第38章:進藤の選択肢
夜の会議室には、二人分の資料だけが置かれていた。
大きなテーブルの端に、星野紬。
向かい側に、進藤。
窓の外には、夜の東京が広がっている。
昼間の本社にあった人の気配は薄くなり、空調の低い音だけが部屋に残っていた。
進藤は、いつものように資料を整えていた。
角を揃え、ペンを右側に置き、タブレットを見やすい角度に立てる。
その動作は静かで、無駄がなかった。
紬は、その手元を見ていた。
進藤はいつもそうだった。
社内が揺れていても、現場が反発しても、大手チェーンとの条件が複雑でも、貴之の影が近づいても、進藤の声は大きく乱れない。
選択肢を整理し、リスクを並べ、次に何を決めるべきかを示してくれる。
紬は、その冷静さに何度も救われてきた。
同時に、時々思う。
この人は、どこで怖がっているのだろう。
「会長から、私たちの話を聞いたのですね」
進藤が静かに言った。
紬は頷いた。
「はい」
「何を言われましたか」
「進藤さんは、選択肢を作るのがうまいと」
「それは、褒め言葉でしょうか」
進藤は少しだけ笑った。
紬も少し笑う。
「たぶん、褒め言葉です。でも、そのあとに言われました」
進藤は、紬の言葉を待った。
「正しさの中に、人の痛みをしまい込むことがあると」
会議室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
進藤の表情は大きくは動かない。
けれど、指先がペンの端に触れたまま止まった。
紬は、進藤の反応を見て、言いすぎたかもしれないと思った。
「すみません。会長の言葉を、そのまま伝えるのが正しいのか迷ったんですが」
「いいえ」
進藤は、ゆっくりと首を振った。
「会長らしい言葉です」
それだけ言って、進藤は少しだけ目を伏せた。
「正しいと思います」
紬は、黙っていた。
進藤は、タブレットを操作し、画面に資料を映した。
暮らしの森マーケットへの対応方針。
そこには、四つの選択肢が並んでいた。
一つ目。
一店舗検証案を維持する。
二つ目。
三店舗案まで条件付きで譲歩する。
三つ目。
食品中心の企画から撤退し、取引先紹介と一部供給支援に回る。
四つ目。
暮らしの森マーケット案件を見送り、別の提携先を探す。
紬は、その画面を見つめた。
いつもの進藤だった。
どの道にも、利点とリスクが書かれている。
一店舗案は、現場負荷を管理しやすいが、大手側の社内決裁で弱い。
三店舗案は、先方の期待に近づくが、取引先と倉庫の負担が増える。
供給支援に回れば、責任範囲は狭まるが、藤堂物産の主体性は弱まる。
案件を見送れば、無理は避けられるが、銀行への説明材料と社内の期待を失う。
どれも正しい。
どれも怖い。
「進藤さんなら」
紬は、画面から視線を上げた。
「どれを選びますか」
進藤は、すぐには答えなかった。
いつもの進藤なら、まず前提条件を確認し、判断基準を整理する。
けれど今は、少しだけ沈黙が長かった。
「私個人の判断ですか」
「はい」
「社長としてではなく?」
「進藤さんとして、聞きたいです」
進藤は、ペンを置いた。
その音が、静かな会議室に小さく響いた。
「私なら、三つ目を選ぶと思います」
「供給支援に回る、ですか」
「はい」
紬は少し驚いた。
「一店舗案ではなく?」
「一店舗案は、理念としては良いです。しかし、大手チェーンの社内で通るかは不透明です。通ったとしても、手間が多く、利益は薄い。成功しても、拡大にはさらに投資が必要になります」
進藤の声は、静かだった。
「三店舗案はリスクが高い。十店舗は論外。案件を見送るには機会損失が大きい。ならば、暮らしの森マーケット側の売場に対し、藤堂物産は食品流通の一部支援と取引先候補の紹介に徹する。責任範囲を狭め、損失を抑え、関係だけ残す」
それは、冷静な答えだった。
会社を守るという意味では、とても合理的だった。
紬は、資料を見つめる。
「でも、それだと」
「はい」
進藤は頷いた。
「私たちの一店舗棚はできません」
「取引先の声を返す仕組みも」
「弱くなります」
「現場負荷の検証も」
