第39章:売場は優しさでは埋まらない
暮らしの森マーケットの本社に向かう車の中で、紬は何度も資料を見返していた。
進藤が作った選択肢。
一ノ瀬の収支表。
美崎が整えた説明文。
柚木の売場イメージ。
加賀と黒川が確認した倉庫動線。
そのどれもが、一店舗検証案を支えている。
けれど、今日の面談は、これまでとは違う緊張があった。
暮らしの森マーケット側から、比較検討中の別企画について、もう少し具体的な説明をしたいという連絡があった。
正式な相手名は、まだ開示されていない。
それでも、紬の中ではもう答えが出ていた。
藤堂貴之。
その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が硬くなる。
総会の日の視線。
学生インターンかと笑った声。
会社分割を淡々と進めた姿。
そして今、彼はまた別の形で紬の前に現れようとしている。
会社の会議室ではなく、大手チェーンの売場をめぐる場所で。
隣の席には加賀がいた。
進藤も同行する予定だったが、急な銀行対応が入り、今日は紬と加賀、美崎、柚木の四人で向かっている。
一ノ瀬は本社で数字資料の再確認。
進藤はオンラインで必要時に入れる状態になっている。
加賀は窓の外を見ていた。
いつもより口数が少ない。
「加賀さん」
紬が声をかけると、加賀は視線だけをこちらに向けた。
「何だ」
「今日、貴之さんが来ると思いますか」
加賀は少しだけ黙った。
「来るかもしれねえな」
「直接、会ったら」
「会ったら?」
「私、ちゃんと話せるでしょうか」
加賀は、少し鼻で笑った。
「ちゃんと話そうとするな」
「え」
「向こうは、ちゃんとした言葉で揺さぶってくる。こっちが全部きれいに返そうとしたら飲まれる」
紬は資料を握り直した。
「では、どうすれば」
「分からねえことは分からねえって言え。痛いところを突かれたら、痛いって顔をしろ。ただし、嘘はつくな」
加賀の言葉は乱暴に聞こえる。
けれど、不思議と紬の呼吸を少し楽にした。
「加賀さんは、貴之さんをどう見ていますか」
加賀は、窓の外に視線を戻した。
「嫌いだ」
あまりにもはっきりした答えに、紬は一瞬黙った。
加賀は続けた。
「でも、全部間違ってるとは思わねえ」
その言葉は、藤堂会長の言葉と重なった。
貴之は、全部は間違っていない。
だからこそ、厄介なのだ。
「数字を作る力はある。大きな相手に通る絵を描くのもうまい。現場を締めるのも早い」
加賀の声は低かった。
「ただ、あいつは現場が歯を食いしばれば何とかなると思ってる。何とかした後に何が残るかを、あまり見ねえ」
紬は、その言葉を胸に入れた。
売れる棚。
大きな売場。
安定供給。
その裏に、歯を食いしばる誰かがいる。
それを見ないまま進めることはできない。
暮らしの森マーケット本社に着くと、野上と宮下が迎えてくれた。
野上はいつも通り落ち着いていたが、その表情には少し緊張があった。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
紬が頭を下げると、野上は少し迷うようにしてから言った。
「本日の説明ですが、別企画のご担当者も同席されます」
紬の胸が、静かに沈んだ。
「分かりました」
美崎が隣で静かに息を整える気配がした。
柚木は資料を抱える手に力を込めている。
加賀は、何も言わなかった。
会議室に案内されると、すでに一人の男性が座っていた。
濃いグレーのスーツ。
無駄のない姿勢。
少し長めの指が、テーブルに置かれた資料の端を軽く押さえている。
藤堂貴之だった。
紬が入った瞬間、貴之はゆっくり顔を上げた。
驚いた様子はない。
むしろ、待っていたように見えた。
「久しぶりですね、星野社長」
