第32章:三店舗では足りないと言われる
暮らしの森マーケットとの初回面談の日、紬はいつもより早く本社に着いた。
朝の社長室には、まだ誰の声もない。
窓の外では、通勤の人波が少しずつ濃くなっていく。
星野紬は、机の上に資料を並べた。
テスト販売の実績。
問い合わせ件数。
倉庫作業時間。
取引先からのコメント。
購入者の声。
次回改善案。
そして、大学の講義ノート。
その中に、赤い線を引いた言葉があった。
『都市の売場は、地方の現場にとって出口であると同時に、圧力にもなる。』
紬は、その一文をしばらく見つめた。
出口。
圧力。
暮らしの森マーケットからの打診は、たしかに出口だった。
森本食品や田宮農園の商品が、より多くの人に届くかもしれない。
藤堂物産が、ただ古い商社として延命するのではなく、新しい流通の形を作れるかもしれない。
銀行にも、社員にも、取引先にも、前に進んでいることを示せるかもしれない。
けれど、出口が広がるほど、そこへ向かう流れは強くなる。
その流れに、現場が押し流されない保証はない。
紬は、ノートを閉じた。
今日、相手の前で言わなければならない。
できること。
できないこと。
やりたいこと。
やってはいけないこと。
その四つを、混ぜてはいけない。
午前九時。
小会議室で、面談前の最終確認が始まった。
出席するのは、紬、進藤、美崎、柚木、一ノ瀬、加賀。
松永と黒川は同席しないが、事前に条件を出していた。
松永からは、取引先へ大手の名前を出す前に、数量、販売期間、返品条件、広報利用の範囲を確認すること。
黒川からは、店頭販売を前提にするなら、梱包仕様、箱サイズ、保管期間、返品動線を先に確認すること。
相沢からは、問い合わせが店舗経由で来るのか、本部経由で来るのかを必ず聞くこと。
そのメモが、紬の手元にある。
進藤が資料を確認しながら言った。
「今日の目的は、契約を進めることではありません。先方の意向と条件を聞くことです」
「はい」
紬は頷いた。
「こちらからは、三店舗限定の小規模展開を前提に話します。ただし、先方がどの程度の規模を想定しているかを確認します」
一ノ瀬が、数字の表を出した。
「三店舗の場合の概算です。商品数を二種類から三種類に絞り、販売期間を十日から二週間程度にした場合、売上規模は大手チェーンから見ればかなり小さいです」
柚木が表を見ながら言った。
「でも、私たちにとっては大きいですよね」
「はい」
一ノ瀬は即答した。
「大きいです。特に、倉庫と食品流通部、取引先の供給量を考えると、三店舗でも慎重に見るべきです」
加賀が腕を組む。
「松永は、一店舗でも重いって言ってたな」
紬は頷いた。
「はい」
「それを忘れるなよ」
「忘れません」
美崎が、先方用の資料を表示した。
「会社紹介は短くしています。今回のテスト販売については、完売実績よりも、検証として得たものを中心にしています」
画面には、次の言葉があった。
『小規模な販売を通じ、購入者の反応、現場負荷、取引先への情報還元、広報表現の課題を検証しました。』
美崎は続けた。
「先方には、藤堂物産が大きな数量をすぐに出せる会社だと思われないようにします。ただ、課題を管理しながら進められる会社だとは伝えます」
進藤が紬を見た。
「星野さん。先方から規模拡大を求められた場合、どう答えますか」
紬は、用意していた言葉を一度飲み込んだ。
紙に書いた答えはある。
けれど、今は自分の言葉で言いたかった。
「まず、理由を聞きます。なぜその店舗数が必要なのか。売場として最低限必要な規模なのか、社内決裁のためなのか、販促計画の都合なのか」
進藤が静かに頷く。
「その上で?」
「こちらの供給量と現場負荷を説明します。最初から十店舗、二十店舗は受けられないと伝えます」
「三店舗以上は?」
