第30章:辞めない選択
朝のキャンパスは、まだ少し眠たそうだった。
講義棟の前を歩く学生たちは、コーヒーを片手にしていたり、イヤホンをつけたまま無言で歩いていたり、友人と前日の課題について話していたりする。
星野紬も、その流れの中にいた。
肩には、いつもの重いバッグ。
中には大学の教科書とノートパソコン。
そして、会社の資料が少しだけ入っている。
以前なら、会社の資料が入っていることに後ろめたさがあった。
大学にいるのに、会社を持ち込んでいる。
学生なのに、社長の仕事をしている。
そう思っていた。
けれど、今日は少し違った。
完全に割り切れたわけではない。
それでも、大学と会社を無理に切り離すのではなく、行き来しながら考えるのが今の自分なのだと、少しだけ受け入れられていた。
紬は学生課へ向かった。
履修変更の相談をするためだった。
窓口の前で番号札を取り、椅子に座る。
手には、時間割表と会社の予定を重ねた紙がある。
そこには、教授と相談した内容が書き込まれていた。
地域経済論は残す。
ゼミも続ける。
必修に近い科目は落とさない。
ただし、選択科目を減らす。
卒業まで時間がかかる可能性を受け入れる。
休学願は提出しない。
けれど、無理が続く場合の選択肢として手元に残す。
窓口で名前を呼ばれ、紬は立ち上がった。
担当職員は、書類を確認しながら言った。
「星野さんの場合、この科目を外すと、今年度の取得単位はかなり減ります」
「はい」
「卒業時期が延びる可能性もあります」
「分かっています」
「本当に大丈夫ですか」
紬は、少しだけ息を吸った。
大丈夫かどうかで言えば、大丈夫ではない。
会社も大学も、これからもっと忙しくなる。
銀行との面談もある。
次回の販売改善もある。
大手チェーンの話も、少しずつ現実味を帯び始めている。
それでも、全部を今まで通り抱えることはできない。
「大丈夫、とは言い切れません」
紬は答えた。
職員が少し驚いた顔をする。
「でも、このまま無理に全部取って、提出物も出席も崩れるより、少なくしてでもきちんと学びたいです」
担当職員は、少し表情を和らげた。
「それなら、こちらの科目を外す形で申請できます。ゼミの先生にも確認してください」
「はい。ありがとうございます」
書類に署名をする時、手が少し震えた。
卒業が遅れるかもしれない。
同級生が先に進んでいくかもしれない。
マイやカナと同じ時期に卒業できないかもしれない。
その現実が、胸に重く乗る。
けれど、それでも大学を辞めるわけではない。
学ぶことを手放すわけではない。
紬は、署名を終えた書類を窓口に差し出した。
学生課を出ると、廊下の向こうにマイとカナがいた。
二人は掲示板の前で何かを見ていたが、紬に気づくと手を振った。
「紬、今の学生課?」
マイが尋ねる。
「うん。履修の相談」
カナが心配そうに見る。
「休学とか?」
その言葉は軽く出たわけではなかった。
たぶん、二人も何となく感じていたのだろう。
紬が大学にい続けることの難しさを。
紬は、首を横に振った。
「休学は、今はしないことにした」
マイの表情が少し明るくなる。
「そっか」
「でも、履修は減らす。卒業が遅れるかもしれない」
カナが少し黙った。
「それ、嫌じゃない?」
「嫌だよ」
紬は正直に答えた。
「同じタイミングで卒業できないかもしれないのは、寂しい」
マイもカナも、何も言わなかった。
紬は続けた。
「でも、今のまま全部続けようとしたら、たぶんどれも雑になる。大学も、会社も、人との約束も」
カナが、小さく頷いた。
「紬、昔から全部やろうとするもんね」
「そうかも」
「しかも、全部ちゃんとやろうとする」
マイも言った。
「それで周りが見えなくなる時ある」
その言葉に、紬は苦笑した。
痛いところだった。
ゼミの商店街プロジェクトでも、そうだった。
売上を出したくて、前へ進めたくて、周囲の不安を置いていった。
今、会社で同じことを繰り返さないようにしているのに、大学生活ではまた同じことをしそうになっていた。
「そうならないように、減らすことにした」
紬が言うと、マイは少しだけ笑った。
「成長じゃん」
「そうかな」
「少なくとも、前なら意地でも全部取ってた」
「たしかに」
カナが、紬の時間割を覗き込む。