「限定的になります」
「藤堂物産が、売場を育てる会社になる可能性も」
「遠のきます」
進藤は、淡々と認めた。
それでも、彼はその選択肢を選ぶと言った。
「なぜですか」
紬が尋ねると、進藤は少しだけ窓の外を見た。
「損失が最も少ないからです」
その言葉は、重かった。
「会社が弱っている時、最も避けるべきなのは、大きな失敗です。大きく勝てなくても、生き残れば次があります。私は、そう考えます」
「それは、間違っていないと思います」
「はい。間違ってはいないと思います」
進藤は、そこでわずかに笑った。
「だから、会長は私を社長にしなかったのでしょう」
紬は、息を呑んだ。
進藤は、自分の言葉をどこか遠くから聞いているような表情をしていた。
「私は、会社を守るための選択肢を作れます。損失を抑え、撤退線を引き、誰がどれだけ傷つくかを計算することもできます」
進藤の声は静かだった。
「でも、その計算の中で、時々、人の痛みを整えすぎる」
「整えすぎる……」
「はい」
進藤は、資料の端を指で押さえた。
「痛みをなくすのではなく、見やすい形に並べる。誰が不満を持つか。どの部署が反発するか。どの取引先が離れるか。どの程度なら会社が耐えられるか。そうやって整理していくうちに、痛みそのものを見ているつもりで、実は処理しているだけになることがあります」
紬は、何も言えなかった。
進藤が、こんなふうに自分の弱さを話す姿を初めて見た。
「会長は、それをよく分かっていました」
進藤は続けた。
「以前、地方の営業拠点を閉じる案件がありました。数字上は閉鎖が正しかった。赤字が続き、改善の見込みも薄かった。私は閉鎖案を作りました。人員配置、取引先への通知、費用削減額、全て整えました」
進藤の目が、わずかに暗くなる。
「閉鎖は決まりました。会社としては損失を抑えられた。資料上は、きれいな判断でした」
「でも」
紬は小さく言った。
進藤は頷いた。
「最後の日、拠点の所長から電話がありました。『資料では分かります。でも、ここで顔を合わせてきた人たちは、資料の中には入りませんね』と言われました」
紬の胸が、静かに痛んだ。
「私は、その時も返事をしました。会社としての判断を説明し、取引先対応も、従業員の異動先も、可能な限り準備したと」
進藤は、少しだけ自嘲するように笑った。
「間違ったことは言っていません。でも、その電話の相手が欲しかったのは、正しい説明ではなかったのだと思います」
会議室に沈黙が落ちる。
紬は、藤堂会長から聞いた話を思い出していた。
地方縫製工場を閉じた時、最後に顔を見せなかった後悔。
藤堂物産には、同じような痛みがいくつも積み重なっているのかもしれない。
「進藤さんは、そのことをずっと覚えているんですか」
「はい」
進藤は、短く答えた。
「忘れた方が仕事はしやすいのでしょうが」
「忘れられないんですね」
「ええ」
進藤は、紬を見る。
「だから私は、選択肢を作る時、なるべく痛みを見ようとします。でも、見ているつもりで、また整理してしまう。会社を守るためだと言って、痛みを表にして、順番をつけて、処理できる形にしてしまう」
「それは、悪いことなんでしょうか」
紬が尋ねると、進藤は少しだけ考えた。
「必要なことです。けれど、それだけでは足りないのだと思います」
紬は、進藤の資料を見た。
四つの選択肢。
どれも必要だ。
紬一人では、こんなふうに道を並べられない。
感情に引っ張られ、怖さに足を止め、誰かの顔を思い浮かべるうちに、決めるべきことを見失う。
進藤がいるから、紬は選べる。
そのことは確かだった。
「進藤さん」
「はい」
「私は、進藤さんの選択肢がないと立てません」
進藤の目が、少しだけ動いた。
紬は続けた。
「私は、痛みの前で立ち止まります。誰かの顔を見てしまいます。怖くなります。だから、どの道に何があるのか、整理してくれる人がいないと、たぶん何も決められません」
進藤は黙っていた。
「でも、進藤さんが整理した痛みを、私がもう一度顔に戻します」
自分で言いながら、その言葉の重さに少し驚いた。
