第47章:増える声の重さ
翌朝、藤堂物産の大会議室には、まだ見ぬ取引先の名前が並んでいた。
農家。
漬物屋。
味噌蔵。
菓子工房。
小さな惣菜メーカー。
地方の加工食品会社。
問い合わせ一覧は、前日の夜からさらに増えていた。
七件だったものが、朝には十二件になっている。
そのうち何件かは、暮らしの森マーケット青山台店での棚を実際に見たという。
別の数件は、購入者の投稿や業界関係者から聞いたという。
問い合わせの文面は、それぞれ少しずつ違っていた。
『大手チェーンに出したいというより、商品を丁寧に説明してくれる売場に興味があります』
『うちの商品は大量生産できませんが、少量でも扱ってもらえる可能性はありますか』
『以前、大きな催事に出した時に、追加納品を求められて苦しい思いをしました。無理な数量を求めない取り組みなら話を聞きたいです』
『お客様の声が戻ってくる仕組みに興味があります。ただ、全部に応える余裕はありません』
『規格外品ではなく、通常の商品として見てほしいです』
星野紬は、それらの文面を読みながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
嬉しい。
それは確かだった。
藤堂物産が作った小さな棚に、誰かが可能性を感じてくれた。
売上規模では大きくない。
派手な話題にもなっていない。
それでも、声は届いた。
けれど、その喜びはすぐに重さへ変わる。
全部受けられるわけがない。
受けたくても、受けられない。
一つひとつの商品には、人がいる。
作る人がいる。
運ぶ人がいる。
説明する人がいる。
問い合わせに答える人がいる。
声を返す人がいる。
その全部を見ないまま、問い合わせが来たからといって手を広げれば、せっかく生まれた信頼を自分たちで壊すことになる。
加賀は一覧表を見て、最初に言った。
「増えたな」
柚木は、少し嬉しそうに頷いた。
「はい。すごいです」
「すごいだけで済むなら楽なんだよ」
加賀の声は低い。
「この中で、今の藤堂物産が責任持って扱えるのは、たぶん一部だけだ」
柚木の表情が引き締まる。
「分かっています」
黒川もオンラインで入っていた。
画面の向こうで、倉庫の事務所らしい背景が見える。
『先に言っておきますが、今の倉庫で新規を次々受けるのは無理です』
「はい」
紬は頷いた。
『一店舗検証の商品だけでも、店頭用梱包、返品確認、声のカード、報告資料で通常出荷とは違う手間が出ています。商品ごとに温度帯、賞味期限、ラベル、壊れやすさが違うなら、さらに確認が必要です』
松永も、食品流通部からオンラインで参加していた。
『取引先対応も同じです。問い合わせが来たからといって、すぐ商談に入ると期待が膨らみます。最初に、受けられる条件と受けられない条件をはっきりさせるべきです』
相沢が、手元の資料をめくりながら言った。
『商品が増えれば、FAQも増えます。お客様からの問い合わせだけではなく、店舗スタッフからの確認も増えます。今の食品流通部で全部受ける形は無理です』
無理。
その言葉が何度も出た。
けれど、紬はもう、その言葉をただの否定とは受け取らなかった。
無理と言ってもらえるから、壊れる前に止まれる。
「ありがとうございます」
紬は、画面の三人に頭を下げた。
「今日は、誰を受けるかを決めるのではなく、まず選定基準を決めたいです」
進藤が頷き、資料を映した。
『新規取引希望先 初期確認項目案』
項目は多かった。
商品種別。
食品表示対応。
賞味期限。
温度帯。
供給可能数量。
製造体制。
品質管理。
アレルギー表示。
価格設定。
返品・欠品時の対応。
販促表現の確認可否。
購入者の声を受け取る意思。
声への対応範囲。
無理な追加生産をしない姿勢。
大手販売への期待値。
一ノ瀬がすぐに言った。
「価格と原価、供給可能数量は必須です。少量販売でも、最低限の採算が取れない商品は続きません」
美崎が続ける。
「商品背景の言葉も確認が必要です。地方らしさ、手作り、昔ながら、規格外、支援。こうした言葉を使う時は、取引先がどう受け止めるかを必ず聞くべきです」
柚木は、問い合わせ文面を見ながら言った。