「じゃあ、ゼミは一緒に出られるんだ」
「うん。ゼミと地域経済論は残した」
「よかった」
その一言に、紬の胸が温かくなった。
よかった。
そんなふうに言ってもらえると思っていなかった。
「ありがとう」
紬が言うと、マイは照れたように肩をすくめた。
「別に。ゼミで会社の裏話聞けるし」
「裏話じゃなくて、問いです」
「はいはい、問いね」
カナが笑う。
その笑いの中に、少しだけ以前の距離が戻ってきた気がした。
完全に同じではない。
でも、同じでなくても関係は続くのかもしれない。
昼過ぎ、紬はゼミの教授に履修変更の報告をした。
教授は静かに頷いた。
「無理を減らすことも、学びの一部です」
「はい」
「ただし、減らしたからといって楽になるとは限りません」
紬は、少しだけ笑った。
「分かっています」
「大切なのは、何を残したかです」
教授は、紬の時間割を見る。
「地域経済論とゼミを残したのは、良い判断だと思います。あなたが今持っている問いに近い」
「はい」
「会社で判断を急がされる時ほど、ここで立ち止まってください」
「そうします」
教授は、少しだけ表情を和らげた。
「それから、会社の事例を扱う時は、必ず匿名化と許可の確認を忘れないこと。実務と学問が近づくほど、境界を丁寧に扱う必要があります」
「はい。会社にも伝えます」
研究室を出ると、スマートフォンに進藤からのメッセージが届いていた。
『午後四時より、社内向け共有会の時間を確保しました。大学の件も、必要であればお話しください』
紬は画面を見つめた。
大学のことを、社内で話す。
それは少し怖かった。
社員からすれば、会社が大変な時に大学へ行くと言われるのは、不安かもしれない。
銀行資料も、大手チェーンの可能性も、現場改善もある。
その中で、社長が大学を続けると宣言する。
学生気分だと言われるかもしれない。
本気ではないと思われるかもしれない。
それでも、隠すわけにはいかなかった。
大学へ行くことを、こそこそした不在時間にしたくなかった。
本社へ戻る電車の中で、紬は社内向けに話す内容をメモに打ち込んだ。
休学はしない。
履修を減らす。
大学での学びを、会社の判断にも活かす。
ただし、会社の責任から逃げるためではない。
確認体制を変える。
権限を分散する。
社長がすべてを抱え込む状態をやめる。
何度も書き直した。
言い訳に聞こえないように。
美談に聞こえないように。
弱さを隠さず、でも責任から逃げない言葉にするために。
午後四時。
本社七階の大会議室には、各部署の代表者が集まっていた。
人数は多くない。
けれど、そこには倉庫、食品流通、総務、財務、広報、新規事業、経営企画の社員がいた。
黒川もいる。
松永と相沢もいる。
総務の女性も、少し後ろの席に座っていた。
紬は、前方に立った。
机の上には、テスト販売の報告資料と、会社側の新しい確認体制案がある。
そして、その横に大学の時間割を置いた。
最初に、テスト販売の報告をした。
完売したこと。
ただし、成功とはまだ言えないこと。
問い合わせが想定より多かったこと。
倉庫作業時間が増えたこと。
食品流通部へ負担が出たこと。
次回に向けて改善が必要なこと。
社員たちは、静かに聞いていた。
完売の報告に拍手は起きなかった。
でも、それでよかった。
紬は、資料を閉じた。
「もう一つ、私自身のことについてお話しさせてください」
会議室の空気が少し変わった。
紬は、手元の時間割を見る。
「私は大学を辞めません」
その一言で、何人かが顔を上げた。
紬は続けた。
「ただし、今までと同じ形では続けません。履修を減らし、卒業が遅れる可能性も受け入れます。ゼミと地域経済論は続けます。会社の仕事と学業の両方を、今の形のまま抱えるのは無理だと判断しました」
会議室は静かだった。
紬は、社員たちの顔を見た。
不安そうな顔。
意外そうな顔。
よく分からないという顔。
中には、少し厳しい表情もある。
「会社が大変な時に、大学へ行くことを不安に思う方もいると思います」
紬は言った。
「当然だと思います。実際、私の確認待ちで仕事が止まったこともありました。大学の課題も遅れました。このままでは、どちらにも迷惑をかけると感じました」
一ノ瀬が、静かに資料を見ている。
