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女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


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第31章:大手チェーンからのメール

大学の講義を終えて本社に戻った午後、社長室の空気はいつもより少し落ち着いていた。

机の上には、大学のノートと会社の資料が並んでいる。

地域経済論の講義で書いたメモ。

次回テスト販売に向けた改善案。

銀行向けの資料。

倉庫の箱サイズ見直し表。

それぞれが別の場所から来た紙なのに、今はひとつの机の上でつながって見えた。

星野紬は、大学のノートを閉じ、社内スケジュールを確認した。

大学の時間は、会社の予定表にも反映されている。

地域経済論。

ゼミ。

レポート作成時間。

その横に、会社の予定が並ぶ。

銀行面談。

販売改善会議。

倉庫確認。

取引先報告。

まだぎゅうぎゅうに詰まっている。

それでも、以前のようにすべてが一つの黒い塊になって押し寄せてくる感じは少し薄れていた。

自分一人で抱えない。

続けるために形を変える。

その言葉を、紬は何度も自分に言い聞かせていた。

ノックの音がした。

「どうぞ」

入ってきたのは進藤だった。

手にはタブレットを持っている。

いつもの落ち着いた表情だが、目の奥にわずかな緊張がある。

「星野さん。少しよろしいですか」

「はい」

進藤は、机の前に立ち、タブレットを置いた。

「大手チェーンから問い合わせが来ています」

紬は、ペンを持つ手を止めた。

「大手チェーン、ですか」

「はい。全国に生活雑貨、食品、日用品を扱う店舗を展開している会社です」

画面に表示されていたのは、企業名だった。

『暮らしの森マーケット』

紬も名前は知っていた。

駅ビルや大型商業施設によく入っているチェーン店だ。

食品、キッチン用品、生活雑貨、季節の商品などを扱い、若い女性やファミリー層にも人気がある。

紬は、画面を見つめた。

「どうして藤堂物産に?」

「今回のテスト販売を見たようです。SNSでの反応と、完売後の慎重な告知に関心を持ったとのことです」

「完売後の告知……」

紬は、美崎と整えた文章を思い出した。

追加販売を煽らず、取引先と現場の検証後に判断すると書いた、あの控えめな文面。

「先方の商品企画部が、地域商品を扱う新しい売場企画を検討しているそうです」

進藤は、画面を次へ送った。

そこには、先方から届いたメールの要約が表示されていた。

『地方の食と暮らしをテーマにした期間限定売場企画について、藤堂物産様の取り組みを拝見し、一度お話を伺いたいと考えております。食品、日用品、生活雑貨を組み合わせた小規模展開から検討可能です。』

地方の食と暮らし。

その言葉を見た瞬間、紬の胸が少し高鳴った。

食品だけではない。

暮らし。

売場。

店舗。

これまで画面の中で小さく売っていたものが、実際の店頭に並ぶかもしれない。

森本食品の商品。

田宮農園の野菜。

その隣に、料理に使う布巾や器、保存容器、季節のしつらえが並ぶ。

都市の人が、ただ商品を買うだけでなく、地方の暮らしに触れる売場。

一瞬、そんな光景が浮かんだ。

けれど、すぐに別の声が戻ってきた。

売れた数より、増えた手間を見てください。

黒川の声。

売れたら、増やしたくなるでしょう。

田宮の声。

繁忙期は避けたいので、時期は相談させてください。

森本の声。

紬は、息を整えた。

「どのくらいの規模を想定しているんでしょうか」

「まだ具体的には出ていません。ただ、先方は全国チェーンです。小規模と言っても、こちらの小規模とは感覚が違う可能性があります」

進藤の言葉は慎重だった。

「すぐに会議を開きましょう。五人にも共有します」

紬は頷いた。

「お願いします」

三十分後、小会議室には五人が集まっていた。

進藤がメールの内容を共有すると、最初に反応したのは柚木だった。

「暮らしの森マーケット……すごいです」

その声には、明らかな高揚があった。

「全国チェーンですよね。店舗の雰囲気も、今回の地域商品と相性がいいと思います。森本さんの商品も、田宮さんの野菜も、ちゃんと伝えれば届く層がいるはずです」

美崎も、画面を見ながら言った。

「ブランドイメージは悪くありません。過度に安売りするチェーンではなく、生活提案型の売場が得意です。広報面では相性があります」

一ノ瀬は、すぐに数字を見ていた。

「取引条件次第ですが、銀行向けには好材料になります。大手チェーンとの商談が進むだけでも、再建可能性の説明には使えます」

その言葉に、紬の胸がまた揺れた。

銀行。

融資。

会社の継続。

数字としての可能性。

それは逃げてはいけない現実だった。

しかし、加賀は腕を組んだまま表情を崩さなかった。

「浮かれるのは早い」

柚木が、少しだけ顔を引き締める。

加賀は続けた。

「向こうの小規模が、こっちの小規模と同じとは限らねえ。三十セット、二十五セットで回してたものを、店頭に並べるってなったら話が違う」

「はい」

柚木は頷いた。

「そこは分かっています」

「本当に分かってるか?」

加賀の声は厳しかった。

「大手は悪じゃない。でも、向こうには向こうの売場計画がある。棚を作るなら埋めなきゃならない。欠品は嫌がる。納期も守らせる。売れなければすぐ引く。売れたら増やしたがる」