紬は少しだけ息を吸った。
「現時点では、三店舗でも取引先と現場の確認が必要です。三店舗を超える提案は、持ち帰ります。その場で受けません」
加賀が、小さく頷いた。
「それでいい」
柚木は少し不安そうだった。
「先方が、それでは小さすぎると言ったら」
紬は、資料の端を指で押さえた。
「その時は、小さすぎる理由を聞きます。私たちが合わせるべき部分と、譲れない部分を分けます」
美崎が言う。
「大手相手に“できません”と言う場面が来るかもしれません」
「はい」
「怖いですか」
紬は、正直に頷いた。
「怖いです」
会議室に、静かな空気が流れる。
紬は続けた。
「でも、できないことをできると言う方が、もっと怖いです」
加賀が、少しだけ口元を緩めた。
「なら大丈夫だ」
その言葉で、紬の肩の力が少し抜けた。
午後二時。
暮らしの森マーケット本社は、藤堂物産よりも明るく開かれた雰囲気のビルだった。
エントランスには、季節の雑貨と食品が小さく展示されている。
木目調の棚。
生成りの布。
ガラス瓶に入ったジャム。
小さな器。
キッチン用の布巾。
ドライフラワー。
どれも、丁寧に選ばれているように見えた。
紬は、その売場のようなエントランスを見ながら、胸の奥が少し高鳴るのを感じた。
ここに、森本食品の商品が並ぶかもしれない。
田宮農園の野菜が、料理提案と一緒に紹介されるかもしれない。
その想像は魅力的だった。
けれど同時に、棚に置かれた商品が、きれいに見えるほど怖くもあった。
この美しさの裏側に、どれだけの納期と数量と調整があるのだろう。
受付を済ませると、会議室へ案内された。
先方から出てきたのは三人だった。
商品企画部の主任、野上真帆。
落ち着いた声で話す三十代後半の女性だった。
その隣に、バイヤーの川辺。
さらに、販促企画の担当者、宮下。
野上は、紬たちに丁寧に頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お声がけいただきありがとうございます」
紬も頭を下げた。
名刺交換の時、野上は紬の名刺を一瞬だけ見た。
代表取締役社長。
星野紬。
そして、紬の顔を見た。
その目に、驚きはあった。
だが、軽く見るような色はなかった。
「テスト販売の取り組み、拝見しました」
野上は言った。
「完売後の告知が印象的でした。次回販売を煽らず、取引先や現場の検証を行った上で判断すると書かれていましたね」
美崎が静かに頷く。
「はい。追加販売のご要望もありましたが、事前に決めた条件を守ることを優先しました」
「そこに関心を持ちました」
野上は資料を開いた。
「当社でも地域商品を扱う企画は何度も行っています。ただ、売場で見せやすい物語に寄りすぎたり、供給量が追いつかなかったり、継続できなかったりすることが課題でした」
紬は、少し前のめりになった。
「継続できなかった、というのは」
野上は頷く。
「初回は話題になります。でも、作り手側の負担が大きく、次が続かない。あるいは、店舗側のオペレーションが複雑になりすぎて、通常売場に戻ってしまう。そういうことがありました」
その言葉は、紬たちが今恐れていることと重なっていた。
野上は続けた。
「今回は、“地方の食と暮らし”をテーマにした売場を検討しています。食品だけではなく、食卓、台所、保存、季節の暮らしまで含めた提案です」
画面に、イメージ資料が映る。
木の棚に、瓶詰めや惣菜、野菜、器、布巾、保存容器が並ぶ売場イメージ。
温かく、整っていて、手に取りたくなる。
柚木が、わずかに息を呑む気配がした。
紬も、正直に言えば惹かれた。
美しい売場だった。
けれど、すぐに松永の言葉が戻ってくる。
大手の名前を出した瞬間、期待と不安が同時に生まれます。
野上は言った。
