第36章:もう一つの企画
一店舗検証案は、少しずつ形になっていた。
大きなフェアではない。
全国展開でもない。
暮らしの森マーケットの一店舗、その中の一つの棚。
そこに、藤堂物産が責任を持てる範囲の商品を並べる。
森本食品の惣菜を候補にする。
田宮農園については、生鮮野菜をそのまま店頭に出すのではなく、天候や収穫量に左右されにくい形を検討する。
購入者向けには、保存方法と食べ方を分かりやすく伝える。
店舗スタッフ向けには、問い合わせの一次対応表を作る。
取引先には、販売後に購入者の声と売場データを返す。
返品や売れ残りの費用は、小規模取引先へ一方的に戻さない。
販促表現は、主要文言を事前に確認する。
資料は地味だった。
けれど、ページをめくるたびに、誰かの声が入っていることが分かった。
黒川の声。
松永の声。
相沢の声。
森本の不安。
田宮の慎重さ。
柚木の未来図。
美崎の言葉。
一ノ瀬の数字。
進藤の整理。
加賀の現場感覚。
星野紬は、社長室でその資料を読み返しながら、ようやく一つの棚に向かう準備ができ始めていると感じていた。
まだ契約は決まっていない。
暮らしの森マーケットの社内確認も残っている。
それでも、一店舗なら検証できるかもしれない。
そう思えるところまで来た。
午前十一時、進藤が社長室に入ってきた。
いつも通り落ち着いた足取りだったが、表情にわずかな硬さがあった。
紬は、その変化に気づいた。
「何かありましたか」
進藤は、扉を閉めてから答えた。
「暮らしの森マーケットの野上さんから連絡がありました」
「一店舗案の件ですか」
「はい。ただし、少し状況が変わりました」
紬は、資料から顔を上げた。
進藤はタブレットを机に置く。
そこには、野上からのメールが表示されていた。
『一店舗検証案について、当社内でも引き続き検討しております。一方で、同時期の地域売場企画として、別会社からも生活雑貨・繊維製品を中心とした提案を受けております。社内では両案を比較検討する流れとなっております。』
紬は、画面の文字を追った。
別会社。
生活雑貨。
繊維製品。
胸の奥が、静かに冷える。
「貴之さんの会社ですか」
進藤は、すぐには答えなかった。
「メールには会社名がありません。ただ、可能性は高いと思います」
「そうですか」
紬は、タブレットから視線を外した。
暮らしの森マーケットが求めているのは、地方の食と暮らしをテーマにした売場。
食品だけでは弱い。
生活雑貨や布製品も必要。
その時点で、藤堂物産本体よりも、貴之の新会社の方が有利な領域がある。
分かっていた。
それでも、実際に別企画として現れると、息が詰まる。
「野上さんは、どういう意図で教えてくれたのでしょうか」
「隠したまま比較するのは不誠実だと判断されたのだと思います。ただ、先方としては当然の検討です。売場を作る以上、より成立しやすい案を選ぶ必要があります」
進藤の声は冷静だった。
だからこそ、現実がはっきり見えた。
暮らしの森マーケットは、紬たちの味方ではない。
敵でもない。
売場を作る会社として、複数の提案を比較しているだけだ。
紬は、メールをもう一度読んだ。
生活雑貨・繊維製品を中心とした提案。
売場映えするだろう。
供給量も安定しているかもしれない。
単価も取りやすい。
食品のように賞味期限や返品の難しさも少ない。
店舗スタッフへの説明も、食品より複雑ではない。
大手チェーンが選びやすいのは、どちらか。
考えなくても分かる気がした。
「五人に共有します」
紬は言った。
進藤は頷く。
「その方がいいです」
午後一時、小会議室に五人が集まった。
進藤が野上からのメールを共有すると、最初に反応したのは加賀だった。
「来たか」
驚きよりも、予想していたものが現れたという声だった。
一ノ瀬は、すぐに質問する。
「相手企業名は確認できていますか」
「まだです」
進藤が答える。
「ただし、繊維・生活雑貨を中心とした売場提案という点から、藤堂貴之氏の新会社である可能性があります」
美崎は、画面のメールを見つめたまま言った。