会議室が静かになる。

「今回のテスト販売とは、桁が違う」

紬は、ゆっくり頷いた。

「分かっています」

一ノ瀬が言った。

「まず確認すべきは、先方が何を求めているかです。食品のみなのか、生活雑貨も含めた売場なのか。店舗数、販売期間、買取か委託か、返品条件、物流条件、広告利用の範囲」

美崎が続ける。

「取引先の名前や写真の使い方も確認が必要です。大手チェーンの販促物に載るなら、森本さんや田宮さんの了承が必要です」

柚木が、タブレットにメモしていく。

「売場企画となると、食品だけでは弱いかもしれません。暮らしの提案という形にするなら、キッチン雑貨や布製品なども組み合わせる必要があります」

その言葉で、紬はふと引っかかった。

布製品。

生活雑貨。

繊維。

それは、藤堂物産から切り離された部門に近い領域だった。

紬が視線を上げると、進藤も同じことを考えていたようだった。

一瞬だけ目が合う。

進藤は、静かに言った。

「暮らしの森マーケットが求めているのは、食品フェアではなく、売場全体の企画かもしれません」

「売場全体……」

紬は繰り返した。

「はい。地方の食と暮らしというテーマなら、食品だけでなく、器、布、キッチン用品、生活雑貨、季節装飾まで含まれます」

加賀が低く言う。

「繊維の匂いがするな」

会議室の空気が、少し硬くなった。

藤堂貴之。

その名前は誰も口にしなかった。

しかし、全員の頭に浮かんだのは分かった。

会社分割で切り離された繊維・ライフスタイル部門。

貴之が率いる新会社。

あちらには、売場映えする商品も、供給量も、既存ブランドもある。

紬たちが今持っているのは、食品流通部と倉庫、地方取引先との関係、そして小さなテスト販売の実績。

比べれば、売場を作る力はまだ弱い。

柚木が、少し不安そうに言った。

「でも、先方は藤堂物産に連絡してきたんですよね」

「はい」

進藤が頷く。

「今回の取り組みに興味を持ったことは確かです。ただし、商談が進めば、先方はより大きな売場を求めるかもしれません」

一ノ瀬が冷静に言った。

「大手チェーンにとって、棚は面積です。面積には売上目標があります。私たちの誠実さだけでは埋まりません」

その言葉は厳しかった。

けれど、現実だった。

紬は、ノートに書いた。

『売場は面積。面積には売上目標がある。』

大学の講義で聞いた「物語化」と、会社で突きつけられる「売場効率」が、同じ紙の上で並ぶ。

どちらかだけでは足りない。

大手チェーンの売場に立つなら、物語だけでは足りない。

でも、売上だけで押し切れば、作り手も現場も壊れる。

「まず、会って話を聞きましょう」

紬は言った。

「ただし、こちらから大きく見せることはしません。今回のテスト販売の規模、見えた負担、すぐ拡大できない理由も正直に伝えます」

柚木が、少しだけ目を見開いた。

「最初から弱みも話すんですか」

「弱みというより、条件です」

紬は答えた。

「取引先の供給量、倉庫の負荷、問い合わせ対応、広報表現。そこを隠して話を進めたら、あとで必ず無理が出ます」

加賀が、少しだけ満足そうに頷いた。

「いいんじゃねえか」

一ノ瀬は言った。

「ただし、弱く見えすぎても商談になりません。可能性も示す必要があります」

「はい」

紬は頷いた。

「テスト販売で見えた購入者の声、希望登録、次回改善案。それから、大学で整理した“作り手の言葉を借りる責任”も、売場づくりの考え方として入れたいです」

美崎がすぐに反応した。

「良いと思います。大手チェーンに対しても、こちらの姿勢を明確にできます。ただし、言葉は整えます。理念だけに見えないように」

柚木が、少しずつ前向きな顔に戻っていく。

「食品を中心に、暮らしの提案につなげる形なら……」

そこで、彼女は言葉を止めた。

「でも、生活雑貨の部分は、今の藤堂物産には弱いですね」

「無理に広げない方がいいです」

進藤が言った。

「私たちが今出せるのは、食品流通を軸にした売場提案です。暮らし全体を無理に作ろうとすれば、軸がぶれます」

加賀も頷いた。

「できねえことをできますって言うな」

「はい」

柚木は少し悔しそうだったが、頷いた。

紬は、その横顔を見た。

大手チェーン。

売場。

暮らしの提案。

その言葉は魅力的だ。

柚木が広げたくなる気持ちも分かる。

紬自身も、少しだけ夢を見た。

でも、夢を大きく描くほど、足元の床が抜けやすくなる。

「三店舗」

紬は、静かに言った。

全員がこちらを見る。

「もし先方が店舗展開を求めるなら、最初はこちらから三店舗限定を提案したいです。商品数も絞ります。取引先と現場が確認できる範囲で」

一ノ瀬がすぐに言った。

「先方が受け入れるかは分かりません」

「分かっています」

「大手側からすれば、三店舗は小さすぎる可能性があります」

「はい」

「銀行向けの材料としても、規模は弱い」

「それでもです」