「御社には、食品流通の部分でご相談したいと考えています。特に、小規模な作り手の商品を、無理なく都市部の売場に出す設計について」
進藤が尋ねた。
「現時点で、どの程度の規模を想定されていますか」
野上は、バイヤーの川辺と視線を交わした。
川辺が口を開く。
「社内で検討しているのは、まず十店舗です」
紬の胸が、静かに固まった。
十店舗。
三店舗でも多いと考えていた。
松永は一店舗でも慎重にと言っていた。
その距離が、一気に目の前に置かれた。
川辺は続ける。
「もちろん、全国一斉ではありません。首都圏中心の十店舗、二週間程度の期間限定展開です。売場面積は各店舗一台から二台程度。商品数は食品で五から八SKUほどを想定しています」
五から八。
十店舗。
二週間。
紬は、頭の中で数字を追った。
一店舗にどれだけ置くのか。
補充はどうするのか。
欠品時はどう扱うのか。
賞味期限。
温度帯。
問い合わせ。
返品。
食品流通部。
倉庫。
森本。
田宮。
今の藤堂物産で、すぐに答えられる数字ではなかった。
柚木も、資料を見る手を止めている。
一ノ瀬の表情は変わらない。
だが、目は鋭くなっていた。
進藤が穏やかに確認する。
「十店舗が最小規模でしょうか」
野上が答えた。
「当社の社内決裁上、売場企画として検証するには、その程度が望ましいです。三店舗程度ですと、売場データとしては少し弱いと判断される可能性があります」
三店舗では足りない。
その言葉が、会議室の空気の中に落ちた。
紬は、手元のペンを握った。
足りない。
大手チェーンから見れば、三店舗は小さすぎる。
しかし、藤堂物産にとっては、三店舗でも慎重に見なければならない。
同じ数字が、まったく違う意味を持っている。
美崎が尋ねた。
「食品以外の雑貨や生活用品については、御社側でご用意される想定でしょうか」
宮下が答えた。
「一部は当社既存取引先の商品を組み合わせる想定です。ただ、できれば統一感のある提案にしたいので、食品に合わせた布製品やキッチン用品も検討できると理想的です」
布製品。
キッチン用品。
その言葉が出た瞬間、進藤の横顔が少しだけ硬くなった。
紬も、胸の中で小さな影が動くのを感じた。
繊維。
雑貨。
ライフスタイル。
その領域は、今の藤堂物産本体が強い場所ではない。
川辺が続ける。
「売場としては、食品だけですと少し弱いんです。食べる前後の暮らしまで見せられると、展開しやすくなります」
それは、商売として理解できる言葉だった。
店頭に立つ人が、惣菜や野菜だけではなく、その横の布巾や器も手に取る。
売場単価が上がる。
見栄えも良くなる。
販促もしやすい。
大手チェーンとしては自然な発想だ。
けれど、紬たちの足元とは距離があった。
進藤が、慎重に言った。
「当社本体は現在、食品流通を軸に再建を進めています。生活雑貨や繊維製品を含む大きな売場構築については、現時点では対応範囲を確認する必要があります」
野上は頷いた。
「承知しています。まずは御社が得意とされる食品の部分からでも結構です。ただ、社内で企画を通すには、売場全体の絵が必要になります」
売場全体の絵。
紬は、その言葉をメモした。
藤堂物産が持っているのは、まだ小さな食品の実績。
向こうが求めているのは、棚を埋める絵。
その差は大きい。
川辺が尋ねた。
「御社としては、どの程度の規模であれば対応可能とお考えですか」
ついに来た。
紬は、背筋を伸ばした。
会議室の視線が、自分に向く。
ここで、十店舗に近づけるような言葉を出せば、商談は前に進みやすいかもしれない。
銀行にも、社員にも、明るい話を持ち帰れる。
暮らしの森マーケット側も、本気度を感じるかもしれない。
けれど、その言葉の先に何があるかを、紬はもう少し知っている。
紬は、ゆっくり口を開いた。