進藤は会議室の端で、紬の言葉を待っている。
「だから、会社の確認体制を変えます」
紬は、次の資料を表示した。
銀行資料の数字部分は一ノ瀬。
広報文の実務整理は美崎。
現場負荷の判断は加賀、黒川、松永、相沢を含めて確認。
新規事業案のたたき台は柚木。
全体進行は進藤。
紬は最終判断と、会社としての方針と言葉に責任を持つ。
「私がすべてを抱えることは、責任ではありませんでした」
紬は、はっきり言った。
「むしろ、会社を止める原因になっていました」
その言葉に、会議室の空気が少しだけ動いた。
総務の女性が、小さく頷いたのが見えた。
「大学へ行く時間も、社内予定として共有します。緊急度の高い連絡、当日中でよい連絡、翌日でよい連絡を分けます。私も、深夜や睡眠不足の状態で重要判断をしないようにします」
加賀が、壁際で小さく頷いている。
「大学で学んでいることは、会社から逃げるためのものではありません。地域流通、作り手の言葉の扱い、消費者への伝え方、負担の所在。大学で出た問いは、今回の販売改善にも入りました」
紬は、少しだけ息を吸った。
「私は、社長になるために女子大生であることを捨てるのではなく、学び続ける人間として社長の仕事に向き合いたいです」
誰も声を出さなかった。
紬は続けた。
「学生であることは、私の弱さでもあります。時間も足りません。経験も足りません。皆さんに不安を与えることもあると思います」
黒川が、まっすぐ紬を見ている。
松永も、表情を変えずに聞いている。
「でも、学ぶ側であることを隠して、分かったふりをする社長にはなりたくありません。知らないことを知らないと言い、問いを持ち帰り、皆さんに教えていただきながら判断します」
声が、少し震えた。
でも、止めなかった。
「そのために、大学も会社も、どちらも続けます。無理を美談にはしません。続けるために、形を変えます」
言い終えたあと、会議室にはしばらく沈黙があった。
最初に口を開いたのは、黒川だった。
「大学に行く日は、現場への連絡が遅れるということですか」
厳しい問いだった。
「緊急の連絡は、加賀さんと進藤さんに共有される形にします。私が講義中でも止まらないようにします」
「社長の確認が必要なものは?」
「事前に判断基準を決めます。緊急性がある場合は、休み時間に確認します。ただし、即断が必要なものを私一人に集中させないようにします」
黒川は、少しだけ考えた。
「なら、現場としてはその基準を先にください」
「はい。作ります」
次に、松永が口を開いた。
「取引先との面談が大学の予定と重なった場合はどうしますか」
「原則、事前調整します。どうしても重なる場合は、相手に正直に事情を伝えたうえで、私が出るべき面談か、松永さんや加賀さんにお願いできる面談かを判断します」
「取引先に学生だからと見られる可能性はあります」
「はい」
「その時、どうしますか」
紬は、少しだけ息を吸った。
「隠しません。ただし、学生だから許してくださいとは言いません。学びながらでも、約束した時間と内容は守ります。守れないなら、最初から約束しません」
松永は、少しだけ頷いた。
「分かりました」
相沢が、柚木の方をちらりと見てから言った。
「大学の問いが改善案に役立つなら、ゼミで出た意見を共有してもらえると助かります。ただし、会社の情報は出せないと思うので、そこは注意してください」
「はい。匿名化と許可確認を徹底します」
総務の女性が手を挙げた。
「社内スケジュールに大学予定を入れるなら、社員からも見える形にしますか」
紬は少し考えた。
「全員に詳細を見せる必要はありません。ただ、社長不在時間と緊急連絡の流れは共有したいです」
総務の女性は頷いた。
「分かりました。社内ポータルに反映できる形を作ります」
そのやり取りを聞きながら、紬は不思議な感覚を覚えていた。
大学を続けることは、自分だけの問題だと思っていた。
けれど、会社の仕組みとして扱えば、社員も具体的に質問できる。
不安も、確認事項に変えられる。
隠していたら、不安は不安のままだった。
進藤が、最後に言った。
「では、今週中に新しい確認体制を試験運用します。大学予定を含め、社長確認が必要な事項を整理しましょう」
紬は頷いた。
「お願いします」
