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女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


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第48章:銀行の提案

銀行の応接室は、以前と同じように冷たかった。

白い壁。

磨かれたテーブル。

薄いグレーの椅子。

窓の外には、昼の街が静かに動いている。

星野紬は、前にここへ来た時のことを思い出していた。

追加融資には、売上見通しが必要だと言われた。

固定費削減の話も出た。

人員整理の可能性まで問われた。

その時、紬は胸の奥が冷えていくのを感じた。

銀行の椅子は冷たい。

そう思った。

今日も、その感覚は消えていない。

けれど、以前とは少し違っていた。

紬の手元には、暮らしの森マーケット青山台店での一店舗検証結果がある。

売上規模は小さい。

利益もほとんどない。

それでも、販売上限に達し、購入者の声が集まり、店舗スタッフの評価があり、次回への問い合わせが残った。

その小さな結果を、会社としてどう次へつなげるか。

今日は、その話をするために来ていた。

隣には一ノ瀬。

反対側には進藤。

加賀、美崎、柚木は本社で待機し、必要な資料をすぐ送れるようにしている。

銀行側からは、以前も面談した支店長代理の村瀬と、法人融資担当の北原が出席していた。

村瀬は資料をめくりながら言った。

「青山台店での販売検証、拝見しました。まず、完売されたとのこと、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

紬は頭を下げた。

一ノ瀬がすぐに補足する。

「ただし、販売数量は限定的です。売上規模としては小さく、利益面では検証費用として扱うべき結果です」

村瀬は、少しだけ笑った。

「一ノ瀬さんらしい補足ですね」

一ノ瀬は表情を変えない。

「過大評価はできません」

「もちろんです」

北原が資料に目を落とした。

「ただ、当行として関心があるのは、売上額だけではありません。御社が今回、何を測り、次にどうつなげようとしているかです」

紬は、背筋を伸ばした。

北原は続けた。

「店舗スタッフの説明負荷、問い合わせ件数、購入者コメント、再購入、売り切れ後の対応、取引先継続意向。これらを記録している点は、興味深いです」

「ありがとうございます」

「一方で、収益化にはまだ距離があります」

その言葉に、紬は頷いた。

「はい」

北原は、手元の資料を一枚めくった。

「二店舗比較検証の可能性があると伺っています」

「はい。ただし、まだ受ける判断はしていません。取引先、倉庫、食品流通部、店舗スタッフ対応、収支を確認している段階です」

「慎重ですね」

「はい」

紬は、はっきり答えた。

「でも、止まりたいわけではありません。広げるなら、壊さず広げたいと思っています」

村瀬は、その言葉を聞き、少しだけ身を乗り出した。

「その点について、当行からも一つ提案があります」

紬の胸が、静かに鳴った。

一ノ瀬の指が、資料の端で止まる。

進藤も、わずかに視線を上げた。

村瀬は、落ち着いた声で続けた。

「現時点で正式な融資承認をお約束するものではありません。ただ、御社がこの事業を今後、段階的に広げるのであれば、早い段階で資金計画を作る必要があります」

「資金計画」

「はい」

北原が資料を画面に映した。

そこには、銀行側が作成した簡易メモがあった。

『地域共創型売場事業 段階的拡大に向けた検討項目』

紬は、そのタイトルを見つめた。

地域共創型売場事業。

自分たちが作ってきた小さな棚に、銀行が名前をつけている。

そのことに、少し不思議な感覚を覚えた。

北原が説明を始める。

「一店舗検証が終わり、二店舗比較検証の話がある。さらに、問い合わせのある地域事業者が増えている。もし御社が、この動きを一過性の企画ではなく、継続事業として育てるなら、必要になるものがあります」