「現時点では、三店舗を上限として考えています」
川辺の表情が、わずかに動いた。
宮下も資料から顔を上げる。
野上は、静かに紬を見た。
「三店舗ですか」
「はい」
紬は頷いた。
「ただし、それも即答ではありません。取引先の供給量、倉庫の作業負荷、食品流通部の対応、返品条件、広報表現の確認が必要です」
川辺が、少し困ったように言った。
「三店舗ですと、当社の売場企画としてはかなり小さいです。社内で通すには、検証データが足りない可能性があります」
「はい」
紬は答えた。
「足りないことは分かります」
柚木が、紬を見る。
美崎も、静かに次の言葉を待っている。
「ただ、私たちは前回、三十セットと二十五セットの小さな販売でも、想定以上の問い合わせと作業負荷が出ました。店頭販売になれば、さらに欠品、陳列、返品、店舗スタッフの方からの問い合わせが発生します」
紬は、手元の資料を一枚差し出した。
「これは前回の販売で見えた負荷の一覧です。完売はしましたが、利益はほとんど出ていません。作業時間も想定より増えました。だからこそ、最初から大きく始めることはできません」
川辺は資料を受け取り、少し驚いたように見た。
「ここまで負荷を出されているんですね」
一ノ瀬が答えた。
「はい。売上だけを見れば良好ですが、作業負荷を含めると、まだ事業化には課題があります」
野上が、資料を丁寧にめくった。
「こういう記録を出していただけるのは、ありがたいです」
紬は、野上の表情を見た。
完全に失望しているわけではなさそうだった。
だが、川辺の表情には、やはり物足りなさが残っている。
売場を作る側としては当然だ。
三店舗では小さい。
商品数も少ない。
食品だけでは売場が弱い。
それは事実だった。
宮下が尋ねた。
「広報表現について、事前確認が必要というのは、どの程度でしょうか」
美崎が答える。
「作り手の写真、名前、コメント、地域性を強調する表現については、事前に取引先の了承を得る必要があります。また、“規格外”“昔ながら”“地方を応援”といった言葉は、使い方によって相手の意図とずれることがあります」
宮下は少し考えた。
「販促物の制作スケジュール上、確認に時間がかかると難しい場合があります」
「承知しています」
美崎は静かに言った。
「ただ、そこを省くと、企画の根本が崩れます」
会議室に、また静かな緊張が流れた。
暮らしの森マーケット側にとって、藤堂物産の提案は面倒だろう。
店舗数は小さい。
商品数は限られる。
確認は多い。
広報表現にも制約がある。
欠品を完全には防げない。
現場負荷によって止まる可能性もある。
大手が扱いやすい企画ではない。
紬は、そのことを肌で感じていた。
野上が、しばらく資料を見たあと、口を開いた。
「星野社長」
「はい」
「率直に申し上げると、三店舗では社内で企画を通すのは簡単ではありません」
「はい」
「食品だけで売場を作るのも、当社としては弱いです。生活雑貨との連動も必要になると思います」
「はい」
「ただ、御社の考え方には関心があります。特に、作り手と現場負荷を見ながら進める姿勢は、当社がこれまでの地域企画で課題に感じていた部分でもあります」
紬は、静かに息を吸った。
野上は続けた。
「こちらでも、三店舗で社内検証できる形があるかを検討します。ただし、十店舗案も並行して検討させてください」
十店舗案も並行。
その言葉に、紬の胸が重くなる。
「分かりました」
進藤が答えた。
「こちらも、三店舗を前提にした具体案と、十店舗に広げた場合のリスクを整理します。ただし、十店舗を受けるという意味ではありません」
野上は頷いた。
「承知しました」
川辺は、少しだけ笑みを作った。
「売場として成立する形も、ぜひ考えていただければと思います」