「もし貴之さんの会社なら、かなり売場としては強いと思います」
柚木の表情が曇る。
「食品じゃなくて、雑貨や布製品ですよね」
「はい」
美崎は頷いた。
「暮らしの森マーケットの店内にも馴染みやすい。写真映えもする。販促もしやすい。食品よりも扱いやすい商品が多いでしょう」
一ノ瀬が加える。
「在庫管理や粗利率の面でも、食品より有利な可能性があります。賞味期限、温度帯、返品リスクが小さいなら、大手側にとって魅力的です」
柚木は唇を結んだ。
「私たちの一店舗案は、地味です」
加賀が言う。
「地味だな」
「しかも、条件が多いです」
「多いな」
「大手から見れば、面倒です」
「面倒だろうな」
加賀は、あえて否定しなかった。
柚木は少し悔しそうに顔を上げる。
「じゃあ、勝てないんでしょうか」
その問いに、会議室が静まった。
勝つ。
負ける。
その言葉を使った瞬間、商談が戦いのようになる。
けれど、実際に売場枠は限られている。
同じ地域企画の棚を、二つ同時に作れるとは限らない。
選ばれる案があれば、選ばれない案も出る。
進藤が静かに言った。
「同じ土俵で勝とうとすると、難しいでしょう」
「同じ土俵?」
紬が尋ねる。
「はい。売場映え、供給量、粗利率、全国展開のしやすさ。そこだけで比べれば、相手が有利です」
一ノ瀬も頷いた。
「こちらが無理に同じ強みを作ろうとすれば、できないことを大きく見せることになります」
美崎が言う。
「私たちが出すべきなのは、相手と同じ大きな売場ではありません。小さいけれど、検証の密度が高い売場です」
加賀が腕を組む。
「向こうは売れる売場。こっちは続けられる売場。そういう違いだろ」
その言葉に、紬はゆっくり頷いた。
売れる売場。
続けられる売場。
どちらが正しいのか、簡単には言えない。
会社を救うには売上が必要だ。
大手チェーンにとっても、売場が売れなければ意味がない。
貴之の提案は、きっと合理的だ。
数字も整っているだろう。
見せ方も上手いだろう。
大手が安心できる条件を出してくるだろう。
それでも、藤堂物産が同じことをするなら、ここまで積み上げたものが崩れる。
紬は、手元の一店舗検証案を見た。
小さな資料。
地味な条件。
面倒な確認。
でも、その中には、現場と取引先の声が入っている。
「私たちは、相手より大きく見せる必要はありません」
紬は言った。
「比べられるなら、比べられた上で、私たちの違いを出します」
一ノ瀬が尋ねる。
「具体的には?」
「一店舗で何を検証するのかを、さらに明確にします。売上だけでなく、店舗スタッフの負担、取引先への声の返し方、返品や欠品時の対応、販促表現の確認。大きな売場では見落とされやすいものを、最初から見る企画として出します」
美崎が頷く。
「良いと思います。ただし、“正しさ”だけを押し出すと、相手側への批判に見えます」
「はい」
紬は頷いた。
「貴之さんの案を否定するのではなく、私たちが何を検証したいのかを伝えます」
加賀が、少しだけ笑う。
「大人になったな」
「まだです」
「分かってる」
そのやり取りに、柚木が少しだけ笑った。
進藤は、会議を進めた。
「では、先方へ追加資料を出しましょう。比較されることを前提に、こちらの提案の位置づけを明確にします」
「タイトルを変えますか」
美崎が尋ねる。
進藤が少し考える。
「“一店舗検証案”だけでは弱いかもしれません」
柚木が、ふと口を開いた。
「“売場を育てる検証案”はどうでしょう」
全員が柚木を見る。
柚木は少し恥ずかしそうにしながらも続けた。
「大きく作って終わりじゃなくて、一つの棚から、店舗スタッフや購入者や作り手の声を入れて、次の形に育てるという意味で」
美崎が、目を細める。
「悪くありません」
一ノ瀬が言う。
「少し感覚的ですが、説明資料で具体化できれば使えます」
加賀が頷く。
「小さくても、育てるなら前向きに聞こえるな」
紬は、柚木を見た。
「いいと思います」
柚木の顔が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