その声は、総会の日と変わらない。
丁寧で、冷たく、余裕がある。
紬は、背筋を伸ばした。
「お久しぶりです。藤堂代表」
貴之の眉が、ほんの少し動いた。
副社長ではなく、代表。
切り離された新会社の代表として呼んだ。
紬は、そう呼ぶべきだと思った。
ここは過去の役職を争う場ではない。
別々の会社として、売場の前に立つ場だ。
貴之は、薄く笑った。
「少しは肩書きの使い方を覚えたようですね」
加賀の気配がわずかに鋭くなった。
紬は、加賀の方を見ずに答えた。
「まだ学んでいる途中です」
「学生らしい答えだ」
貴之はそう言って、手元の資料を閉じた。
野上が、空気を整えるように口を開いた。
「本日は、当社で比較検討している二つの企画について、双方の前提を確認させていただく場としたいと考えています。最終判断の場ではありません」
紬は頷いた。
「承知しました」
貴之も軽く頷く。
「もちろんです」
だが、その表情には余裕があった。
最終判断でなくても、自分の企画が優位だと分かっている顔だった。
最初に、貴之側の資料が映された。
『地方の暮らしを、都市へ』
前に見たものより、さらに磨かれていた。
売場イメージは明るく、洗練されている。
地方産リネン。
キッチンクロス。
エプロン。
ルームウェア。
収納かご。
手仕事風の器。
香りの商品。
季節の焼き菓子。
瓶詰め。
それらが統一された色味と高さで並べられている。
売場面積は、紬たちの棚の何倍もある。
展開店舗数は、首都圏十店舗から。
二週間ではなく、一か月。
商品補充計画もある。
販促スケジュールも細かい。
アプリ配信、SNS投稿、店頭POP、特設ページ、インフルエンサー向け撮影会まで組まれている。
宮下が資料を見ながら説明した。
「売場としての完成度、販促連動、供給安定性の面では非常に強いご提案です」
その言葉に、柚木の指が少し震えた。
紬も、胸の奥が苦しくなる。
強い。
やはり強い。
貴之は、説明を引き取るように口を開いた。
「暮らしの森マーケット様の顧客層は、商品単体ではなく、暮らしの提案を求めています。食品だけでは弱い。地方の商品を並べるだけでも弱い。必要なのは、売場全体としての世界観です」
野上は静かに聞いている。
川辺はうなずきながら資料を見ていた。
貴之の言葉は、売場を知っている人の言葉だった。
「供給についても、当社では複数の工房と提携済みです。欠品リスクを抑え、店舗間の在庫移動にも対応できます。食品は賞味期限や温度帯の問題がありますが、雑貨と繊維を中心にすれば、店舗運営上の負担も少ない」
その通りだった。
紬は、否定できなかった。
貴之は、淡々と続ける。
「地方性は、商品背景として伝えます。ただし、過度に作り手の個別事情へ踏み込みすぎない。売場では、分かりやすく、手に取りやすく、継続して供給できることが重要です」
その言葉に、美崎がわずかに視線を下げた。
作り手の個別事情へ踏み込みすぎない。
それは、売場としては合理的だった。
だが、紬たちが大切にしているものとは、違う。
次に、紬たちの資料が映された。
『売場を育てる一店舗検証案』
画面が切り替わった瞬間、会議室の印象が変わった。
派手さはない。
売場面積も小さい。
商品数も少ない。
展開店舗は一店舗。
販促も限定的。
ただ、そこには検証項目が細かく並んでいた。
店舗スタッフの問い合わせ。
購入者の反応。
欠品時の説明。
返品動線。
作り手への声の返却。
現場負荷。
次回展開の条件。
柚木が説明を始めた。
声は少し緊張していたが、まっすぐだった。
「私たちは、最初から大きな売場を作るのではなく、一つの棚で、運営に必要な負荷と声の流れを確認したいと考えています」
貴之は、黙って聞いている。