その言葉は丁寧だった。
けれど、紬にははっきり聞こえた。
三店舗では足りない。
食品だけでは弱い。
面倒な条件が多い。
それでも、商談は終わらなかった。
終わらなかったからこそ、重かった。
面談を終え、ビルを出ると、外は夕方になっていた。
暮らしの森マーケットの店舗が、一階の奥に入っている。
紬は、少しだけ売場を見ていくことにした。
棚には、季節の布巾や器、保存瓶、調味料、小さな菓子が並んでいる。
どの商品も、見せ方が上手かった。
色も、形も、高さも、手に取りやすい位置も、すべて考えられている。
その完成度を見て、紬は自分たちの提案の小ささを痛感した。
森本食品の惣菜。
田宮農園の野菜。
それだけでは、この棚を埋められない。
売場は優しさだけでは埋まらない。
まだ誰かに言われたわけではない。
でも、売場そのものがそう語っているように見えた。
柚木が、小さく言った。
「すごいですね」
「うん」
「ここに並べたいです」
紬は、柚木を見た。
その目には、憧れと怖さが同時にあった。
「私も、並べてみたい」
紬は正直に言った。
「でも、並べるなら、ここに置かれるまでの手も一緒に見ないといけない」
柚木は、静かに頷いた。
「はい」
帰りの車内で、紬は松永に電話をかけた。
初回面談の内容を簡潔に伝える。
十店舗を求められたこと。
三店舗では社内で通りにくいと言われたこと。
食品だけでは売場が弱いと言われたこと。
生活雑貨との連動を求められたこと。
松永は、しばらく黙っていた。
それから言った。
『予想より早いですね』
「はい」
『森本さんと田宮さんには、まだ言わない方がいいです』
「はい。条件を整理してからにします」
『十店舗は無理です』
その言葉は、はっきりしていた。
「私も、今はそう思います」
『三店舗でも、商品によっては厳しいです』
「分かっています」
『なら、まず一店舗案も作ってください』
「一店舗案……」
『大手に出すかどうかは別です。でも、こちらが本当に回せる最小単位を持っていないと、相手の数字に引っ張られます』
紬は、メモを取った。
『本当に回せる最小単位』
「ありがとうございます。作ります」
『それから、食品だけでは弱いと言われたなら、無理に雑貨を足さないでください』
「はい」
『できることを大きく見せると、あとで現場が払います』
「分かっています」
電話を切ったあと、紬は窓の外を見た。
夕方の街には、いくつもの店の明かりが灯り始めている。
どの店にも棚がある。
その棚には商品が並ぶ。
商品が並ぶということは、誰かが作り、運び、置き、説明し、売れ残りを見て、問い合わせを受けるということだ。
大手チェーンの十店舗は、数字としては小さな検証かもしれない。
でも、藤堂物産にとっては、現場を大きく揺らす数字だった。
夜、本社に戻ると、すぐに小会議室で報告会が開かれた。
松永、黒川、相沢もオンラインで参加した。
紬が面談内容を説明すると、黒川は画面越しに眉を寄せた。
『十店舗は論外です』
加賀が苦笑する。
「だろうな」
黒川は続けた。
『三店舗でも、商品数と保管条件次第です。店頭販売はECとは違います。戻ってくるものの動線も考えなければなりません』
相沢も言った。
『店舗スタッフからの問い合わせがどこに来るのか、必ず確認してください。全部食品流通部に来るなら回りません』
松永が付け加える。
『一店舗案を作りましょう。こちらが本当に壊れずに回せる最小単位です』
一ノ瀬が、すぐに数字の表を開いた。
「一店舗、三店舗、十店舗の三パターンで試算します。売上だけではなく、作業時間、問い合わせ対応、返品リスクも入れます」
美崎が言った。
「先方に出す資料は、三店舗案を中心にしつつ、一店舗から検証する意義も説明できるようにします」
柚木は、少し悔しそうだった。
