる。
希望は消えない。
けれど、軽くはなくなる。
紬はノートを開いた。
『今の倉庫ではできない。けれど、やるなら何が必要かを現場は考えてくれていた。』
続けて書く。
『できません、は終わりの言葉ではない。条件を出すための言葉になることがある。』
さらに、黒川の言葉を書いた。
『検討はできます。できます、ではない。』
その違いを、絶対に忘れてはいけない。
紬は、黒川の図面に手を置いた。
そこには、まだきれいな未来図は描かれていない。
ただ、棚の位置、通路、梱包台、返品確認場所が線で示されているだけだ。
でも、その線こそが、誰かの安全と、商品の確かさと、続けられる売場を支える。
銀行に見せる数字も、暮らしの森マーケットに出す条件も、この線から始めなければならない。
紬は、ゆっくり息を吐いた。
広げたい。
でも、今のままではできない。
その二つを同時に持つ。
そこからしか、次の一手は生まれない。
社長室の静けさの中で、紬は作業靴を見た。
靴の底に残った倉庫の埃が、今日の答えのように見えた。
未来は、きれいな資料の上ではなく、この埃の上に立たなければならない。