紬は、タブレットの画面に映る暮らしの森マーケットのロゴを見た。

「小さく始めることを守れないなら、私たちがやる意味がなくなります」

会議室が静まり返った。

加賀が口元をわずかに緩めた。

美崎は静かにメモを取っている。

進藤は、穏やかに頷いた。

「では、その方針で初回面談に臨みましょう」

「お願いします」

「日程調整は私が行います。美崎さん、会社紹介と今回のテスト販売の報告資料を先方用に整えてください」

「承知しました」

「柚木さんは、食品を軸にした小規模売場案のたたき台を。広げすぎないこと」

「はい」

「一ノ瀬さんは、三店舗展開の場合の収支とリスクを」

「分かりました」

「加賀さんは、松永さん、黒川さんと現場負荷の初期確認をお願いします」

「了解」

それぞれが動き始める。

会議室に、静かな熱が生まれていた。

大きすぎる熱ではない。

けれど、明らかに新しい局面が始まっている。

紬は、その熱に巻き込まれそうになりながら、大学のノートを開いた。

そこには、今日の講義で書いた一文がある。

『都市の売場は、地方の現場にとって出口であると同時に、圧力にもなる。』

紬は、その下に書き足した。

『大手チェーンの棚は、機会であり、負荷でもある。』

ペン先が、少し震えた。

夕方、松永から連絡が入った。

『暮らしの森マーケットの件、聞きました』

紬は、電話を取った。

「はい。まだ初回面談の段階です」

『森本さんや田宮さんには、まだ出さない方がいいです』

「分かっています」

『大手の名前を出した瞬間、期待と不安が同時に生まれます。先に社内で条件を整理してください』

「はい」

『それから、三店舗でも多いかもしれません』

紬は、息を呑んだ。

三店舗でも多い。

大手チェーンから見れば小さすぎる数字。

現場から見れば、すでに大きい数字。

同じ三店舗でも、見る場所によって重さが違う。

「松永さんは、何店舗からなら現実的だと思いますか」

電話の向こうで、少し沈黙があった。

『商品によります。森本さんや田宮さんを前提にするなら、一店舗でも慎重に見るべきです』

「一店舗……」

『テスト販売と店頭販売は違います。店に並ぶということは、欠品、陳列、返品、賞味期限、売れ残り、販売員からの問い合わせが出ます』

紬は、すぐにメモを取った。

『大手チェーンの三店舗は、現場には三店舗以上の重さ』

松永は続けた。

『ただ、話を聞く価値はあると思います』

「本当ですか」

『はい。こちらの条件を守れるなら』

その条件を守るのが、どれだけ難しいか。

紬は、もう少し分かり始めていた。

夜、社長室に戻った紬は、暮らしの森マーケットからのメールを何度も読み返した。

地方の食と暮らしをテーマにした期間限定売場。

その言葉は、魅力的だった。

藤堂物産が再建へ向けて進んでいることを示せるかもしれない。

銀行にも、社員にも、取引先にも。

でも、その言葉は同時に、重い扉でもあった。

扉の向こうには、大手の売場がある。

売上目標がある。

納期がある。

欠品を許さない仕組みがある。

広報の光がある。

そして、もしかすると、その光の反対側に、貴之の新会社の影がある。

紬は、机の上に学生証を置いた。

その横に、社長印。

さらに、大学のノートを開く。

会社のメールと、大学の問い。

その二つを並べて見た。

大手チェーンの棚に商品を並べることは、ただのチャンスではない。

誰かの仕事を、都市の明るい売場に差し出すことでもある。

その意味を、忘れてはいけない。

紬は、ノートに書いた。

『大きな売場に出る前に、小さな声を置き去りにしない』

そして、その下にもう一文を加えた。

『三店舗でも多い。一店舗でも重い。』

ペンを置いた時、スマートフォンが震えた。

進藤からだった。

『暮らしの森マーケットとの初回面談、明後日午後に決まりました』

紬は、画面を見つめた。

明後日。

思っていたより早い。

胸の奥が、また静かに鳴った。

怖い。

けれど、逃げる話ではない。

紬は返信した。

『承知しました。こちらの条件と、できないことも整理して臨みます』

送信してから、窓の外を見た。

夜の街に、いくつもの明かりが灯っている。

そのどこかに、暮らしの森マーケットの店舗もあるのだろう。

棚に商品が並び、人が手に取り、買うかどうかを決める。

そのほんの数秒のために、どれだけ多くの人の時間が動くのか。

今の紬は、少しだけそれを知っている。

だからこそ、簡単に飛びついてはいけない。

でも、怖がって閉じてもいけない。

大きな扉の前に立つなら、まず足元を見る。

紬は、机の上の軍手に手を触れた。

そして、静かに息を吸った。

次に開く扉は、小さな販売ページではない。

実際の売場へつながる扉だった。


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