画面に項目が並ぶ。

専用の倉庫区画。

店頭用梱包スペース。

返品確認スペース。

問い合わせ一次対応窓口。

食品表示確認体制。

取引先選定基準。

販売後の声の返却体制。

店舗スタッフ向け資料作成。

収支管理。

段階的な店舗拡大計画。

紬は、一つずつ目で追った。

どれも、すでに現場から出ていた声だった。

黒川が必要だと言った場所。

相沢が必要だと言った窓口。

松永が求めた取引先への説明。

一ノ瀬が見ていた数字。

美崎が気にしていた言葉。

柚木が描き直していた売場。

それらが、銀行の資料の中で事業計画の項目になっている。

村瀬が言った。

「この事業は、話題性だけで広げると危険です」

「はい」

「一方で、御社がリスクを管理しながら小さく検証し、店舗スタッフや取引先の声を記録していることは、金融機関としても評価できます」

紬は、静かに息を吸った。

評価。

その言葉は嬉しい。

でも、浮かれることはできない。

村瀬は続けた。

「そこで、正式な融資検討の前段階として、御社に事業計画を作成していただきたいと考えています」

一ノ瀬がすぐに聞いた。

「事業計画の範囲は」

北原が答える。

「二店舗比較検証、三店舗展開、五店舗までの段階的拡大を想定したものです。ただし、一足飛びに五店舗へ進む計画ではなく、各段階での判断条件を明確にしてください」

「必要な項目は」

「売上計画、粗利、作業工数、人員計画、倉庫改修費、システム対応費、問い合わせ対応費、取引先選定基準、撤退ライン、失敗時の資金影響です」

一ノ瀬の目が鋭くなる。

「撤退ラインも含めるのですね」

「もちろんです」

北原は頷いた。

「成長計画だけでは、融資判断はできません。どこで止まるのか、どの条件を満たさなければ次へ進まないのか。そこが必要です」

紬は、胸の奥に重さを感じた。

銀行は、夢を見てくれる場所ではない。

可能性を見ながらも、返済と失敗を同時に見る場所だ。

「もし、その計画が現実的だと判断されれば」

進藤が静かに尋ねた。

「追加融資の可能性がある、という理解でよろしいでしょうか」

村瀬は頷いた。

「はい。倉庫内の小規模改修、人員体制整備、システム対応の一部について、融資検討の余地があります」

融資。

その言葉が、部屋の空気を少し重くした。

希望にも聞こえる。

けれど、同時に借りる責任の音がした。

一ノ瀬が紬の方を見た。

その目は、いつものように冷静だった。

借りたお金は、期待では返せません。

以前、一ノ瀬が言った言葉が胸に戻ってくる。

村瀬は、紬を見た。

「星野社長は、どう受け止められますか」

紬は、すぐには答えなかった。

自分の中の声を確かめる。

嬉しい。

怖い。

進みたい。

でも、借りるのは怖い。

二店舗比較検証さえ、まだ受ける判断をしていない。

新規取引先も増えているが、選定基準すら作り始めたばかりだ。

ここで融資という言葉に引っ張られれば、会社はまた大きく見せようとしてしまうかもしれない。

でも、現状の倉庫では広げられない。

人も足りない。

仕組みも必要だ。

壊さず広げるためには、お金がいる。

紬は、ゆっくり口を開いた。

「正直に言うと、怖いです」

村瀬の表情が少し動いた。

北原も、紬を見た。

紬は続けた。

「融資という言葉を聞くと、前に進める気がします。でも、同時に、返さなければならないお金だということも分かります。期待だけで借りることはできません」

一ノ瀬が、静かに頷いた。

「私たちは、まだ一店舗で小さく完売しただけです。売上規模では大きくありません。新規の問い合わせも増えていますが、全部受けることはできません。暮らしの森マーケット様から次の提案もいただいていますが、現場と取引先の確認が必要です」

紬は、銀行側の資料を見る。

「それでも、壊さず広げるためには、準備が必要だと思っています。倉庫も、人も、問い合わせ対応も、取引先への声の返し方も。そこを整えずに広げれば、結局、誰かの我慢で売場を作ることになります」