「声を返す仕組みに興味がある会社が多いです。でも、全部の声に応えられるわけではないと最初に伝えないと、逆に苦しくなります」
「その通りです」
紬は頷いた。
「森本さんも言っていました。声をもらうのは嬉しい。でも、全部に応えようとすると苦しくなる、と」
会議室に、静かな理解が広がる。
声は宝物のように見える。
しかし、声が増えすぎれば、それもまた負担になる。
聞くことは、すべてに応えることではない。
その線を引かなければならない。
加賀が一覧表を指差した。
「あと、こっちの都合だけじゃねえ。向こうが何を期待してるかも見ろ」
「期待ですか」
柚木が聞き返す。
「ああ。大手に出れば一気に売れると思ってる相手は危ない。こっちが少量検証だって言っても、途中で話が膨らむ」
松永が頷いた。
『期待値の確認は重要です。大きく売りたいのか、無理なく試したいのか、声を知りたいのか。そこが違うと、後で必ずずれます』
進藤が項目を追加した。
『大手販売への期待値』
紬は、その文字を見た。
期待は、希望でもある。
でも、希望は時に圧力になる。
売れたら増やしたい。
選ばれたら広げたい。
その気持ちを否定することはできない。
けれど、期待だけで売場を作れば、誰かの手が潰れる。
「まず、一次返信を出しましょう」
美崎が言った。
「問い合わせへのお礼と、現時点で取引をお約束するものではないこと。少量検証を前提に、供給量、品質管理、表示対応、声の返却への理解などを確認させていただくこと。大手展開を保証するものではないこと」
「冷たく見えませんか」
柚木が少し心配そうに言った。
美崎は静かに首を横に振った。
「期待を曖昧に膨らませる方が、後で冷たくなります」
一ノ瀬も頷く。
「最初に条件を示すことは、相手を守ることでもあります」
紬は、二人の言葉を聞いていた。
以前なら、問い合わせに対してできるだけ温かい言葉を返したいと思ったかもしれない。
でも今は分かる。
温かいだけの言葉は、後で相手を傷つけることがある。
「美崎さん、一次返信案をお願いします」
「はい」
「進藤さん、選定基準表を」
「承知しました」
「一ノ瀬さん、最低限確認する数字を」
「作成します」
「加賀さん、黒川さんと現場負荷の確認項目を」
「やる」
「柚木さん、声の返し方に興味がある事業者向けの説明資料を作れますか」
柚木の顔が明るくなった。
「はい。ただし、大きく見せないように作ります」
「お願いします」
会議の終盤、進藤のスマートフォンが震えた。
画面を見た進藤の表情が、わずかに変わる。
「暮らしの森マーケットの野上さんからです」
紬の胸が静かに鳴った。
「何でしょうか」
進藤はメールを開いた。
「次回協議の提案です」
会議室の空気が、一瞬で変わった。
進藤は、メールを読み上げた。
『青山台店での販売結果を踏まえ、御社の一店舗棚について、当社内で継続検討の対象とすることになりました。次の段階として、以下三案についてご相談できればと考えております。
一、青山台店での再検証
二、青山台店と郊外型店舗の二店舗比較検証
三、条件付き三店舗展開の準備協議』
柚木が息を呑んだ。
一ノ瀬がすぐに資料へ目を落とす。
加賀は腕を組んだまま、眉を寄せた。
美崎は、言葉の温度を測るようにメールを見ている。
紬は、進藤の読み上げた三つの案を胸の中で繰り返した。
青山台店での再検証。
二店舗比較検証。
条件付き三店舗展開。
次が、本当に来ている。
「続きがあります」
進藤は読み上げた。
『当社としては、二店舗比較検証に関心があります。青山台店のような都市型店舗と、家族層の多い郊外型店舗で、購入理由、問い合わせ内容、店舗スタッフ負荷にどのような違いが出るかを見たいと考えています。なお、三店舗展開については、御社側の対応体制が整うことを前提とします。』
柚木が、小さく言った。
「二店舗……」
一店舗より広がる。
三店舗よりは抑えられている。
暮らしの森マーケット側も、紬たちの慎重さを踏まえているように見えた。
ただし、二店舗になれば、負荷は単純に二倍ではない。
店舗の客層が違えば、問い合わせも違う。
売れ方も違う。
スタッフの説明負荷も変わる。