その沈黙が、かえって重い。
柚木は続けた。
「食品を中心にするため、賞味期限、保存方法、欠品、問い合わせの問題があります。だからこそ、それを小さく始めて確認します。大きく見せるのではなく、次も続けられる売場に育てることが目的です」
野上は頷いた。
宮下もメモを取っている。
川辺は、まだ慎重な表情だった。
説明が終わると、少しの沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは貴之だった。
「興味深いですね」
その声は丁寧だった。
けれど、紬は身構えた。
「非常に優しい企画だ」
貴之は、紬を見た。
「作り手を傷つけない。現場を壊さない。店舗スタッフに無理をさせない。購入者の声を返す。実に綺麗です」
綺麗。
その言葉が、少し嫌な響きを持って聞こえた。
貴之は続けた。
「だが、売場は優しさでは埋まらない」
会議室の空気が、一瞬固まった。
紬は、貴之を見つめた。
貴之は表情を変えない。
「暮らしの森マーケット様が必要としているのは、顧客が足を止め、商品を手に取り、売上につながる棚です。検証項目を丁寧に並べても、棚が寂しければ意味がない」
その言葉は痛かった。
紬の一店舗案が地味であることは事実だ。
商品数も少ない。
売場の面も小さい。
貴之は、そこをまっすぐ突いてきた。
「星野社長」
「はい」
「あなたは、会社を再建したいのですか。それとも、正しいことをしたいのですか」
紬の喉が詰まった。
美崎が、わずかに身じろぎする。
加賀の視線が鋭くなる。
貴之は続けた。
「会社を救うのは、感動ではありません。数字です。売上です。利益です。安定供給です。欠品しない棚です。現場を守ると言いながら、小さな棚に閉じこもっていては、社員は救えない」
何も言い返せなかった。
それは、すべて間違っているわけではなかった。
社員を救うには、数字がいる。
会社を再建するには、利益がいる。
銀行を納得させるには、計画がいる。
大手が安心できる供給力も必要だ。
貴之は、そこを見ている。
紬も、それを見なければならない。
「藤堂代表」
美崎が静かに口を開いた。
「当社案は、数字を無視しているわけではありません」
「分かっています」
貴之は美崎へ視線を移した。
「だからこそ、惜しいと言っている。美崎さん、あなたなら分かるでしょう。世間に伝わる物語は、強く、分かりやすくなければならない。小さな検証では届かない」
美崎の表情が硬くなる。
貴之は、次に加賀を見た。
「加賀さんも、まだ現場を盾にしているのですか」
加賀の目が、すっと細くなった。
「何だと」
「現場は重要です。しかし、現場の不安を理由に成長機会を止めていたら、会社は縮むだけです」
加賀は何か言い返しかけた。
だが、紬はその前に口を開いた。
「藤堂代表の言葉には、正しい部分があります」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
会議室の視線が紬に向く。
貴之も、少しだけ目を細めた。
「会社を救うには数字が必要です。売場が売れなければ続きません。私たちの案が小さく、地味で、大手チェーン様にとって扱いにくいことも分かっています」
貴之は、黙って紬を見ている。
「でも、私たちは、小さく始めることを逃げ道にしたいわけではありません」
紬は、資料の表紙に手を置いた。
「一つの棚も続けられない会社に、大きな売場は任せられません。だから、最初の一つを、壊さず作りたいんです」
貴之の表情が、少しだけ変わった。
ほんのわずかな変化だった。
「綺麗な言葉ですね」
「綺麗なだけで終わらせないために、数字も負荷も返品も問い合わせも全部見ます」
紬は、声が震えそうになるのをこらえた。