村瀬は、黙って聞いていた。

「だから、融資をお願いするかどうかの前に、まず私たちは、自分たちがどこまで責任を持てるのかを計画にします」

紬は、少し息を吸った。

「大きく売るためではなく、壊さず広げるための計画を作ります」

村瀬は、ゆっくり頷いた。

「その姿勢で構いません」

北原も言った。

「むしろ、そこが重要です。勢いだけであれば、当行としても支援は難しい。ですが、リスクを管理しながら広げる計画であれば、検討の余地があります」

進藤が、静かにメモを取る。

一ノ瀬は、すでに必要資料の一覧を作り始めていた。

村瀬は最後に言った。

「ただし、一つ申し上げます」

紬は顔を上げた。

「はい」

「慎重さは強みですが、慎重すぎれば機会を逃します。御社が次の段階に進む意思を持つなら、期限を決めて計画を出してください」

その言葉は、貴之の言葉とは違う形で紬に刺さった。

遅さを美徳にしていると、会社は置いていかれる。

貴之に言われた言葉がよみがえる。

銀行もまた、同じ危うさを別の言い方で示している。

止まりすぎてもいけない。

急ぎすぎてもいけない。

その間を、決めなければならない。

「分かりました」

紬は答えた。

「期限を決めます」

面談が終わり、銀行を出ると、外の空気は少し湿っていた。

雨が降りそうな曇り空だった。

紬は、ビルの前で立ち止まった。

一ノ瀬が隣に立つ。

進藤は少し離れた場所で、社用車に連絡している。

「星野さん」

一ノ瀬が言った。

「はい」

「怖いとおっしゃったのは、良かったと思います」

「銀行の前で言ってよかったのでしょうか」

「はい」

一ノ瀬は、きっぱり答えた。

「怖がらない経営者より、怖がったうえで計画を作る経営者の方が信用できます」

紬は、少しだけ笑った。

「一ノ瀬さんにそう言われると、安心します」

「安心するのはまだ早いです」

「やっぱり」

一ノ瀬は、資料を閉じた。

「これから、かなり厳しい作業になります。希望的な数字は入れません。人件費も、倉庫費用も、問い合わせ対応費も、全部入れます」

「はい」

「融資を受けるなら、返済計画が必要です。返済できないなら、借りてはいけません」

「はい」

「借りられることと、借りてよいことは違います」

その言葉に、紬は深く頷いた。

「分かりました」

進藤が戻ってきた。

「本社へ戻りましょう。皆さんが待っています」

「はい」

車の中で、紬は窓の外を見ていた。

銀行からの提案。

融資の可能性。

事業計画。

三店舗、五店舗。

倉庫改修。

人員体制。

新規取引先。

暮らしの森マーケットの二店舗比較検証。

一つの棚から始まったものが、急に大きなものへつながり始めている。

でも、大きくなればなるほど、足元を見なければならない。

本社に戻ると、五人と黒川、松永、相沢が大会議室に集まった。

紬が銀行面談の内容を伝えると、会議室の空気はすぐに重くなった。

柚木が最初に口を開いた。

「融資の可能性があるんですね」

「はい。ただし、事業計画を作ることが前提です」

柚木の目には、少しだけ希望が見えた。

だが、加賀がすぐに言った。

「浮かれるなよ」

「はい」

「金が借りられるかもしれねえってことは、返すものが増えるってことだ」

一ノ瀬が頷いた。

「その通りです」

黒川が画面越しに言った。

『倉庫改修の話が出るなら、現場側で必要な設備と動線を出します。ただし、適当に棚を増やすだけなら反対します』

「お願いします」

紬は答えた。

松永も言った。

『取引先選定基準を同時に作る必要があります。商品が増えれば、説明責任も増えます』

相沢が続ける。

『問い合わせ窓口を食品流通部だけで受ける形は無理です。一次対応の専任が必要です』

一ノ瀬が資料を開いた。

「銀行向け事業計画には、人件費を入れます。専任を置かないなら、負荷がどこかに隠れるだけです」

柚木が、少し緊張しながら言った。

「地域共創型売場事業、という名前が銀行資料にありましたよね」

紬は頷いた。