声の整理も増える。
黒川が画面越しに言った。
『二店舗でも、同時にやるなら今のままでは厳しいです』
「はい」
紬は頷いた。
『青山台店と同じ商品、同じ数量、同じ梱包なら、まだ検討できます。ただし郊外型店舗で売れ方が変わるなら、追加対応が出る可能性があります』
松永も言った。
『取引先にも確認が必要です。森本さんが同意するかどうか。小さいサイズの要望も出ていますが、すぐには対応できません』
相沢も続ける。
『店舗が変われば、FAQも変わると思います。家族層が多い店舗なら、分量、子ども向け、アレルギー、保存方法の問い合わせが増えるかもしれません』
二店舗比較検証。
言葉だけ聞けば、魅力的だった。
しかし、少し考えただけで、見なければならないものが増えていく。
紬は、胸の中の高揚を抑えた。
嬉しさで即答してはいけない。
「この場では、受けるとは決めません」
紬は言った。
柚木が頷く。
「はい」
「でも、検討はしたいです」
加賀が短く言う。
「検討ならいい」
一ノ瀬が資料を開く。
「二店舗比較検証の場合、最低限必要な追加費用を出します。人員追加なしで対応できるか、臨時対応が必要かを分けます」
進藤が言った。
「選択肢を整理します。一店舗再検証、二店舗比較、三店舗準備協議。それぞれの利点、リスク、必要条件、断る場合の理由」
美崎が続ける。
「暮らしの森マーケットへの返信は、“前向きに検討するが、取引先と現場確認が必要”という温度にしましょう。二店舗という言葉だけが先に動かないように」
柚木は、自分のノートに大きく書いていた。
『二店舗は二倍ではない』
加賀がそれを見て、少しだけ口元を上げた。
「分かってきたな」
柚木は、真剣な顔で頷いた。
「はい」
その時、紬のスマートフォンに通知が入った。
松永から、別のメッセージだった。
『森本さんから追加連絡。今回の声は従業員にも見せたいとのこと。ただし、二店舗以上の話が出るなら、必ず事前に相談してほしいそうです』
紬は、その文面を読み、静かに頷いた。
当たり前だ。
暮らしの森マーケットから次の提案が来た。
新規取引先から問い合わせが来た。
会社としては嬉しい。
でも、森本食品にとっては、自分たちの製造現場がどうなるかという話だ。
売場の可能性は、誰かの明日の仕事になる。
「森本さんへの説明を最優先にしてください」
紬は松永に返信した。
『暮らしの森マーケットから二店舗比較検証の提案が来ましたが、まだ受ける判断はしていません。取引先確認前に進めることはしません、と伝えてください』
すぐに松永から返事が来た。
『承知しました』
紬は、会議室の全員に向き直った。
「暮らしの森マーケットへの返信前に、森本さん、倉庫、食品流通部、店舗スタッフ対応の確認をします」
進藤が頷く。
「順番として適切です」
「新規取引先についても、すぐに商談化しません。まず選定基準と一次返信を整えます」
「はい」
「その上で、二店舗比較検証を受けるかどうかを判断します」
会議室に、少し緊張した静けさが流れた。
次の可能性がある。
でも、可能性はそのまま責任になる。
それを全員が分かっていた。
夕方、美崎が一次返信案を持ってきた。
文章は温かいが、曖昧ではなかった。
『このたびはお問い合わせをいただき、誠にありがとうございます。現在、藤堂物産では地域食品の販売検証について、取引先、現場、販売先の負荷を確認しながら慎重に進めております。お問い合わせをいただいたことをもって、直ちにお取引や大手店舗での販売をお約束するものではありません。今後、商品特性、供給可能数量、品質管理、表示対応、販売後の声の返却に関するご意向などを確認させていただいたうえで、個別に検討いたします。無理な数量拡大や短期的な販売を前提とするものではなく、続けられる形を重視しております。』
紬は何度も読んだ。
少し硬い。
けれど、必要な硬さだった。
「良いと思います」
紬が言うと、美崎は頷いた。
「期待を膨らませすぎないための文章です」
「はい」
「でも、冷たくはしたくありませんでした」
「伝わります」
美崎は、少し安心したように息を吐いた。
柚木の説明資料も上がってきた。