「売場は優しさでは埋まらない。そう思います。でも、優しさを捨てた売場が、次も話せる相手を残すとは限りません」
会議室は静かだった。
野上が紬を見ている。
宮下もメモを止めている。
川辺の表情は読みづらい。
貴之は、ゆっくり背もたれに体を預けた。
「次も話せる相手、ですか」
「はい」
「その言葉で、会社が救えるといいですね」
冷たい言葉だった。
だが、紬はうつむかなかった。
「その言葉だけでは救えません。だから、今、売場を作ろうとしています」
貴之は、小さく笑った。
「では、結果で見ましょう」
面談は、その後も続いた。
暮らしの森マーケット側は、両案の違いを整理した。
貴之案は、大きな売場として検討を続ける。
紬案は、一店舗検証として別枠で可能性を探る。
同時展開できるか。
店舗を分けるか。
期間をずらすか。
具体的な判断は持ち帰りとなった。
勝ったわけではない。
負けたわけでもない。
ただ、貴之の言葉は、紬の胸に深く残った。
売場は優しさでは埋まらない。
会社を救うのは、感動ではない。数字だ。
それは刃のようで、同時に現実でもあった。
本社へ戻る途中、紬はほとんど話せなかった。
柚木も静かだった。
美崎は資料を見つめている。
加賀だけが、窓の外を見たまま黙っていた。
本社に戻ると、美崎と柚木はすぐに資料の修正へ向かった。
紬も社長室へ戻ろうとしたが、加賀に呼び止められた。
「倉庫に行くぞ」
「今からですか」
「今だからだ」
理由を聞く前に、加賀は歩き出した。
紬は急いで鞄を持ち直し、後を追った。
夕方の倉庫は、出荷作業の山を越えた後のざわめきが残っていた。
フォークリフトの音。
段ボールを閉じる音。
作業員の短い声。
床に残るテープの跡。
空気には、紙と埃と食品の匂いが混ざっている。
加賀は、搬入口の外に紬を連れて行った。
トラックヤードには、夜の空気が降り始めていた。
遠くでエンジン音が響いている。
加賀は自動販売機で缶コーヒーを二本買い、その一本を紬に投げた。
紬は慌てて受け取る。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
加賀は缶を開け、フェンスにもたれた。
しばらく黙ったまま、倉庫の搬入口を見ていた。
紬も隣に立った。
冷たい缶が、手のひらに重い。
「効いただろ」
加賀が言った。
「はい」
「貴之の言葉」
紬は、正直に頷いた。
「効きました」
「だろうな」
加賀は、缶コーヒーを一口飲んだ。
「あいつは、痛いところを突くのがうまい」
「間違っていない部分があるから、余計に」
「そうだ」
加賀は、倉庫の方を見たまま言った。
「全部間違ってる悪党なら楽なんだよ。こっちも正義の顔して殴れる。でも、あいつはそうじゃねえ。数字も作る。売場も作る。会社を大きく見せる力もある」
紬は、黙って聞いた。
「俺は、あいつのやり方が嫌いだ。でも、あいつの力を否定したことはねえ」
加賀の声には、悔しさが混じっていた。
「加賀さんは、会長に何と言われていたか聞きました」
「何て」
「現場を守れる人。でも、守ることと閉じることを間違えかけていた、と」
加賀は、少しだけ笑った。
「じいさん、余計なこと言いやがる」
「違いますか」
「違わねえよ」
加賀は、缶を握ったまま、しばらく黙った。
トラックのライトが、二人の足元を一瞬白く照らして通り過ぎていく。
「昔な」
加賀は低い声で話し始めた。
「でかい案件があった。地方の物流拠点から、都市部の量販店に一気に商品を流す話だ。売上はでかかった。上も乗り気だった。俺も、現場をまとめればいけると思った」
紬は、加賀の横顔を見た。
「その時、俺は現場出身の人間として呼ばれた。無理があるかどうか見ろってな」