けれど、今はそれが一番近い気がした。
「数字やリスクや選択肢の中に入った痛みを、誰の顔なのか、どんな声なのか、私が見ます。見落としたら、また教えてください」
進藤は、静かに紬を見ていた。
その表情から、いつもの余裕が少しだけ消えていた。
「星野さん」
「はい」
「それは、簡単なことではありません」
「分かっています」
「痛みを顔に戻すということは、決断が遅くなるということです。苦しくなるということです。時には、最小損失ではない道を選ぶことにもなります」
「はい」
「それでも?」
紬は、四つの選択肢を見た。
一店舗案。
三店舗案。
供給支援。
見送り。
どれも道だ。
どれも会社を守るための選択肢だ。
でも、今の紬が選びたいのは、損失が一番少ない道ではない。
痛みを見ないで済む道でもない。
小さくても、自分たちが責任を持てる棚を作る道。
その先に、森本や田宮、黒川や松永、相沢、店舗スタッフ、購入者の声が残る道。
「それでも、一店舗案で進みたいです」
紬は言った。
「供給支援に回る方が安全なのは分かります。でも、それだと私たちは、間に立つ会社として何を受け止めるのかを試せません」
進藤は、少し目を伏せた。
「はい」
「私は、暮らしの森マーケットの売場で大きく勝ちたいわけではありません。もちろん選ばれたいし、売れてほしいです。でも、それ以上に、一つの棚を壊さず作れる会社になりたいです」
紬は、声が震えないようにゆっくり話した。
「だから、一店舗案を選びます。もしそれが間違っているなら、進藤さんに止めてほしいです」
進藤は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、判断のためのものではなく、何かを受け止めるためのものに見えた。
やがて進藤は、静かに頷いた。
「分かりました」
それだけだった。
けれど、その声は、いつもより少し深かった。
「では、一店舗案を主軸に進めます。ただし、三店舗案と供給支援案も並行して残します」
「残すんですか」
「はい」
進藤は、少しだけいつもの表情に戻った。
「覚悟と準備は別です。星野さんが一店舗案を選ぶなら、私はその道が折れた時の橋も用意します」
その言葉に、紬は思わず笑った。
「進藤さんらしいです」
「それが私の役目です」
「役割だけで見ないように、と会長に言われました」
進藤が、少しだけ眉を上げる。
紬は続けた。
「でも、進藤さんの役割に私は何度も助けられています。だから、役割を消すのではなく、その奥にある怖さも一緒に見たいです」
進藤は、静かに紬を見た。
「怖さ、ですか」
「はい」
「私は、怖くないように見えますか」
「見えます」
紬は正直に答えた。
進藤は、少しだけ笑った。
「それは失敗ですね」
「失敗なんですか」
「ええ。怖くない人間の出す選択肢は、危険です」
進藤は、窓の外へ視線を向けた。
「私はいつも怖いです。自分が作った選択肢の中に、誰かの痛みを入れ忘れているのではないか。最善に見える道が、ただ会社にとって都合のいい道なのではないか。冷静さを理由に、誰かの声を小さくしているのではないか」
その言葉を聞いて、紬は胸の奥が静かに熱くなった。
進藤も怖い。
その事実は、紬を不安にさせるどころか、少し安心させた。
完璧な人ではないからこそ、一緒に考えられる。
「私も怖いです」
紬は言った。
「怖いまま、一店舗案を選びます」
「では、私は怖いまま、その選択を支えます」
進藤は資料を一枚めくった。
「ただし、支えるというのは、星野さんを安心させることではありません」
「はい」
「必要なら、反対します」
「お願いします」
「撤退ラインも引きます」
「はい」
「一店舗案が、ただの意地になったら止めます」
紬は、少しだけ息を呑んだ。
「意地……」
「貴之さんに負けたくない。その気持ちは当然あります。しかし、その気持ちが強くなりすぎると、一店舗案もまた歪みます」
進藤の目は、まっすぐだった。
「小さいことを守るためではなく、大きな相手への対抗心で小ささにしがみつくようになったら危険です」