進藤がホワイトボードに書いた。
『売場を育てる一店舗検証案』
その文字を見て、紬は胸の奥に小さな熱を感じた。
小ささを言い訳にしない。
小ささを、育てるための条件にする。
その言葉なら、自分たちの立つ場所を少しだけ示せる気がした。
会議が終わったあと、美崎が社長室に残った。
「星野さん」
「はい」
「貴之さんの件ですが、今後は外部に出る可能性も考えておいた方がいいです」
「外部に?」
「はい。大手チェーンが二つの企画を比較していること自体は、普通の商談です。ただ、もし相手が貴之さんの会社なら、メディアや業界内で“藤堂本体と新会社が同じ売場枠を争っている”という見方をされる可能性があります」
紬は、少し息を呑んだ。
「対立として見られる、ということですね」
「はい。特に、星野さんは女子大生社長として注目されやすい。貴之さんは元副社長で、切り離した新会社の代表。物語として扱いやすいです」
物語として扱いやすい。
その言葉に、紬は大学の講義を思い出した。
物語が強くなりすぎると、現在の努力が見えなくなる。
外から見れば、分かりやすい対立だ。
若い女子大生社長。
元副社長。
食品。
繊維。
本体。
新会社。
売場枠。
けれど、その分かりやすさの中で、森本や田宮や倉庫や食品流通部の声が消えるかもしれない。
「美崎さんは、どうした方がいいと思いますか」
美崎は、少し考えてから答えた。
「こちらから対立構図に乗らないことです」
「はい」
「相手を批判しない。自分たちを美化しない。比べられても、私たちが何を検証したいのかを淡々と伝える」
紬は頷いた。
「分かりました」
美崎は、少しだけ表情を柔らかくした。
「それから、怖い時ほど言葉は強くなります」
紬は、美崎を見る。
「強く?」
「はい。相手に負けたくない時、正しさを証明したくなる時、人は強い言葉を使いたくなります。でも、強い言葉ほど、誰かを置き去りにすることがあります」
その言葉は、美崎自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
紬は、静かに言った。
「美崎さんも、怖いですか」
美崎は、少し驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「怖いです」
「どんなふうに」
「私の言葉ひとつで、会社が誠実に見えることも、綺麗事に見えることもあります。炎上を避けるために言葉を弱くしすぎると、何も伝わらない。伝えようとして強くすると、誰かを傷つける」
美崎は、窓の外を見た。
「広報の言葉は、盾にもなります。でも、時々、刃にもなります」
紬は、前の夜に五人がそれぞれの怖さを話してくれたことを思い出した。
美崎の怖さは、今この瞬間も続いている。
それを知ると、美崎がただ完璧に言葉を整えてくれる人ではなく、一緒に怖がりながら立っている人なのだと感じた。
「美崎さん」
「はい」
「私が強い言葉を使いそうになったら、止めてください」
美崎は、静かに微笑んだ。
「もちろんです」
「でも、美崎さんが一人で言葉を背負いすぎそうになったら、私にも言ってください」
美崎の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「星野さんに?」
「はい。私も一緒に考えます。うまくできるかは分かりませんけど」
美崎は、少し黙ったあと、深く頷いた。
「ありがとうございます」
その声は、いつもより柔らかかった。
夕方、暮らしの森マーケットから追加情報が届いた。
野上からだった。
『比較検討中の別企画につきまして、相手先名は現時点では正式に開示できません。ただ、生活雑貨・繊維を中心とした地域ライフスタイル売場案です。当社内では、売場規模・収益性・供給安定性の面で評価されています。一方で、御社案については、地域事業者との継続性や検証性の観点から検討を続けています。』
紬は、その文面を五人に共有した。
一ノ瀬がすぐに言った。
「売場規模、収益性、供給安定性。この三つでは相手案が優勢です」