「それで」
「無理はあった」
加賀は短く言った。
「でも、できなくはなかった。現場が残業して、段取りを詰めて、ミスを飲み込んで、誰かが休みを削れば回った」
その言葉に、紬の胸が締めつけられた。
できなくはない。
その言葉ほど危ういものはないのだと、ここに来て何度も知った。
「俺は、できると言った」
加賀の声が、少し低くなる。
「現場には、頼むと言った。会社のためだ、ここを取れば次につながる、今だけ踏ん張ってくれってな」
紬は、何も言えなかった。
「売れたよ」
加賀は笑った。
笑ったが、その声には何も明るさがなかった。
「数字は良かった。上は喜んだ。営業も銀行も評価した。でも、現場では一人倒れた。二人辞めた。ベテランが一人、俺の前で言ったよ」
加賀は、一度言葉を切った。
「加賀さんが言うなら頑張ろうと思った。でも、加賀さんも結局、上の人でしたね、ってな」
その言葉は、冷たい夜気よりも鋭く紬の胸に入った。
加賀は現場を守る人だと思っていた。
けれど、その加賀にも、現場を傷つけた過去がある。
だからこそ、今の加賀は止める。
怒る。
疑う。
過剰に見えるほど、現場の負担を問い続ける。
「俺は、それから現場を守るって言うようになった」
加賀は、倉庫の明かりを見ていた。
「でも時々思う。守ってるんじゃなくて、怖がってるだけなんじゃねえかってな」
「怖がっている」
「ああ」
加賀は、缶を見下ろした。
「また同じことをするのが怖い。できると言って、誰かを潰すのが怖い。だから、新しい話が来るとまず疑う。止める理由を探す。現場を守るって顔をして、扉を閉めてるだけかもしれねえ」
紬は、藤堂会長の言葉を思い出した。
守ることと閉じることを間違える。
加賀は、それを自分で知っていた。
知っているから苦しいのだ。
「加賀さん」
「何だ」
「私も、違いがまだ分かりません」
加賀が、少しだけ紬を見る。
「守ることと、閉じることの違いです」
紬は、倉庫の搬入口を見た。
「現場を守りたいと言いながら、成長の機会を逃しているのかもしれない。逆に、会社を前に進めたいと言いながら、現場に無理をさせているのかもしれない。どちらも怖いです」
「だろうな」
「でも、加賀さんがいないと、私はたぶん、できると言ってしまいます」
加賀は黙った。
紬は続けた。
「貴之さんに言われて、悔しかったです。売場は優しさでは埋まらないって。本当にその通りだと思ったからです」
缶を握る手に力が入る。
「でも、そこで焦って大きく見せようとしたら、私はきっと、誰かに無理をさせます」
加賀は、静かに聞いていた。
「だから、止めてください。現場を理由に閉じているのか、本当に守るために止まっているのか、私一人では分からない時があります」
「俺だって分からねえよ」
加賀の声は、少し荒かった。
「俺が止める時、それが正しいかどうかなんて、いつも分からねえ」
「それでも」
紬は、加賀を見た。
「一緒に考えてください」
加賀は、顔をしかめた。
「面倒な社長だな」
「すみません」
「謝るな。面倒な社長じゃなきゃ、あの五人はついてねえだろ」
紬は少しだけ笑った。
加賀は、缶コーヒーを飲み干した。
「俺は、現場を守る」
「はい」
「でも、守るって言って閉じそうになったら、お前が聞け」
「聞く?」
「加賀さん、それは本当に守るためですかってな」
紬は、驚いて加賀を見た。
加賀は照れくさそうに視線をそらした。
「俺だって間違える。止めすぎることもある。現場を理由に、未来を潰すこともあるかもしれねえ」
「加賀さんでも」
「当たり前だろ」
加賀は、少し乱暴に空き缶をゴミ箱へ投げ入れた。
「俺は現場の神様じゃねえ。ただ、現場を一度傷つけた人間だ」
その言葉に、紬は胸が熱くなった。