紬は、その言葉を胸に受けた。
貴之に負けたくない。
その気持ちは、確かにある。
華やかな売場を見た時、悔しかった。
自分たちの案が地味に見えて、恥ずかしくなった。
その悔しさが、一店舗案を正当化するためだけの意地に変わる可能性もある。
「その時は、止めてください」
紬は言った。
「必ず」
進藤は頷いた。
会議室の空気が、少しだけ変わった。
ただの作戦会議ではなくなっていた。
紬は、進藤に選択肢を求めるだけではない。
進藤も、紬に判断を委ねるだけではない。
互いの怖さを見た上で、それでも同じ資料を見る。
それは、少しだけ新しい関係だった。
「会長は」
進藤が、ふと口を開いた。
「私たちが変わる必要があると言っていましたか」
紬は頷いた。
「はい」
「そうですか」
進藤は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「会長は、最後まで厄介な宿題を残しますね」
「本当に」
紬が言うと、進藤は静かに笑った。
「では、私も変わらなければなりませんね」
「進藤さんが?」
「はい」
「どう変わるんですか」
紬が尋ねると、進藤は少し考えた。
「痛みを整理するだけでなく、その場に一緒に残ることから始めます」
「一緒に残る」
「はい。これまでは、選択肢を作り、実行計画を整え、次の問題に移ることが多かった。けれど、これからは、選んだ後に残る痛みも一緒に見ます」
進藤は、資料の一店舗案を見た。
「まずは、この棚で」
紬は、静かに頷いた。
「一緒に見てください」
「はい」
その時、会議室の外から軽いノックが聞こえた。
扉が少し開き、加賀が顔を出した。
「まだやってんのか」
紬は、少し驚いた。
「加賀さん」
「飯は?」
進藤が時計を見る。
「もう二十二時ですね」
加賀は、呆れたように眉を上げた。
「また飯抜きで絆深めてんじゃねえだろうな」
紬は思わず笑った。
「すみません」
「謝る前に食え」
加賀は、コンビニの袋を掲げた。
「進藤さんもだ」
進藤は、少し珍しく困ったような顔をした。
「私もですか」
「当たり前だろ。選択肢だけ食って生きてんのか」
その言葉に、紬は笑ってしまった。
進藤も、小さく笑った。
会議室の緊張が、少しだけほどける。
加賀が置いていったおにぎりとお茶を前に、紬と進藤は資料を閉じた。
食べながら仕事をするのではなく、少しだけ手を止めた。
それも、続けるために必要なことなのだと、紬は思った。
食事を終えたあと、進藤は資料をまとめながら言った。
「星野さん」
「はい」
「一店舗案で進みましょう」
その言葉は、先ほどより少し違って聞こえた。
ただの方針確認ではない。
進藤自身も、その道に立つと言ってくれているようだった。
「はい」
紬は答えた。
「お願いします」
「こちらこそ」
進藤は、静かに頭を下げた。
「選んだ後も、共に見ます」
紬は、その言葉を胸に刻んだ。
社長室へ戻ると、机の上に一店舗検証案が置かれていた。
その横に、進藤が新しく作った四つの選択肢の資料を並べる。
紬は、ノートを開いた。
『進藤さんは、痛みを整理する人。けれど、これからは一緒に見る人。』
少し考えて、もう一文を書き足した。
『私は、進藤さんの選択肢に顔を戻す。進藤さんは、私の迷いに道を作る。』
書き終えると、胸の中に静かな重さが残った。
それは、嫌な重さではなかった。
信頼とは、優しい言葉だけでできるものではない。
反対されること。
止められること。
怖さを明かされること。
それでも同じ資料を見続けること。
その積み重ねなのだと思った。
窓の外には、夜の街が広がっている。
貴之の華やかな売場案は、きっとさらに磨かれていく。
大手チェーンの社内でも、数字と見栄えと供給安定性が評価されるだろう。
紬たちの一店舗案は、まだ小さい。
でも、その小ささを守るための選択肢が、今夜また一つ増えた。
紬は、資料の表紙に手を置いた。
一つの棚を選ぶ。
その道には、もう紬一人の迷いだけがあるのではない。
進藤の冷静さと怖さも、一緒に乗っている。
それが、少しだけ心強かった。