「はい」

「名前がつくと、急に大きく見えますね」

「私もそう思いました」

美崎が静かに言った。

「名前は便利です。でも、名前がついた瞬間、実態より大きく見えることがあります」

「はい」

紬は頷いた。

「大きく見せすぎないようにしましょう」

進藤がホワイトボードに三つの大きな項目を書いた。

『二店舗比較検証』

『新規取引先選定』

『銀行向け事業計画』

「この三つを同時に進める必要があります。ただし、順番を間違えると危険です」

「順番」

紬が言うと、進藤は頷いた。

「まず、二店舗比較検証を受ける条件を整理する。次に、新規取引先をすぐに受けず、選定基準を作る。そして、銀行向けには、三店舗以上へ進む場合に何が必要かを計画にする」

一ノ瀬が補足する。

「銀行向け計画は、理想ではなく制約を示す資料です。できること、できないこと、必要な投資、撤退ラインを明記します」

加賀が言う。

「現場の無理も入れろよ。できなくはない、で計画立てたらぶっ潰すぞ」

「入れます」

柚木がすぐに答えた。

「今回は、できなくはない、を使いません」

相沢が画面越しに少し笑った。

『それなら少し安心です』

会議室に、小さな笑いが起きた。

緊張の中に、少しだけ温度が戻る。

紬は、その声を聞いていた。

大きな話になっている。

でも、五人と現場の声があれば、まだ足元に戻れる。

それが、今の紬にとって一番の支えだった。

「皆さん」

紬は、ゆっくり口を開いた。

「銀行から融資の可能性を示されました。でも、私たちは借りることを目的にしません」

会議室が静かになる。

「大きく売るために借りるのではなく、壊さず広げるために本当に必要なら、借りる。その判断をしたいです」

一ノ瀬が、静かに紬を見る。

「そのために、厳しい数字を見ます。現場の無理も見ます。取引先の期待も見ます。できないことも書きます」

紬は、五人と画面の向こうの三人を見た。

「希望だけの計画は作りません。怖さも入れた計画を作ります」

進藤が頷いた。

「それなら、作れます」

加賀が短く言う。

「なら、やるしかねえな」

美崎が資料を整えながら言った。

「言葉も、慎重に組み立てます」

柚木は、少しだけ笑った。

「小さくても、未来が見える計画にします。でも、歩ける幅で」

一ノ瀬が最後に言った。

「借りたお金は、期待では返せません。そこだけは忘れないでください」

紬は、まっすぐ頷いた。

「忘れません」

夜、社長室に戻った紬は、銀行から受け取った資料を机に広げた。

地域共創型売場事業。

段階的拡大。

融資検討。

倉庫改修。

人員体制。

どれも、少し前の紬なら遠すぎる言葉だった。

今も、十分遠い。

でも、まったく見えないわけではない。

一店舗の棚で拾った声が、ここまで来た。

それは嬉しい。

けれど、嬉しさだけで触れてはいけないものだった。

紬はノートを開いた。

『銀行は、希望を貸してくれる場所ではない。返せる計画を見る場所。』

続けて書く。

『借りられることと、借りてよいことは違う。』

さらに、ゆっくり書き足した。

『大きく売るためではなく、壊さず広げるために必要なお金かどうかを見る。怖さも入れた計画を作る。』

ペンを置くと、窓の外に夜の街が広がっていた。

華やかな売場。

空になった棚。

増える取引希望。

大手チェーンからの次の提案。

銀行の融資可能性。

すべてが、紬の前に並んでいる。

どれも、未来に見える。

どれも、間違えれば誰かを傷つける。

紬は、一ノ瀬から渡された返済シミュレーションの空欄を見た。

まだ数字は入っていない。

けれど、その空欄が、今日一番重く見えた。

ここに、期待ではなく現実を入れなければならない。

紬は、資料の上に手を置いた。

怖い。

でも、逃げない。

その怖さを、五人と一緒に数字にする。

そこからしか、次の一歩は始まらない。


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