会議が終わったあと、社員たちは少しずつ部屋を出ていった。
拍手はなかった。
けれど、誰も紬の言葉を笑わなかった。
それだけで、今は十分だった。
黒川が出口で立ち止まる。
「社長」
「はい」
「学生だから分からないことがあるのは構いません」
紬は、背筋を伸ばした。
「はい」
「分からないまま現場に指示を出すのは困ります」
「分かっています」
「なら、大学で学んだことも、現場に来て確かめてください」
その言葉に、紬は深く頷いた。
「必ず」
黒川は、それだけ言って出ていった。
松永も、紬の前で少し立ち止まった。
「取引先は、肩書きより約束を見ます」
「はい」
「大学生でも社長でも、守るなら見ます。守らないなら離れます」
「はい」
「それだけです」
その言葉は厳しかった。
でも、分かりやすかった。
相沢は、柚木と何か短く話してから、紬に言った。
「ゼミで出た価格の話、今度聞かせてください。次回の販売ページに関係しそうです」
「はい。共有します」
会議室に残ったのは、紬と五人になった。
柚木が、少しだけ笑った。
「星野さん、大学続けるって言ってくれて、ちょっと安心しました」
「どうしてですか」
「私、星野さんが大学で聞いてくること、けっこう怖いんです」
「怖い?」
「はい。私の案がまた直されるから」
柚木はそう言ってから、少し照れたように笑った。
「でも、その方がいい案になる気がします」
美崎も頷いた。
「大学生であることを隠さずに出したのは、良かったと思います。弱みに見える部分を、無理に強みに言い換えなかったのも」
一ノ瀬が資料を閉じた。
「ただし、運用が崩れれば意味がありません。来週、確認体制の実績を見ます」
「はい」
加賀が笑う。
「飯と睡眠の記録もな」
「それもですか」
「当たり前だ。倒れたら社長も学生もねえ」
進藤が、穏やかに締めた。
「では、辞めないための仕組みを作りましょう」
辞めないための仕組み。
その言葉が、紬の胸に残った。
ただ頑張るのではない。
ただ意地を張るのでもない。
続けるために、形を変える。
それが今日の選択だった。
夜、社長室に戻った紬は、机の上を少し片付けた。
紙の名札。
軍手。
取引先リスト。
販売報告書。
学生証。
社長印。
休学願。
それらを、一つずつ並べ直す。
休学願は、引き出しにはしまわなかった。
けれど、真ん中からは少し横へずらした。
今すぐ出す紙ではない。
無理をしすぎた時、立ち止まるために見る紙だ。
学生証を、机の中央に置く。
その横に、社長印を置く。
二つは、まだ不釣り合いだ。
でも、もう互いを押しのけ合っているようには見えなかった。
紬は、社内スケジュールを開いた。
そこに、大学の予定を入力する。
地域経済論。
ゼミ。
レポート作成時間。
そして、その横に会社側の予定も入れる。
銀行面談。
次回販売改善会議。
倉庫確認。
取引先報告。
同じ一週間の中に、学生としての時間と社長としての時間が並ぶ。
見ているだけで、頭が痛くなるほど詰まっている。
でも、以前より少しだけ、呼吸ができる気がした。
紬は、ノートを開いた。
『辞めない選択は、続ける仕組みと一緒でなければならない』
そう書いた。
その下に、もう一文加える。
『学び続けることを、言い訳にしない。責任を背負うことを、学びを捨てる理由にしない。』
ペンを置く。
窓の外には、夜の東京が広がっていた。
遠くに大学のキャンパスがある。
その反対側に、倉庫がある。
食品流通部があり、取引先があり、銀行があり、これから向き合う大手チェーンもある。
どこへ行っても、紬はまだ未熟だ。
学生としても、社長としても。
けれど、その未熟さを隠すために、どちらかを捨てるのはやめる。
紬は、学生証を手に取った。
そこに写る自分は、少し頼りない。
でも、その頼りなさごと、前へ進むしかない。
明日は朝から大学。
午後は銀行資料の最終確認。
夕方は柚木の改善案。
その予定を見て、紬は小さく息を吐いた。
大丈夫とは言えない。
でも、逃げない形は少し見えた。
社長になるために、女子大生を捨てるのではない。
女子大生である自分を抱えたまま、社長として判断する。
その道を、紬は選んだ。
完璧な答えではない。
けれど、今の自分が選べる、一番正直な答えだった。