「一店舗だと、売場として弱く見えませんか」
進藤が答える。
「弱く見えるでしょう」
柚木は唇を結ぶ。
進藤は続けた。
「ですが、弱く見えることと、無理をしないことは別です。私たちは、弱く見えないために壊れる選択はできません」
紬は、その言葉をノートに書いた。
『弱く見えないために、壊れる選択をしない』
美崎が、紬を見る。
「星野さん。次回先方に返す方針はどうしますか」
紬は、会議室の全員を見た。
画面の向こうの黒川、松永、相沢。
机の前の進藤、加賀、一ノ瀬、美崎、柚木。
みんなの顔には、それぞれ違う重さがある。
期待。
不安。
警戒。
悔しさ。
慎重さ。
そのどれもが必要だった。
「一店舗、三店舗、十店舗の三パターンを作ります」
紬は言った。
「ただし、こちらから提案するのは、一店舗または三店舗の検証案です。十店舗案は、現時点で受けられない理由を説明するために作ります」
一ノ瀬が頷く。
「承知しました」
「食品だけでは売場が弱いという指摘も受け止めます。でも、無理に雑貨や繊維を足して大きく見せることはしません」
進藤の目が静かに紬を見る。
「はい」
「今の藤堂物産が出せるのは、食品流通を軸にした、作り手と現場を壊さない売場提案です。それが大手にとって面倒な企画だとしても、そこを隠さずに出します」
会議室は静かだった。
紬は、少しだけ息を吸った。
「もしそれで通らないなら、通らない理由も持ち帰ります。次に考える材料にします。でも、通したいからといって、できない規模を約束しません」
黒川が、画面の向こうで小さく頷いた。
松永も、静かに言った。
『それなら、取引先に話す準備はできます』
柚木は、悔しさを残したまま頷いた。
「一店舗でも、ちゃんと売場にできる案を考えます」
紬は、柚木を見て頷いた。
「お願いします」
報告会が終わったあと、社長室に戻った紬は、暮らしの森マーケットの面談メモを開いた。
十店舗。
三店舗。
一店舗。
数字を並べると、不思議だった。
大手から見れば、十店舗でも試験。
紬たちから見れば、一店舗でも挑戦。
数字は同じでも、立つ場所によって意味が変わる。
紬は、大学のノートを開いた。
講義で聞いた言葉の下に、今日の言葉を書き足す。
『大手の小規模は、こちらの大規模かもしれない。』
その下に、もう一つ書いた。
『売場として足りないと言われても、現場として足りているかを先に見る。』
ペンを置いた時、指先が少し震えていた。
怖さは消えない。
大手チェーンとの商談を逃せば、会社の再建にとって大きな機会を失うかもしれない。
銀行への説明材料も弱くなる。
社員の期待にも応えられないかもしれない。
でも、無理な規模で受ければ、守りたいものを壊す。
森本。
田宮。
倉庫。
食品流通部。
店舗スタッフ。
購入者。
そのすべてが、数字の向こうにいる。
紬は、学生証を机の端に置いた。
今日の面談で、大学で学んだ問いが何度も頭に戻ってきた。
誰の負担が見えなくなるのか。
物語が強くなりすぎていないか。
出口は圧力になっていないか。
社長として判断する場面で、学生として受け取った問いが、足元を引き止めてくれた。
そのことに、紬は少しだけ感謝した。
窓の外には、夜の東京が広がっている。
いくつもの店舗の明かりが、遠くで瞬いている。
その一つ一つに棚があり、棚には売上目標がある。
その現実から目をそらさずに、それでも小さな声を置き去りにしない売場を作ることができるのか。
答えはまだない。
けれど、問いははっきりした。
紬は、面談メモの最後にこう書いた。
『三店舗では足りないと言われた。けれど、私たちにとっては、一店舗からでも重い。』
その重さを忘れないまま、次の提案を作る。
それが、大手の扉の前で紬が最初に守るべき線だった。