加賀の厳しさは、正しさだけでできているのではない。
後悔でできている。
それでも、彼は現場に立ち続けている。
「じゃあ」
紬は、ゆっくり言った。
「私が進もうとしすぎたら、加賀さんが止めてください」
「ああ」
「加賀さんが閉じようとしすぎたら、私が聞きます」
加賀は、少しだけ口元を上げた。
「偉くなったな」
「社長ですから」
「まだまだだ」
「分かっています」
二人は、しばらく倉庫の明かりを見ていた。
夜の搬入口では、最後のトラックがゆっくり出ていく。
荷物が運ばれる。
誰かが確認する。
誰かが積み直す。
誰かが帰る前に、床を掃く。
売場に商品が並ぶ前に、ここでたくさんの手が動いている。
紬は、その光景を目に焼きつけた。
貴之の言葉は、まだ胸に残っている。
売場は優しさでは埋まらない。
それは事実だ。
でも、優しさを捨てた売場の裏で、誰かが黙って傷つくなら。
それを見ないまま、会社を再建したとは言いたくない。
「加賀さん」
「何だ」
「一店舗案、まだ弱いと思いますか」
「弱い」
即答だった。
紬は苦笑した。
「でも、やる価値はありますか」
加賀は、搬入口を見たまま答えた。
「ある」
その一言で、紬の胸の奥にあった何かが、少しだけほどけた。
「ただし」
加賀は続けた。
「現場が飲み込む前提ならやめろ。誰かが我慢すれば回る、になったら止める」
「はい」
「できなくはない、って言葉が出たら疑え」
「はい」
「今だけ、今回だけ、少しだけ。そういう言葉が並び始めたら危ねえ」
紬は、加賀の言葉を一つずつ覚えるように頷いた。
「分かりました」
「分かってねえ顔だな」
「まだ、完全には」
「それでいい」
加賀は、少しだけ笑った。
「分かった顔をする社長より、ずっとましだ」
その夜、社長室へ戻った紬は、机の上に二つの資料を並べた。
貴之側の華やかな売場イメージ。
紬たちの一店舗検証案。
比べると、やはり差は大きい。
貴之側は強い。
大きい。
分かりやすい。
紬たちは小さい。
地味で、面倒で、遅い。
それでも、紬はもう、その小ささを恥じるだけではなくなっていた。
進藤の選択肢がある。
加賀の現場がある。
美崎の言葉がある。
一ノ瀬の数字がある。
柚木の未来図がある。
そして、それぞれの怖さがある。
紬はノートを開いた。
『売場は優しさでは埋まらない。けれど、優しさを捨てた売場が、次も話せる相手を残すとは限らない。』
その下に、加賀の言葉を書いた。
『できなくはない、を疑う。今だけ、今回だけ、少しだけ、を疑う。』
さらに、もう一文を書き足す。
『進むために守る。守るために閉じすぎない。』
ペンを置いた時、スマートフォンが震えた。
加賀からだった。
短いメッセージ。
『明日、倉庫で店頭用梱包の確認。スーツで来るな』
紬は、思わず笑った。
すぐに返信する。
『作業着で行きます』
少しして、返事が来た。
『よし』
それだけだった。
けれど、その一文字が、今夜の紬には十分だった。
貴之との戦いは、これからもっと厳しくなる。
数字でも、売場でも、見せ方でも、紬たちは劣るかもしれない。
でも、自分たちが何を守り、何を開こうとしているのか。
その問いを、もう一人で抱えなくていい。
紬は、倉庫から持ち帰った小さな梱包サンプルを机に置いた。
華やかな売場写真の横に置くと、それはひどく地味だった。
ただの段ボール。
ただのラベル。
ただの仕切り。
けれど、その中に、誰かの手を潰さずに売場へ届くための工夫が詰まっている。
紬は、その箱にそっと触れた。
売場は優しさだけでは埋まらない。
それでも、自分たちは優しさを捨てずに、売場を埋める方法を探す。
その難しい道を、加賀と一緒に歩く。
紬は、静かにそう決めた。