「はい」
進藤が頷く。
「こちらは、継続性と検証性で評価されている。そこをさらに強めるべきです」
柚木は、画面を見ながら小さく言った。
「ライフスタイル売場案……きっと、きれいなんでしょうね」
加賀が言う。
「きれいだろうな」
「悔しいです」
「悔しがっていい」
柚木が顔を上げる。
加賀は続けた。
「ただ、悔しいからって背伸びするな」
柚木は少しだけ笑った。
「分かっています」
そのやり取りに、紬は胸の中が温かくなるのを感じた。
五人は、互いにも少しずつ言葉を渡し合っている。
紬を中心にするだけではなく、それぞれがそれぞれの弱さを見ながら、支え合い始めている。
その輪の中に、自分もいる。
そう思えた。
夜、一店舗検証案の追加資料がまとまった。
新しい表紙には、柚木の案をもとに美崎が整えたタイトルが入っている。
『売場を育てる一店舗検証案』
副題。
『地域の食を、続けられる形で暮らしの棚へ』
資料の最初には、紬の言葉が短く入っていた。
『大きく始めることより、次も話せる売場を残すことを重視します。』
進藤が確認する。
「送りますか」
紬は、資料を一度閉じた。
貴之の会社かもしれない別企画。
売場映えするライフスタイル提案。
大手にとって分かりやすい数字。
こちらは、小さな一店舗検証案。
条件も多く、利益も薄い。
比べられたら、負けるかもしれない。
それでも、紬は思った。
負けたくないから、大きく見せる。
それは違う。
選ばれたいから、できない約束をする。
それも違う。
自分たちの案が小さいなら、小さい理由を説明する。
面倒なら、面倒な理由を示す。
地味なら、地味な中にある価値を伝える。
その先に選ばれない結果があっても、嘘のない提案として残す。
紬は、静かに頷いた。
「送ってください」
進藤が送信する。
資料が、暮らしの森マーケットへ送られた。
その瞬間、社長室の中に小さな沈黙が落ちる。
柚木がぽつりと言った。
「選ばれたいです」
誰も笑わなかった。
誰も否定しなかった。
紬も頷いた。
「私もです」
一ノ瀬が、静かに言った。
「選ばれるために、数字を詰めます」
美崎が続ける。
「選ばれても壊れないように、言葉を整えます」
加賀が言う。
「選ばれた後に現場が潰れないように、条件を見る」
進藤が、最後に言った。
「選ばれなかった時にも、次の打ち手を残します」
紬は、五人の言葉を受け取った。
選ばれたい。
でも、選ばれることだけが目的ではない。
選ばれた後も続けられること。
選ばれなかったとしても、関係と学びを残すこと。
それが、今の藤堂物産の戦い方なのだと思った。
夜遅く、紬は一人で社長室に残った。
机の上には、大学のノートと一店舗検証案が並んでいる。
暮らしの森マーケットから来たメールも開いたままだ。
別企画。
生活雑貨。
繊維。
売場規模。
収益性。
供給安定性。
どの言葉も強い。
紬たちの提案は、その強さとは別の場所にある。
弱く見えるかもしれない。
遅く見えるかもしれない。
面倒に見えるかもしれない。
けれど、そこにしか守れないものもある。
紬は、ノートに書いた。
『奪われるのは商品ではない。売場の場所と、選ばれる理由。』
その下に、もう一文を加える。
『相手より大きく見せない。自分たちが小さい理由を、正直に示す。』
ペンを置いた時、胸の奥にはまだ不安が残っていた。
貴之の顔が浮かぶ。
総会の日、紬を見下ろすように笑ったあの目。
もし本当に、あの人が向こう側にいるのなら。
次にぶつかるのは、会社分割の場ではない。
売場だ。
数字だ。
提案だ。
どちらの会社が、地方の食と暮らしを都市へ届ける資格があるのか。
そう問われることになる。
紬は、机の上の学生証に触れた。
大学で受け取った問いが、今も胸の中にある。
問いを手放した社長は、人の声を聞かなくなる。
紬は、その言葉を思い出した。
貴之に勝つためではなく、人の声を聞き続けるために。
一つの棚を、どう作るのか。
その答えを、次の面談までにもっと深くしなければならなかった。