タイトルは、
『声を返す販売検証について』
内容は、声を集める目的、返せる声と返せない声、すぐ商品改善を求めるものではないこと、個人情報の扱い、取引先の負担を増やさないための整理方法。
以前の柚木なら、もっと未来の広がりを前面に出したかもしれない。
今の資料は、明るいが、足元を見ていた。
一ノ瀬は、二店舗比較検証の費用試算を出した。
「赤字幅は広がります。検証費用として説明できる範囲かどうかは、銀行との相談が必要になるかもしれません」
「銀行に、もう相談する段階ですか」
紬が尋ねると、一ノ瀬は頷いた。
「正式な融資申込ではありません。ただ、今後三店舗以上へ進む可能性があるなら、早めに温度感を確認すべきです」
銀行。
倉庫。
人員。
取引先。
新規問い合わせ。
暮らしの森マーケット。
すべてが同時に動き始めている。
紬は、頭の中が少し熱くなるのを感じた。
進藤が静かに言った。
「星野さん、今日決めることは三つです」
「はい」
「一つ、新規問い合わせへの一次返信を出す」
「はい」
「二つ、暮らしの森マーケットへ、二店舗比較検証を前向きに検討するが、取引先と現場確認を前提とする、と返信する」
「はい」
「三つ、銀行へ事前相談の時間を取る」
その三つは、次へ進むための小さな扉だった。
どれも、まだ大きな決定ではない。
でも、開ければ戻れないものが少しずつ増える。
紬は、五人を見た。
進藤の静かな目。
加賀の厳しい表情。
一ノ瀬の資料。
美崎の文案。
柚木の少し緊張した顔。
画面の向こうには、黒川、松永、相沢もいる。
一人で決めているのではない。
それでも、最後に言葉にするのは紬だった。
「その三つで進めます」
紬は言った。
「ただし、どの返信にも、取引や展開を約束する表現は入れません。期待をいただいたことには感謝します。でも、守れない期待は膨らませません」
進藤が頷いた。
「承知しました」
加賀が言った。
「それでいい」
一ノ瀬も。
「数字の準備に入ります」
美崎が文案を整える。
柚木が説明資料を抱え直す。
画面の向こうで黒川が言った。
『現場確認の日程をください』
松永が続ける。
『森本さんへの説明を進めます』
相沢も言った。
『二店舗想定のFAQ項目、先に洗い出します』
声が重なっていく。
紬は、その声の真ん中で、胸の奥に重さを感じた。
それは、怖さだけではなかった。
期待が増える。
声が増える。
仕事が増える。
責任が増える。
でも、五人と現場の声がある限り、増えた期待に飲み込まれずに済むかもしれない。
夜、社長室に戻った紬は、机に三つの資料を並べた。
新規取引希望一覧。
暮らしの森マーケットからの次回協議メール。
銀行向け事前相談メモ。
どれも、次につながる資料だった。
どれも、軽くはなかった。
紬はノートを開いた。
『声が増える。期待が増える。取引したいと言われることは、選ばれることではなく、選ぶ責任が増えること。』
続けて書く。
『二店舗は二倍ではない。店舗が変われば、声も負荷も変わる。』
さらに、最後に一文を書いた。
『進む前に、誰と進むのか。どこまで進めるのか。進まない相手に、どう誠実でいるのか。』
ペンを置くと、窓の外に夜の東京が広がっていた。
小さな棚が生んだ声は、もう棚の中には収まらなくなっている。
消費者から、店舗へ。
店舗から、大手チェーンへ。
大手チェーンから、次の提案へ。
地域の事業者から、藤堂物産へ。
そして、銀行へ。
声は広がる。
けれど、広がるほど、壊れやすくなる。
紬は、暮らしの森マーケットへの返信文をもう一度読んだ。
『前向きに検討いたします。ただし、取引先、現場、店舗スタッフ対応、収支を確認したうえで、改めてご回答いたします。』
その一文に、今の藤堂物産の姿勢が入っている気がした。
前に進む。
でも、確認せずには進まない。
期待を受け取る。
でも、約束に変える前に足元を見る。
紬は、静かに送信ボタンを押した。
画面に、送信完了の文字が出る。
次の扉は、開いた。
けれど、その先へ走り出すのではない。
一歩ずつ、誰の声を持って進むのかを確かめながら歩く。
それが、今の紬たちにできる唯一の進み方だった。




